前編
鏡にひそむ謎
前編
【前書き】
鏡という物は実に不思議な物だ。
そう思ったことがある、という人はいますか?
私はあります。
昼間に見る鏡と、真夜中に見る鏡で、自分の中で見るタイミングによって、鏡に対する気持ちが変わることはないでしょうか?
昼間は何も気にせずに見ることができる鏡も、真夜中に見るのは怖いと思うことがある。
もしもこの部屋には無い物や、家族以外の人が映ったらどうしようと考えることもあるだろう。
鏡というのは人や物を映すという役割と、それ以外には魔除けの効果があったりもする。
今回のこの物語は、先に書いた内容とは違いますが、おもしろい作品になっていますので、是非最後まで読んでいただけたら思っています。
約五万文字の『鏡の中にひそむ謎 前編』、後編と合わせて十万文字になる予定です。
通勤時間作家 Zが持つ、鏡の中の独特な世界をお楽しみください。
著者:通勤時間作家 Z
第一章
カーテンの隙間から差し込んでくる眩しい朝の光は、まだ全然寝足りない俺の睡眠を邪魔してくる。
とは言っても、もう起きなくてはいけない、もうそんな時間であることは間違いがないことだ。
毎朝のことだが、この時間というのは、いつも気だるいものだ。
そう、今日はいつもと変わらず、会社に行かなくてはならない日なのである。
会社に行かなくても良い休日であれば、朝日の光を避けるように布団に潜り込み、この寝足りない体に睡眠をプレゼントしてあげるのに……
そして、どこにも出掛けず、ボサボサ頭で、髭も剃らず、何を気にすることなく一日中ダラダラと過ごすことができる。
そうすれば体も心もリフレッシュすることができるのだから、願ったり叶ったりの時間を過ごすことができる。
そんな時間を過ごしたいとは思うが、残念ながら今日は仕事に行かなくてはならない日だ。
いつものように洗面所に向かい、鏡の前に立ち、出勤をするための準備をおこなった。
見二は鏡を見るのがあまり好きじゃない。
これは昔からだ。
この男の名前は深津 見ニ(ふかづ けんじ)、鏡を好まなくなった理由は、単に自分の顔が好きじゃないからだ。
テレビで観るような格好の良い俳優や、アイドルのような綺麗な顔であれば、自分の顔も好きになれたのだろうに。
なぜこんな顔で産まれてきたのだろうと悩んでしまうような顔、自分の顔を見ていると恨んでしまうこともあった……
もちろん恨む相手などいないが。
そんな時は、鏡に映った自分に文句を言ってしまう。
しかし鏡の中の自分も、こちらに文句を言ってくる。
これは当たり前の話しだが……鏡に映る姿は今の自分の姿が映っているだけで、親戚でも他人でもない。
そんなくだらないやり取りをしながら朝の準備は進んでいく。
準備が終わり、一人暮らしのアパートから寂しく出て、そして駅まで歩き電車に乗り、会社へと向かって行った。
見二が働く会社は駅前にあるビルの中に入っているが、そこで不動産関係の仕事をしている。
支店は全国にあり、この業界ではそこそこ大きな会社に就職することができていた。
同期で入社したのは三十三名、そのうち数名はしっかりと実績を上げ、主任や係長として全国各地にある支店へと配属されていた。
見二はまだ二十九歳なので、さすがに同期で支店長になっている者はいないが、現在、主任や係長を任されている者は間違いなく、将来の支店長候補である。
見二はこの同期達とは真逆で、目立った成績も出すこともなく、後輩からも慕われないような人間、本当に困ったものだ。
それもそのはず、仕事に向き合う姿勢がまるで成っていないのだ。
毎月思っていることは、こんなに高い売上目標などはとてもできない。
こんなやり方でやっていたって、どうせ無理だよ……
あいつらは上司からひいきされているから成績が上がっているのだ!
こんな考えをしている社員になど、良い成績が出せるはずなど絶対にない。
こういう考えで努力もせずに見二は、幾度となくやって来ていたチャンスを逃してきた? いや、捨ててきたのだ。
そんなことだから、当然、上司からの信頼も薄いし叱られることも多い。
今日も出社するなり課長に呼ばれ、取り引き先でのミスや、売上が低迷していることについてお叱りを受けていた……
見二は今日も、仕事に対するテンションをどんどん、更に更に下げていった。
こんな毎日を送っていては、会社のことが嫌になる気持ちも分かる、そんな気もするのだが、結果的に言えば全て自分自身で招いていることなのだ。
仕事に対して前向きな気持ちで、一生懸命に取り組みさえすれば、ある程度は解消できると思うのだが、何故だろう……やらないのが不思議で仕方がないと思ってしまう。
結局この日は酷く叱られて、落ちてしまったテンションは戻ることなく、そのまま外回りに出掛けて行った。
ただ見二が目指すところは、新たな顧客を探しに行くのではなく、安いコーヒー店か公園のベンチになるのだろう。
この日、見二の財布の中はガラーンと寂しく、今日は自動的に公園のベンチに決まった。
コンビニでペットボトルのコーヒーとポテトチップスのコンソメ味を買い、この二つで夕方までベンチに居座る作戦となった。
予定通り一日中仕事をサボったあと会社に戻り、嘘の報告書を作成して上司に提出して会社をあとにした。
こんな見二でも今月は少しだけ、気持ちに若干の余裕があったのだ。
それは見二としては珍しく、見込みの仕事があったからだ。
アパートに帰るため会社を出た見二は、三十分ほど電車に揺られ、到着した自宅近くの駅に隣接するコンビニに立ち寄っていた。
今日は昼食を質素にし節約することができたことから、夕飯はコンビニの弁当を買って帰ることにしていた。
アパートに帰宅後は直ぐにシャワーを浴び、大好きなビールを飲みながらコンビニで買ったボリュームたっぷりの弁当を美味しそうに頬張った。
そのあとは特にすることもなく、ビールを飲みながらダラダラとした時間を送っていたが、十一時過ぎには布団に潜り込んでいった。
この夜 見二は、すごく嫌な夢を見て、酷くうなされることになる。
見二は夢の最後、自分でもびっくりするくらい大きな声を出しながら飛び起きてしまうほどだった。
見二が見た恐ろしい夢の内容はこうだった……
見二は、とある山の細い山道を歩いていた。
その細い山道の表面は少しデコボコしている部分はあるが、アスファルト舗装がされており、人が歩くには全く問題がないような道だった。
歩いている時間帯は昼間で、木々の隙間から射し込む、清々しい太陽の光を感じながら見二は、割に気持ち良く山道を歩くことができていた。
その気持ちの良い山道の道中、突然、山道の脇に一人の少年が現れた。
言葉にすると、何でもないようなことだろうが、しかし、その少年はとても奇妙な行動をとっていたのだ。
それはとても気味が悪く、鳥肌が立ってしまうような光景であった。
少年は道路から山側の斜面に身体を向け、その方向をずっと向いたまま、ポッカリと空いた穴、どうやら井戸のような穴に顔を押し込めながら、一人で歌でも唄うかのように何やら言葉を発していた。
見二は、いったい何をしているのだろうと気になり、その少年の居る方向に耳をすませ聞いてみた。
すると、聞こえてきたのはこんな言葉だった。
「死ね、死ね、突っ込んで死ね! 死ね、死ね、突っ込んで死ね……」
これは! 見二は一瞬にして身の危険を感じ、その場を直ぐに離れようとした。
何故なら、一瞬でヤバいと感じたからだ。
『でも待てよ! この光景……前にも見たことがあるような気がする』
見二はそんな気がした。
『そうだ! 思い出した。俺はこの少年を通り過ぎた瞬間、全速力で私を追いかけてくるはずだ……そうだ、そうだよ、俺は前も同じことを経験している』
見二はそう記憶していたことから、少年の背後に回ったところで、今自分が進んでいる進行方向に、全速力で走り出すことにした。
近くに行くまでは、少年のことなど全く気付いていない様な振りで普通に歩き、真後ろに入った瞬間、見二は今持っている力の全てを使い、全速力で走り出した。
見二はありったけの力を出し、もの凄い速さで走っているのに、何故だろう、どれだけ走っても走っても、少年との距離が離れてないような気がした。
そう、逃げ切れているような気がしないのだ……
むしろ、隣に居るのではと思うほどの圧力を感じていた。
少年から出される圧力は更に強さを増していった。
恐怖心はあったが見二は走りながら、恐る恐る気配のする方向に顔を向けてみた……
「わぁーー!」
思わず大きな声が出た……
なんと斜め横には、顔をニヤニヤさせながら「逃さない」と言いながら全速力で走ってくる少年が居たのだ。
素人の見二でも分かった、この少年が明らかにこの世の者ではないということが。
見二が発した大きな叫び声は、隣の部屋にまで十分聞こえる大きな声であったため、隣の住人もビックリしたのだろうか、ドタドタドタとベッドから転げ落ちるような音がしていた。
自分でもどれだけの大声を出したのだろうと思ってしまった。
それから少しの時間は動揺をみせていた見二だが、こんなのはたかが夢と割り切り、起床を予定している七時までは寝ることにした。
見二が見た夢に意味などないのかもしれないが、とても気持ちの悪い夢だったことには違いない。
それから後の時間は夢にうなされることもなく、気持ち良く朝まで熟睡することができた。
この日の朝もいつものように鏡に向かい、イヤイヤながら出勤の準備を済ませて会社へと向かった。
嫌な夢をみた割には、何故だろう、今日の見二はいつもと違い、輝いて見えていた。
第二章
この日の見二がいつもより輝いて見えていたのは、今日はある法人にビルのテナント物件を提案するという仕事が入っている、というのがその答えだ。
その会社は、駅周辺にある一等地のビルを探していた。
広さの規模は三百坪超える大口の取引になる予定だ。
会社の事務所として使用する予定だが、見二の会社としても同業他社に絶対負けられない取り引きである。
ただ、それを担当をするのが出来の悪い見二というのは何故だろう。
そこはどうしても拭い去れないものが残り、とても不安材料が付きまとっているとしか言いようがない。
何故その仕事を見二が担当をしているのだろうか?
それは、この情報を掴んできたのは見二だからである。
見二も毎日仕事をサボってばかりいる訳ではない。
たまにはお得意様に顔出しぐらいして、偶然にも良い情報を得られることぐらいはある。
今回は特にラッキーなことに「今日は一件だけ顔出ししよう」と訪問した先で、テナントを探している大口の法人情報を得ることができたのだ。
しかし、アピール力も提案力も見二にはない。
果たしてこの勝負に勝つ確率はあるのだろうか。
もちろん本人も勝てるとは思ってはいない、見二の意気込みなんて所詮その程度のもの。
会社としては是非とも契約に持ち込みたいところだが、見二としては会社に対して、俺は仕事をしているというアピールができていればそれで良いのだから。
この男に期待するということは、最初から皆無なのである。
それでも見二なりに物件を探し、先方に提案することができる物件は合計で三件見つけていた。
これからはビルを所有するオーナーもしくは、管理会社と値段交渉をおこなっていくことになるのだろう。
ただ契約に繋がるかどうかは営業の腕しだい、今後の話し合いと駆け引きに掛かっている。
あとは、どれだけ熱心に対応をしてくれたのか、ということも決め手にはなってくるだろう。
先方に物件の提案をした後は、適当に外回りをして、夕方五時には会社に帰社した。
帰社した見二を待っていたのは、お褒めやねぎらいの言葉ではなく、溜まりに溜まったマグマが、一気に爆発したかのような課長からのお叱りだった。
見二が取り引きしている業者から、重大なクレームが二件も入っていたからだ。
クレームの内容というのは、二件とも見二の対応が遅く、取り引きにかなりの支障が出ているという、怠慢が引き起こしたものだった。
見二はこの時点で確実に、深夜近くまでになる残業が確定、今日アパートに帰宅するのはとても遅くなりそうだ。
見二はすぐに二件の業者に連絡を取り、ひたすら謝罪の言葉を繰り返し、先方には今後早急に対応していくことを約束し、なんとかマグマのような熱い怒りから、沸騰したヤカンぐらいまでに、何とか冷やすことができた……とは言っても、沸騰したヤカンも中々な熱さである。
あとは明日以降、自らが出向いて謝罪をして、早急に対応すると約束した通り行動をしていくしかないだろう。
とりあえず今日の仕事は終了させ会社を出た。
アパートに帰宅できたのは日付を跨いだ午前零時であった。
帰宅した見二は、今日のストレス発散と明日への力を注入するため、ストロング系の缶酎ハイをゴクリ、アルコールで気持ちを穏やかにしようとしていた。
続いてコンビニで買ってきた大盛りパスタを勢いよく胃の中に流し込み、短時間で一気にたいらげてしまった。
体には結構なアルコールが巡り、カラだった胃袋は大盛りパスタで満たされたことから、先ほどまでのイライラだけは解消されてはいった。
そうなると次に襲ってくるのは睡魔。
この睡魔には完全に負けてしまい、この日はスーツ姿のまま布団になだれ込んでしまった。
それからはアッという間に熟睡状態になり、そして直ぐに朝がやってきた。
この日の朝はいつも以上にイラついていた。
それもそのはず、シャワーも浴びずスーツ姿のまま寝てしまったのだから仕方がない。
いつもより朝の準備に時間が掛かるため早く起きる必要もあった。
そんな朝は、鏡に映る自分の顔にさえ腹が立ってしまう。
鏡に映った自分の顔にイラつき、鏡に向かって右手の拳を振り上げたその時……
「はぁ?」
有り得ないことが起こった。
見二は目の前で起こった光景に、自分の目を疑わざるを得なかった。
何度も、何度も目をこすり、それから何度も、何度も鏡を覗きこんだ。
鏡に映る自分も見二と同じように、何度も、何度も目をこすり、鏡に近づくような素振りをしている。
当たり前と言えば当たり前な話しだが、その前の出来事が、当たり前では済まされないようなことが起こっていたから、正気ではいられなかった。
そう、その前に起こった、鏡の中の自分が起こした行動、それが衝撃的だった。
それは右利きの見二、振り上げた拳は右手だったのだが、鏡の中の自分が上げた手も同じ右手だったのだ。
普通であれば、鏡の中の自分は左手を上げるはずなのだが、そうではなく、なぜか対角線上にある手、鏡の自分も同じ右手を上げていた。
あれは一体なんだったのだろうか?
