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あれから二週間が経ち、オフィーリアはいつものように父と兄と三人で建築院へ出勤した。父とは部署が違うので、玄関で別れる。兄の後について管理部の部屋に向かった。
ベルナルドとオフィーリアは、国の所有する建物の整備、修繕を担当する管理部に属している。
「今日は治部省を見回りに行くよ」
「はい、お兄様」
「まずは僕は修繕課に指示書を提出してくるからね」
「わかりました。掃除始めてます」
「うん、お願い」
管理部にはかなりの人数が属している。しかし、だいたいの者たちが修繕や調査のため現場に赴くので、管理部の部屋にはいつもほとんど人がいない。ぽつりぽつりといる同僚たちに挨拶をしながら、オフィーリアは箒で丁寧に床を掃いて行った。学校に通えなかったため、家庭教師から必要最低限の勉強を習っただけのオフィーリアには建築の知識などない。こういった雑用が彼女の仕事であった。自分のようにやっかいな人間でも、少しは役に立てるよう丁寧に仕事するように心がけている。
掃除と書類整理の雑務が終わった頃、ベルナルドが戻ってきた。二人は式部省から支給される官服の上着を羽織った。オフィーリアは図面の入った書類ケースを肩掛けかばんに入れ、ベルナルドは大きなリュックを背負った。リュックには持ち歩きサイズの簡易的な大工道具が入っている。簡単な修繕なら、その場で直してしまうのだ。
二人の見回りは修繕実績が常に一位だ。小さな不具合から深刻な欠陥まで、探しあてる数が他の者たちよりも桁違いに多かった。それもそのはず、オフィーリアが震えたり転んだりする場所には必ず修繕が必要な部分があるのだから。
「今日から治部省の人たちは会議で隣国へ行ったらしいから、建物に残っている人は少ないんだって。だから、この会議の間に修繕を一気に終わらせたいみたい」
「そうなのね、良かった」
治部省は主に外交を担当する部署なので、職員は皆非常にコミュ力が高い。彼らは一応若い女の子であるオフィーリアを見かけたら、紳士の礼儀としてかなり激しめのご挨拶をしてくれる。どこから引っ張り出してくるのか不思議に思うほどの語彙力でオフィーリアを褒めちぎり、彼女の手足を尋常ではない程に震えあがらせるのだ。
そよそよと風に揺れる前髪が額をくすぐるのを感じながら、オフィーリアは、ほう、と息を吐いた。あの人たちがいないのなら少しだけ安心だわ。
王宮の外れにある建築院から他の省庁へ行くためには、屋根の無い簡易馬車で移動する。海外の要人を迎えることもある治部省の建物はとても派手で豪華だ。きらびやかな外観がだんだん近付いてきて、オフィーリアは肩からかけたかばんを握る手に力を込めた。
「今のうちになるべくたくさんの修繕場所を見つけて、しばらくはここに来ないようにしたいわ」
「……理由はどうあれ、やる気があるのはいいことだね!」
ベルナルドが苦笑いしながら馬車を降りた。いつものように、兄の差し出す手につかまってオフィーリアも馬車を降りる。
治部省の受付で入館証をもらい、二人は図面を見ながら館内をゆっくり歩き始めた。
聞いていた通り館内には人が少なく、二人はそれほど話しかけられることもなかったので順調に見回りを終えた。それでも建築院に戻った頃には、すでに昼休みはとっくに終わっている時間だった。
「オッフィー。僕は図面を返してくるから、先にお昼ご飯食べておいで」
「はい、お兄様。いつもの所で食べてくるわね」
オフィーリアは持参したお弁当を持って中庭に移動した。特に日当たりの悪い、景観の悪い場所に置いてあるベンチに座り昼食を済ませた。建築院には社員食堂もあるのだが、すれ違う人たちの軽口に手が震えてお茶をこぼしそうになるのでめったに行くことはない。いつもこうして人の来ない隅っこでベルナルドと二人、お昼休みを過ごしているのだった。
「こんにちはー!」
あまり通る人のいないはずの建築院に戻る道すがら、背後から男性の声が聞こえた。歩く足を少し緩めたものの、自分にかけられた言葉ではないだろう、と止まらずに歩き続けた。
「あっ、ねえ。君、君。ちょっと待って」
振り向くと、思ったよりも近くまで声の主は迫っていた。思わず肩をびくつかせると、彼はあわてて立ち止まり、オフィーリアの肩に伸ばそうと上げた手を、ゆっくりと下ろした。
