初めての……
瞼の上からぼんやりとした光が抜けてくるのを感じて目を覚ます。窓からは薄い白色の束が斜めに降り注ぎ、見慣れた部屋の風景に色を付けていた。
手探りで時計を探し当てると、短針と長身はそろって八のあたりを示していた。
そろそろ起きなければいけない憂鬱から目をそらす様に寝返りを打つ。すると丁度お腹の辺りにかけてあるタオルケットの下に何かがもぞもぞと身じろぎするのを感じた。
その異常な感覚に瞬時に意識が覚醒し、突き動かされるようにタオルを剥ぐと、そこには銀色の少女が小さな寝息を立てていた。
昨日、来客用に使っている布団を床に敷いて寝たのに、いつのまにかメイはベッドを抜け出したようだった。一瞬だけ何か間違いが起きてしまったのか不安になったが、俺もメイもしっかりと服を着ていたので、そんなことはなさそうだった。
しばらく今の状況を分析していると、朝の陽ざしを受けたメイが鬱陶しそうに眉をゆがめ、ゆっくりと目を開いた。
「ん……あ、たかゆき」
「お前、なんで俺の隣で寝てるんだよ」
「うん?えっと、きのうといれにいって、それで……」
メイはぬぼっとした動きで体を起こす。髪はあちこちが寝ぐせではねていて、昨日から来ているシャツもよれよれになっていたが、陽光に照らされた彼女の姿は、まるで天使がこの世に迷い込んだかのような幻想的な美しさを感じさせた。
「うーん、わかんない」
「まあ、いいや。それより腹とか減ってるか?」
「ん、うん、へってるかも」
未だに覚醒しきれていない彼女に頷きで返事をし、俺は布団から抜け出し、台所へ向かう。
冷蔵庫を開けて中身を確認する。適当に生卵とハムを取り出し、棚からインスタントのご飯と味噌汁を用意する。電気ケトルに水を入れ、ご飯をレンジに投入し油を敷いたフライパンを火にかけて温度が上がるのを待つ。
無気力に生きてきた俺だったが、一人暮らしを始めてから自炊だけは出来る限りするようにしていた。大した理由はない。ただ漠然と、いざとなったときに料理が出来るようになっておけば助かる時が来るかもしれないなんて考えて続けていた。まさかこんな形で役立つとは思いもよらなかったが、やはり普段からの備えというものはとても大事なことなのだろう。
あっという間にハムエッグとご飯と味噌汁の朝食が完成する。それを二人分に取り分けて、リビングに向かうと、メイがすんすんと鼻を鳴らしながら待っていた。
「なんかいいにおい!」
「はいよ、お待たせ」
「わーい、ごはんだ!」
眠気はもう去ったのか、メイは昨日の元気を取り戻していた。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます?」
「ん?ああ、そうか
唐突な質問に、メイが言語に不安定さを抱えていることを思い出す。今のところ会話は問題なく成立しているのに、たまにこうして基本的な単語が抜け落ちていることに若干の戸惑いを感じざるを得なかった。
「ご飯を食べる前はいただきますって言うんだ」
「へー、そうなんだ」
「いただきます」
「いただきます!」
新しい言葉も覚えたところで、満を持してメイが食事に取り掛かる。彼女の視線の先には目玉焼き。ぷりぷりと引き締まった白身は豊富なたんぱく質がこれでもかとその純白を主張し、中心にまるで太陽のごとく輝く君は、硬すぎず柔らかすぎない完璧な半熟焼きで仕上げてある。そんな、俺が生まれて初めて他人のために作った渾身の一作にメイの右手が一直線に伸びていく――。
「ちょ、ちょっと待ったあ!」
「へ?」
メイの右手を慌てて掴む。すんでのところで凄惨な事故の発生を阻止できたことに安堵しながら俺はその主犯である彼女をきっと睨みつける。
「素手で食べるやつがあるか!ちゃんと食器を使え」
皿の横に置いてある箸を指さす。メイは俺に言われるがままそれをグーで握りしめると、目玉焼きの君の部分に突き刺す。覆っていた薄い膜が破れ、周りの白身にゆっくりと伝っていった。そして彼女は差した目玉焼きを持ち上げようとしとするが、重力に引っ張られて目玉焼きはぼてっとなんとも嫌な音を立てて皿の上に落っこちた。
「うー、これ、ぜんぜんたべれないよ」
「マジか……」
俺は思わずため息をつく。食器が使えないとは思わなかった。いや、考えてみればいただきますもわからないんだから、箸を使えないことだってあり得ない話ではない。