不思議な鏡の事件が起こってから三日が経った……
実はこの頃から、鏡に映る鏡の中の自分は、次第に個人としての意思を持ちはじめているかのようだった。
どういうことかと言えば、鏡の中の自分は、自分の意思で考え独自で動くようになっていたのだ。
見二が右を向けば、鏡の中の自分は上を向いたりするような有り様だ。
鏡の中の自分が勝手な行動をするようになり、もはやこの鏡は鏡の役割をはたさない物になっていた。
それから更に二日後、ついに鏡の中の自分は、こちら側に言葉を発してきたのだ。
「髪の分け目はこっちの方が良いと思うけどな」
「うるさい! 鏡のくせに、俺に指図するんじゃない」
「なんだか、やけに肌が荒れているな。そんな顔じゃ仕事も上手くいかないぞ。少しぐらいケアした方が良いんじゃないか」
「あぁ、分かったよ! 今日、化粧水買ってくるから。本当にうるさい奴だな……えっ! 鏡に映る俺が、なんで? ……話せるの?」
見二の頭の中ではクエスチョンマークが列をなして行進していた。
「全く訳がわからない」
鏡の中の自分も「なぜだろう?」とささやく。
それはまさに、鏡の中でもう一人の自分が誕生してしまったかのようだった。
ただ、所詮これは鏡の中のこと、籠の中から出ることができない小鳥のようなものでしかなかった。
どんなに独立した意思を持つことができたとしても、現実として表に出ることができなければ、それはただ映っているだけのテレビと同じなのである。
ただ困ったこともある……朝の準備がとても大変になってしまった、ということだ。
確かに鏡には自分の姿が映ってはいるが、鏡の中に映る自分は自分勝手に動いてしまい、全く準備ができないようになっていた。
本当に困った鏡だ。
いっそのこと鏡から出てきて、こちらの都合の良いように使うことができたらどんなに楽だろうとも考えるようになった。
そうなれば先ず最初に、毎日行くことが嫌で嫌でたまらない会社に、自分の代わりとして行ってもらいたい。
そして自分の代わりに仕事をしてもらい、自分は家の中に残って一日中のんびりしてみたいということまで考えはじめていた。
ただ、そんなことが現実に起こるはずはなく、それは妄想、夢物語でしかなかった。
この頃から見二は、出勤をする前は鏡に向かって「行ってきます」と声を掛けるようになっていた。
鏡の中に映る自分に対し、愛着が湧いてきたのだろうか……それともペットでも飼っているような気分なのだろうか……
この生活は、ここから七日間ほど続くことになるのだが、見二は会社から帰って来ると鏡の前に立ち、鏡の中の自分に対して会社であった嫌な出来事を愚痴ったり、いろいろと相談するようになっていた。
その行動は日々エスカレートしていったのだ。
会社から帰ってくるなり、洗面所の鏡の前までビールとつまみを持っていって、椅子に座り鏡の中の自分とじっくりと話し込むようになっていた。
まるでずっと昔から仲の良い、親友同士が話すかのように……ただ、それが良いことなのか悪いことなのかは別として……
この日は会社で嫌なことが多かったのだろうか、見二の愚痴はいつも以上に多く、焼酎のボトルを抱えながらいつもより飲む量は、はるかに多くなっていた。
明日は会社が休み、そういうことも見二に拍車をかけてしまったのか、すでにトップギアに入り、酒を飲み続ける見二を誰も止めることはできない。
そのお酒の量は更に増していき、やがて焼酎のボトルは底をついてしまった。
あまりにも飲みすぎてしまったことが原因で、ほふく前進しかできなくなった見二は、飲んでいた洗面所からベッドまで辿り着くことができず、途中の部屋の真ん中で力尽きてしまい、そこで気絶したかのようにその場で眠ってしまった。
この日の夜は冷えていたが大丈夫なのだろうか。
そこから三時間くらい経ったころ、あまりの寒さに目が覚めたようだ。
布団や毛布などを掛けずに寝ていたので肌寒さを感じたのであろう。
目を覚ました時間は深夜のニ時を過ぎた辺りだった。
頭の中はグルグルと回り、酔いと寝たりない目はボヤっと霞んだような状態、見二はそんな頭がボーッとする中でも、冷えた体は布団の温もりを求めていたようだ。
何とか布団まで行こうとする見二だったが、相変わらず目はかなり霞んだままだったが、何故だかある違和感を感じていた。
それは一人暮らしのアパートなのに、自分以外の誰かが家の中に居るような気がした。
しかしその違和感は的中した……そして自分の目を疑った。
何故なら、目の前に居たのはは自分、自分が目の前で横たわって居たのだ。
当然、目の前に鏡などは無い。
それなのに自分と同じ服を着た男が、自分と同じように横たわった姿で目の前に居たのだ。
やがて目の前に居る自分もこちらの存在に気づき、ハッとびっくりしたように起き上がり、こちらを覗き込むように近づいてきた。
その動き、二人はまるで同じ動きをしていた。
二人はお互い誰なのかを確かめるように顔を近づけ、誰なのか認識ができるような位置まで近づいた時、驚きのあまり二人は、後ろに大きく仰け反ってしまった。
まるで鏡を見ているかのようだった。
そう、目の前に居たのは本人、見二本人であった。
お互い何が起こったのか全く理解することができず、ただただ呆然と目の前に居る自分を見つめているだけだった。
その時間は五分、二人は放心状態が続いていたが、ついにアパートの住人である本物の見二が、目の前の自分に向かい言葉を発した。
「なんで?」
目の前に居るのは明らかに自分だ。
目の前に居る自分はこう言った。
「わからない」
いったい、この二人に何が起こったのだろうか……
第三章
劇的な出会いをしてから二人は、どうしても睡眠には勝てず、とりあえずもう一眠りしていたが、やがて夜は明けていった。
朝を迎えてもアパートには見二とそれ以外の見二、見二が二人存在していた。
どこからどう見回しても、どちらが本物の見二なのかさえ判断がつかないほどだ。
朝のボーッとする中「はっ!」突然、本物の見二は洗面所に向かって走って行った。
「やっぱり、そっかぁ」
洗面所の鏡は、見二を映していなかった。
「おまえ鏡の中から出て来たのか?」
「たぶん……そうだと思う。俺も突然のことだったから、よくは分からない」
「そうだよな……でも、鏡の中から出てくるなんて、そんなことがあるのか?」
「わからない、出た方もビックリしていますから」
「そうだよな」
「はい」
「まぁいいよ。そうだ、朝だからコーヒーでも飲むか?」
本物の見二が言った。
「コーヒー? でも……それが何なのか分からない……ありがとう、それ飲んでみる」
鏡の見二が返した。
本物の見二はマグカップを二つ用意して、その上にドリップコーヒーを設定、熱いお湯を上から注いだ。
たちまちコーヒーの良い香りが、部屋の隅々に広がっていった。
鏡の見二が言った「何故なんだろう、この香り、なんだか懐かしい気持ちになる」
「よく言うよ。コーヒーなんて飲んだこともないだろう。ましてや香りが懐かしいだなんて、そんなことある訳がないだろう、絶対にないよ。ほれ、初めてのコーヒーだ、飲んでみな。美味しいぞ」
鏡の見二が一口飲んで一言「……やっぱり懐かしい」と呟いた。
鏡という平面な世界にいた鏡の見二は、鏡という籠の中から飛び出して、この世で立体的な肉体を手に入れることができた。
今までは人の真似をすることだけに生きてきた鏡の中の世界から、自分の意思で動くことができる自由な人生を手に入れることができたのだ。
このアパートの中には見二が二人存在している。
本物の見二はこの現実を受け入れようと試みるが、やはりそんなに簡単なことではないようだ。
「今度はパンを食べてみるか?」
「パン……分からないが、それ食べてみたい」
本物の見二はトースターにパン二枚をセットしタイマーを回した。
今度は部屋の中には、パンが焼ける良い香りが一面に広がった。
「この匂いも、なんだか懐かしい」
また鏡の見二が呟いた。
これをどう考えたら良いのだろうか?
今までは映し出されていただけの見二だが、匂いや味に懐かしさを感じるなんて……
鏡から飛び出して来た見二も、元を正せば見二、考えられるとしたら鏡は写し出すだけでなく、本物の見二が食べていた物や行動まで記憶することができるのだと解釈すれば、何も不思議ではないことになる。
そうなると、懐かしいというのも単に本物の見二の記憶ということになってしまう。
しかし今回の出来事は、あまりにも分からないことが多すぎる。
もうこれ以上、こんなに分からないことが多いことを考えても仕方がないと、二人からは半ば諦めにも似たそんなムードが漂っていた。
複雑で分からないことを、あまり考え過ぎるのはやめておこうとお互い話し合い、その話は一旦終了した。
この日から、どちらも見二という不思議な男同士の二人暮らしがはじまった。
普通に考えてみると、気楽で気ままな独身生活に、突然の同居人が現れたらどうなのだろう。
それが大好きな女性との同棲が始まるならまだしも、男同士の生活で、しかも全く同じ顔をした男との生活がはじまったのだから。
そう考えると、昨日までの暮らしとは明らかに一変したということは間違いがない。
とりあえず考えてしまうのは、今からの生活費は、これまでの二倍になっていくだろうということだった。
そのことを考えると、これからは節約していくしかないのだろうという結論になる。
そうなると……やはり自炊しかない、だろうな。
見二の家の冷蔵庫といえば、冷凍食品かアルコールが入った飲み物ぐらいしか入っていない。
全く自炊などしたことがないが、炊飯器にレンジやガス台、それはなんとかある。
食事はコンビニばかりであまりスーパーなど行かないが、これからはスーパーは必須になってくる。
本物の見二は昼間のうちにスーパーに行って、食料の調達をしなければならないと考えていた。
本物見二も優しいところはあるものだ。
突然目の前に現れてきた同居人だが、この男と一緒に生活ができるよう見二なりにいろいろと考えはじめていたのだ。
ただ、そこには問題もある。
買い物は一人で行くべきなのか、それとも二人で行くべきなのだろうか?
二人で行った場合、アラサーの男同士が二人で、仲良くスーパーで買い物というのはどうなんだろう。
それも同じ顔で、同じ体型の二人が一緒に歩いて野菜なんか買っていたら……いったい周りはどう思うのだろうかと。
あれこれ変な噂が立たないよう、スーパーへの買い物は本物の見二だけが出掛けていくことにした。
昼間は汗ばむような陽気の中、本物の見二はアパートの近くにある、鮮魚が名物のスーパー 日本海を目指してひたすら歩いた。
スーパーに着く頃には、運動不足の見二の顔には大粒の汗が噴き出し、やがてそれは滝となり、見二の顔はびしょ濡れになっていた。
その姿はあまりにも見苦しい姿であった。
昼のご飯もそうだが、今日の晩ご飯は何を食べようかと店内を隅々見て回った。
今日からは一人暮らしではなくなったのだから、メニューを考えるのも一苦労、まるで主婦のようだ。
これまでの生活より食費もかかるようになるため、コストを抑えつつ、満足できるような献立が必要になってくる。
もちろん栄養のバランスも大事だ。
ただ、見二は料理が得意ではない。
今までご飯といえば、コンビニの弁当や近くの弁当屋で買うかもしくは、牛丼屋に寄って食べていた。
だからそれ以上の料理のイメージが全く湧いてこないのだ。
魚が新鮮で有名なスーパー日本海で、カップラーメン、豚肉、玉ねぎ、にんじん、ジャガイモ、それにカレー粉を調達し、昼はラーメン、夜はカレーを作ることに決めた。
カレーはそんなに難しくない料理、ただ野菜等を切って、肉と軽く炒めて煮込み、カレーのルーを加えたらほぼ完成だ。
これなら料理が素人の見二でも作ることができる。
買い物から帰宅した見二は、慣れない手先でカレーの仕込みをおこない、同時に昼ご飯の準備をした。
昼の準備と言っても、ただお湯を沸かして注ぐだけのカップラーメン……「どうだ、美味しいだろう?」
「美味しい」
「夜はカレーを作っているからな」
「カレー? 楽しみにしています」
完成したカレーは、そんなに美味しいと言えるレベルではなかったが、食べられない訳じゃない、そんな程度の仕上がり。
それでも鏡の見二は「カレーって美味しいね」と言って食べてくれた。
そのカレーは結構多めに作ってしまったので、明日の夜も食べることになりそうだ。
今週は連休で明日も休み。
明日は鏡の見二と出掛けてみようと考えていた。
翌日、鏡の見二にはサングラスを掛けさせ、髪型はオールバックにしてもらうなど、軽く変装をしてもらってから本物の見二と二人で出掛けた。
「どうだ初めての外の感じは?」
「んーー、初めてなのかな……やっぱり懐かしいというか、知っているような気がするのは何故だろうか」
「たぶん気のせいだよ、あまり気にするな」
二人が向かっている先は、携帯ショップ。
この二人の関係がいつまで続くのかは分からないが、明日から本物の見二は通常通り会社に行くことになる。
そうなると鏡の見二を一人でアパートに残していくことになるので、何かあった時の連絡手段として、格安のモバイル携帯を渡して置くため購入に訪れたのだ。
携帯を無事に購入し、お昼はファミレスに寄ってハンバーグ定食を食べてアパートに帰宅した。
翌日からの料理担当は、鏡の見二になる。
本物の見二は、鏡の見二にスマホで料理を検索しながら作るように指示をした。
どちらも料理は素人、ここは何とかやり切るしかない。
第四章
翌日、本物の見二は会社に行く。
鏡の見二が現れた後の仕事ぶりも相変わらずのダメダメで、成績は振るうどころか、上司からは拳を振るわれそうな勢いで怒られ、最後には怒りを通り越し「もういい」と呆れられるような状態になった。
最後には呆れてしまった上司も、今日の見二に対する怒りは、さすがにいつもと違い激しいものだった。
本物の見二は考えた「あの上司を見返してやりたいとは思うがどうすれば良いのか……あっ! あれだ!」
思い起こせば見二にもチャンスが訪れていたはずなのだ。
そう、あの大口の取引!
