30
【メイプルノベルズ様から 「不機嫌な公爵様はウソ発見器付き令嬢の取説をご所望です」 に改題され電子書籍化されます】
本日よりピッコマ様で先行配信スタート!
書籍版は加筆修正によりこちらのWEB版とはストーリーが違います。
メイプルノベルズ創刊祝いにどうぞよろしくお願いいたします!
「ジャン様、ピンクのバラの花言葉って知ってますか?」
広いベッドに身を沈め、ボリボリと音を立ててクッキーを咀嚼しているジャンが顔を上げた。今日もオフィーリアはジャンの家でお泊り会である。
ぺらりと雑誌のページをめくり、ジャンは斜め上を見て考えた。
「ピンクのバラ? 確か、上品、とか、淑やかとか」
「なるほど!」
同じようにだらしなく隣のベッドに横たわったオフィーリアが、嬉しそうに頷いた。
「あとは、可愛い人、だったかな」
「え」
「ピンクのバラは恋人や妻に贈るものだからね。ええと、他には確か、我が心君のみぞ知る、じゃなかったかな」
ジャンはそう言った後、新しいクッキーに手を伸ばした。
オフィーリアの頬がバラのようにピンク色に染まったかと思ったら、みるみる真っ赤になっていく。そして、そのまま白いシーツに顔を突っ伏した。
「え、何。オッフィー。もしかして、ピンクのバラでも贈られたの?」
「……まだです」
「まだって。誰に? ま、まさか……クラ……オッフィー!? しっかりするんだ!」
まずは物で釣ろう、と言っていた彼の言葉を思い出す。見事に彼の術中にはまってしまったではないか。
彼はありったけのバラを贈ってくれると言っていた。
オフィーリアはまた、明日からクラウディオの顔を見ることができない。
しかしながら、二人の仲は少しずつ、少しずつ。確実に。近付きつつあるのだった。
長官室専用取調室、正確にはその隣の隠し部屋。
その一角には、オフィーリア用のクッションとマットが敷き詰められている。一度、弾力のあるクッションを配置したら、その上に尻もちをついたオフィーリアが反動でジャンプし、マットのない床に転がってしまったことがあった。その反省を踏まえ、ブルーノが英知を尽くして弾力を計算し発注した特注のクッションを、アンジェロがせっせと設置してくれたものである。
一度しか使用されずに撤去されてしまった高弾力クッションを、長官室に戻ったオフィーリアは机の上に置いた。そして、椅子に腰かけると同時にゆっくりとそれに顔をうずめた。風通しの良いベランダで陰干ししたクッションは、穏やかな初夏の風のようなひんやりとして清潔な香りがした。
頬に感じる心地よい弾力を味わっていたら、日々、頭の中で滞り続けている煩雑なことなどどうでも良くなってくる。
「んが~」
突如、室内に響いた轟音にオフィーリアは飛び上がった。
隣の席では、オフィーリアと全く同じ姿勢でクッションに顔をうずめるアンジェロがいびきを掻いていた。
「ア、アンジェロさん。いびきはまずいですよ」
ちょんちょん、と肩をつつくと、アンジェロがびくりと肩を震わせて目を覚ました。
「んー、悪いっス。昨晩はちょっと気になる論文を見つけて読んでたら朝になってたもんで。ふああ、ねむ」
両手を挙げて伸びをしたアンジェロが大きなあくびをする。
すとんと椅子に腰を下ろしたオフィーリアは、今度は反対側に振り向いた。そこには、ブルーノがまたもや同じようにクッションに顔をうずめている。彼はクッションに顔面を押し付け、その上から両手を頭に乗せて顔が見えないようにしっかりとガードしている。
「……私は起きていますよ」
そんなくぐもった声が聞こえたものの、ブルーノは顔を上げないままだ。ほんのわずかにオフィーリアの指先が震えたので、彼は今起きたところ、といったところか。
たくさんの仕事を同時にいくつも抱えているブルーノもまた、疲れているのだろう。いつも落ち着いていて冷静な声も、少しだけぼんやりしていた。
クラウディオはサムエーレと一緒に出掛けている。鬼の居ぬ間に何とやら、である。
とはいえ、休憩を取ったくらいでクラウディオは怒ったりしない。常に不機嫌そうではあるけれど、普段きちんと仕事をしていれば多少の事には目をつぶってくれるのだ。
オフィーリアは、ぽすん、とクッションに頭を載せた。アンジェロの方からは再び小さな寝息が聞こえてくる。
「……今から言うのは私の寝言ですが……」
先ほどとほとんど変わらない姿勢のブルーノがボソボソとつぶやきはじめた。
