01:猫とエルフ
頭はぼうっとするし、体は重たいし。
耳の奥では上司の怒鳴り声がわんわんと響いて、駅へ向かうコンクリートの地面を歩いているはずなのに。まだ書類で埋め尽くされたデスクに張り付いているような感覚が抜けない。
もう日付をまたぐ時間だろうなあと、いつものことすぎて焦る気持ちもなく瑞季はただぼんやりとそう思った。
角を曲がれば駅で、最終には間に合うだろう、たぶん。ダメならまたタクシーか。タクシーが気を利かせて停まっていてくれたらいいけど。たまに出払っていて待ちぼうけをすることもある。
なにはともあれ、とにかく寝たい。
お腹も空いているけど睡眠だ、睡眠が必要だ。
頭痛がして重たいのもそうだし、なんだか目も霞んできたし、今日の業務で一応の一段落となったからか体の不調をものすごく感じる気がする。いつの間にか視界は真っ白で、霧の中にいるみたいな……。
いや、これ霧が出てるな?
鮮やかな新緑と、やわらかな日差し。
そよ風に揺れる葉の隙間から眩しい光がきらきらと踊っている。
いきなり霧が晴れ、今度は目の前に緑が現れた。
森かと思ったが、手入れされた木々や花壇があって、小路の先には素朴な一軒の家。
三角屋根で、柱や壁に蔦が絡まっていて、絵本や童話に出てきそうなそんな家だ。
ぽかんと立ち尽くす瑞季は、草が揺れる音に振り返る。すると、一匹の猫がほてほてと歩いてきていて、これまでとは違う驚きで目を見開いた。
逃げるでもなく警戒するでもなく瑞季を見上げて首を傾げた猫は、一メートルくらい近くまで来たところでん~と片方ずつ前足を目の前に出して伸びをする。ピンと上を向いていた長い尻尾の先を、かぎ爪みたいにくるりと曲げて瑞季を見上げた。にゃーん。
「か、か、かわいい」
顔の下半分からお腹にかけて白く、あとは茶色と灰色が複雑に混ざったところ、そら豆みたいな黒いぶち、焼きたてパンのこんがりした茶色、尻尾はほとんど黒に見えるがたぶんしましま。
短い足でほてほてと瑞季の周りをぐるりと歩くのに、思わずしゃがみ込んで手を差し出してしまった。
くんくんとにおいをかがれる。ぺろり。かわいい!
よく見ると、食べこぼしをしたみたいに右の口元だけ小さな茶色いぶちがあった。紅茶みたいな琥珀色の目が見上げてくるので、瑞季は遠慮せずに毛並みに触れる。
耳の後ろをかいてみると、もっとやれと言わんばかりに背伸びをしながら押し付けられる。足が短いからか! かわいいな!!
疲れていたことも突然庭に来たことも忘れて、急にお見舞いされた癒しの暴力を瑞季は全身で受け止め必死に噛み締めた。
「う、う、う……か、かわいい!」
「当然だ、ムムさんだからな」
現実に戻したのは低いよく通る声。
はっとして顔を上げると家の入り口に背の高い男の人がいて。
瑞季は慌てて立ち上がった。誰だ、そしてここはどこ。急に心臓がうるさくなりだした。
「また迷子か。入れ」
「え、あの」
背が高く、その背中には流れるような金髪。
肩越しに振り返って、低い声は有無を言わせず続く。
「いいから入れ。取って食いはしない」
知らない男によって異常なこの状態を思い出して心臓が凍るような緊張を感じたのに、従わない選択肢はなくて恐る恐る足を踏み出す。
角が削れて丸くなっている扉が閉まる前に身を滑り込ませると、窓際のテーブルについた男が指先で対面を示した。
「簡潔に説明をする。俺はエコーズ、エルフだ。――ひとつ、ここは俺とムムさんの家である。ふたつ、お前がいたところとは異なる世界である。みっつ、時がくれば帰れる。そしてそれまでの衣食住は保証する。以上」
い、異世界……? エルフ……?