「す、すみません。私だと思わなかったもので……」
「いや、こちらこそごめんね。突然話しかけちゃって」
いったい何の用だろう。硬そうな黒髪の前髪を片側に流し、上級貴族らしい上着を着崩した男性は、にこにことしながらオフィーリアの顔を覗き込んでいる。彼の青い目を見ていたら、オフィーリアの指先が少しずつ震え始めた。これは、彼がこれから嘘をつこうとしている前兆だ。
「わた、わた、私にっ、何か、ご用で、ございましょうかっ」
「いやいやいや、落ち着いて。その、可愛らしい子がいたから、思わず声をかけてしまったんだ」
「ひぃっ」
オフィーリアの膝ががくん、と崩れた。嘘だ。彼は嘘をついている。
「大丈夫!?」
「はわわ、だ、だいじょ……ばない、かも」
「もし時間があったら少しお話しさせてもらえないかなって、思ったんだけど、そんな状態じゃないね!? 大丈夫? 持病か何か」
「いえ、いえ、あの」
ぴたりと震えが止まった。彼は本気でオフィーリアの体調を心配してくれてはいるようだ。
「落ち着いた? 君はここで働いているのかな? それ、式部省の官服だよね。良かったら名前を教えてくれる?」
ガクガクガクガク。オフィーリアの膝が細かく揺れ始めた。彼はオフィーリアの名前を知っているのに、尋ねてきている。
どうして私のことを知っているの!? 膝が笑い続けているため、もはや立っていられないオフィーリアはふらふらと建築院の壁に倒れ込むように寄りかかった。手が震えているのは、彼の嘘のせいか恐怖のせいか。
「やっぱり体調が悪いようだね。掴まって。救護院まで連れて行こう」
「だ、だ、だ、大丈夫です。ひとりで帰れますので、あの、その」
どっか行ってもらえませんか、の敬語って何だろう。
「俺は怪しいものじゃないよ。たまたま、ここを通りかかっただけだから。落ち着いて。深呼吸して、ほら」
「ひゃああああ! ごめんなさい! 許してください! あの、私は、たたた確かにっ、貴族ではありますがっ、我が家はごく平凡な、家族全員で働きにでているようなっ、貧しい家庭ですので! 私を! 誘拐したって! 何の得もありませんーー!!」
震えに耐え切れずに座り込むオフィーリアに、男がすぐに駆け寄る。
「ひぃぃぃ! いやぁ! 触らないでー!!」
「ちょっと、待って。違うんだ、俺は」
「きゃあああ」
叫ぶオフィーリアの口を塞いでだまらせようと、男が手を伸ばす。すでに立てずにずるずるとお尻を引きずって後ずさりするオフィーリアは、さらに声を上げた。
「誰かー! お兄様ー! 助けてーー!」
「オッフィー!?」
オフィーリアの叫び声を聞いたベルナルドがこちらへ向かって駆けてきた。その姿に、ち、と小さく舌打ちした男は、顔を隠すようにしてあっという間に走って逃げて行った。
「オッフィー! 大丈夫? どうしたの?」
「お兄様……」
息を切らす兄の姿を見て、安心したオフィーリアの瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。
「知らない人に名前を聞かれて、でも、あの人は私の名前を知っていて、自分は怪しくないって言ったのに、すごく怪しい人だったの」
「そうか、ごめんね。一人にして。怖かっただろう」
ベルナルドは優しくオフィーリアを立たせ、砂まみれのスカートを払ってくれた。自分の服の袖口で涙をぬぐってくれる兄の手を掴み、オフィーリアは口を開いた。
「お兄様、またハンカチ忘れたのね」
「ごめん、その、洗ってないのならあるんだけど。使う?」
「もう! 新しいのクローゼットに入れてあるって言ってるでしょう」
「見た目は汚れてないからいいかなって思ってさ」
はは、とごまかすように笑うベルナルドに、オフィーリアもつられて泣き笑いする。鼻をぐずぐず言わせながら、ベルナルドの腕に掴まって歩き始めた。
「それにしても、王宮の敷地内で誘拐だなんて」
「オッフィーは可愛いんだから、気を付けないとね」
「そんなことあるわけないわ。きっと、誰かと間違われたのよ」
「うーん。後で警備の人に言っておくよ」
ベルナルドは、怪しい男の走って行った方向を見ながら首を傾げた。
「バカか!! お前は!! 監視対象に不用意に近付くなどありえないだろう!!」
