02:碧のしずく
「碧のしずくという」
食器を片付けてから着替えて戻ってくると、エコーズに庭にある作業台へと連れられた。
親指の爪ほどの大きさの緑色の葉っぱは、肉肉しくむっちりした多肉で丸みを帯びている。十個ほどが五センチほどの茎の先から出て丸い形を作っているのは緑色の綿毛を遠くから見ているようだ、と瑞季は自分の中で知っている言葉で表してみたがうまい表現だとは思えなかった。が、今はそれが最善であり、もし他にいい例えがあったら考えておこうなんて暢気に思ってしまう。
屋根の下に職場のデスクよりも大きめの作業台、木の椅子、鉢に植えられた碧のしずく。
「迷子、お前の仕事はこの葉を増やすことだ。葉は水か土にさすと増える。水を与えるのは葉にシワが出たらでいい。それまで放っておけ。――そして、量が採れたら濾し器でしぼる。その葉水はムムさんの好物だからいくらあっても足りない」
「ムムさんの好物」
「そうだ。まずはそこにある籠へ一杯分収穫したら声をかけろ」
まさかのガーデニングはムムさんのための仕事だった。
面食らった瑞季に相手は終始真顔である。
「葉の生育は、お前の状態が反映されるものだが、御託はどうでもいいだろう。まずは手を動かせ」
そう言い終えるとそのまま家の中へ戻っていってしまった。
葉を増やす、とは。
瑞季はガーデニングなどやったことはなく、せいぜい小学生のときに授業でトマトを育てたことがある程度。ザルはひと抱えある。これを埋めるには何日もかかりそうだから、実は穏やかな場所と思わせておいて過酷な労働を強いられているのではないか。
道具と植物と一緒に置き去りにされ、家主は戻ってくる気配もないからやってみるしか選択肢はなかった。
「え、ええ??」
碧のしずくのひとつを指で摘むと、ポロリと茎からもげる。ブドウの実を房からとるような感覚だった。
張りのある葉肉は表面がさらさらしていてずっと撫でたくなる。植木鉢のひとつに土をもってぷすりとさしてみる。と。
水はいらないと言っていたな、これでいいのかな、と思った間にぷくりと葉の根元からものすごい小さい芽が出て、瑞季が目を見張って腰を浮かしたところでにょきっと三センチほどの成長を遂げた。
初めに葉をもいだ碧のしずくの一株のミニチュア版がもうできあがっている。
違いは一枚の葉っぱを根元につけていることと、葉の数がまだ少なく小さいところで。よく見ると小さな葉にシワが寄っているようにも見えなくはない。
どれくらい必要なんだろう。思いながら瑞季は作業台の横に置かれた瓶から器に水を汲み、スプーンのようなものでミニチュアの土を濡らした。
「うわあ、かわいい」
ぷくぷくぷく、と目に見えて葉が膨らんで丸々とした綺麗な緑色の粒が花開くようにほころぶ。
日の光で半透明の葉が宝石みたいに輝いた。
土がみるみる乾くので、まだシワは出ていないけれど瑞季は様子を見ながら水を足していく。しゅわしゅわと土が潤っていく音を立てるのが耳に心地よかった。湿った匂いがゆっくりと広がっていく。
ここは、不思議な場所。
だからこんなふうに植物が早く育つこともあるのだろう、たぶん。
それなら心配無用でたくさん葉を集めることができそうだ。
とりあえずひとつだけ残して他をすべて土にさしてしまった。
にょっきり増えていくのも順調で、初めにさした一本ももう親株と同じくらいの瑞々しい丸っこい葉をムチムチにしている。
さした葉が多くなればなるほど、次にまた土にさすのかそれとも籠に収穫するのか、考えている間に水をあげなくては……などとやることが増えて忙しくなった。
いくつかシワシワにして干からびさせてしまった葉もあったが、体感で一時間もせずに籠いっぱいの葉を集めることができた。両手で抱えて家の中へ入る。
「エコーズさん、これくらいで足りますか?」
居間にある作業台にいるエコーズは、ビーカー的なものや天秤を前に干した植物を分けたり測ったりしていた。窓の開いた室内はほんのり苦味を帯びた青い匂いがしている。
瑞季の籠を見たエコーズは、手にしていた小瓶を棚に戻してうなずいた。
「それを濾す。横にあるのが濾し器だ」
ふたりで外に出て作業台まで戻ると、ガラスでできた器材を示され瑞季はまじまじと眺めてしまった。
瑞季の身長くらいある大きなものだ。巨大フラスコのような受け容器の上に、レバーのついたザルがある。ドリッパーみたいだなあと思ったらもうそれにしか見えなくなってきた。
「葉をザルに入れろ」
言われるがまま瑞季は踏み台を使って籠からザアァッと碧のしずくを流し入れ、次いでエコーズが指さしたレバーを恐る恐る回した。
蓋がおりてプチプチプチとしずくが弾ける感覚が手に伝わって、フラスコに透明な水分が流れていく。
「えええ~、き、気持ちいい~」