いや、確かに耳が尖っているしさらさらの金髪だし、綺麗な緑色の目をしているし、瑞季の知っているエルフの具現化そのものだけれど。
映画などで見るようなエルフが着ているローブなどではなく、洗いざらしのシャツに綿のパンツで足元は皮のサンダルとずいぶんラフな格好だ。
無駄なものを一切挟まず唐突に突きつけられた言葉を、瑞季は理解するのに全身全霊を使わざるを得ない。
言っていることはわかるのに、飲み込む方法がわからなくて息切れしてくる。
「か、帰ることができるんですか」
「できる」
あっさり、はっきり、きっぱり。
まったくの揺るぎもなかった。その真っすぐさに瑞季のほうがたじろいでしまう。
「え、ええと、どうやったら」
「お前が帰りたいと思えば」
「えぇ……」
なんだか回答が適当すぎる気がするのに、相手は真顔でふんと鼻を鳴らして腕を組んだまま。冗談を言っているようにも見えず、ただただ瑞季は戸惑うばかりだ。
察してか、ため息のあとに相手が口を開いた。
「いいか、迷子」
「瀬尾瑞季です」
「ふん。どうせしばらくここで暮らすしかないのだから、そういうものだと受け入れろ。質問なら受け付けてやる」
腕を組んでどっかりと背もたれにふんぞり返るエルフ。
エルフかあ、本当に夢でも見ているみたいなのに、窓からの穏やかな日差しも、部屋の木と干された薬草の香り、手足の感覚……なにもかもがリアルで。覚める気配は一向にない。
とん、と思いのほか身軽な足取りでテーブルに乗った猫が、ほてほてと三歩進んだところでこてんと寝転がる。その自由気ままなところも、手触りのいい毛並みもぬくもりも、確かにそこにあるものだった。
エルフの長い指が、毛の流れに沿うように撫でるとすぐにゴロゴロという音が聞こえてくる。ぼんやりする瑞季のことなど気に留めた様子もなく、相手はぱたんぱたんと動く尻尾に目を細めたままゆっくりと口を開いた。
「明日から働いてもらう。今日は食べて風呂に入ったら寝ろ。それが今お前がすべきことだ」
勝手に話ができあがっていて、進むべき道まで敷かれている。
理不尽な職場に似た強引さがあるはずなのに、瑞季は嫌な気持ちにならなかった。
そのあとに出された食事は、おいしかった。お風呂もこんなにゆっくり入ったのは何ヶ月ぶりだろう。やわらかな寝巻きを渡され、奥の部屋まで用意されて。
冷たい物言いなのに、与えられるものすべてが染み入るほどあたたかかったのだ。
少し眩しいなと思ったとき、心地よい眠気とあたたかさにまだ目を開けたくないとも思った。
なんだろう、すごく、あたたかくて気持ちがいい。
またすぐに夢の中に行ってしまいそうな、いやもうすでに実は夢なのかもしれなくて起きた気だけしているのかもしれない。思考がぼんやりしてまどろんでいるのを、てしてしと、なにかか瑞季の頭を触ってすっかり消してしまった。
はっと目を開けると、カーテンの隙間から差し込むやわらかな室内で、自分の周りはふかふかの寝具。そして、ふんふんとなにかの息づかいがもう耳や頬のすぐそこにあった。
「ム、ムムさん」
ふんすふんすと押し付けられた鼻から、くすぐったい生きている証を浴びせられて思わず笑ってしまう。てしてし。続いて短い手が瑞季の顔に容赦なくお見舞いされる。
なんだこの平和すぎる目覚めは。
体を起こすと、にゃーんと鳴いた猫はとんとベッドから降りてあくびと一緒に体を伸ばした。
いつの間に部屋に入ってきたのだろう。
扉は閉めたはずだが、と後ろ姿を目で追うと扉の下のところにパカパカ動く小さな専用の出入口があって、頭で押し開けて通っていった。昨日は気づかなかった。もしかしたら家が猫仕様に手を入れてあるのかもしれない。