しかし、あれから二週間も経つが全く決定打のないまま時間は過ぎていた。
この状況から考えても、見二の会社には勝算がないと考えるのが普通だ。
更に翌日、課長からの呼び出し……
「おい、深津! あの大口の物件はどうなった? もうあれからニ週間にもなるが、いったい あの取引はどうなっているのだ? もちろん進展しているのだろうな」
「いやぁ……先方からの連絡待ちなのですが、まだ連絡が来ないんですよ。のんびりした会社なので本当に困っちゃいますよ」
「はぁ! 俺の方がお前に困ってしまうわ。お前こそやる気はあるのか!」
見二の余りの馬鹿さ加減に堪らえきれず課長は、見る見るうちに怒りモードに変わり、やがてそれは大噴火した。
二日連続の大爆発。
それはそうだろう、いくらなんでも営業マンの戦術として、相手からの返事待ちのみで、それ以上の作戦は取っていないのだから、余りにも余りにもだ……それはあり得ないことだ。
そんなことでは上司も一気に戦闘モードに入ってしまうはずだよね。
そもそもこの男に、大掛かりな仕事なんて任せてしまったことが大間違いだったのではないのか。
ここから三十分、みっちり、しっかり、パワハラにならぬように、そのラインをギリギリ微妙に保ったまま課長からの指導は続いた。
今回の説教は、もしかしたらパワハラのラインより少し上に出るくらいだったかもしれない。
さすがの見二も、何とか堪えることができてはいたが、心の凹み、それはさすがに大きかっただろうと予測できた。
凹んだ気持ちのままの見二は、その後、先方に電話してみると「まだ思案中」との回答だった。
ただ、先方からは付け加えて言われたことがある……
「御社以外の業者さんからは、あのプレゼン以降もB案、C案と提案されていますが、御社はあの案だけの提案で宜しいでしょうか?」
見二は先方からの返事を待っているだけの無策な作戦、他社は自分の会社を選んでもらえるよう頑張っている、先方から見て熱心さの違いは明らかだった。
そう、この見二から全く感じないのは、間違いなく熱心さなのではないだろうか。
電話を切った後の報告を、課長にしなくてはいけないのだが、あんな内容を言われたということまでは上司には報告できなかった。
それどころか「当社の提案が有力であるそうです」と嘘の報告までおこなってしまった。
今日はもう叱られたくないという一心でついた嘘、たぶん自己防衛が働いたのだろう、そのうちバレるような嘘ではあるが、とりあえず自分を防御してしまった。
その嘘をついたおかげで、十九時には退勤することができた。
それから真っ直ぐ、鏡の見二が待つアパートへと帰って行った。
鏡の見二は料理を作って本物の見二の帰宅を待っていた。
料理はスマホでレシピを検索し、少しずつ勉強しながら作っているが、鏡の見二は腕を上げたのか、見た目も味も中々の状態に仕上がっていた。
今日のメニューは海老マヨ、野菜炒め、それにひじきの煮物だった。
鏡の見二が作った料理を一緒に食べながら本物の見二は、今日の会社での出来事を鏡の見二に愚痴りはじめた。
不動産取引の件は、先方が連絡をくれないのが悪い、他の会社から再度提案があったのに自分に黙っているなんておかしい、課長のあの怒り方、あれでは部下がやる気をなくしてしまうだった。
ほとんどの話は、悪いのは全て向こう側で、自分は全く悪くないとしか聞こえないような話ばかりだっだ。
こんなに自分、自分、自分が可哀そうという話しを聞いて、気分が悪くならない人はいないと思う。
あなたにはプライドや責任感というものがありますか? そう逆に聞いてみたいと思ってしまう。
こんなにつまらない話しを鏡の見二は「大変だね。大丈夫なの」と声をかけている。
自分は何もしてあげることができない、そういうもどかしさがあったのだろうか。
「あっ、そうだ。社会勉強のために明日一日、俺の代わりに会社に行ってみないか」
「えっ、俺が会社に!」
「そうだ、それがいい。毎日アパートに居るだけでは辛いだろう。それに世間を知ることも大事だぞ。俺たち見た目は全て一緒だからバレることもないだろう。今から、明日のための勉強でもしないか」
勝手だとしか言いようがない、そんな本物の見二からの提案を鏡の見二は渋々ながらも「一日だけなら」と受け入れてしまった。
さっきまでは話しを聞くだけで何もしてあげることができないというもどかしさがあったが、これで本物の見二の気持ちを、ほんの少しでも楽にしてあげることができるということであれば、という思いから鏡の見二は少し喜びが湧いたかもしれない。
ここからは、明日、鏡の見二が会社に行けるようにと準備が始まった。
本物の見二は、携帯に保存されている社員の顔写真を見せ、顔と名前を覚えさせたり、会社でとる行動や振る舞い、それに今自分が手掛けている仕事の内容などを大まかに伝えていった。
鏡の見二は、たった一日のことだからと軽い気持ちで聞いていたが、そこは鏡の世界から来た者、いろんな人を真似してきただけのことはあり、短時間ではあったが、ほとんど内容を記憶していった。
本物の見二は明日会社に行かなくてもよくなり、それが気持ちが楽にしたのだろうかお酒をガブカブと飲みはじめ、やがて深酒となり深夜まで夜ふかしをしていた。
鏡の見二は、明日に備えて早めに就寝した。
願うのは今後、本物の見二からいい様に扱われなければ良いのだが……だった。
翌朝、鏡の見二は朝七時に起床し準備をはじめた。
本物の見二はまだ、布団の中でグーグーとイビキをかきながら爆睡していた。
自分の代わりとして会社に行く、鏡の見二に対して失礼としか言いようがない。
そうは言っても見二という男は元々こういう男である。
映って現れた鏡の見二がとても優秀に見え、とても同じ人間とは思えないのだ。
ミスなく無事に任務完了することを心から願っています。
準備を済ませた鏡の見二は、未だ爆睡する当の本人に成り代わりアパートを出たのだが、相手に気遣いをみせながら静かに出勤して行った。
覚えの早い鏡の見二は、電車をスムーズに乗りこなし、先ずは無事会社へと辿り着くことができた。
会社の正面玄関で一言「会社に行くこと、これ、なんだか懐かしい……そんな気がする」
会社の中に入ると、昨日の夜に本物の見二から携帯で見せてもらった顔がそこにはあった。
「おはようございます」と挨拶をして素早くタイムカードをスキャンし課長の席へと向かった。
そして課長の机の前に立ち「おはようございます。本日もよろしくお願いします」と挨拶してから深々とおじぎをした。
課長は今まで見たことがない見二の姿に驚き、目は点になり、やや放心状態のままで「おはようございます」と丁寧に返すのが精一杯だった。
それは周りの社員も同様だった。
「あいつ、どうかしたのか? 頭でも強く打ったのかな?」
社内に居た社員全員に挨拶をすませ、自分の席に着いた。
すぐさまそこに、一年先輩で主任の梅原がやってきた。
「おまえ大丈夫か? 課長に怒られすぎて頭がおかしくなっちまったんじゃないのか? それよりもあの大口の取り引きは大丈夫なのか? うちが有力に進んでいるみたいとは聞いたが、本当にそうなのか? 課長は半信半疑だったがな。なにか手伝ってやろうか」
鏡の見二は一瞬で感じた、本物の見二は会社の人から全く信用されていないのだと。
普段の本物の見二の仕事振りを、肌で感じることになった鏡の見二は、今日一日ではあるが少しでも信頼回復ができるように、今の自分ができる精一杯のことをやってみたいという気持ちになっていた。
「大丈夫です。昼までに再度提案書を作成し、それを本日の午後には会社に届け、できればプレゼンまでおこなって来れたらと思っています」
「そっか、頑張れよ。でもやっぱり、おまえ本当に大丈夫か? こんなにしっかりしている深津を見るのは初めてだからさ、逆に心配になってしまうわ」
「心を入れ替え、頑張ります」
「わかった、困ったことがあったら言ってくれよな」
そう言って梅原主任は自席に戻っていった。
先ずは前回出している提案書の確認からだと、引き出しを開けてビックリ、何がどこに有るのかさえ分からないくらい、ぐちゃぐちゃの机だった。
鏡の見二は、全く整理整頓がなされていない机の引き出しの中から、本物の見二が提案していた不動産の提案書を何とか見つけ出すことができた。
すぐさま提案書の内容を確認し、ビルの管理会社に電話をかけ細かな交渉をおこなったり新たに提案できるような、良い条件の物件はないか探しに探しまくった。
それから、一時間もしないうちに良い物件が見つかった……それも偶然。
場所、広さ、使い勝手、坪単価、どれも申し分ない。
なによりも、ビルの外観がお洒落な造りになっているのだ。
先方が今回考えている移転のコンセプトは、便利さや使い勝手もそうだが、やはり一番の目的は自社のイメージアップに違いないと鏡の見二は考えた。
ただ見つけたこの物件、まだ現在は使用している方がいるのだが、先方が入居を希望している時期までには引き渡しが完了できそうであった。
この物件の解約申し出は昨日あったようだ。
ということは……
競合他社の不動産屋がこの物件を提案していることはないだろうと考えた鏡の見二は、再度提案する物件をこの一物件に絞り、最高の提案書を作成しようと考えた。
それからは超高速で提案書を作成、正午までには完成をさせていった。
内容はとても中身の濃い提案書に仕上がっていた。
提案書を持ち会社を出発、提案先である『ジェットカンパニー』が現在入居しているビルを目指した。
会社を出る前にジェットカンパニーに電話を掛けたのだが、運良く今日は社長が会社に居るそうで、プレゼンのチャンスも十分に期待ができる状態ではあった。
鏡の見二は初日の会社出勤から、ビックチャンスを掴むことができるのだろうか。
しかし、どちらかと言えば期待に胸膨らますというよりは、本物の見二のため、会社のためにやらなければいけないことをやっているという使命感が強かった。
今、鏡の見二は、この取り引きと真っ直ぐ向き合っているだけなのである。
ジェットカンパニーまではあと五分もあれば着く所までやって来た。
そして近くにあったホテルに入り、トイレを借りることにした。
トイレでは鏡の前に立ち、自分の身だしなみを、頭の先から靴の先まで入念にチェックをした。
最後はネクタイをしっかりと上で締め、更に気合を入れ準備が完了、あとはジェットカンパニーに乗り込んで行くだけだ。
短い時間ではあったがジェットカンパニーのことはネットで調べていた。
会社の方向性や考え方、社長の顔までしっかりと頭に叩き込んである。
当然失敗はできない。
ジェットカンパニーに到着すると受付を済ませ、会社の中へと案内されたが、通された場所は会議室のような場所だった。
そこで待っていると、数人の足音がこちらに近づき扉の向こう側で足音は止まった。
三回ノックする音のあと、扉が開いた。
三人入って来たが真ん中に立っている人、それが社長だった。
前回、本物の見二がプレゼンをおこなっているが、その時は社長が不在だったため直接会ってはいなかった。
社長と二人の役員との挨拶を済ませ、鏡の見二のプレゼンは始まった。
鏡の見二のプレゼンは力説するような形ではなかったのだが、彼の一生懸命さと熱意は相手に十分伝わったであろう。
時間にして十五分ほどのプレゼンではあったが、終了後にはおかしなことが起こった。
なぜだろう、役員の反応がもの凄く良いように感じたのだ。
それは鏡の見二の気のせいなのかもしれないが……
しかし、その答えは直ぐに出た。
正面の真ん中の席でプレゼンを聞いていた人、社長がこう口を開いた。
「深津さん良い提案をありがとう。各社からたくさんの提案書が出ているが、今日の物件が一番の提案だと思う。これからその物件を見に行きたいのだが、どうだろう?」
「はい、すぐ先方に確認をしてみます」
そう言ってビルを管理している管理会社に電話をした。
その物件はまだ入居中ではあったが、管理会社が入居者に確認をしてくれた結果、内覧が可能となった。
社長にそのことを伝えたところ、即本日の内覧が決まり、社長は自身の運転手に電話をかけ直ぐに車の手配をするよう指示を出していた。
そして社長は鏡の見二に向かって「あなたも私の車に乗っていきなさい」と言ってくれたのだ。
隣にいた役員の一人も電話をかけ、自身の運転手に車の手配を依頼していた。
手配された車は、見二が一生かけても手に入れることができないような高級車だった。
社長の高級車に乗せてもらい、提案をおこなったビルまで向かった。
ビルまでは車で十分程度の時間だったが、社長は穏やかで偉ぶる姿もなく、見二に優しい言葉をたくさんかけてくれた。
見二はこんな人になりたいと、あこがれを抱いてしまうほどだった。
ビル到着後は管理会社の案内で、提案していたスペースを確認することができた。
内覧を終えたあと、再びジェットカンパニーの事務所まで戻る社長の車の中で社長が言った。
「今日見せてもらった物件、契約に向け手続きをしていきたいと思っています。書類での手続きはいつになるのかを確認して連絡が欲しい」
「ありがとうございます。早急に確認し日程等をご相談させていただきます。先ずはお申込みのお手続きになりますが、私はこれから会社に戻り、申込書を作成後メールでお送りいたします。内容をご確認の上、署名捺印後にPDFにてご返送いただけますでしょうか」
「わかりました。深津さんはとても熱意があり信頼できる方でした。私が御社と契約することを決めたのも、そこが一番ですよ。これからもよろしくお願いしますね」
思いもよらない言葉をかけられた。
この言葉をかけられた瞬間、今日一日だけの仕事ということではなく、この物件が無事に引き渡しが終わるまで自分が責任を持って対応していきたいと思った。
「ありがとうございます。今後もご満足いただけるような対応を心がけて参りますので、どうかよろしくお願い致します」
鏡の見二はとても気持ちが良かったが、同時に責任の重さも感じていた。
絶対に期待を裏切るようなことがあってはならないという責任を感じたのだ。
会社に戻った鏡の見二は早速、約束していた申込書をメールに添付して送信し、今日の結果を課長に報告した。
課長は、あの前日からの進展ぶりに頭の中がついていくことができず、思わずその場でフリーズしてしまった。
課長は絞り出すような声で一言「おめでとう」と言った。
「ありがとうございます。私はやらなければいけないことがまだまだ有りますので、これで失礼いたします」
鏡の見二は自分の席に戻り、業者とのやり取りをはじめた。
課長という立場から見た場合、いつもいい加減で仕事が全くできていなかった社員が、仕事ができるようになるということは喜ばしいことではなあるのだが、昨日までの見二と、今日の見二ではあまりにもギャップが大きすぎるので、全く理解できていない状態になったのだ。
「やっぱり、あいつなんか変だ。なにか変なものでも食べたのか?」
素直に喜んでもらえない見二は可哀想としか言えないが、これまでのことを考えると致し方ないのかも知れない。
この日は、夜の九時過ぎまで会社に残り、ジェットカンパニーとの契約に向けての書類作成と打ち合わせをおこない、およその資料作成が終了した。
そこから本物の見二が待つアパートへと帰宅して行った。
本物の見二は、ネットを検索しながら一生懸命、試行錯誤しながら手料理をこしらえ鏡の見二を待っていたが、あまりに鏡の見二の帰宅が遅いことから「まだ帰って来ないのか」とイライラしながら時間を過ごしていた。
「遅い! せっかく作った料理が冷めてしまう! あいつは何をしているのだ。今日は会社の初日だぞ。やっぱり頼んだのが失敗だったかな、ミスして課長に怒られているのだろうか」
遅い鏡の見二に対して、勝手な想像ばかりしている本物の見二だった。
鏡の見二が帰宅したのは二十二時前だった。
「ただいま」
「遅い! ミスでもしたのか?」
