03:まいごの器
晴れた日は、庭も家の中もやわらかく光っているように見えるほどのあたたかさがあったが、雨の日もしとしとと降りそそぐ雨音を聞きながらしっとりとした空気に包まれると、それはまたそれで心が落ち着くような心地よさがあった。
ポコポコと芽吹く碧の宝石は何度見ても飽きず、日の光を浴びても、雨の雫があたっても、ムムさんの短い足がちょんちょんと転がしても変わらず美しかった。
本当に、夢を見ているみたいだ。
穏やかな日差しの下で、どさくさに紛れて膝に乗ってくるムムさんを撫でながら、うつくしい碧を増やしていく。
自分の手で植えたものが芽吹き、大きくなり、またきれいな緑色を増やして、それを収穫できることが、瑞季にとってとてつもなくうれしかった。
次はもっと早く水をあげたらいいかもしれない。芽吹いたら日当たりのいいところへ鉢を置いたらいいかもしれないし、芽が出るまでは逆に少し日陰のほうがいいかもしれない。
自分で考えてやってみて、その成果が結果として見える。手をかけたものが生長して実りまで恵んでくれる。一連の流れがとてもおもしろかった。
ムムさんを撫でながらエコーズがいれてくれたお茶をのみ、庭の移り変わりまで眺める時間も、一日の楽しみになっている。
そんな余裕まで、自分の中に生まれているなんて。
確実に自分の中のなにかが変わっているのだとわかるくらいに、瑞季はここで過ごすことでこれまでにすり減っていたものが戻ってきていると思えた。
ここに来る人はみんな、この充実感を味わったのだろうか。
いつもいつも、エコーズとムムさんはそれを与えてくれていたのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
それはとてもすごいことだと、瑞季はひとり噛み締めた。
「大抵、ここにくる者は疲れ切っている。お前の場合は勤め先のようだが」
どういう人がここに来たことがあるのかと、そのまま聞いてみると。思いのほかあっさりとエコーズは言った。
しかも瑞季のことまで付け足したので、慣れていることもあるだろうがさすがの洞察力だなあと感心してしまう。茶器を置いて瑞季は頬をかいた。
「そうなんですよ、毎日怒鳴られながら働いてました。……そっか、そうでした。ここにいるとすごく遠いことみたいな気持ちになりますね」
「そういう場所だからな。――怒鳴られるほどの失敗とはよほどのことだ」
もう何年も前のことみたいだ。
ここにいると職場のことなんてちっとも考えなくて、すごく久しぶりだなと懐かしい気持ちさえしてきた。
頭の中に怒鳴り声が響いたけれど、本当にびっくりするほど他人事みたいに思えてしまう。
「失敗というか。うーん……例えば、お前はどうせできないんだから努力するだけ無駄とか、こんなこともできない価値のない人間が休めると思うのかとか、雇ってやってるだけありがたく思えとか、ですかね」
冷静に考えると、めちゃくちゃ酷いことを言われていないかこれ。
瑞季にとって就職して初めての場所だった。自分の仕事ができていないからという罪悪感があったし、こんな怒声は日常茶飯事に飛び交っていたからそういうものだと思っていた。思ってしまっていた。
あははと笑って誤魔化そうとした瑞季を、ひどく顰めた顔のエコーズがひたりと見据える。
「そんな罵倒を浴びる必要があるのか?」
心底不快だと言わんばかりに、彼は眉を寄せて鼻を鳴らした。
「たとえお前に非があったとしても、行動を咎めることならともかく、人格を馬鹿にされる筋合いはない。そんな不要なことに慣れるな。……その仕事はお前にとって楽しいのか?」
「まさか」
「ではなぜ続けている?」
直球すぎる投げかけに、瑞季は苦笑を浮かべた。
「……そりゃあ、こんな仕事、辞めたらいいと思ってはいるんですけど」
「思っていて行動に移さない理由がわからんが。だが、自分の中で答えが出ていることに助言できることはないな」
相変わらずの素っ気ない声に肩を竦めると、めずらしく呆れた視線を向けられる。
「疲れの蓄積は体を重くするだけでなく思考も鈍らせるものだ。正常な判断ができるようになれたなら、やることは決まっている」
「やること」
「あとは、行動するかしないか。その違いしかない」
正論はうるさいだけだと、思うときだってあった。
それなのに今、言葉を受け止められるのは自分に余裕がきちんとあるからだと、もう瑞季は知っていた。
「戻ったら、どうにかします。みんな、そうやって帰っていったのかなあ」
疲れ切った人たちは、帰りたいと思えるほどにまで癒されて、そして別れを告げて去っていくのか。
エコーズによると、瑞季もそのうちのひとりになると、来たときから決まっているということだ。植物を育て、ひとりと一匹に励まされて癒される。たしかに、間違っていない。
「来る人が、植物が嫌いとか猫アレルギーとかだったら大変でしたねえ」
自分はそうじゃなくてよかった。
ガーデニングはやったことがなかったから、こんなにおもしろいと思わなかったし。やってみてハマれる性格で助かったなあなんて考えていると。
茶器を空にしたエコーズがあっさりと言った。
「そういう奴はそもそも来ない。ムムさんが選んでいるからな」
「え」
「ここに適した者しか来ない。だから必ず帰ることができる。この場で癒しを感じ、満ち足りることが初めから約束されている」
ムムさんが選んでいる! そうだったのか!
