コメダ
コメダには前にも驚かされた。シロノワールを頼んだ時に運ばれてきたものは、実際見ると写真が比にならないような高さまで巻き上げられているソフトクリームとその下にどっしりとたたずむクロワッサンのドーナツだった。今、机の上に置かれたチーズハンバーグスパゲティーを見てその時の衝撃を思い出したのだった。
コメダには一週間に一度ほどしか来ない。本当は毎日でも来たい。それをさせないのはコメダの料金設定である。コーヒーが550円と、自分のような中流階級の学生にとっては少々お高いと感じられるのではないだろうか。純喫茶であればそういうものかもしれないが身近にもっと安価なコーヒーが飲めるチェーン店があるのだから、それと比べてしまうのはしょうがないだろう。
シロノワールを食べたときには昼ご飯をほとんど食べず、午後1時くらいからコメダに来て勉強をしたのち午後3時くらいにやっと食べた。昼ご飯の代わりと勉強をしたことへの報酬という意味付けを行わないと食べられないくらいの値段なのだ。そして運ばれてきたものを見ていい意味での裏切りにあったのである。この感情はどうして生まれてくるのだろうか。
私たちが普段から店で食事をする際に商品に対してどのような態度で接しているかを考えてみよう。商品の写真はメニューの小さい枠の中にあるため、実際の商品よりも絶対的な大きさが小さくなる。ゆえに私たちが商品が来た時に写真よりもおいしそうに見えるのは当然のことであるはずなのだ。しかし現実として今、私は相当いい意味で裏切られたと感じた。普段感じることがないほどに。それは普段から写真を見たときに実物がその想像通りであるという期待をしていないからではないだろうか。
先ほど、写真と商品との関係を大きさという尺度で評価したが、大きさだけで簡単に結論付けられることでもないだろう。マックでビッグバーガーを注文するときに写真を見て、バンズの大きさに対するバーガーの高さに対してこれだけの厚さのバーガーなのだから、さぞかし中には具が詰まっているのだろうと期待に胸を膨らませるのだが、それをあっさり裏切られたという経験がある人は多いのではないだろうか。ビッグバーガーの箱を開けるとそこには写真には似ても似つかぬ、写真にあった二枚のパティやトマトやレタスは本当に入っているのか疑わしいほどの平たいものがそこにあるだけなのだ。
こういう、言ってしまえば詐欺に近いことを経験してから私たちは商品を手に取ったときに自身が傷つかないように、いやな思いをしないように、いわば自己防衛の本能に近いものによって商品に期待をしなくなってしまったのではないだろうか。
しかしこういうことを言う人がいるかもしれない。マックは確かに薄いバーガーが出てくるかもしれないが、そのかわり値段が安いじゃないか。コメダは写真を超えるものが出てくるけれどもそれに相当する、いいお値段ではないかというものだ。つまり実物に対する値段はどちらも結局同じではないかということだ。しかし食事という一つの体験を通じたものを見るとき、そこには私たちが食事に向かうまでの過程に関して無視することのできない大きな違いがあるのだ。
マックでは写真を見てから実物を見て、その落差に対して落胆した状態で食事をすることになる。それに対してコメダでは実物を見て幸福になるのだ。決定的ともいえるこの二つの心理状態の違いはそれぞれの食事体験に大きな影響を与える。いい印象で食事と対面すればそれをおいしく感じるだろう。それは食事の際に店の衛生環境とか雰囲気とかの外的要因が味に作用するのと同じことだ。
私たちは普段は写真を見てから商品への素直な期待を無意識下で抑制しなければならない。しかしコメダにいるときだけはそういう意識から解放されるのだ。無防備な状態で食事に臨むことが許される唯一の場所としてコメダは私の中に存在する。
そんなどうでもいいことを考えていると熱々のハンバーグが冷めてしまう。それにしてもチーズがこんな厚さで入っているとは。てっきり表面に薄くまとわりついているくらいかと思っていた。いやいやここはコメダなのだ。スパゲティーをチーズが覆い隠す地平から掘り起こして一口食べてみる。ミートソースとチーズがちょうどいい具合に絡みついておいしい。スパゲティーは普通の断面が円形のタイプではなくて楕円形のタイプだ。しゃれている。
さてメインのハンバーグをそろそろ食べようか。ハンバーグは、チーズが全体に覆いかぶさっている円形のドリアの真ん中に中央部分をもっこりと隆起させることで運ばれてきた当初からその存在を示していた。しかしハンバーグがなかなかの弾力であること、そしてその下にスパゲティーが敷いてあることから、焦って無理に切ろうとしてしまうと下のスパゲティーをぶつぶつに切ってしまう恐れがあったのでハンバーグを切るための余裕ができるまでスパゲティーを食べて我慢をしていたのだ。ハンバーグはというと、なるほどこうきたか。スパイスがガツンと来る。肉は上質な肉という感じではなく、むしろちょっと安っぽい感じがする。何度も食べたことのある気がするのにいつ食べたのかが思い出せないような感じの肉なのだ。もう一口食べれば思い出せる気がして食べるが思い出せない。
一旦冷静になろう。肉で脂っこくなった口をさっぱりするためなのだろう、横にはサラダがついている。トマト、キュウリ、一口に収まるこのサイズがいい。キャベツの千切りにはどちらのドレッシングにしようか。前回は色の濃いほうだったから今回は薄いほうにしよう。これはよくある千切りで特に言うことはない。
そして再び肉を食べる。思わずにやけてしまう。なぜ思い出せないのか。間違いなく家ではないどこかで食べたハンバーグなのだ。それだけは間違いない。しかし思い出せないのはスパイスが少し効いているということ以外に特徴がなさすぎるせいかもしれない。なるほどそれが狙いなのか。私は今までの人生で食べてきたハンバーグの記憶の海をさまよっていた。そのどれとも違うけれどもどれとも違わないような感覚、それは世の中にあるハンバーグの最大公約数をとったものであるのかもしれない。そのことが私の人生のハンバーグを想起させたのだ。それは一つのハンバーグを食べながら、同時にいくつもの数えられないほどのハンバーグを食べているということだ。部活の後に食べたサイゼリアのハンバーグ、弁当に入っていた冷凍食品のハンバーグ、受験勉強の合間に食べたガストのハンバーグ、思い出せるものでもこれだけあるのだから無意識下ではもっと多くのハンバーグの切れ端を食べているに違いない。この点は議論の余地が十分にあるだろうが考えるにはハンバーグの量が足りない。
そうこうしているうちに肉を食べきってしまった。いよいよスパゲッティーも残り少なくなった。最初から視界の右端に入っていた一片のフランスパンに触れるときがようやくきたようだ。料理が運ばれてきた瞬間に私の中でこのフランスパンは最後にミートソースを残さずにすくいきるために取っておくことを決めていた。ただ少しはミートソースが残っていないとせっかくのフランスパンが味気ないものになってしまう。そこでミートソースを残すために計画的にスパゲッティーとハンバーグを食べていたのだ。ちぎったフランスパンをグラタン皿のへりに密着させてソースをすくいとる。スパゲッティーで食べるのとはまた違ってピザトーストを食べているような気分だ。ソースは少し冷めてしまってはいるがよくある粉っぽさはみじんも感じずおいしさを保っている。
いよいよこれで最後の一口になる。少しソースが計算よりも少なくなってしまったものの、かろうじてそこにミートソースが入っていたことがわかるくらいまでグラタン皿からソースを取りきった。店内にはどこかで聞いたことがありそうなジャズが流れている。私は皿を左側にどけてぬるくなった水を一杯飲んだ。