ただいまに対しての第一声がこれだ……ひどい話だ。
自分の代わりに会社に行ってもらっておいて、そんな言い方はないだろう。
「大丈夫だったよ。あの取り引き、契約することになった。その書類作成で遅くなってしまった」
「えっ? どういうことだ?」
「そういうこと、俺は営業に向いているのかもしれないね」
「俺が用意した、あの物件で契約になるのか?」
「違う違う、先方には今日、新たな物件を提案してプレゼンをおこなってきた。その物件を気に入ってもらうことができ契約になることになった」
「そっか、そうなんだ、ありがとう。まあ立ち話もなんだから中に入って休んでくれよ、料理も作ってあるんだから」
本物の見二は良い結果を聞いて、まるで手のひらを返したような対応に変わった。
上機嫌で料理をテーブルに並べた本物の見二は、鏡の見二をねぎらうように、食べなさい食べなさいのオンパレードだった。
その料理に箸をつけた鏡の見二は、ある違和感を感じる。
それは箸を左手に持ち料理を食べようとした瞬間のことだった。
「違う、俺は右利き……だよな」
そこに本物の見二が「鏡の中から出てきた俺なのだから、左利きに決まっているでしょう。だって俺の真似をしている真似っこなのだから」
「いや違う! 俺、昔は右利きだった気がする。間違いない!」
「お前、会社で頭でもぶつけたのか?」
「違う、右利きだ」
そう言って左から右へと箸を持ち変えて料理を食べはじめた。
最初に箸をつけた料理は、カツの玉子とじ。
「やっぱり右手で食べる方がしっくりくる」
「そっか、まぁどちらでもいいんじゃない。たくさん食べてくれよな。俺も食べよう」
鏡の見二の帰るまで食べずに待っていた本物の見二、そこは全く常識がない訳ではないようだ。
料理は五品も作っていた。
料理を食べながら話とビールは進み、今日一日の出来事に対して本物の見二は「そうか」と感心しながら耳を傾けていた。
そして鏡の見二は「お願いがある」と本物の見二に切り出した。
「今回のこの取り引き、引き渡しが完了するまで俺にやらせてもらえないだろうか」
「えっ、俺の代わりとして、しばらく会社に行くというのか」
「そう、この仕事を最後までやり遂げたいのだよ」
「お前がそれで良いのならそれでいいけど。だけど仕事でヘマをしないようにしてくれよな。俺の顔に泥を塗るようなことだけはやめてくれよな」
どの口が言っているのだろうか。
実績などは全くなく、仕事ではヘマばかりのオンパレードで、怒られてばかりいるくせに「俺の顔に泥を塗るな」だ、何を言っているのだろう。
既にお前の顔など泥に覆われていて、どこも見えていやしないくせに。
そこを鏡の見二が挽回して、やっと少しだけ顔が見えはじめたところなのに……本末転倒だ。
それでも鏡の見二は笑顔で「わかったよ、ありがとう」と答えた。
このままずっと、鏡の見二が会社に行けば良いのだろうが、それでは本物の見二は無職になってしまう。
その姿が見えるようだ、毎日ぐうタラし放題の本物の見二の姿が。
この生活はいつまで続くのだろうか。
第五章
翌朝も、前日の朝のような光景が繰り返されていた。
今日も静かに準備を済ませた鏡の見二は、本物の見二を起こさないように最小限の音でアパートから出掛けて行った。
会社に着いた見二は、今日も丁寧に挨拶をして回り自分の席に着いた。
そして昨日先方に送った、申込書のメール返信が来ているか確認をした。
「あっ、来ている」
見二は返信があるということは間違いないと思ってはいたが、それを自分の目で確認することができてホッとしていた。
その後は契約締結に向けての仕事が満載、不動産を管理する会社に出向き、契約書の作成に向けて動き出した。
しかしこれだけで終わらないのが鏡の見二、今回のこの件を進めながら、空いた時間で得意先回りや新規の開拓をしっかりとおこなっていた。
本物の見二とはまるで大違い、仕事熱心で何よりも真面目な人間なのだ。
「営業? もしかして俺は昔、こんな仕事をしていたのかもしれない」
何の抵抗もなく、順調に進んでいく仕事振りをみていると、本当に昔は営業マンだったのかも、そう思えてくる。
ただ……昔ってなんだ? そんな疑問がまた湧いてきた。
それは鏡の見二も一緒だった。
一通りの仕事を終え会社に戻った見二、課長に今日の報告をしたあと、契約書の作成に取り掛かった。
昨日から始まったこの珍しい光景を、目の当たりにしている課長はこう思っていた。
「あいつ、頭をぶつけた場所が良かったのかもな」
課長は、毎日恒例のようにやって来ていたイライラが、この二日間は嘘のように消えていった。
また見二が、元に見二に戻らないことだけを祈りながら過ごす課長だった。
仕事を終えた鏡の見二は、本物の見二が待つアパートに帰って行った。
鏡の見二を待っていたのは、のんびり休んで、たっぷりとリフレッシュした本物の見二と、テーブルに並べられた、たくさんの料理だった。
鏡の見二は、その料理を食べてお腹を満たし、風呂に入り身体を癒し、明日もハードな仕事に立ち向かって行くのだろう。
見二が二人という生活が始まってから、早くも一週間が経った……
買い物に行く以外は、毎日アパートでゴロゴロしている本物の見二は、体型が少しふっくらとしてきているように見えた。
鏡の見二は「なぁ、アルバイトでもしたらどう」と声を掛けるくらいだった。
二人は同じ人物のはずだが、性格はまるで違う、唯一同じだった見た目も今は、同じ人物だとは思えないようになってきていた。
今日はジェットカンパニーと契約書を交わす日である。
鏡の見二は、契約を交わす緊張よりも、ワクワクする気持ちが勝っているのか笑顔でアパートから出掛けて行った。
鏡の見二の会社での評価はうなぎ登りに上がり、今やすっかり信頼される社員になっていた。
でも課長だけは違った、また変なショックが加わって、元に戻ってしまわないかと心配で仕方がなかった。
本日の十三時から始まったジェットカンパニーとの契約業務は、十五時より少し前に無事完了した。
契約が完了したことを課長に電話で報告した鏡の見二、電話の向こう側で課長は「おめでとう」と一言、その声は涙声であった。
課長は本当に嬉しかったのだと思う。
出来の悪い社員ほど可愛い者なのかも知れない。
大型の契約を決めた鏡の見二だが、無駄な時間を作りたくないと、その足で外回りをはじめた。
今日ジェットカンパニーと交わした、物件の引き渡しは一ヶ月後、それが済んだら本物の見二と入れ替わる約束になっているが、それで本当に大丈夫なのだろうか……会社にとって。
ここまで信頼されるようになった深津見二から、周りから全く信頼されていなかった深津見二に、もし変わってしまったら、いったいどうなってしまうのだろうか。
優秀な鏡の見二は、本日の外回りからまた新たな受注を手に入れていた。
「やっぱり昔、営業をしていたのだと思う。なんだか昔やっていた営業のコツを思い出してきているような気がする。今はそんな感覚だ」
鏡の見二は更に、進化したようだった。
外回りを終えて会社に戻る道中、一戸建ての建築がおこなわれている建築現場に遭遇した。
何故だろう……その光景がとても懐かしく思えて、とても興味が惹かれてしまった。
鏡の見二はその現場の前でしばらく足を止め、それをじっと見ていた。
「なんだ、この懐かしさ」
なんだか分からないが、懐かしさからくるものなのか、急に胸が痛いというよりは、苦しくなってきた。
その時に出た言葉「俺、まだまだ頑張らなくては……絶対に、なまくらなんてしちゃいけないんだ」だった。
どんな意味があると言うのだろうか。
鏡の見二は何かを思い出すというところまではいかないが、何とも言えないもどかしさを感じた瞬間だった。
鏡の見二は日々、自分というものをどんどん持ちはじめ、いったい自分は誰なんだろう、自分っていったい何なのだろうと自問するようになっていた。
その中で感じたこと……
『自分は元から見二ではなく、別の人生を歩んでいたのではないのだろうか』
『もう一つの人生では営業マンだったのでは』
『昔は右利きだったはず』
『一戸建ての建築現場を見ると懐かしくなり、そして胸が苦しくなる』だった。
この一つひとつの点が線となり、それが繋がっていくとき、本当の自分とはいったい誰なのかということを知ることになるのではないかと感じていた。
とにかく与えられた今の人生、それを一生懸命に生きてみよう、そう決意した瞬間でもあった。
第六章
自分はいったい誰なのか? そんな疑問を抱えながら、今日もアパートに帰って来たが、そこにはいつもと変わらない光景があった。
「おめでとう! たくさんの料理を用意してあるから食べてくれ」
本物の見二は満面の笑みで迎えてくれた。
嬉しさ半分、情けなさ半分、引き渡しが終われば、この情けない見二と入れ替わることになる。
そうなると鏡の見二は、いったいどうなってしまうのだろう。
そうなると鏡の中に戻ってしまうのだろか、それとも、本物の見二みたいなニート的な暮らしをすることになるのだろうか。
どちらにしても嫌な生活であることには間違いがない。
不動産の仕事は自分に合っている、このままこの世界で働き続けることはできないのだろか、いっそうのこと本物の見二が鏡の中に戻ればいいのではとまで考えるようになっていた。
お酒と料理を頂いた二人は、それぞれ布団に入り眠りについた。
その夜鏡の見二は、この世界に来て初めて夢を見た。
その夢は一見何でもないような夢だったが、目が覚めるころにはなぜだろう、心や気持ちがとても辛くなるような夢だった。
その夢の内容はこうだった。
一人の男が普通に生活する様子が映し出されているものだった。
その男は見二でもなく、会社の人でもない、全く知らない男だった。
なぜ知らない男が夢に出てきたのかは、鏡の見二にもわからない。
男は本物の見二と同じく、会社で上司から説教を受けていた。
きっと仕事ができない男なのだということは理解ができた。
『もっと真面目にやりなさい』とか『なぜ、今月も売り上げがゼロなんだ』など、かなり低レベルな叱られ方をしているものだった。
この男も昔はそこそこの売り上げを出していたようだが、最近は会社に顔を出したあとは、外回りに行くと言って会社から出掛けていくと、競馬場やパチンコ店に入り浸るという生活を送っていた。
ギャンブルで簡単にお金が入ってくる楽さを覚えてしまったことから、真面目に働くことがバカらしくなってきているようだ。
パチンコでは、一日で最高 二十万も儲けた日があったり、競馬は万馬券を当てるなどしていた。
仕事で貰える給料は最低金額であったとしても、競馬やパチンコで穴埋めができれば問題ないと考えていたようだ。
それにギャンブルが楽しいともなれば、人は楽な方、楽な方へと流れていくのが世の常だ、間違いなくこの男もそうだったのであろう。
今日の昼間に見た建築現場がとても印象的だったのか、夢の中にも建築中の家が出てきた。
そのあと男は、お客様のお宅にお邪魔をして、一戸建ての家を建築するための打ち合わせをおこなっていた。
どうやらこの男はハウスメーカーに勤める営業マンのようだ。
仕事振りは丁寧かつ正確で、常にお客様目線に立ち誠実に仕事はおこなわれていて、お客様からはとても信頼されていたようだ。
この男はギャンブルなどすることなく、真面目に働いていてさえすれば、間違いなくトップの成績を出せる人ではないかと思った。
夢というものはとても展開が早いものだ。
建てはじめたばかりの家がほぼ完成状態にまで進んでいた。
その時、鏡の見二はあの男の変化に気づいた。
先程までの男と、同じ人間だとは思えないくらい朝から晩まで一生懸命働く男の姿があった。
それと、前の男にはあった首の後ろのホクロ、今の男にはそれがなくなっていた。
ホクロ以外の姿形は同一人物であると思うのだが、鏡の見二から見て明らかに別人だと感じていた。
そしてこの夢は終盤を迎える……この夢の終わりは意外にもあっけない終わり方をする。
この男はその後も心を入れ替えたかのように働き、そして素晴らしい成績を上げ、どんどん出世していくハッピーエンドで終わるものだった。
鏡の見二は再度その夢の内容を思い出しながら、通勤する電車の中で体を揺らしていた。
突然、鏡の見二は体の痒みに襲われ首の後ろに手を伸ばした。
「んっ?」
見二の首には少し膨らんだデキモノのような感触があった。
とても気になるが、今は満員に近いほど人がいる電車の中、鏡の見二は降りた駅のトイレで確認することにした。
虫にでも刺されたのかな……もしかしたらダニ? あいつ掃除とかしているのかな? なんて考えていた。
駅のトイレに入り、入り口にある鏡で確認しようとするが、デキモノは首の真後ろにあるため見ることができない。
仕方がないとそのまま会社に向かった鏡の見二は、会社に着くなり女性社員の元に駆け寄り、その社員にお願いして手鏡を借りた。
トイレの鏡の前で合わせ鏡にし、首のデキモノを確認してみた。
「えーー!」
夢で見たダメダメ男と同じ位置、それも同じ大きさのホクロがそこにはあった。
「何故だ? 何かあの夢と関係でもあるというのか?」
あの夢を見たからできたのだろうか、それとも始めからあったものなのだろうか……
気になることは、まだ他にもあった。
それは、このホクロが本物の見二にもあるのかだろうか? ということだった。
気になることは沢山あったものの、鏡の見二は気持ちを切り替え、外回りの営業へ出発して行った。
しばらくは珍しかった真面目な深津見二の会社での光景は、次第に当たり前の光景へと変わっていった。
社内では、真面目な見二の姿に違和感がなくなっていた。
外に出た後も仕事をサボることなど全く無い。
新規開拓と受注をいただくため、コツコツと営業活動に励んでいた。
鏡の見二の一生懸命な姿、そこからは自然と信頼というものが生まれてくるものだ。
鏡の見二は信頼を勝ち取り、今日も実績を上げることができていた。
毎日のように成果を上げて帰社する深津見二の姿は、もはや当たり前の光景になっていた。
社内からの信頼も上り「おめでとう」と響き渡る課長の声は毎日の恒例となり、もはや見二の独壇場のようなものでもあった。
会社ではこのようなことが、一ヶ月間も続いた……
いよいよ本日がジェットカンパニーへの物件の引き渡し日である。
先ずは目標としてやってきた日である。
ジェットカンパニーの社長と挨拶を交わし、その後は引き渡しを段取り良くおこなっていった。
ここからは、約二ヶ月間掛けて内装工事がおこなわれる。
今回のこの契約には二ヶ月間のフリーレントが設定されている。
だから内装工事期間中は家賃の発生がない仕組みで、これも鏡の見二が提案したものであった。
ジェットカンパニーへの引き渡しは無事に終了して、ひと安心の見二、今後、本物の見二との関係はどうなっていくのだろうか。
帰宅した鏡の見二は、本物の見二に今日の報告をした。
「そうか、やったな! 凄いじゃないか」
今回の成果を心から喜んでいる。
「このまま、お前が会社に行った方が良いかもな」
鏡の見二もそう思っているだろう。
しかし、いつまでも同じ人間が、それも同時にこの世で存在する生活がいつまでも続くとは、二人とも思ってはいないはずだ。
いずれ鏡の中に入るとなると、いったいどちらになるのだろう。
本物の見二はこう思っているだろう。
元々は自分がこの世に存在し、そして実際に生活をしていたのだから残るのは自分で、戻るのは鏡の中から出てきた見二だろうと……
内心、鏡の見二もそう思っていた。
鏡の見二は後から出てきたコピー人間みたいなものだが、この時点で本物の見二を完全に超えている。
更に見た目だ、本物の見二は鏡の見二と出会う前と比べて、なんと十キロも太ってしまっていた。
深津見二という人間を知っている者の前に、この二人が並んで立つようなことがあれば、いったいどのような判定が下されるのだろうか?
