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昨日の11時に3話まで、18時に5話まで一気に更新しました。
今日は6話目となります。
『辞令 下記の者、異動を命ず
刑部省長官室 オフィーリア・ナーヴェ(式部省建築院修繕課)』
建築院玄関脇の掲示板前で、オフィーリアはひとりうなだれていた。
基本的にあまり人のいない建築院なので、掲示板を見る人などほとんどいない。それでもこの辞令を見た数少ない人たちに、うらやましがられたり、心配されたり、嫉妬されたりした。あまり仲良くしている人はいないのだが、家族全員で出仕しているナーヴェ家は有名なので、話したこともない人までが話しかけてきてオフィーリアの許容量はもういっぱいいっぱいだ。
「オッフィー、全部終わったよ」
「お兄様……」
事務室から出てきたベルナルドが声をかけてきた。建築院の事務のおばさんは、あることないことしゃべる噂好きで、オフィーリアは彼女がとても苦手だった。だから、異動に必要な書類の提出を兄が代わりに済ませてきてくれたのだ。
「この異動は一時的なもので、あちらが抱えている案件が終われば、また戻って来られるって言っていたから」
「本当? お兄様」
みるみるオフィーリアの目に涙があふれてくる。
「オッフィー」
ベルナルドがシャツの袖でオフィーリアの涙をぬぐった。
「お兄様、またハンカチ……」
「ごめん、今日は持ってきてすらない……」
「これからは一緒にいてあげられないんだから、ちゃんと持って歩いてね」
「うん。わかったよ、オッフィー」
これ以上落ちないというところまで肩を落とした二人は、寄り添うようにして修繕課へゆっくりと戻って行った。
オフィーリアに異動の話が出たのは、刑部省に呼び出されてから数日後のことだった。めずらしく遅くに帰宅した父は兄妹を書斎に呼び出し、オフィーリアに異動の打診があったことを告げた。慌てるオフィーリアに口をはさませずに一気に話した父は、何だか少しだけすっきりとした晴れやかな表情をしていた。
「そ、そんなっ、お父様やお兄様のいないところに一人で行くなんて無理よ。絶対無理だわ」
オフィーリアは床に突っ伏して泣いた。その横ではベルナルドが苦虫を噛みつぶしたような表情で立っていた。
「くそっ、あの長官のムカつく笑顔はこういうことだったのか」
「公爵にそういう言い方はやめなさいと言っただろう、ベル」
父は机にひじをつき、困ったように額に手をあてた。
「閣下自ら私のもとへいらして、オフィーリアの力を借りたいとおっしゃったんだ。断れるわけがないだろう」
「オッフィーを凶悪犯の前に連れて行って証言の真偽を計るって言うんだろう。そんなおそろしいことさせられないよ!」
「それは私も確認した。取調室の構造まではわからないが、オフィーリアが犯人と直接会うことはないそうだ。それに、ずっとというわけではなく、現在少々手こずっている事件が解決したらまた建築院に戻すと言っていた」
「そんなの、あの部下たちの適当な感じ見せられたら信用できないよ」
オフィーリアは涙も流れるままに、ひっくひっくとしゃくりあげながらベルナルドの言葉に大きくうなずいた。軽く嘘をつく部下たちとおそろしい長官のもとへ、ひとり送られるなんて絶対に嫌だ。嘘と恐怖で一日中震えて過ごすなんて考えたくもない。
「オフィーリアもそろそろ、まともに人と話せるようにならなければならない。お前もそう思うだろう、ベル」
んぐ、と気まずそうに息を呑んだベルナルドは、うなずくでもなく、そわそわと視線を泳がせた。
「だからって、刑部省はないだろ……」
「刑部省に入るには貴族であろうと試験が必要だ。そして、面接もある。特にストラーニ公爵が長官になってからは、コネ入省はほとんどなくなったそうだよ。だから、今の刑部省は身元のしっかりした後ろめたいことのない者しかいない、ということでもある。ある意味、とても安全でお堅い役所なんだ。初めは私も無理だと思ったのだが、オフィーリアが行くにはぴったりなんじゃないかと思い始めた」
ということは、あのアンジェロとか言う妙に陽気な青年も、試験に合格した身元のしっかりした人なのだろうか。オフィーリアは首を傾げた。
「オッフィー、まずは行ってみなさい。ダメなら帰ってきていいから」
「ううう、もうすでにダメなんですけどぉ」
「少しは頑張りなさい。このままお前がべったりくっついていたら、ベルナルドも結婚できないだろう。この年で婚約者のあてもないのはかわいそうじゃないか」
「うっ」
実はそれはオフィーリアも気にはなっていた。しかし、兄がいなければ家を出ることのできないオフィーリアは、気付かないふりをしていたのだ。
「あてがないのは、お兄様がモテないからじゃ」
「うわぁ……オッフィーが本心で言ってるのが心底つらい」
オフィーリアが震えていないことに少なからずショックを受けたベルナルドは、両手で顔を覆った。