「えっと……じゃあ、これだったらどうだ?」
台所からフォークとナイフを持ってきて、食べやすいように目玉焼きを切り分けてあげた。 それをメイがフォークを不格好に目玉焼きを突き刺して口に入れる。
「おいしい!」
「うん、それは、良かった」
その後もメイははむはむと一心不乱に食べ進めていく。そんな幼稚園児のような彼女を見ていると不思議と暖かな気持ちになっていく。先ほどは食べるという基本的な事すら出来ないということに思わず引いてしまったが、それでも自分の作った料理を美味しそうに食べてくれるというのは素直に嬉しかった。
しかし、こうして当たり前のように食事をしているメイを見ると、彼女が人造人間であるということを忘れそうになる。素手で目玉焼きをつかもうとしたことはともかく、普通に味も感じるし、噛んだものが喉を通って落ちていく様は人間と全く同じで、一体どういった技術を用いればこんなことが出来るのか想像もつかなかった。
あの十神という男は自分の事を天才科学者とか天才発明家と嘯いていたが、それは大げさでも何でもないと思う。発明通り越して、もはや奇跡というべきだ。
朝っぱらから妙に真剣なことを考えていると、気が付けばメイの前の食器は全て空になっていた。
「あー、おいしかった!」
口の端っこに米粒をくっつけながらメイが笑顔を向けてくる。苦笑いをしながら、俺はその米粒を指ですくってやると、彼女はくすぐったそうに眼をつむり、それからにへらっと柔らかい表情を作る。
「じゃあ、ごちそうさまだな」
「ごち?」
「食べる前はいただきます、食べ終わったらごちそうさまなんだ」
「うん!たかゆき、ごちそうさま」
メイが元気よく唱える。俺は最後に自分の分のご飯をかき込んで、食器を台所に持っていきさくっと洗い物を済ませた。再びリビングに戻るとメイが何をするでもなく視線を空に彷徨わせていた。
なんとなく俺はテレビをつける。するとメイの視線が吸い込まれていくように液晶ディスプレイへと注がれる。俺が適当にチャンネルを回すと、番組が切り替わるたびに肩がぴくっと動いてそれがなんだかおかしかった。
チャンネルを一周させても特にめぼしい番組を見つけることはできなかった。しかしテレビを消してしまうとそれはそれで味気ない。隣のメイが気に入りそうな番組を考えて、その結果俺は教育番組を流すことにした。画面の向こうでは俺の小さい頃から変わっていない犬の着ぐるみとウサギみたいな形のパペットが大げさなジェスチャーをしながらおしゃべりをしている。
そんな彼らの他愛のないやりとりをぼんやりと見る。するのを、児童用ということもあり、ある程度年を食ってしまった俺にとっては楽しめるような内容ではなかったが、幼少期の記憶が呼び起こされ不思議と退屈はしなかった。
ふとメイの方を見てみると、彼女はまるで子供のように目を輝かせながら画面を食い入るように見つめていた。
「面白いか?」
「うん!どっちもかわいい」
「ふーん」
しばらく二人でのんびりとテレビを見ているとふいに、部屋の隅で充電していたスマホが震えるのが聞こえた。
半身でそのスマホに手を伸ばしると、一件のメッセージ。差出人は宏太だった。
『今日、来ないの?』
そのメッセージに俺は急激に冷静になる。昨日色々ありすぎて頭がパンクしてしまったのか、今日が月曜日で、普通に大学があることをすっかり忘れてしまっていた。時計を見ると既に一限のクラス講義の開始時刻を一時間以上過ぎてしまっていた。今から急いで準備したところでもう間に合わないだろう。
それに俺にはもう一つ大きな問題がある。言うまでもなくメイの存在だ。今も隣でニコニコしながら、時折画面の中のキャラクターの動きを真似をしているメイを一人置いて大学に行けるわけがない。何かいい方法が無いかひとしきり考えてはみるものの特に妙案が浮かぶことはなかったので俺は諦めてスマホに文字を打ち込んでいく。
『ちょっと体調くずしちまって。悪いんだけど、今日の授業の代返をお願いできねえかな?』
すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
『別にそれはいいんだけど、本当に大丈夫?いや、昨日なんか最後の方落ち込んでるみたいだったからさ』