間違いなく鏡の見二が本物だという風になるのだろう。
「なあ、ちょっと太りすぎじゃないか。もし明日からお前が会社に行くようになった場合、会社のみんなはパニックになってしまうのじゃないか? 代わるなら、もう少し痩せてからにした方が良いのでは」
「でも、もうそろそろ俺が会社に行かないといけないのでは……いろいろと心配なんだよ」
どの口が言っているのだ。
何をやってもダメダメだった本物の見二、その見二が起こした数々のミスを、鏡の見二がどれだけカバーし修正してきたと思っているのだ。
それだけじゃない、コツコツ営業廻りもして、今じゃ誰からも信頼される人間になったのに、もうそろそろ自分が会社に行かないといけない、よくそんな事が言えたもんだ。
「明日からダイエットします。体重が元に戻るまではこのままにしようか」
本物の見二が折れた形だった。
明日からは無期限の出社になった鏡の見二。
期限が無い訳ではないが、本物の見二はダイエットに励み、元の体型に戻るまではこのままとなった。
鏡の見二は真面目で努力家、本物の見二はその真逆な性格である。
今では見た目にも違いが出てきているというよりは、もはや別人である。
鏡の見二は明日も会社に行くことになった。
会社にとってはその方が良いのだろうと思う。
翌日、出社してきたばかりの見二に課長が声を掛けた。
「深津、少しだけ時間いいか?」
「大丈夫です」
ここで頭をよぎったのは、本物の見二がよく言っていた言葉……
「課長に呼び出される時は、嫌な話か怒られる時だ。呼び出しなんてものはそんなもんだ」
そんな言葉が頭に残っており、次第に鏡の見二のテンションは谷底へと落ちていった。
『やっぱり嫌な話なのかな……もしかして、昨日のジェットカンパニーの引き渡しで何かあったのかな? やっぱり無かったことにして欲しいと言ってきたのか? それとも昨日の新規開拓からのクレーム?』
そんなことが頭の中でグルグルと渦巻いていた。
「なぁ深津、最近のお前の働き振りとその成果には本当に頭が下がるよ、ありがとう。前とは別人のようだ。そこでだ、深津に頼みたいことがある。本社からあるプロジェクトの依頼を受けている。そのリーダーにお前を推薦したいと思うのだがどうだ、お願いできるか?」
「私がですか!」
「そうだ、今のお前に頼みたい」
「街の中心部に建設中のサンクラウドビルだが、うちが一手に引き受けることが決まった。そこの土台作りと個々のテナントの契約までを、リーダーとしてやって欲しい」
「わかりました。全力で取り組んでみます」
「頼むよ」
全く想像もしていなかったような話だった。
そのプロジェクトは、軽く一年は掛かるような大仕事だった。
どんな事情があったのかは知らないが、こんなタイミングで飛び込んできた話だった。
先ずはサンクラウドビルのことを調べることからはじまった。
この話を聞いた本物の見二は……
「凄いな! なんだよ、お前への信頼は本物だな。俺が会社に戻るようになるまでには土台作りを頼むな」
「軽く一年は掛かると思うけど」
「大丈夫! いいとこまでやってくれたら途中で代わっても問題はないよ」
「痩せることが条件だが」
「知っているよ、今日はたくさん歩いた。これを続けたら直ぐに痩せるよ」
鏡の見二は内心、このままで良いと思っていた。
本物の見二が痩せることなど、全く望んではいなかった。
鏡の見二は、仕事に対して一生懸命取り組んでいる自分に、ふと思うことがあった、何だか昔の忘れ物を取りに来ているような、そんな気持ちになることがある。
とにかく頑張らなくてはいけない、なぜだか使命感のようなものを感じていた。
第七章
プロジェクト発足から三ヶ月が経った……
鏡の見二は依然リーダーとして任務を遂行していた。
当初の予想よりも仕事は順調に進み、そこには見二の力が十分に発揮されていた。
アシスタントとして三人の部下を従えていたが、人を動かすことも上手にできていて評判も良ったことから、課長も大いに評価してくれていた。
その評価は直ぐ形となって現れた。
先月の人事で主任に出世していたのだ。
「課長ありがとうございます。課長がチャンスを与えてくれたお陰です」
「期待以上のことをやってくれていることに感謝するよ。これからが本番だ、一層の働きに期待している」
「しっかりと進めて参ります」
そしてサンクラウドビルのテナント入居募集がはじまった。
駅前の一等地に建ったこのビルは、賃料の設定がとても高い。
それは見二が強気の設定をおこなったからだ。
果たしてこのテナントが、値引き無しで全て埋まるかはどうかは、見二の腕次第といったところだ。
見二は会社から期待されている以上の成果を出し貢献したいと思っていた。
鏡の見二は日々スキルを高め、着実に信頼を積み上げている。
一方、本物の見二はと言えば痩せるどころか、更にボリュームが増したのではと疑ってしまうほどの身体つきになっていた。
毎日のウォーキングは欠かさないものの、夜に飲む大量のビールとボリュームあるおつまみのオンパレードでは痩せる訳などない。
見方を変えれば完全なるニート。
「なあ、今月から給料の振込額が多くなっていたが、先月から給料が上がったのか?」
「そうだよ」
「まさか、出世でもしたのか?」
「うん」
「凄いじゃないか! それで役職はなんだ?」
「主任だよ」
「なんだ主任かよ。もっと上かと思った。もっと頑張らなきゃだな」
こいつはバカなのだろうか。
鏡の見二が会社に行っていなければ、お前なんて万年平社員だっただろうに。
そんな本物の見二になんて言われたくないセリフだ。
鏡の見二は今に見てろ、そんな気持ちだったに違いない。
プロジェクト開始から半年後……
部下は三人から七人増え、十人の仲間と一緒にプロジェクトに取り組んでいた。
プロジェクトは予定よりもかなり早いペースで進み、顧客の獲得も順調に進んでいる。
そのため賃借料も高価格設定のままで取り引きがされていたので、利益も予想以上に出る計算である。
こうしたことは、さらなる評価を得ることとなり、先の主任への出世に続き今度は係長へと昇進を果たした。
この頃から鏡の見二は、昔の新たな記憶ではないかと思われるような映像を見るようになっていた。
それは頭の中に浮かんできたり、目の前で光のフラッシュが起きて、それが映像として映し出されたり、それらは度々鏡の見二に起きていた。
その内容というのは……
その不思議な現象も、同じ背格好で同じ顔の男性二人が出てくるものだった。
ただ映し出される人物は、やはり自分でも見二でもない人物だが、今の自分達と同じように片方だけが会社に行っているようだった。
あの時の、あの夢の二人のようだ。
「お前、そんなに仕事が嫌なら俺が行ってやるよ。俺は一生懸命やって新しい人生を手に入れたい」
「何を言っているのだ、所詮、鏡の中から出てきた真似っこのくせに。おおやってみろ、所詮、お前は俺だよ」
「見ていろ」
そんなことが頭の中で映し出されていた。
目の前のフラッシュでは、二人のうち一人が暴れながら、眩しい光の中へと吸い込まれるように消えていくというものだった。
フラッシュした時は一瞬、視力を失うくらいの光を感じるのだが、視力は徐々に回復し、そのあと鏡の見二の目の前にはいつもの景色だけが広がっていた。
光の時はいつもそのような状態になる。
もしかしたら、自分の本当の過去を解き明かすヒントなのかもしれない、あるいは余りにも衝撃的な出来事であったことから、記憶の中に擦り込まれてしまった映像なのかもしれないと考えた。
映し出される映像の状況と、自分と見二との今の生活がとても酷似していた。
もしかしたら、今は本物の見二と鏡の見二、二人が同じ世界で同時に生活をしているが、もしかしたらこれは許されるものではなく、やはりいずれはどちらかが鏡の中の世界に戻らなくてはいけないのかもしれない。
じゃあ、どちらが帰ることになるのだろう……そして、それは、いつ起こるのだ。
普通に考えると、元々は鏡の中からやってきた自分が鏡の中に帰るというのが当たり前なのだろうが、映し出された映像は少し違っているような気がした。
気になることは多々あるが、今はとにかく目の前にあるプロジェクトに専念しようと、鏡の見二は頭の中を切り替えていった。
係長に昇進し、更に責任が重くなったのだから。
仕事を終え帰宅した鏡の見二を待っていたのは、相変わらず痩せることができない本物の見二だった。
今日は昼間から飲んでいたのだろうか、キッチンにはビールの空き缶が七本も並んでいた。
そんなこんなで本物の見二はご機嫌な状態で話してくるのは良いが、目はすわり、ろれつは回っていない。
しかし、そんな状態であっても、鏡の見二の晩ご飯はしっかりと作ってあった。
そこは大したものだとは思うが、鏡の見二に作ったご飯よりも遥かに多い量の料理を食べているから、本物の見二は一向に痩せる気配はない。
挙句の果てに「痩せなくても良いかなと思ってきた」だって、どこまでも意志の弱い本物の見二だった。
そうだよな、所詮は見二なんだから仕方がない。
本物の見二は会社に復帰することを諦めたのだろうか。
そのとき本物の見二が気づいた、いつもよりも機嫌が良さそうな鏡の見二の姿に、そして鏡の見二に向かってこう言った。
「今日は何か良いことでもあったのか?」
「わかりますか? そう、あったよ」
「なんだよ、もったいぶらずに早く教えてくれよ」
「係長に昇進した」
「凄いじゃないか! また出世したのか。ビックリだよ」
「そっちは一向に痩せないし、こっちは仕事にやりがいを感じている。もちろん評価も付いてきている。なあ、このままでも良いんじゃないのか?」
「バカ言うなよ! なんでお前が、ずっと俺になっていなきゃいけないんだよ。そんなことは絶対にあり得ない! 痩せるのには、もう少し時間が掛るとは思うが、そうなったら入れ替わりだ」
この世に鏡の見二が現れてから、ちょうど一年を迎えようとしていた時期だった。
不思議なこの二人の関係は、あとどのくらい続いていくのだろうか?
「頑張って痩せてくださいね。それまでは頑張ります」
もしも本物の見二が痩せることができたとしたら、鏡の見二は他の会社で働けば良いと思っていた。
ただ細かいことはその時に考えることにしようと後回しにした。
係長となった見二の見込み年収は、約七百万にまで上がっていった。
本物見二が働いていた頃と比べて、二百万もアップさせていたのだ。
それもたった一年で。
明日のスケジュールもビッシリと入っていたことから、鏡の見二は早めに就寝した。
鏡の見二が手掛けているプロジェクトもいよいよ終盤を迎えようとしていた。
全てのテナントに借り手が付いた。
三ヶ月後にはオープンの日を迎えることになる。
無事にオープンを迎えることができ、その後の運営に問題なければ、その後を管理する子会社に引き渡すことができれば、このプロジェクトは大成功で終了することになる。
そうなれば見二は、更なる出世の道が開かれることになるかも知れない。
鏡の見二は、本物の見二と入れ替わるまでの代打のようなものだったが、その代打の仕事は一切手を抜かない素晴らしい代打であったといえる。
三ヶ月後、無事引き渡しも終わり鏡の見二は、プロジェクトに取り組む以前の職場へと戻っていった。
しかし一年以上前の職場とは明らかに違っていたのは、係長という管理職のポジションで戻って来たことだ。
「おう深津、凄いな! あんな大きな仕事をやってのけるなんて! お前は大したもんだよ」
「ありがとうございます。課長は私を見捨てることなく、粘り強く指導していただいたお陰です、感謝しております」
「嬉しいな、そんなこと言ってくれるなんて。ある時期から、お前は覚醒でもしたかのように成果を上げていった。その結果が係長だ、俺も嬉しい限りだよ」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくな」
課長は本当に嬉しかったのだろう。
しかし見二の評価はこれで留まらなかった。
それは本社からの評判も上がっていたからだ。
課題に対して計画性を持ち、自分に与えられたスタッフを一つにまとめあげ、チームとして最大限の力を発揮し、素晴らしい成果に上げたことに対してだ。
本社は考えていた、いづれ見二には一つの支店を任せてみたいと。
係長として仕事に就いた鏡の見二は、四人の営業と毎月の売上目標を目指すことになった。
その目標額は見二の意向で、会社が求めていた売上指標よりもかなり高く設定されていた。
見二は目標を高く置くことで、自分を甘えさせない環境を作ること、それと自分を評価してくれた会社に対して少しでも恩返しがしたいという想い、それとあとは、もっと成長していきたいという志しからであった。
夢やフラッシュから感じた不思議な想い、そこからは絶対に怠けてはいけないと言われているような気がしていた。
元の職場に戻ってから早くも三ヶ月が過ぎた。
この三ヶ月間、自分が立てた目標に対しては全てクリアを果たしていた。
それも大幅に上回っていたのだからさすがとしか言いようがない。
部下である営業には、効率良く仕事をおこなっていく方法と、営業トークの言い回しなど、数々の営業のテクニックを教えていた。
この中でも一番効果が感じられたのは、部下達が仕事をしやすい環境をしっかり作っていたことだ。
報·連·相がしやすい環境、あとは多く褒める、それと気分的に沈むようなことが起きた時は、職場の雰囲気を明るくしていたこと、それに、鏡の見二はしっかり部下を見てあげていたことだ。
周りの部署から聞こえてくる声は、見二の部署に移りたいという声だった。
そんな頃、本社の部長から電話が掛かってきた。
係長になってからはそんなに珍しいことではないのだが、この日は少し様子が違っていた。