緩衝材のプチプチを雑巾しぼりしたときの気持ちよさだった。そっくりだった。
籠一杯分をしぼると、フラスコの底がかろうじてしずくで大きな丸を描く。これは溜めるのにすごい量が必要になるぞと、瑞季はこっそり心の準備をした。
「空の器を満たせ。それが迷子の仕事だ」
エコーズの低い声に、いつの間にか足元にいたムムさんがにゃーおと高い声を添える。
それぞれに励まされたみたいだ。
まったく異なる声援がじんわり染み込んでいくのは、不思議と瑞季の胸を軽くしていく。
よし、やってみよう。
洗いざらしのシャツの袖を、瑞季は丁寧に捲り上げた。
葉をもいで、さして、水を与え増えたものを収穫。
また土にさすもの、籠に残すもの。
籠がいっぱいになったら、さした葉の様子でタイミングを見計らって濾し器。
一連の作業の流れがわかってきたが、たくさん濾すためにはたくさん葉をさす必要があり、そのためには土の準備と水やりの量も考えなければならない。
スプーンでは間に合うわけもなく、どうしようかと周りを見たらジョウロがあった。瓶に沈めてコポコポ上がる泡がなくなったら引き上げて、満タンのそれを両手で構えた。土や緑を触ることもそうだが、こんなふうに体を使うこと自体が久しぶりすぎて瑞季には新鮮だった。
葉をもいだ茎からもしばらくすると新しい葉がでてくることもわかったので、いっそう忙しく立ったり座ったりプチプチしたりシュワシュワしたり。
「迷子。食事だ」
気づけば昼になっていたらしい。
涼しい顔をしたエコーズが玄関先に立ってこちらに声をかけてくれた。
朝が早かったから結構時間があると思っていたのにあっという間だ。
シャツは汗が滲んでいるし、そこかしこに土もついている。作業した感はあるが、しぼったしずくはフラスコの十分の一にも達していない。
「……まだぜんぜん集まらないです」
水瓶から水を汲んでグラスを満たしながらそう言えば、キッシュを切り分けているエコーズは手を止めずに口だけ開いた。
「満ちるには時間が必要なものだ。急いだところで意味はない」
「でも、これじゃあ何日もかかっちゃう……」
「それのどこが問題なんだ」
解せないとばかりに眉を寄せたエコーズに、瑞季は言葉を詰まらせた。
「だ、だって、早く戻らないと」
「戻れることは決まっている。それまでの時間を使うだけだ」
「でも、その間エコーズさんの邪魔をしちゃうし」
「邪魔だと俺が言ったのか?」
まっすぐ向けられた緑色の瞳に、瑞季ははっと息を呑む。
怒っているわけでも呆れているわけでもない。
今までどおり、平熱の声でまっすぐと尋ねられて瑞季はゆっくりと首を振った。
「い、いいえ。わたしがそう思っただけです」
「それなら考えるだけ無駄なことだ。いいか、迷子。ここは迷子を受け入れ、元のところへ帰す場所だ。それ以上でも以下でもない」
事実を事実として伝える声。
言葉で説明できるものがすべてではないのだと、同じ声が根気よく瑞季に寄り添ってくれている。
そういうものだと受け入れろ。昨日の声まで聞こえてくる気までして。
「そういうもの、か」
「そうだ。焦らず時間をかけろ。ここには、ここにあるだけのものしかない」
気にするだけ無駄だと冷たく言われたようなものだったが、瑞季は自分でも驚くほどエコーズの言葉が嫌だと感じなくて不思議だった。
そういうもので、知っておくだけでもよしとする。
今はそうしておこう。
気まずい空気にも一切ならず、食事を始めたエコーズにならって瑞季もほくほくと湯気を立てるキッシュに手を伸ばした。
午後からも、次の日も、同じように碧のしずくを増やす作業に取り掛かった。
よし、たくさん増やすぞ! と気合を入れて無心で作業を進めると、時間の感覚がどこかにいってしまって食事のたびにエコーズに呼び戻される。
一日三食、あたたかい食事をきちんと用意され、清潔な衣類と寝具までそろえられ、本当に衣食住の心配など無用である。こんな待遇を受けていいのだろうかと思ってしまうが、そのたびにエコーズの声が頭の中で静かに響く。だから、いいのだと思うようにした。
「エコーズさん、変なことを言ってるかもしれないけど、なんだか育つスピードが遅くなったような気がして。もしかして、わたしのやり方がおかしいですか?」
初めて碧のしずくを集めたときは、一時間程度で籠一杯だったような気がする。それはその日の午後も変わらず、たぶん次の日だってかわらなかったと思うのだけど。
今日は五日目だと記憶しているが、籠を満たすのに倍くらいの時間がかかる。
明らかに葉をさしてから芽吹くのにも、茎がのびるのにも、土が乾くのにも、すべてに時間がかかっていた。
シチューを食べながら首を傾げると、目の前のエルフはさもないとばかりに素っ気なく口を開いた。
「きちんと休んでいないだろう」
「へ?」
休む? 誰が?? 碧のしずくが??