言われて思い出す。そういえば帰り際にそんな態度を取ってしまった気がする。二人に不要な心配をかけてしまったことに罪悪感を感じたが、今日の欠席は別の理由なのだ。
『いや、全然普通に体調崩しちまってさ。心配かけたなら悪い』
『それならいいけど。とりあえず、元気出たら来なよ!』
『ああ、サンキュ』
最後の送信ボタンを押してスマホを置く。体調不良と嘘をついたことに心は痛むが、かといって正直に言うわけにもいかなかった。
ひとまず今日に関してはなんとかなった。しかし大学は明日以降もあるわけで、どうしたもんかと頭を抱える。
「たかゆき、どうしたの?」
いつのまにか番組が終わっていたようで、メイが俺の顔を覗き込むようにして訪ねてきた。
「ん?まあ、ちょっとな」
「そっかー。じゃあ、たかゆき、なにかしよ!」
「何かって何だよ」
「んー、わかんないけどなにか!」
「なんじゃそりゃ……」
メイのあまりに感覚的な要求に、思わずため息をつく。考えてみるが急に言われても何も思いつくわけない。そもそも俺の部屋はほとんど娯楽なんてないし、というよりこれからの俺の生活すらままならないんだから、メイのことを気にかけてる場合なんかないのだが……。
「まあ、とりあえずテレビでも見るしかないんじゃないか」
「えー、てれびはもういいよう」
「そんなこといわずにほら」
そういって俺は再びチャンネルを回す。今度は見慣れないアニメにチャンネルを合わせる。しかしメイは画面に興味を示してくれなかった。
「やだやだ、たかゆき、あそんでよ」
「うるせえなあ、そんなわがままいったってしょうがねえだろ。おれんちにはてれびくらいしかないんだから」
メイの聞き分けの悪さに思わず苛立ちの混じった声音になってしまう。俺の態度にメイはますます悲しそうな顔になる。
「だってえ……ずっとおうちにいても……たのしくないもん」
「……」
悲しそうに呟かれた言葉にハッとさせられる。俺はこれからずっと彼女をこの部屋に閉じ込めておくつもりだったのだろうか。十神の言っていた期間がどれくらいのものかわからないが、それでも決して短い時間ではないだろう。そんな時間をこの狭い牢獄で過ごさせるのはあんまりではないか。
今の状況は元をたどれば俺がまいた種だ。言ってしまえば俺は被害者ではなく加害者で、メイこそが被害者なのだ。それを俺は今後の生活の事が不安なあまりに、彼女の気持ちを考えてやることが出来ていなかった。
それはいくら何でも無責任だと思う。
「……ごめん、俺が悪かった。じゃあこれからどこか出かけるか?」
「ほんと!?やったあ!」
まるで信号が赤から青に変わるようにメイは眩しいくらい明るい笑顔になる。……いや、別にいいのだけど……なんとなく騙されたような、釈然としない気持ちになった。
「……まあ、いいや。とりあえず出かける準備しような」
「うん!」
メイが元気いっぱいの百点満点の返事を返し、そしてまんじりともせず俺の方に熱い視線を送ってくる。
「えっと、どうしたんだ?」
「たかゆきのじゅんび、まってる!」
「いや、メイも準備しないと」
「あたしはじゅんびないもん」
「……」
数秒の間、俺たちの間に沈黙が訪れる。
「……ああ」
俺はようやく気づいた。それは当然の事だった。だってメイは着替える服がないのだから。そして今彼女が身に着けているのは、昨日十神が着せていた白衣だった。
「メイ、お前はお留守番だ」
「ええ!なんでよお」
「メイの服を買いに行かなきゃいけないからな」
「だったら、あたしもいっしょにいく!」
「その恰好じゃ無理。ってかそのために行くんだからな」
「えー、やだやだやだあ」
駄々をこねだすメイ。普通の大人がやれば滑稽に映るだろうその所作もメイがやるとなぜか可愛らしく見えてしまう。しかし、今回はそれで誤魔化されるわけにはいかない。俺は真剣な表情を作ってメイをじっと見据える。
「すぐ帰ってくるから、少しの間だけ我慢しててくれ」
「うー」
「帰ったらすぐに一緒に出かけよう、な?」
「……わかった」
不承不承といった感じだが、それでもちゃんと聞き入れてくれて俺は胸をなでおろす。背中にメイの視線を受けながら、俺は適当に着替えて、財布とスマホをポケットに突っ込んで玄関に向かった。
「じゃあ、行ってくる。もし誰か来ても出ちゃだめだぞ」
「うん、まってるね」
俺は微笑みで返事をし、速足で近所のスーパーに向かった。