どうやって選んでいるのかも、仕組みもぜんぜんわからないけれど。こういうとき瑞季は、そういうものだと受け止めることがもう自然とできてしまうのである。
ムムさんが人見知りしないわけだなあ。なるほどなあ。
感心しながらムムさんを撫で、そして向かいのエコーズを瑞季は見上げた。
「エコーズさんは、大丈夫ですか?」
「なにがだ」
「いくら適性のある人しか来ないとしても、いろんな人がやってきてこうして世話をしてくれて。ちゃんとお休みできていますか? どうしたら負担は軽くできますか?」
ここが癒しの場と感じる人が来ることが決まっていることはわかったが、自分を含め初対面の相手の世話をし先を示すエコーズに負担がかからないわけではない。
よくしてもらっているからこそ、気持ちを返したいのだけど。
瑞季の言葉に僅かに目を見開いたエコーズは、ふいと視線を逸らしてから鼻を鳴らした。
「……余計なことに気を取られず、迷子は元の道へ戻ればいい」
いつもの、素っ気ない声。
「だが、気遣いは受け取った。それで十分だ」
それが少しだけ、今だけ、表情をのせた気がした。
いつも冷静で素っ気ないのに、一歩引いたところで見守ってくれている彼の存在が、どれだけの人の心を軽くしていったのだろう。
ここには、ここにあるだけのものしかない。
以前のエコーズの言葉が頭に浮かぶ。あのときはよくわからなかったけれど、締切がないから時間に追われることもなく圧力をかけられることもなく、お金の心配もない。それらはたぶんこの世界から切り離されていて、本当に言葉どおりにここにはエコーズとムムさんの家と、植物と、澄んだ水と、おいしい食事とあたたかな部屋があるだけ。
その箱庭の世界で瑞季にできることは、帰るために植物を育て、育てるためによく眠り、食べ、日差しを浴びてムムさんを撫で、エコーズと話すこと。
それしかできないとも言えるし、それを満喫できるとも言えた。
あるものしかないのだから、それをすればいいのだと落ち着き払った声がいつでも瑞季を諭してくれる。
自分にできることの範囲でやれることをやってもいいんだなあ。できないことがそのうちやれるようになることもあるけれど、今できないことに対して無茶をする必要もなく、別の方法を探したり誰かを頼ったり、それができなければ一度離れてみたり。
追われてばかりで余裕なく走るばかりではなくて、ひと息ついてもいい。
そっか、そうなのか。
それなら瑞季もやっていけそうだ。
あの理不尽な環境に流されるだけでよしとせず、ただ立ち向かって傷つくことだけが正しいわけでもないのだと今ならわかる。今までよりも少しだけマシに生きられる気がしてきた。
さああ、と静かな雨の降る夜。
甘い甘い玉ねぎのスープと鶏肉の煮込みを前にしたとき、おもむろにエコーズが口を開いた。
「順調なようだ」
その視線は窓から見える作業台のほうに向けられていて、瑞季は碧のしずくの溜まり具合のことを言っているのだと察した。
もうここにきてひと月ほどの時間が経っている。
それまでの間に、エコーズが進捗に関することに触れることはなかった。瑞季はスプーンを持ったまま二度ほど瞬きした。
「そうですね、あと少しでいっぱいにできます」
もしかしたら、あと二、三回で満タンにできるかもしれない。
そんなところまでもう作業は進んでいた。
「……明日、励むことだな」
静かな静かな声が、雨と一緒に響く。
明日か。
明日、作業をして、フラスコがいっぱいになったら。そうしたら、ムムさんもエコーズもよろこんでくれるだろうか。
そうだったらいいな。瑞季も自分の手で空の器を満たせたことも、ここで過ごせたことも、うれしいから。余計なことを考えるなとあれほど言われたのに。みんなでよかったなと思えたらいいなと思った。
雨上がりの庭は、息をのむほどきれいだ。
思い切り空気を胸に吸い込んで、ぷくりぷくりと丸く膨れている葉を収穫して、籠いっぱいにつめこんで。
ああ、もうこれで最後だ。
胸を熱くした瑞季は、指先が震えそうになりながら、えいとレバーを回す。何度やっても気持ちのいい感触と音がして、フラスコにしずくが注ぎ込まれていった。
「瑞季」
フラスコの一番上まで、たっぷりと、しずくが溜まっている。
透明だと思っていたけれど、なんとなく薄っすら綺麗な緑色を帯びていて大きな大きな宝石みたいだ。
思わずガラス越しに手を当てると、いつの間にか隣にいた落ち着く声が、まっすぐとこちらを見つめて呼んだ。
きらきらと日差しの色と、しずくの輝きと、足元にきたムムさんの瞳とあたたかなぬくもり。周りのものが全部淡く光っているように見えて。
「二度と来るな」
にゃーんと高く鳴く向こうで、低い声がそう言うのを聞いたような気がした。
冷たい言葉に瑞季の心はあたたかくなる。なんとも魅力的なところだったから是非ともまた行きたいけれど。
あそこは、心も体もへとへとに擦り切れるところまでいったときに行けるかもしれない場所。
そうならないように。
そんなやわらかな忠告が彼らしくて、そしてきっとその足元には尻尾をくるりと揺らしたかわいいの塊がいるのも思い浮かんで、瑞季は顔を綻ばせる。
目の前には。
突然の夜、コンクリートの帰り道。
あれ? なんだっけ、今なにか…………あ、終電間に合いそう!
慌てて角を曲がって最終電車に滑り込んで、揺られながらため息。なんだかすごくやる気が出ているのはなんでだろう。胸がぽかぽかする。
体はくたくたで気持ちも沈み切っていたはずなのに、不思議とどこもかしこもすっきりしていた。だからだろうか、こんなに毎日遅くて酷い言葉を浴びせられる生活はやっぱり嫌だなと改めて思ってしまって。
ずっとまごまごしていたけれど、それはもうやめよう。
瑞季はぐっと拳を握る。やるべきことをやるぞと決めた。