右手を机に強く叩きつけて怒鳴ったクラウディオの声に、窓ガラスがビリビリと音を立てた。深く頭を下げるサムエーレを見下ろすクラウディオの恐ろしい形相に、離れた席に座ったまま二人の部下はあわてて目をそらした。
「……本当に申し訳ございません」
「普段ならこんなことしないだろう。なぜだ」
「ナーヴェ家は調べれば調べる程これといったことが何も出て来ず、事件には関係なさそうだったので、本人の話を聞いて調査を終了しようと勝手に判断しました」
「本当にそれだけか」
「あと、ちょっと可愛かったので、話しかけたくなった」
「お前!!」
「申し訳ありません」
サムエーレはさらに深く腰を折った。椅子にどさりと座ったクラウディオは、呆れたように腕を組み、サムエーレの頭を上げさせた。
「今回の事件は、全く共通点のない貴族たちが関わっているのは皆わかっていることだろう。平凡な貴族こそ怪しいんだ」
「それにしたって、あのナーヴェ家は家族全員ほとんど家と建築院の往復以外、めったに外出しないんだ。この二週間、見張らせてるのがバカらしくなるくらい出かけない。長男のベルナルドが友人の出席する夜会にたまに参加する程度で、伯爵と娘は仕事以外屋敷から出てこないそうだ。家を訪れる客もなし。使用人が購入してくるものも、屋敷で消費する分だけの日用品だけだった」
サムエーレの報告に、クラウディオは顎に手を置いて少し考える仕草をした。
「あのう」
クラウディオの怒りが少し収まったのを察した部下のひとりが人懐こい大きな目をくるりと回して口を開いた。
「なんだ、アンジェロ」
「病弱な娘が外に出ないのはわかりますけど、伯爵も夜会とかに参加しないっていうのは逆に怪しくないっスか? 官庁務めとはいえ、貴族ってそういう社交が必要なんじゃないんですか」
アンジェロの質問に、クラウディオが眉を寄せた。サムエーレは「まあまあ」とクラウディオを手で制し、ちらりとアンジェロの隣の席に座るブルーノに視線を寄せた。その視線の理由がわからないブルーノは、首を傾げた。
「確かに、私が夜会などでナーヴェ伯爵を見たことはありません」
「そうか、若い奴らは知らないよな。最近ではもはや口にするのはタブーとされているし」
サムエーレがクラウディオに振り返ると、お前が説明しろ、とばかりにクラウディオは頬杖をついて不機嫌そうに目を細めている。
「この国では貴族の離婚は難しいって知ってるだろう」
「ええ、手続きがとても面倒で、世間体や財産などでたいてい揉めるから、愛人や隠し子がいようと離婚せずにそのままでいる夫婦は非常に多いですね」
サムエーレの言葉に、ブルーノが言葉を選んで答えた。要するに貴族は男女ともに家名さえ守っていれば浮気し放題で、愛人のもとへ行ったまま帰ってこないということも珍しい事ではない。
「それが十数年前、その面倒な手続きをわざわざして、円満に離婚した貴族がいる。奇跡の離婚と言われているんだ。それが、ナーヴェ伯爵家。母親は後に愛人だった平民と再婚している。当時の社交界はその衝撃的な話でもちきりで、あれこれ口さがない人々ばかりだったから、ナーヴェ伯爵はあれ以来社交界にはほとんど姿は現さないんだ」
「へえ。過去に離婚した貴族もいる、とは聞いたことありますが、それがナーヴェ伯爵だったんですね。それは……確かに人付き合いも嫌になるのもわかります」
二人の話を黙って聞いていたアンジェロがクラウディオの真似をして腕を組み、眉を寄せた。
「それでこの国の社交界に恨みを持って……ってこともあるかもしれないっスね。伯爵は関係なくても、社交界からつまはじきにされた兄妹が唆されたとか」
クラウディオに睨まれ、すぐに組んだ腕を戻しアンジェロがえへら、と笑った。
「……近々、娘を呼んで取り調べろ。兄も一緒にだ」
クラウディオの言葉に、三人が首を傾げた。
「一緒にですか?」
「あのおかしな娘だけではろくに会話にならないだろう」
「確かに」
「対人恐怖症とかそんな感じっスかね、あの娘」
「そんな娘がなぜあの夜会に出てきた」
「知らないっスよ。それも含めて聴取っスね!」
右腕を振り回し俄然張り切り出したアンジェロを、ブルーノが尊敬のまなざしで見つめた。こいつ、よく長官にそんな口利けるな、と。
助けてー! の声にタイミング良く登場するベルナルド。
カッコいいはずなのに、なぜか残念。