「長官は働かなくても良い立場であるというのに、我々と同じように机を並べて真面目に働いています。各省の長官は高位貴族ばかりですが、皆、名ばかりで実際に出仕している方は多くはありません」
オフィーリアは黙ってブルーノの話に耳を傾けた。本人が寝言だと言うのであれば、返事をするのもはばかられた。
確かにクラウディオは王弟ということを除いたとしても、めずらしい高位貴族だ。オフィーリアが以前勤めていた、建築院の長である管理長の身分は伯爵であるが、官服を着て毎日働いていた。しかし、建築院の属する式部省の長である侯爵は、年に何度か形式的に出仕してくるだけであった。
「長官はお若い時分に自ら王城を出られました。臣下に下り、王族からできる限り距離を取った結果が長官と言う立場なのでしょう。これ以下となると、王弟として何か問題があったのかと邪推されてしまいます。確かに人当たりがきつく、口うるさい方ではありますが、我々と同じ目線に立っているからこその言葉です。そういった面で、私は長官をとても尊敬しています。ですので……」
ブルーノはそう言って、ずいぶんと長い寝言を区切った。オフィーリアがそろそろと横を向くと、腕の隙間から覗く彼の優し気な黒い瞳がこちらを見ていた。
「もしナーヴェ嬢が長官のことを、王弟だから、公爵だから、と身分を理由に避けているのであれば、それは長官がお気の毒です。あの方にはこれ以上どうしようもないことですから。ですので、どうか長官自身を見てあげていただきたいのです」
オフィーリアは何と返事していいものか、いや、返事をしていいものかどうかも分からなくなってしまい、クッションに顔を深く押し付けた。
気になっているのは身分だけではない。オフィーリアは臆病で泣き虫で情緒不安定挙動不審な上に、やっかいな特殊能力までくっついている。
「とは言え、長官自身の性格もかなり難ありなのですが……」
ブルーノはそう言うと、クスクスと笑い始めた。反対側からは、ぶふぉっとアンジェロの噴き出す笑い声も聞こえてくる。とたんにオフィーリアは自分がおそれていることなんて、大したことではないのではないような気がしてきた。
一緒になって笑ったら、何だか少しだけ眠くなってきた。
「おい、いつまで寝ている」
上からぎゅっと頭を押さえつけられ、オフィーリアは目を覚ました。側頭部に乗っかる大きな手、そしてこの威圧的な声。オフィーリアは目だけを動かしてこの手の持ち主を見上げた。
「ちょ、長官……」
「全員とっくに出払ってるぞ。いい加減起きろ」
クラウディオはそう言い、手を離した。オフィーリアはおそるおそる起き上がり、証拠隠滅を図るかのようにそうっとクッションを机の上から下ろすと、そのまま抱きしめた。一緒に寝ていたはずのブルーノとアンジェロがいない。横目で壁の時計を確認したら、一時間ほど経っている。彼らが出かけたことにも、クラウディオが帰って来たことにも全く気付かなかった。どうして誰も起こしてくれなかったのだ。
「すみません……ちょっと休憩していただけだったのですが」
ぼそぼそとつぶやくと、オフィーリアが震えていないことを確認したクラウディオは呆れ顔で目の前の椅子に腰をかけた。
目の前?
オフィーリアが目を見開く。クラウディオはなぜか、オフィーリアの机の前に椅子を持ってきてそこに座っている。そして、眉間にしわを寄せたまま机に頬杖をついてため息を吐いた。
「い、いつから、そこに」
オフィーリアがそう尋ねると、クラウディオは片方の口の端を意地悪げに上げた。
「しばらくは机で仕事をしていたのだが、あまりにもお前がぐっすり眠っていたからな。いつ起きるのかと寝顔を見ていた」
「ひえっ。な、なぜ、そんなことを」
オフィーリアは抱えたクッションに顔を押し付けた。
ふ、とクラウディオが小さく笑う声が聞こえた。
「ああ。お前は美人だな、と思ってな」
クラウディオの言葉に、オフィーリアの肩がぶるりと震えた。
「ひどい……美人じゃないことくらい自分でも分かってますけど」
クッションから顔を上げて睨むと、頬杖をついていたクラウディオが破顔した。頬を脹らませたままではあったが、オフィーリアはついつい見とれてしまう。親友の結婚式で見かけたクラウディオの端正な姿が脳裡によみがえる。結局のところ、オフィーリアはやっぱり彼の顔が好きなのだ。
「美人ではないが、まあ、可愛いとは思っている」
オフィーリアの考えていることなどお見通しとばかりに、クラウディオはそう言い、ニヤリと笑った。
