16
取調室の隠し部屋には、特注のクッションが敷き詰められている。弾力があり、非常に丈夫な布で作られているのでちょっとやそっとでは破れないようになっている。
「ナーヴェ嬢、お疲れさまでした。立て続けに取り調べに付き合わせてしまいましたが、体調はいかがですか」
「はいっ、大丈夫です。今日はまだまだいけます、どんとこい」
「頼もしい限りですが、今日はもうこれで終わりです。この後はどうぞ休憩を取ってください」
今日の付き添いはブルーノだった。取り調べもずいぶんと進んでいるらしく、外での証拠固め調査が多いアンジェロとブルーノは最近は常にどちらかがいない。優秀だと有名な長官室の人たちの手にかかれば、早々にこの案件は解決するだろう。そうなれば、オフィーリアは晴れてお役御免となり建築院へ戻ることになる。せっかく用意してもらった特注のクッションを横目でながめ、オフィーリアは申し訳なさを感じた。
ブルーノを残してオフィーリアは先に部屋を出た。長官室でのんびりコーヒーでも飲もうと階段を下りると、踊り場でミランダが待っていた。
「あなたにお客様がいらしているわよ」
「え、私にですか?」
「そうよ。応接室でお待ちよ」
オフィーリアの手は震えない。客が来ているというのは本当らしい。
ミランダに連れられ応接室へ向かった。ミランダの開けた扉をおそるおそる覗き込むと、質素なソファとテーブルに似合わない派手なドレスを着たステッラが待っていた。ステッラの座るソファの後ろには、美術館で出会った時とは違う取り巻きの令嬢が二人立っていた。護衛騎士は扉の横に立っている。
「ご、ご機嫌、うるわしく、その、あの、ステッラ様におかれましては、えっと」
「できない挨拶はしなくて結構よ」
「申し訳ありません……」
ステッラの冷たい声に、オフィーリアは肩を落とした。クスッとバカにしたように笑ってからオフィーリアの側を離れたミランダは、ステッラの後ろにそっと控えた。
そうか、彼女はステッラの取り巻きの一人だったのか。用もないのに長官室をやたらと訪れていたのは、オフィーリアの偵察に来ていたのだろう。この後訪れるであろう憂鬱な時間を想像したら、思わず口から大きなため息が出てしまった。
「あら、わたくしがここに来た理由に心当たりがおありのようね」
ステッラが目を弓なりにして不敵にほほ笑んだ。ランプの明かりに輝く黒髪は優美に波打ち、その下で宝石のような碧色の瞳がじっとオフィーリアを見つめていた。
「おかけになって」
ステッラが手でしめした向かいのソファが、なぜだか取調室のソファに見えた。もちろん、容疑者側のだ。ソファに腰掛けると、取り巻きと護衛から見下ろされる形となり、オフィーリアはなるべく小さく身を縮めた。
「あなた、いつまで長官室にお勤めのつもりなのかしら」
優しい笑顔のまま、しかし責めるような口調でステッラは言った。
「あの、今抱えている案件が、おわっ、終わるまでって、聞いてます!」
「だいたい人手が足りないからと言って、どうして刑部省の長官が式部省から事務員を借りてくるのかわからないのですけれど、クラウディオ様のお考えや体面もおありになるのでしょう」
さらりと肩にかかった髪を右手でかき上げ、ステッラは軽く身を乗り出しオフィーリアの顔を下から覗き込んだ。その探るような瞳にオフィーリアは、んぐ、と思わず唾を飲みこんだ。
「あなた、クラウディオ様とお出かけの際に手をつないでいるそうですわね」
「手を!? いいいいいえぇぇ、まさか、そんな、あの、転ばないように上着を掴ませてもらってるだけでしゅ!」
噛んだ。後ろの取り巻き令嬢が呆れ顔で笑う。
「婚約者のいる男性に触れながら歩くだなんて、あなたはどういう神経なさっているのかしら。クラウディオ様はあなたの上司ではありますけれど、王弟殿下でもあり公爵閣下でもあります。官職勤めをしている伯爵家の娘ごときのあなたが触れて良い方ではありませんわ。身の程をわきまえなさい」
オフィーリアは顔を上げられないまま、上目遣いでステッラを見た。彼女からはすでに笑みは消え、瞬きもせずにこちらを睨みつけている。ぎゅうっと両手を握りしめてオフィーリアは座ったまま頭を深く下げた。
「……申し訳ありません。ステッラ様がお気になさっているようなことは何もなく……あの、私がよく転ぶので、長官に手間をかけないようにした結果……でして、その……気を付けます」
膝が胸につくほど頭を下げたオフィーリアは、ステッラの許しがあるまで顔を上げないつもりだった。ぎゅうと両手を固く握ったまま、自分のつま先を見つめていた。