「お、おはようございます」
台所に立っている後ろ姿に声をかけると、振り返った無表情は素っ気なくうなずいた。
「食事にする。よくこの時間に起きたな」
「ムムさんが起こしに来てくれました」
「……………………ムムさんはサービス精神旺盛なんだ」
そんな、何十匹も苦虫を噛み潰したような顔で言われても。
どうやらまだ早い時間らしい。
外は日が昇り始めていて、窓からの光に木のテーブルも椅子も明るく縁取られているのがキラキラして見えた。こんな穏やかな朝があるなんて。
「日の出と共に起き、ご飯をねだるのが日課なだけだ」
思わずため息をこぼしてしまう瑞季をよそに、憮然とした呟きを耳が拾った。
言い聞かせるように言っている気がしなくもないが、瑞季はまだそれを口に出せるほど相手のことを知らないので黙ったままでいることにした。
「あの、手伝えることはありますか」
「グラスを出して瓶から水を入れてくれ」
「はい」
「足元のボウルにも、洗ってから入れて元の場所に」
示された食器棚からガラスのグラスをふたつ。テーブルに置いてからボウルとやらを探すと、水瓶に寄り添うようにコロンとした器があった。
手に取るとムムさんが寄ってきたので、そうかこれはムムさんの水かと瑞季は思わずにこにこしてしまう。
足元をふわふわの毛玉が行ったり来たりするのを蹴飛ばさないようにしながら、台所の一角にあるシンクのようなところで器を洗い、新しい水で満たして戻せばふんふんしながらムムさんが水面を調べ始めた。
ふいっと顔を背けてとととととっとテーブルに向かう。あれ、お水飲まないのか。
「席につけ。食べたら作業の説明をする」
ぺろぺろと顔を洗い出した気まぐれな様子を眺めていると、両手に器を持ったエコーズが鼻を鳴らした。
慌てて瑞季が自分たちのグラスを満たしている間に、テーブルの下にきたムムさんにご飯の器を置いてから自分たち用の野菜のスープとパン、切り分けられた果物が手際よく並べられる。考えるまでもなくエコーズが用意したのだろうが、昨日から淡々と瑞季の身の回りを整える様子に少しの迷いもなくてびっくりだ。
「……あの、ここにはよくわたしみたいな人が来るんですか?」
要点をおさえた説明も――端的すぎるとも言えなくもないが――身ひとつで来てしまった相手にはなにが必要なのか把握しているところも、戸惑った様子など一ミリも感じさせないところも、この状況が彼の生活の一部になっているような気さえしてくる。
椅子におさまった瑞季が尋ねると、エコーズは桃のような果実を食べながらつまらなそうに鼻を鳴らした。
「年に一度、あるかないかの頻度で俺とムムさんの穏やかな生活が害されるわけだが、しかたがない。ここはそういう場所だ」
「そういう場所……」
「言葉で説明できることだけで世の中は出来上がっていない。そういうものだと、咀嚼はできずとも知っておけば少しは胸が軽くなるだろう」
「はあ」
学生の時に数学の公式を説明する教師が、なるものはなる、と言い切って終えた授業を瑞季は思い出しながらスープを食べる。薄味だがあたたかさがしみた。野菜の甘みがおいしくてあっという間に空にしてしまう。
エルフはあまり食べないのかと思いきや、目の前でエコーズはもりもりと皿を空けていき瑞季がパンを手に取るときには自分の分を腹に納め終えていた。
ご飯を半分残したまま椅子にのぼって髪にじゃれつくムムさんの相手を始め、長い指をはぐはぐされているのは正直うらやましくて瑞季はこっそりパンを急いで口に詰め込んだのである。