まったくわからなかったことが相手には筒抜けだったのだろう。ため息をついたエコーズが瑞季をひたりと見据えた。
「闇雲に作業すればいいわけではない。生長速度はお前の身魂に左右されると覚えておけ」
「しんこん」
「身を削り、心をすり減らすことが労働のすべてではないということだ」
心身ともに健やかであることが、植物の生長に影響すると言いたいのだろうか。
本当に? そんなことがあるの??
戸惑う瑞季の心境を正確に把握しているのか、エコーズはめずらしくさらに言葉を注ぎ入れる。
「いいか、迷子。お前の仕事はムムさんのためにこの葉をいかに多く増やすかだ。効率を考えろ」
静かに、諭すように。
その声に送り出されるように、瑞季は午後の作業台に向かった。
休むとは。
早く作業を進めたいのに、作業するばかりではいけない。
かといって休憩をしていないわけじゃないのだけど。そうなるとどうしたらいいのだろう。
「おわっ」
腕組みをして考えていたら。足元を急にもふっとしたものが触って瞬時に足を引っ込める。
下からにゃーんと鳴いてムムさんが顔を出した。なんだこれ! かわいい!!
短い足だからジャンプはできないのではと思ってしまうが、普通の猫と同じように軽やかにテーブルに飛び乗った。
「ムムさんも見に来たの?」
ふんふんと碧のしずくの匂いをかいで、はぐはぐと甘噛み。
好物というのだからそのまま食べてしまうのかと見ていると、本気ではないようで今度はてしてしと猫パンチを繰り出し始めた。鉢が倒れそうなので押さえれば、ポロポロと半透明の宝石が転がり落ちて作業台に散りばめられた。
あららら、と思わず言ってしまったが落胆も苛立ちもまったくわかず、むしろ微笑ましくて笑ってしまう。
ほっと肩の力が抜ける、そんな感覚がして瑞季はゆっくりと息を吐いた。
椅子から立ち上がって大きく伸びをする。
少し庭を散歩して、やり方を考えてみるのもよいかもしれない。
エコーズの庭にはいろんな植物が生えていた。
もちろん瑞季にはどれがなにかわからなかったし、おそらく地球にはない植物だってあるのだろう。花が咲いていたり、銀の光を帯びた葉が蔓に連なっていたり。
庭の周りは森になっていて、どういうわけか庭から森に出ようとは思わなかった。
小路が家から円を描くように続いていて、のんびり散策する瑞季をとてとてとムムさんがついてくる。
もうそれだけでかわいいので、何度も振り返りながら歩いて作業台の前まで戻ってくると、思ったより時間が経っていた。全部の葉がにょきっと伸びて、丸々とした新しい葉まで育っている。
ちょっと気分転換になったかもしれないなと、瑞季はひとまず午後の作業を始めることにした。
すると、どうだろう。あんなに遅くなったと思っていた葉の生長が、今までで一番早かった。みるみるうちに新しい碧の宝石が輝いていく。
にゃーん、とムムさんが鳴きながら瑞季の手にすりよって撫でろ撫でろと額を押し付けてくるのに応えながら、少しだけわかったような気がして瑞季は胸が軽くなるのを感じた。