「お疲れ様、相変わらず頑張っているな。本社も深津のことは注目して見ているよ。なあ深津、今、周りに誰か居るか?」
「あっ、はい」
「じゃあ会社の携帯に電話するので、人が居ない場所に行ってくれないか」
「わかりました。携帯持って直ぐに移動します」
「ありがとう、十分後に電話するから」
そう言って部長からの電話は切れた。
見二は会社から外に出て、社員が周りに居ないか見ながら、更に人けの少ない場所に行って部長からの電話を待った。
十分後に電話が鳴った。
「悪いな深津、忙しいのにな」
「大丈夫ですが、どうかされましたか?」
「深津に伝えたいことがあるのだ」
「はい、何でしょうか」
見二は緊張していた、何を言われるのだろうか、全く見当がついていなかったからだ。
そこから部長が発した言葉は……
「深津、広島へ行ってくれないか。課長として」
「私が、ですか? 課長として?」
「そうだ。お前の力が必要なのだ」
「本当に私でよろしいのでしょうか」
「お前に頼みたい」
「わかりました。お受けさせていただきます」
「良かった、ありがとう深津」
「ところで異動はいつからでしょうか?」
「来月の一日からの着任でお願いしたい」
「わかりました。私は部下達に対して、どのような対応をしたらよろしいでしょうか?」
「三日後、人事に関する異動の発表がある。それまでこの事は黙っていて欲しい」
「わかりました」
この日から三日間、見二は辛い日が続くことになる。
異動することを黙っているのは、部下を騙しているような気がしたからだ。
そんな辛く長い三日間が明けた。
ついに人事異動の発表の日がきた。
出勤して一時間後の午前十時にその発表はあった。
「えっーー! 嘘でしょう! 係長、広島支店に行ってしまうのですか」
「すまん、そういうことになった」
「係長はいつから知っていたのですか」
「三日前だ、それは本社から発表があるまでは誰にも言うなと口止めをされていた。すまん、申し訳ない」
「係長は私達のことを本当によく見てくれていていました。毎日、感謝の言葉や励ましの言葉をたくさん貰っていました。熱心に私達のことを想い、行動してくれていたので、とても仕事がやりやすかった。みんな係長のために頑張ろうという気持ちになり頑張ることができました。だから、だから、とても寂しい気持ちです」
「何よりも嬉しい言葉だよ、ありがとう」
来月からは広島支店の課長となる。
課長に出世することはもちろん嬉しいことだが、その道には希望と不安、そして責任、いろんな道が交差した複雑な道であることは鏡の見ニもよく分かっていた。
ただ立ち止まる訳にはいかない。
先ずはチャンスを掴むことができたことには間違いがない。
このチャンスを生かすも殺すも、鏡の見二の頑張りに掛かっている。
これからは色々やらなくてはいけないことがたくさんある。
広島で住むアパートを探したり、引っ越しの手配だったりと、慌ただしい日々が続きそうだ。
「えっ! 引っ越し?あの家にいる見二と一緒に?そうだよな、そうなるよな……」
鏡の見二の頭の中では、自問自答が繰り返されていた。
家に帰るとあいつにも説明しなくてはいけない、そんな面倒な作業まで考えてしまうものだ。
広島支店の初出勤の日までは、あと二十日、ここを出発する引っ越しの日までは約十五日しかない。
引越しの荷造りなどの準備も負担として出てくる。
『引っ越しの荷造りは、一日中家の中に居るあいつに任せれば良いか』
この日の夜、本物の見二に転勤のことを説明した。
本物の見二は目を真ん丸にさせて「本当か? 凄いじゃないか! 俺、広島に住んでみたかったんだよな。『じゃけん』って言うのもカッコいいよな。仁義なき戦いも、広島の呉市が舞台だから憧れだったんだよな。ありがとう。ところで引っ越す日はいつになるの?」
「まだ住むところも決まっていないからハッキリとした日にちは言えないけど、だいたい二週間後ぐらいになると思う」
「楽しみだな、住むところは絶対、ウォシュレット付きのアパートにしてくれよな。これ、俺の絶対条件だから」
この世に鏡の見二が現れることなく、本物の見二がそのまま会社に行っていたとしたら、こんな奇跡などは絶対に起こらなかったであろう。
しかし悲しいことに、この転勤を一番喜んでいたのは、何もしていない本物の見二だった。
鏡の見二はこの夜、再び不思議な夢に襲われてしまうのだった。
第八章
鏡の見二が見た夢の中の話……
鏡の見二が居る場所は鏡の中だった。
何故だろう……鏡の見二が元々居た鏡の世界なのに、何故かそう感じていた。
しかし嫌な圧迫感というものは全く感じていない。
むしろ懐かしさを感じながら、田舎者のように周りをキョロキョロ見ながら歩いていたら、そこに一人の高貴な老人が現れた。
そしてその老人は鏡の見二に近づき、親しげに話し掛けてきた。
「もうすぐ、あの期限がやって来る。今度、鏡の中に戻る者はどっちになるかのう」
「戻る? どっち? どういうことでしょうか?」
「そうじゃったか……お主には何も説明しておらんかったのか。だがお主には説明などしなくとも、お主はこのことを分かっているはずじゃぞ。お主はこのことを一度経験しておるのだからのう」
「経験? 私が経験を? どういうことでしょうか? もったいぶらずに教えてください」
「そうか、そうだったか、お主は鏡の中の生活がとても長くなってしまったから無理もないか……だから、恐らく昔の記憶を忘れてしまったのだったのであろう。まぁ無理もないかもしれん。それに、一部記憶を消し去ったしまったのもあるからのう。それに鏡の世界で、二十年近くも人真似をしてきたのだから。よし、それならお主に教えてやろう……」
そこから高貴な老人の話しがはじまった。
話しの内容はこうだった。
鏡の見二は、二十年前までは鏡の中ではなく、鏡の外、普通の社会で生活をしていた。
鏡の見二が時々、色んな物を見た、色んな経験したといった、そんなことが懐かしく感じたのは、鏡の中へ入る前の普通の生活を送っていた記憶だった。
一戸建てを建築している現場を懐かしく思ったこと、あれは鏡の見二の過去の生活を紐解く大きなヒントであった。
まだ外の世界にいた頃は、一戸建て住宅を販売する、大手の住宅メーカーの営業マンだった。
しかし、その仕事振りといえば、仕事を毎日サボることは当たり前、当然のように営業の成績は万年ビリ、出世などというものは全く考えていなかった。
それこそ毎日をなんとなく過ごしていければ良いと考えていたのだ。
そんな生活をしていたある休日の日、突然、自宅にある洗面所の鏡から飛び出してきた男と遭遇することになる。
その男の顔といえば自分にそっくり。
それこそ自分の目を疑ってしまうくらいで、あまりの衝撃からしばらく言葉を発することも出来ない状態だった。
しばらくして落ち着きを取り戻した頃、勇気を持ってその男に聞いてみた。
「誰? あなたは俺なの?」
目の前の男は……「わからない」という返答だった。
ただ、その後に言った言葉に衝撃を受けたという。
「今『加々美 利彦』はこの世に二人存在している。この世の中に、同一の人物は二人要らない」
「それはどういう意味だ?」
「あなたか私、最長で二年後にはどちらかが残り、どちらかが消えることになります」
「消える? 消えるならお前だろ!お前は あとから来た、俺の顔を真似して出てきただけなのだから、戻るのは当然お前だよな」
「そうかもしれませんが、それは分かりません。残るのはこの世にふさわしい者ですから」
「じゃあ俺が残ることになるわ! お前に何ができると言うのだ!」
「仕事、代わりに行きましょうか? 仕事はお嫌いなんでしょうから」
「お前なんかにできる仕事ではない。所詮、お前は俺なんだからな」
「明日から私が仕事に行きます。そして、営業成績を上げてみせます。あなたの会社のことを教えてください」
「誰がお前になんかに教えものか! 明日も会社には俺が行って来る。お前はこの家で掃除でもしていろ!」
「はい分かりました。そうします」
「ほぉう、聞き分けが良いな。これで分かっただろう。だから二年後と言わず、明日にでも鏡の中に戻れ」
「明日は掃除をして待っています」
「好きにしろ!」
二人の奇妙な生活はここから始まった。
翌日、本物の加々美 俊彦は……
「あーやってらんねぇい! あの支店長はダメダメだ! じゃあ、自分がやってみろってんだい! あり得ない」
かなりご立腹のようだ……
そんな俊彦に鏡から出てきた俊彦は「明日から会社に行こうか? 何とかするから、落ち着いてください」と言った。
「おう、明日はお前が会社に行け! お前は俺なんだからな。ヘマするなよ」
「分かりました。精一杯やって参りますので、会社の情報を教えてください」
「分かった、教えてやるよ」
そんなこんなで鏡の中から出てきた俊彦が会社に行くことになった。
鏡の俊彦は人当たりも良く、仕事の要領も良いので、早い段階でたくさんの顧客を掴んでいった。
その結果、売り上げはうなぎ登りに上がり、支店の中でトップの成績を上げるまでになった。
全国ランキングでもトップスリーに入っていた。
そうなれば当然の如く、本社から熱い視線が降りそそがれる存在となる。
俊彦が未だ経験したこともないような、優越感漂う環境が出来上がっていったのだ。
「もっとお客様に喜んでもらいたい。もっと、もっと上の環境で仕事がしてみたい」
そんな風に思っていた。
鏡の俊彦のその想いは、直ぐ叶うことになる。
次の月も、その次の月も、個人の売上は全国一位を獲得して、営業マンとして不動の地位を獲得した。
そして俊彦は異例の出世を果たす。
なんと支店長になったのだ。
本物の俊彦といえば、パチンコや競馬、競輪に通い、毎日ぐうたらとした生活を送っていたが、働かなくとも金が入ってくる生活、いわいるヒモ男的な生活を送っていた。
鏡の俊彦の頑張りもあり毎月の収入は、俊彦本人が働いていた頃と比べて、およそ三倍以上になっていた。
この状況を本物の俊彦は、良しとしてしまっていたのだ。
「支店長になると部下の売り上げ次第で、こちらの給料も変わってくるから、部下にはしっかり働いてもらえるように、ビシビシ気合を入れてやってくれ。怠けさせず、残業、休日出勤、何でもありだ」
「売上のことは分かってはいるが、やり過ぎはマイナスに働いてしまう。支店長というのは、そんな簡単なことでは済まされないよ。従業員とその家族の生活を預かっているのだから。俺だけの給料じゃないんだよ」
「所詮、自分さえ良ければいいんだよ。甘い考えをするな! そろそろ代わってやろうか? 俺が支店長として腕を振ってやるよ。交代、交代」
「待ってくれ! もう少しやらせてくれ。やり残した仕事がたくさんあるし、もう、鏡の中になんて帰りたくないんだよ」
「鏡の中から出てきておいて、元の場所に戻りたくないだと? そんな話は都合良くないか? 鏡の中の世界がどんなだかは知らないが、お前なんかは人の真似だけしていれば良いんだよ。鏡なんてそんなもんだ。早く元の暮らしに戻れ! ご苦労さん」
「貴方は何か勘違いをしているようだ。この世にふさわしい者が、この世に残るということを知らないのか。私は二度と、もう二度と、あの鏡の世界には戻りたくない! この世界で生活していきたいんだよ」
「また? またってなんだ? お前は鏡の中から出て来ただけの、ただの真似っこだろう?」
「貴方は今を真剣に生きるということをしていない。言ってみれば、今の生活をバカにしている。そんな人間は、この世で生きてる価値などない。貴方が鏡の世界に行き、私が加々美俊彦となってこの世に生きていきます」
「バカなことを言うな! そんなバカなことが通用するとでも思っているのか! お前なんて、鏡の中で人真似でもやっているのが丁度いい。そんなバカな世界に俺様なんかが行けるか!今すぐ戻ってくれ」
「私が鏡の世界からこの世に現れてから、一年と十ヶ月が経ちました。残る日数はあと六十日。この六十日で貴方が、この世にふさわしい人間に成ることができれば、この状況を回避できるかも知れませんが、この現状では不可能ではないでしょうか? それに貴方は鏡の世界をバカにした。鏡の中の長老は、それを許すことはしないでしょう」
「バカな空想話をするな! 俺は長い間、悪い夢を見させられていただけなのだ。明日から俺が会社に行く。お前は鏡の中に帰る準備でもしていろ」
鏡の俊彦が築きあげたこの状況を変えることなど、鏡の世界が許す訳がなかった。
そう、そんな時がやって来たのだ。
自宅の鏡から光が……それも視界を奪われるくらいの光だ。
その光はまるで獲物でも探すかのように、部屋の隅々へと広がっていったのだ。
その異変に二人が気づいたのはリビングに居る時だった。
その強い光は、二人が居るリビングのすぐ側まで迫っていた。
その時、二人は食事の真っ最中、突然の出来事にあ然としてしまった。
「なんだ、あの光は?」
「うわっ、眩しい」
二人は一瞬にして視界を奪われてしまった。
一瞬で目の前が真っ白になった。
しばらくすると鏡の俊彦だけに、ある変化が起こった。
鏡の俊彦は、辛うじて強い光を避けることができていたのだろう、目は徐々に回復し家の家具が見えるくらいまで視界は戻ってきた。
突然やってきた光の中でも一等強い光を放っている所があったが、その先端は真っ直ぐ本物の俊彦に向けられていた。
「うわーー眩しい! 眩し過ぎて目が開けられないよ、全く目が見えない。 なんだよ……本当に何も見えない、助けてくれよ」
「大丈夫か?」
「大丈夫なんかじゃないよ」
そんなやり取りの中、光の先端付近から男性の声が聞こえてきた。
「お主は下がっておれ。こやつを連れて帰ることにした。まだ時間は残っておったが期限を待たずとも、もはや結果は明らかじゃあ!」