一瞬、ぽかんとした後、両手両足が震えていないことを確認したオフィーリアの顔がみるみる赤く染まってゆく。それを隠そうと、またクッションに顔を埋めようとしたら、がしっと乱暴に額を押さえられた。
「誰に何を言われたのかは知らないが、物で釣ったのはうまくいったようだな。あれくらい分かりやすいことをしないと、やっぱりお前には伝わらないということが分かった」
クラウディオには何かが分かったらしいが、オフィーリアにはあまり分からない。とりあえず、逃げ出したほうがいいというとだけは分かる。
しかし、腰を浮かせかけたものの、クラウディオに恐ろしい顔で睨まれそっと椅子に座り直した。クッションを抱きしめる腕に力がこもる。
「……俺は、子供の頃から本心を表さないように教育されてきた。おかげで様々なことに巻き込まれずに済んだが、そのせいでいろいろな弊害もあった。しかし、お前にはそんなこと気にする必要もない。せっかく二人きりなんだ、ちょうどいい、聞け」
心臓が高鳴る。腕に力が入りすぎてクッションが破裂しそうだ。指先が熱い。オフィーリアの瞳にみるみる涙が貯まってゆく。それを見たクラウディオが愉悦に満ちた笑みを浮かべて口を開いた。
「お前は可愛くない」
がくん。オフィーリアの膝が揺れた。
「お前のことなどどうでもいいし、いなくなってもどうとも思わない」
ガクガクガク。震える膝を押さえた手が大きく揺れ、オフィーリアはあわてて机に片手をついた。が、覚束ないその手が滑り、バランスを崩して椅子から転げ落ちそうになる。
とっさにクラウディオがその手を取り、もう片方の手でオフィーリアの肩を押さえる。
「俺以外のやつの元へ行けばいい」
クラウディオにきつく握られた手が、大きく震える。
「お前みたいなやつは俺の手には負えない」
膝の震えが全身に広がり、ぐるんと横向きに体勢を崩したオフィーリアのお尻が椅子から落ちた。だが、いつの間にかすぐ隣に来ていたクラウディオが、オフィーリアを受け止め抱き起す。そして、そのままそのこげ茶色の丸い頭をそっと胸に抱いた。
「お前を幸せにできるのは、きっと俺ではないだろうな」
ガクガクガク、とオフィーリアが全身を震わせる。クラウディオがしっかりと抱き留めているので転ぶことはないけれど、オフィーリアはもう震えすぎて頭がくらくらして何も考えられない。
何も考えられない頭で、長官は顔だけじゃなくて声も良いなあ、なんて頓珍漢なことを想っていた。
「オフィーリア」
突然名前を呼ばれ、オフィーリアはやっと意識がはっきりとした。気付けば、クラウディオの右手は自分の頬にあてられている。しかも、親指で頬を優しく撫でられているではないか。
声も出せずにはくはくと口を開いたオフィーリアに、クラウディオがそっと目を細める。
「オフィーリア、ここにクッションの跡がついているぞ」
「え」
「前髪にも寝癖がついている」
クラウディオの親指が撫でている頬を、あわてて手で押さえる。そういえば、こっち側を下にして昼寝していた。オフィーリアの体はどこも震えない。頬に寝ていた跡がついているのも、寝癖がついているのも、本当なのだ。
「給湯室に鏡がある。直してこい」
オフィーリアの頬から手を離したクラウディオが、目を眇めて笑う。なんて悪辣な笑顔だろう。
「給湯室に行ったついでに、コーヒーを淹れてくれ。熱いやつな」
さっと身を翻したクラウディオが言う。あわててオフィーリアは給湯室に駆けだした。
「そろそろあいつらも帰ってくる頃だろう。全員分用意しておけ」
クラウディオが自席に戻りながらそう声を掛けると、両手で前髪を押さえたオフィーリアが振り向く。
「ご、五人分……ですか……?」
椅子に腰かけ書類を開き始めたものの、オフィーリアの戸惑う声に顔を上げたクラウディオが顔をしかめる。
「……手伝ってやるから、湯だけ沸かしておけ」
こくりと頷いたオフィーリアは浮かんでいた涙をぬぐう。そして、とぼとぼと歩いた後ちらりと振り返ると、はにかむように微笑み、駆け足で給湯室に入って行った。
これが今できるオフィーリアの精いっぱいの返事だ。
クラウディオは片手で顔を隠したままうつむいた。いつもの不機嫌な表情にもどるまで、まだもう少し時間がかかる。
二人の仲は少しずつ、少しずつ。そして、今日はまた大きく一歩、近付きつつあった。
しかし、まだまだゴールは遠い。
これにて一旦完結です。
多分、何かの折に続きを書くと思います。
ブックマーク残しておいていただけると、嬉しいです。