「ベルだけじゃない。オッフィーもだよ。お前もいつかは結婚しないといけないのだから。私だっていつまでも生きているわけではないんだよ」
「うわあん、お父様死なないで!」
「まだ死なん。だが、いつかはお前よりも先に老いぼれる。いつまでもお前を守ってやることもできないんだから、もう少し頑張ってみなさい」
「ううう」
「ベルも、いい加減自分のこれからのことを考えなさい」
「……でも……」
「でもじゃない。これは決定だ。数日中に辞令が出るから、二人とも準備しておきなさい」
そう言われて書斎を放り出されたオフィーリアは毎日を泣いて過ごし、異動がなかったことになるように祈っていたが、父の言っていた通り辞令は出されてしまった。同じ文書が刑部省の掲示板にも貼られているのかと思うと、胃がキリキリと痛んでくる。
「大丈夫。きっと、役に立たなくて一日目ですぐに追い出されるさ」
「うん。きっとそうね、そうだと思う。ううう~~」
ベルナルドにかなり失礼なことを言われているのだが、そんなことはこの際どうでもいい。震えて転びまくって擦り傷だらけになるよりは、役立たずの方がよっぽど良かった。
刑部省は王宮の中心近くに建っている。いつものように父と兄と一緒に出勤したが、今日からオフィーリアだけはここで先に馬車を降り、残りの二人は遠く離れた建築院へ向かう。馬車の窓からベルナルドが不安そうにオフィーリアを見下ろしている。馬車に乗らなければ行けないようなこんな離れた場所に置いて行かれるのはつらい。つらすぎる。すでにオフィーリアの瞳は涙がこぼれ落ちる寸前だ。
馬車が見えなくなるまで門の前に立っていたが、オフィーリアは涙をぬぐって玄関に向かった。初日から遅刻するわけにはいかない。扉をくぐる前に一度自分の服装を眺め、襟や上着の裾を直した。
刑部省の官服は事前にきちんと箱に入って送られてきた。黒いジャケットに白いブラウス、臙脂のネクタイ。スカートが3枚に7分丈のズボンが2着入っていた。ジャケットの襟とスカート、ズボンの裾には品の良い刺繍がされており、緑色でずんぐりした建築院の官服よりもずっと洒落ていた。些細なことで膝が震えてすぐに転んでしまうオフィーリアは、このズボンを特に気に入った。これなら転んでもパンツは見えないし、膝も傷だらけにならない。少しだけ裾の広がった7分丈というのが女性らしくて可愛らしい。基本的に内勤の時はスカートで、捜査などで外に出る時はズボンを穿くことになっているそうだが、実際は本人の好きにしていいらしい。
だいたい修繕課の女性がロングスカートというのがおかしいのだ。動きやすいズボンにすべきだ。建築院に戻った際にはそう訴えてみよう。もちろん父を通してだが。
とりあえず初日の今日はスカートを穿いてきた。オフィーリアは楽しみは後に取っておくタイプだ。
玄関に入ると、見覚えのある青年が立っていた。肩のあたりで品よく切りそろえられた黒髪に黒い瞳。あれは確か、ブルーノと呼ばれていたクラウディオの部下だ。
「おはようございます。ナーヴェ嬢」
「お、おは、おはようございます。よよよよろしく、お願い、し、します」
「そんな緊張しないで」
はは、と明るく笑うブルーノは、黙っていると冷たく見えるが笑うと少し幼くなった。もしかしたら年が近いのかもしれない。
玄関は横長に広く、脇にある受付はガラス張りの小窓がきっちりと閉められていた。建築院では守衛に職員証を見せてから入館していたのだが、こちらの職員たちはそのまま受付を素通りしていく。そもそも受付には人がおらず、用がある人はベルを鳴らして呼ぶシステムになっているようだった。
「どうぞ、そのままこちらへ。長官室は奥の階段を上ったところになります。ちょっと遠いのですが、窓からの眺めは良いところですよ」
ブルーノはオフィーリアの歩幅に合わせて歩いてくれている。ひとまずはこの優しそうな紳士が仕事を教えてくれるようだ。恐ろしいと身構えていた闇夜のような職場に一条の光明が差した気がした。
「ナーヴェ嬢、こちらです」
ひと際大きな両開きの扉を開けると、大きな窓から陽の射す明るい室内に頑丈そうな机が並び、壁際には天井までの本棚が並んでいた。本棚には使い込まれた分厚い本がぎっしりと詰められ、簡易的な応接セットのローテーブルにも本が積み重なったままになっていた。男性が4人で働くにしては少し狭い気がしたが、パーティションの向こうは会議用のテーブルとソファがあり、専用の給湯室もついているのを考えれば広さとしては十分なのかもしれない。
「おはよう、ナーヴェ嬢」
サムエーレがさわやかに声をかけた。椅子に斜めに腰掛け、長い足を折るようにして組んでいる。
「お、おはっ、おはようございまっ……本日からお世話になりりりっ、ます、オフィ、オフィーリ」
「おっはよ、オフィーリアちゃん」
「アンジェロ、ナーヴェ嬢がまだしゃべってる最中だろ」
「いいなあブルーノ、俺もオフィーリアちゃん迎えに行きたかったな」
「お前はそのまま食堂に連れ込みそうだからダメだ」
想像通り、やっぱりモテないベル兄・・・