鏡の俊彦は目を擦り、凝らしながら、恐る恐る声のする方に目を向けてみた。
「わぁ、長老だ!なんだ貴方様なのですね」
「長老だ?」
本物の俊彦が声を上げた。
そして本物の俊彦が続けて言った言葉が「お前は妄想族か!」だった。
「お前の根性、ワシが治してやる。治らなければ一生、半永久的に鏡の世界で働けば良い」
そのあとは、まるで巨大掃除機にでも吸い込まれていくかのように、本物の俊彦は宙を舞っていた。
吸い込まれていく先は洗面所の鏡、行くまで本物の俊彦は、助けてくれともがき、大声を上げ、壁や扉をへりを掴み、更にもがき、顔を歪ませ、恐怖におののきながら一分後には鏡の中に吸い込まれていった。
それから長老は、鏡の俊彦に話し掛けてきた。
「お主はこれから、加々美俊彦として生きていくがいい。その代わり、自分に与えられたこの人生、決して努力を惜しむことなく、常に開拓をおこないながら、精一杯生きて欲しい。それが成されないのであれば、また誰かと入れ替わり、人の真似しか許されることない鏡の世界に逆戻りじゃ。お主が今回切り開いたこの人生、更に自分磨きして、この世を発展させていって欲しい。この世というのは、このようなことの繰り返しじゃ。怠ける者やこの世をバカにする者、そんな者はこの現世には必要はないのじゃ。鏡はただ、それを取り締まっておるだけなのじゃ。それではお主元気でな。ワシと二度と会うことが無いようにするのじゃぞ」
そう言って鏡の中へと消えて行った長老。
「長老はこの世を取り締まりをおこなっている? 鏡の中で? 俺は今、完全に俊彦になったということなのか? この世に俊彦は、俺一人になったということなのか? これはいったいどういうことだ……。でも、でもだよ、何故だろうか、一生懸命生きるということに生き甲斐を感じる、これは何故だろうか。俺、俺は、加々美俊彦として一生、生きていきていこうと思う」
その一方……鏡の中へと吸い込まれてしまった俊彦は、相変わらず鏡の中で大暴れしていた。
「なんだよこれは? 早くここから出してくれよ! こんなこと全くあり得ない! 悪い冗談はやめてくれよ!」
「悪い冗談なんかではない。これがお主の現実だ。これからはこの鏡の中で、人の真似だけをして生きていく人生なのだ。その期間は、この鏡が割れて無くなるまで永遠に続くのだ。お主が現世に出られるチャンスがあるとすれば、この鏡の世界で更生を果たし、この世の怠け者と出会い、お主の努力により、現世の者より遥か上の貢献を成し得ることができれば、その者と入れ替わることができる。その時はお主が現世に戻ることが許されるのだ。ただし、現世で生きていた者の肉体を借りることになるので、もしかしたら自身では、どうにもならぬことが起きるやもしれん。そこは鏡の世界が知る由もない」
鏡の中に入った俊彦はうなだれるしかなかった。
一方、真の形で第二の人生を手に入れることができた鏡の中から出た俊彦は、長老に向けて感謝の言葉を伝えた。
「長老、ありがとうございます。私は長老のおかけで、第二の人生を歩むことができそうです。これまで鏡という世界で大変お世話になりました。私はこれからより一層精進して参ります」
「期待しとるぞ。二度と入れ替わられることのないようにな」
「はい、精進して参ります」
「では」
そう言って長老は光り輝く鏡の中へと消えていった。
そして鏡の見二は目を覚ました。
「鏡の中に消えて行った俊彦、あれは私だ。そうだ、間違いない、私の辛い記憶だ。私が見二としてこの世に現れてからもう少しで一年と十ヶ月……どちらかの見二が、鏡の中に戻る時期が来るということなのか? 私は絶対に鏡の中には戻りたくない」
鏡の見二は、今日見た夢ことや経験しただろう記憶の事は、本物の見二には言わず黙っていることにした。
それは何故か? 今、本物見二に知られることになれば、自分が鏡の中へ行くことなど、絶対に受け入れられないと言うはずだから。
そして会社には自分が行くと言って、鏡の見二が築き上げた会社での地位で、人が変わったかのように働くだろうと考えていた。
そんなことになれば、鏡の中に戻るのは自分になってしまう、それでは困るのだ、だから鏡の見二はこのことを黙っていることにした。
ただ気になることが一点あった。
このアパートに居るのはあと十五日の予定。
鏡の見二は、このアパートの鏡から出てきたのだからどうなるのだろうと内心、心配ではあった。
二年という期間が優先されるのだろうか、それとも、ここにある鏡との関わりが終わる十五日間というのが優先されるのだろうか。
そこが疑問だった。
アパートでは普段通りの振る舞い、いつも通り会社に向かった鏡の見二。
会社のパソコンには本社から、広島で住むアパートというより、マンションに近い入居物件の候補が五件も送られてきていた。
課長として赴任するため、立地としては支店から近い場所で、広島の中心地にある物件ばかりだった。
家賃は八万円ほどだが、家賃は全額会社が負担してくれることになっている。
間取りはワンエルディーケーで、どれも似たりよったりといったところだった。
その中でも築年数が新しく、防音がしっかりしているシャワートイレ付きの、ワンランク上に見えるマンションに決めた。
そうなると次は引越しの手配である。
引越しまで日数がないことから、準備の時間を短縮するため、引越し業者の見積もりは全てオンラインでおこなうことにし、鏡の見二はスピード感を持って一つ一つをこなしていった。
翌日には引越し屋全ての見積もりが出揃い、一番安価であった引越し業者、チンパンジーマークの『そんなバナナ引越センター』にお願いすることにした。
「おかげさまで異動の準備はほとんどできました。あとは次に来る狭間係長への引き継ぎだけになります。狭間係長は来週赴任予定なのでしょうか」
「明日には来る予定なのだが、彼は今回、初めての管理職になるから、実は会社としてはとても心配しているのだよ。彼は深津くん同様、我社の期待の星なのだが、良いところを真っ直ぐに伸ばしてやりたいという気持ちで一杯なのだ。だから引き継ぎも時間を掛けて教えてやりたい。だから彼への引き継ぎは、かなり長めの期間を用意している。よろしく頼むな」
「分かりました。全力を尽くします」
「お前のその言葉には、いつも安心させられるよ。とても信頼ができるのだ。ありがとう」
ここでの最後の奉公という想いが鏡の見二には強くあった。
翌日、狭間係長が赴任してきた。
今まで自分が居たポジションに入れ替わる予定である。
別にここから追い出される訳ではないのだが、何故だろう……なんだか寂しい気持ちが込み上げてくる。
今まで慕ってくれていた部下達が、手のひらを返したようにそっぽを向くのではと心配にもなった。
しかし、そんなことは思い過ごしで、誰一人としてそのような者はいなかった。
役職を武器に、ただ偉そうにして、部下に想いやりの欠片もない上司であれば、そんなことは起こりうることだろうが、お互いに信頼関係があればそんなことは起こらないのだ。
このことをしっかり頭に叩き込んでおかなければいけないと、再認識させられた鏡の見二であった。
狭間係長は穏やかな性格なのだが、話がとてもおもしろく人柄も良いことから、ここに居る部下と馴染むことに時間は掛からなかった。
そうなるといよいよ、ここから離れる日がどんどん近づいてくる。
二人の見二はどのような結末を迎えるのだろうか。
それとも結末など訪れないのだろうか。
アパートに残る見二は、チンパンジーのマークが描かれている引越し用のダンボールに、荷物を詰め込む日々を送っていた。
それを真面目にこなす姿を見ていると、よほど広島に引っ越すことが楽しみなのだろうということが推測できた。
その姿を見て鏡の見二は、一緒に行けたら良いという想い、それと、これまで一緒に暮らしてきたという見二に対する情が湧いていた。
しかし自分は二度と鏡の世界には戻りたくないという想いは強く、必ずどちらかが戻らなければいけないということであれば、本物の見二に戻ってもらいたいと思った。
果たして、鏡の世界からの答えはあるのだろうか。
最近は、アパートに戻った鏡の見二を玄関で出迎えてくれるのは、チンパンジーマークが描かれているダンボールであった。
たくさんのチンパンジーと目が合ってしまう。
最初はこのチンパンジーもかわいいと思って見ていたが、これだけ積み上がったダンボール、それも無数のチンパンジー目からは威圧感さえ感じてしまう。
「おかえりなさい。今日もたくさんのダンボールに荷物を詰め込んだぞ。何とか引越しまでには間に合いそうだな。食器類は引越し当日まで使用するから、最低限だけ残してあとはダンボールに入れた。部屋もだいぶスッキリしただろう。たまにしか見ないような場所からは、思い出の品なんかも出てきて、懐かしく眺めてしまったり、こんな所に隠れていたのかと、ある意味感心してしまったよ」
本物の見二は楽しそうに話しをしてくる。
「でもさ、今日のことだけど、誰かにずっと見られているような気がした。幽霊とかみたいな怖さではないが本当に気持ちが悪かった」
このとき鏡の見二は思った、ついにこの日が来たのかと、そういう気持ちだった。
引越しの日までは、あと三日というタイミングの話しである。
新しく来た狭間係長に指導をしたりして気疲れした鏡の見二は、ご飯よりも先に風呂に入りたいと思い、スーツを脱ぎ、それをクローゼットに入れ、バスルームへと向かった。
洗面台の前で残りの着衣を脱ぎはじめたその時。
「ん?」
洗面台の鏡に変化がある。
鏡のちょうど中心辺りから細い光が出ているではないか。
鏡の見二はその細い光を覗き込もうと顔を近づけた。
鏡は中心がどんどん溶けていくかのように、その光の線は徐々に太くなっていった。
そして鏡の奥の更に奥が見えるくらい光の線は太くなり、やがて鏡全体が光に覆われていった。
夢で見たような光とは違い、襲いかかってくるような光ではなかった。
だから安心感もあったのだろうか、鏡の見二は光でいっぱいになった鏡を覗き込んでみた。
「あっ!」
夢で見た長老がこちらを覗き込んでいた。
「長老!」
「いよいよ来るべき日が来た。お主は今のところこの世に残れそうじゃのう。ワシはお主をずっと見ておったわい」
「わ、わ、私は、この世に残れるのでしょうか」
「その答えが明らかになるのは三日後、この三日間で本人が逆転することがあるかも知れんからのう」
鏡の見二にとっては微妙な返事であった。
この三日間?
引越しは三日後だが、やはりどちらかが鏡の中に戻らなければいけない期限はあった。
それは、このアパートを退去する日であることが分かった。
その三日間で、本物の見二との立場が逆転することなど、起こるはずがないだろうと鏡の見二はみていたが不安は残った。
「では、三日後に」
そう言い残し、長老は光と共に鏡の奥へと消えていった。
そして洗面台の鏡はいつもと変わらない、普通の鏡に戻っていた。
一年十ヶ月前にこの男は、この何のへんてつもない鏡の中からやって来た。
自分は何故、いったいどういう経緯で、どうして突然現れたのかも知らず、そして本物の見二との生活がはじまった。
しかし今は、何故ということも、どういう経緯ということ全てを知ってしまった。
もう二度とあの世界、あの鏡の中の世界には戻りたくない。
まだこのことを知らない本物の見二には悪いが、あいつを鏡の中に戻したい、そんな卑怯な考えが頭をよぎっていた。
ただ、これだけの期間を一緒に居た仲だ、情がないと言えば嘘になってしまう……鏡の見二にはそんな葛藤もあった。
でも本音は、やはり帰りたくない、自分で築き上げたこのポジションを維持させ、更に向上させていきたい。
もっともっと、この世で生きていきたい……非道だが、最後の答えは自分が残るというものだった。
普通に考えれば戻るのはこの男の方だが、この状況、この世に相応しい方と見た場合は、やはりこの男ということになるだろう。
そうなればいったい、本物のあの男はどのような最後を迎えるのであろうか。
この男もうかつではない、万に一つあるかもしれない逆転といったことにも警戒していかなければならない。
この三日間の二人の関係はどうなってしまうのだろうか。
そして二人の三日間のバトルが、静かに口火を切った瞬間だった。
そのことを相手は知らないままだったが……
「おーーい、何してるんだ? 料理が冷めてしまうぞ。もう上がったのか?」
「悪りぃな、ちょつとやりたいことがあったから、今からなんだよ。先に食べていてくれないか」
「はぁ? なんだよそれ……別にいいけど、待っているから早くしろよ」
「分かったよ」
あの男には、そんな優しさがあった。
逆転? そんなことあるのだろうか? そんな不安がまた少しよぎってしまった。
シャワーを浴びている最中も、バスルームにある鏡が気になってしかたがない。
実際この鏡は関係がないはずなのだが、やはり鏡という鏡の全てが気になってしまう。
俺? あいつ? 三日後には、どちらかがこの世から居なくなってしまうのだろう……その判決は果たしてどちらに下るのだろうか?
第九章
風呂から上がった鏡の見二を待っていたのは、料理の腕を上げた本物の見二の料理の数々だった。
「お前がモタモタしていて遅いから、ほら料理がすっかり冷めてしまった。でも味は抜群だからよ、たくさん食べてくれ」
「ありがとう。でも凄いな! いつもたくさんの 品数にも驚いてしまう。彩り、それに見た目のクオリティー、なんだか全ての項目で前より格段に上がっているじゃないか。凄いとしか言葉が出ないよ」
「嬉しいな、なんだかこの二人の関係が気に入っているんだよな。毎回お前に喜んでもらいたいと思うようになっている。不思議だよな」
お前は鏡の見二の妻か!
「本当だね」
鏡の見二は心が苦しかった……
自分だけがこの世に生き残ろうとしていることが。
本物の見二が作った美味しい料理をたくさん食べ、鏡の見二は早めに寝床についた。
しかしなかなか眠れない……何だか本物の見二を騙しているような気がして仕方がない。
一方、心の奥底では、俺は一生懸命頑張りあいつは怠けてきた、これは致し方がないことだ。
過去には自分もこんな目に合い、鏡の世界で罰を受け、心を入れ替えることができた。
今居る自分は、この世界で必要とされる人間、この世を豊かにしていくために必要な人間になったのだ。
やはり自分がこの世に残ることが正当なのだろうと自分に言い聞かせ、心を落ち着かせて鏡の見二は眠りについた。
翌朝からは、どちらか一人が鏡の中に戻らなければいけないということを、本物の見二に気付かれることのないよう慎重に行動した。
ただ慎重になればなるほど、相手から見たらおかしな行動に見えてしまうものだ。
「おい、どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」
「いや別に、なんでだよ」
「いつもより暗いというか、なんだか俺を避けているような気がしたから」
「気のせいだと思うよ。転勤が近いから疲れが溜まってきているだけだよ」
「そうか、あまり無理をするなよ。大変な時期なんだから。今日も美味しい料理を作って待っているから、頑張って来い。無理だったら、俺がいつでも変わってやるから安心しな」
「大丈夫、何とか最後までやるよ」
「最後? 最後って何だ?」
「あっ、この支店での、最後の仕事ってことだよ。そういうことだ」
「そっかぁ、無理するなよ」
「あぁ、ありがとう」
危なかった……最後というのはもちろん、本物の見二との最後の日までという意味だった。
絶対この世に残りたい、そういう想いであった。
今日を含めあと三日で結果が出る。
仕事は引き継ぎ事項が多く、相変わらず忙しく動き回っていた。
「深津係長、大丈夫ですか? だいぶお疲れのようですが」
主任が声を掛けてきた。
「大丈夫だ。今日で引き継ぎの大半が終わる。そうすれば余裕が出てくるから、本来の業務にも手を回せるよ。迷惑を掛けてすまんな」
「迷惑だなんて、ただただ心配になっただけです。広島に行っても激務が待っているのでしょうから」
「そうだな。広島では大きなプロジェクトの予定がある、本当にやりがいのある仕事だよ。絶対に成功させるよ」
「課長が手掛けるなら成功間違いなしですよ」
「ありがとう。さぁ、もうひと頑張りするか」
鏡の見二は、ひと頑張りどころか、もうふた頑張りして今日で引き継ぎを終わらせた。
広島に行き、更に自分を向上させたい、そんな野心さえ芽生えるようになっていた。
この仕事を本物の見二と変わる気など、みじんも無かった。
仕事を終え帰宅した鏡の見二を待っていたのは、たくさんの料理と暗い本物の見二だった。
「おい、どうかしたのか?」
「鏡、お前は何か知っているのか?」
「鏡? 鏡がどうした? なんだよいきなり……」
「今日、洗濯をしているときに洗面台の鏡を見た。鏡の中に俺の姿は映らなかった。これはどういうことだ? お前はあの鏡の中から出て来たのだから、これがどういう意味なのか分かるよな」
「分からないよ」
「それにあの鏡、時々光を放っている。あれは何だ?」
「だから分からないって」
「何かがおかしい。どうだ、そろそろ俺たち交代しないか? もし鏡が間違って、俺を鏡の中に入れようとしているのかもしれないから。戻るとしたら当然お前だろう」
「だから知らないって! それに、急に入れ替わっても、お前も会社も混乱状態になってしまうよ。それにかなり太っているし、見た目もだいぶ変わってしまっているから、先ずは痩せることだよ。あとは会社のことを徐々に引き継いでいくから、その準備をしてからじゃなければ入れ替わるのは無理だよ」
「お前を信じていいのか? 騙してはいないか?」
「大丈夫だ」
「そうか、俺の考え過ぎか」
「引越しの準備で疲れているんじゃないか? 今日はゆっくり休んでくれ。明日は送別会があるから帰りは遅くなる。それに夕飯もいらないからね」
「そっかぁ、分かった。あさっては、いよいよ引越しだな」
「そうだな」
明日は最終出勤日で送別会、鏡の見二はそれ以外のことは嘘をつくしかなかった。
鏡の世界はこの嘘をどう判断するのだろうか、鏡の見二はそこが心配であった。
この嘘が原因で、鏡の中に入る判決が裏返されるのではないのか、今までの努力が水の泡になってしまうのではないか、そんなことが頭をよぎっていた。
寝床に入った鏡の見二の目からは涙が溢れ出していた。
これまで一緒にやってきた本物の見二の存在は、もはや家族同然になっていたからだ。
その人間に判決を下してるのは、実は俺ではないのか、そんな不安もよぎっていた。
判決はやってくる、明後日にはこの世からどちらかが消えてしまう。
平常心を保ちながら、翌朝も変わりなく出勤し、最終日の仕事も無事に終えることができた。
勤務終了後の送別会は、笑いあり、涙ありで、大変な盛り上がりをみせた。
上司、部下を含め、見二が支店を去っていくことを心から悲しんだ。
送別会を終え、鏡の見二がアパートに帰宅したのは深夜一時頃だった。
そんな遅い時間でも、なぜか本物の見二はまだ起きていた。
「なんだよ、まだ起きていたのか」
「眠れないんだよ、怖くて」
「怖い? 何が怖いんだ?」
「聞こえるんだよ、洗面所の方から、うめき声みたいな声が。それにあやしい光、それが洗面所の扉から漏れ出てきているんだ」
確かに耳を澄ますと声が聞こえた。
それに洗面所からは光が放たれ、周辺が少し明るくなっているように感じた。
もちろん鏡の見二にも緊張感が走った。
鏡の見二はほろ酔いを通り過ぎた、とっても酔い酔いな感じで、少しよろけながら洗面所の扉近くまで歩いていった。
ガタガタガタ! 洗面所の扉が揺れた。
鏡の見二は「うわぁーー」 と声を上げながら本物の見二が居るキッチンまで走って行こうとするが、かなり酔っているため転倒、最後は廊下を這うようにして戻ってきた。
「大丈夫か? どうだった?」
「お前の言った通り、声が聞こえた、光が見えた、扉はガタガタ音を出して揺れていた。洗面所には絶対、絶対誰か居る」
「誰だ? 誰なんだ? 今日、俺はずっと家に居たぞ。まさか! 鏡? お前の親が迎えに来たのじゃないのか?」
「違う、俺とお前のどちらかが、鏡の中に入らなければいけない、その期限がやってきたのではないかと思う」
「期限? それはなんだ! もしかして……お前はそのことを知っていたのか?」
「……途中から知った」
「途中からだと。どういうことだ」
「懐かしいと思う風景や時々思うふとした行動、それと……そんな夢を見た。あれは自分の過去を見せてくれたのではないかと思うような夢を見たから」
「そうか……それと、どちらかがというのは、どういうことだ? どちらかが鏡の中に入いらなければいけないと言うのなら、鏡の中から出て来たお前が鏡の中に戻るのが普通のことだろう」
「鏡の世界の掟、この世に相応しいと思う者がこの世に残り、そうでないものは鏡の中に入る。そして鏡の世界での生活がはじまる、これが鏡の世界の掟だ。鏡の中は修行の世界、自分を見つめ直す場になっているのだ」
「お前は俺を騙していたのか! 俺に成り代わろうと初めから企んでいたのだな!」
「俺は過去に自分の生活を失った。他の誰かに成り代わられた過去がある。随分長い間鏡の中に居たが、今回は鏡の世界からチャンスをもらい、この世に現れることができた。初めはいろいろ分からないことが多かったが、努力することで、その大事さを実感していった。これは俺が、鏡の世界で教えてもらったものだろう。お前に言っておく、今のお前はこの世界に相応しくない。鏡の中に入るのはお前だ!」
「なんだ偉そうに! 所詮お前は俺だろうが! お前が戻れ、早く戻れよ!」
「日付はすでに変わっている。今日はこのアパートから出る引越しの日、このアパートとの最後の日でもある。お前と出会って一年十ヶ月、鏡の中に戻る期限というのは二年あったのだが、その期限を早めたのは今回の引越しが原因だ。俺はこのアパートの鏡から出たのだから、この家に居る間にどちらかがこの鏡の中に戻らなくてはいけない。今回の広島への転勤、それが結果的に二ヶ月間、期限を早めてしまったのだ」
「おい、転勤をやめろ。お願いだ、やめてくれ」
「今更そんなことはできないよ」
「じゃあ、お前が鏡の中に戻ってくれ。自ら戻ることを志願したら大丈夫だろう」
「嫌だ、あの世界には戻りたくない。あんな自由も感情も何もない! 人の真似だけをして生きている世界なんて戻りたくない。いつ出られるのかも分からない世界、出るチャンスがあるとすれば、現世界に相応しくない者がこの鏡の前に現れた時だけだ。怠けている者、向上心のない者が、この鏡の中を覗くまでは、ただひたすら人の真似をして待っているしかないのだ。そんな世界には二度と戻りたくない! 俺は努力をした、そして成果も上げた。結果的にこの世で一生懸命生きてきたのだ。お前はどうだった? 会社では努力するどころか、毎日サボってばかりいたじゃないか。俺が来てからも会社にも行かず、家で怠けてばかりで、どんどん太っていったじゃないか。ただ、毎日美味しいご飯を作ってくれたことには、とても感謝している。ありがとう」
「もうお前とは最後だ、みたいな挨拶だな。それは俺が鏡の中に入ることが前提の話しなのか? そんな話はバカらしいから、俺は今から出掛けてくる」
そう言って財布を手に取り、玄関へと向かった。
鏡の見二はまだ酔いが残っていて、足元はヨロヨロとふらつくため、本物の見二を追いかける事はできない。
本物の見二の動きに全く付いていくことができなかったのだ。
『まずい、今あいつがここから居なくなってしまったら、俺はいったいどうなってしまうのだろう』
相変わらず洗面所からはうめき声が聞こえている。
その声は大きくなるでもなく、小さくなるでもない、声は変わることはなく低い音だった。
ガチャン、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
『あいつ、本当に出て行ってしまったのか! えっ、もしかしたら……また、俺が、鏡の中に、入るのか? こんなに努力したのに、こんなに頑張ったのに、これが報われることはないか』
鏡の見二は祈るような気持ちだった。
この祈り、逆を返せば本物の見二に辛い鏡の中に入って欲しいと言っているようなものなのだが。
この状況で、鏡の世界はどんな裁きを見せてくれるのだろうか。
「鏡よ教えてくれ、これまでおこなってきた私の努力、これは報われることがないのでしょうか」
バタン!
その時、洗面所の扉が開いた。
いよいよ裁きが下されるのか。
洗面所からは、先ほどよりも強い光が放たれていた。
放たれている光は、一瞬にして家の中全体に行き渡り、昼間以上の明るさになっていった。
光の先端、そこは周りの何倍もの光を放たれていたが、その先端が向かっている先は玄関の方だった。
光の先端は低いうめき声を上げながらどんどん進んで行く。
先端が玄関まで達すると玄関の扉を開け、光は更にスピードを上げ突き進んで行った。
光は鏡と繋がっているため、先端が進んでいっても家の中では、光の帯は外に向かう光の流れができていた。
光の先端がアパートから飛び出してから二十秒ほど経った頃、外で人が叫ぶような声が聞こえた。
「うわっ! やめてくれ」
間違いなく見二の声だった。
光は見二を捕らえたのだろうか?
外へ外へと流れていっていた光の帯の流れは、さっきとは逆の方向に流れは変った。
光はこちらに戻って来ているようだ。
鏡の見二は息を飲んだ。
『光は本物の見二を捕まえている』
あの叫び声以降は、全く聞こえていなかった見二の声が、微かに聞こえてくるようになっていた。
「やめてくれ、助けてくれ、放してくれ、鏡の中に戻るのは俺じゃないだろう。人違いだよ」
見二は捕らえられながらも抵抗しているのだろう、光の戻る速度が先ほどよりも遅くなっていた。
「わっ!」
光の帯が突然、強い光を放った。
それと同時に光の戻る速度が加速し流れが速くなった。
しばらくして微かに声が聞こえてきた。
「く、く、苦しい」
それはとても弱く、そして低い声、見二の声には間違いはないのだが、その声はとても苦しそうだった。
外に飛び出していた光の先端が玄関に帰ってきた。
その先端には本物の見二が居たが、両手を首にやり苦しそうな姿であった。
首に巻き付いた光の帯のせいで息がしづらいのか、懸命にそれを解こうする本物の見二の姿がそこにはあった。
「助けてくれ、助けてくれ、お願いだ……」
その姿を見た鏡の見二は青ざめ、呆然として言葉を失った。
呆然とする鏡の見二の横で止まった光の先端は、何やらこちらに向かって話しかけてきた。
「もう今回の答えは出た。この男が鏡に入ることになる。判決は下ったのだ」
光の先端はそう言った。
鏡の見二はホッと肩をなでおろす反面、本物の見二には悪いことをしてしまったと、心を痛める感情もあった。
自分が鏡の中からさえ出て来なければ、本物の見二がこのようなことにはならなかっただろうと。
本物の見二はこちらを見て「なぁ、助けてくれよ。本当にこれで良いのか? なぁ、俺を見捨てないでくれよ。お願いだ……これは間違っているって言ってくれ」
その言葉を掛けられた時、鏡の見二からは何も言葉が出てこなかった。
昔の自分もこのような心境だったのだろうか、きっとあの時、目の前にいた自分の分身に対して、今の本物の見二と同じように、この上なく恨みながら相手を見ていたのだろう。
鏡の見二は、本物の見二の心境が痛いほど分かった。
ただ悲しいことだが、これが鏡の世界の現実だ。
光が洗面所の扉から出て、ここまで約三分ほどの出来事だった。
光の先端は、本物の見二を鏡の中へと引き込みはじめた。
本物の見二は最後の力を振り絞るかのようにカラダを左右に揺らし、柱や少しの突起した部分を掴みながら抵抗を繰り返した。
しかし所詮、それは無駄な抵抗にしか過ぎず、ついに本物の見二は鏡の中へと消えていってしまった。
これが今回出た、鏡の結論だった。
鏡の見二は本物の見二のことが気になり洗面所へと向かったが、そこは何も変わらぬ、普段の洗面所になっていた。
しばらく洗面所の鏡の前で力なく立つ鏡の見二……
そこへ鏡の中から長老が顔を出してきた。
「今日からお主が、深津見二じゃ。長い間、ご苦労であった。もう二度と、誰かに成り変わられることのないようにするのじゃぞ。努力は惜しむな。人がこの世に生まれてくるということは、この世での明確な使命を持ち、そして役割を与えられ生を受けているのじゃ。それなのに、その使命を怠るようなことがあれば、この世に生を受けたことに対して、裏切りの行為にあたるのだ。鏡というものの存在は、ただただ、それを取り締まっておるだけなのじゃ。この世の発展のためにな。今回、この鏡の中に入ることになったあの男も、またこの世で生活ができるチャンスが訪れるかもしれぬ。あくまでも、あやつの今後の行動次第ではあるがの。心配するな、お主は今後の人生を全うしよ。この世を少しでも発展させてくれ。ご苦労だった、では」
「俺は今、本当の意味で第二の人生が始まったということなのか。深津見二としての本当の人生が……ありがとうございました、長老」
やがて、騒動があった夜は明けていった。
予定通り朝から、広島に向けての引越しがはじまった。
昨日まで一緒だった本物の見二は、もう居ない。
本物の見二が正確に荷造りをしてくれていたこともあり、引越し荷物の積み込み作業は順調に進み、予定時間よりかなり早く終わった。
その後はお世話になった会社に最後の挨拶をしたあと、新幹線で広島へと向かった。
トラックに積み込んだ引越しの荷物が届くのは、明日の昼過ぎになる予定だ。
今日は広島で予約してあるホテルに一泊することになっている。
そこで楽しみにしているのは食事。
広島と言えばカキ、それに、そばが入ったオタフクソースが決め手のお好み焼き、見二は今晩これを食べる予定を立てていた。
これからは毎日でも食べられるようになるのにね。
これから新たに始まる広島での生活、これを勝ち得た鏡の見二は、深津見二として生きていくことに対して、ワクワク感が止まらなかった。
一方、鏡の中に入った本物の見二を待っているのは、これから続く厳しい試練だった。
そして長老が指定する鏡の中で人真似をしていくだけの人生となる。
その期間は、本物の見二が本当の意味で心を入れ替えることができた時で、その時期というのは誰にもわからない。
鏡の中に入った見二は、もうすでに見二ではない。
第十章
見二が鏡に入ってから十年が経った……
鏡の中の世界で生活する見二は、全く年を取らない。
それは人真似をする真似っ子だからだ。
一方、鏡から出て生活をはじめた深津見二は、その後も成績を上げ続け、更に出世を果たしていった。
三十七歳の時には支店長まで昇進するも、出来る自分に酔いしれてしまい、天下を取ったかのような振る舞いが目立ってしまうようになる。
その結果、部下からは嫌われ、上司からは怒られるようになり、三十九歳の時にストレスが原因でガンを発症してしまった。
実は、見二の家系はガン家系だった。
父親もおばあちゃんも、ガンで早期にこの世を去っていたのだ。
遺伝性もあったのだろうが、そこに更にストレスが追い打ちをかけてしまったのかも知れない。
ガンを発症してから見二は、会社を休んでガンの治療に専念するが、一年にもおよんだ苦しい闘病生活の末、残念ながらこの世を去ってしまった。
結果的に鏡の中に入った見二は、新しい人生を手に入れることができたということになる。
しかし、この事実を鏡の中の見二が知ることはない。
当然情報もないのだから。
自分のことがイヤだとか、この世に生を受けたのに全く自分磨きをしないだとか、上手くいかないことは全て人のせいにしてしまい、鏡にさえ腹を立ててしまうような人間は、今回、鏡の中に閉じ込められてしまった見二と入れ替わることになるかもしれません。
鏡の中の見二も、誰かと入れ替わることに成功することができたなら、今度は新たに手に入れた人生で、しっかり自分磨きをして向上していくことになるのだろう。
鏡の中に入った見二は学んだことがある、それは、この世というものは、この世に相応しい者だけが残り、成長することをおこたり怠け、自分を磨くことをしない人間などは、自分という人格をもつことがない人真似だけをして生きる、鏡の世界に入れられてしまうのだということを。
そう、鏡の世界が相応しいのだと連れ去られ、引き入れられてしまうのだと。
たしかに自分もそうだった。
死後の世界があるという話しは聞いたことがあったが、鏡の世界があることを知ったことは、決して大げさなことではないが、一つの衝撃、とてつもない驚きが走った。
世に出て生活をすることになった深津見二は、成り代わった人の身体を借りて生活をしていたが、その身体の体質までは知り得ることはなかった。
運命というものは、やはり全く分からないものだ。
一方、鏡の世界に入った者はどうなるのだろうか?
鏡の中ではいつまで生活することになるのだろうか……それは、自分の心が洗浄されるまでだ。
後編に続く……
著者:通勤時間作家 Z
これまでの作品
『昨日の夢』
『前世の旅 上』『前世の旅 下』
『哀眼の空』
『もったいぶる青春』
『私が結婚させます』
『死の予感』
『相棒は幽霊』
『チャンネルを回せば』