「分かればよろしいのよ。以後、クラウディオ様には不用意に近付かないでくださいまし」
ステッラが品良く立ち上がったので、オフィーリアも慌てて立ち、再び深く頭を下げた。
「もうよろしくってよ。……途中まで一緒に歩いて行きましょう」
「へ?」
先頭に立つステッラへ続く道を作るように、取り巻きの令嬢たちが二手に分かれた。その間を背を丸めながらトボトボと歩いて、ステッラの横に並ぶ。
ステッラは歩き始めると、ちらりと後ろに目配せした。すると、令嬢たちが少しだけ距離を置いて歩き始めた。令嬢たちが離れたのを確認すると、ステッラはオフィーリアにすっと身を寄せてきた。濃い花の香りがふわりと漂った。
「ねえ、あなた……。お母様とはお会いになっているの?」
ステッラは前を向いたまま、小声でオフィーリアにそう尋ねた。これ以上クラウディオに近付いたら、離れて暮らす母親にも手を下すと言いたいのだろうか。オフィーリアは一気に顔色を無くした。
「う、あの、母には、その」
「お会いになっているの? と聞いているのよ」
「……数か月に一度ですけど、会っています」
「そう。平民となって市井で暮らしていると伺ったけれど」
「はい、あの、平民の旦那さんと、暮らしています」
「……そう。お幸せなのかしら」
「はい。先日会った時も、元気そうで……旦那さんもお元気で……幸せに暮らしています。あの、母には、その」
「そう……お幸せなのね。それは、良かったわ……」
ふっ、と微かに息を漏らしたステッラは目を細めた。オフィーリアはそっと自分の手を確認したが、全く震えていない。ステッラは母に何かしようと言うのではなく、オフィーリアの母が幸せで良かった、と心から思ってくれているようだ。
彼女は一体、何をしにここまでやってきたのだろう。
オフィーリアはまじまじとステッラの横顔を見た。夜会で見た時と同じ、美しい横顔だった。
後ろの方で取り巻きたちがクスクスと笑っている。護衛は高圧的にオフィーリアを見下ろしている。
しかし、ステッラは違う。彼女はオフィーリアを叱責するためにわざわざやって来たのではない。なぜなら、彼女が応接室でしゃべっている間、ずっとオフィーリアの手は震え続けていたのだ。オフィーリアがクラウディオに触れたことを、全く怒ってなんかいないのだ。
侯爵令嬢であるステッラに、オフィーリアから話しかけることはできない。黙って歩き続けるステッラの横を、ただ同じ速さで追いかけた。
下りの階段まで歩いたところで、ステッラが突然振り向いた。
「ねえ、もし……」
そうステッラが口を開いた瞬間、オフィーリアの体がゆらりと揺れた。がくんと膝が折れ、バランスを崩す。
「ちょっと、あなた……!」
咄嗟にステッラが手を伸ばしたが、オフィーリアは体を丸めるようにして頭から階段を転がり落ちた。
令嬢たちの悲鳴、バタバタと走る護衛の足音。
階段を半分ほど転がった後、オフィーリアは突然宙に浮いた。
「ふう、ギリギリ間に……合わなかったな……」
「はわわわわ」
がくがくと全身が震えているのでよくわからないが、オフィーリアは誰かに抱き上げられているらしい。もしやこの声は。
「……ビガット公爵?」
驚くステッラの声に何とか顔を上げると、ジャンが青い目を細めて愛おしそうにオフィーリアを見下ろしていた。は? 何でそんな顔してんの。
「あれがビガット公爵……」
「なんて美しいのかしら」
ステッラはジャンのことを知っているようだったが、後ろにいる令嬢たちは初めて見るのだろう。オフィーリアが階段を落ちたことも忘れてジャンに見とれている。
「メウチ侯爵令嬢。いくら恋敵だからと言って、ナーヴェ嬢を階段から突き落とすなんてひどいんじゃないか」
ジャンはにっこりと微笑みながらも、言葉だけはステッラを強く非難した。
「……っ、まあ。わたくしはそのようなことはしておりませんわ。その方が勝手に足を踏み外して落ちたんですわよ」
ステッラは一度大きく目を見開いたものの、すぐに表情を戻して広げた扇で口元を隠した。
「そうなんです! ステッラ様は何もされていません! 私が勝手に落ちたんです!」
突然体が震えて階段を落ちた原因はあなたです! オフィーリアはそう叫びたかったが口を閉じ、がくがくと震える体を両手で抱きしめるようにしてジャンを見上げた。
「まあ、君がそう言うならそれでいいけど」
「不愉快ですわ。行きましょう」
ステッラは眉間に深くしわを寄せ、スカートを翻して階段を下りて行った。すれ違う際、じろりと睨まれた。その後を、令嬢たちと護衛が追う。
「とりあえず医務室に行こうか。おい、頼む」
「はわわ、だっ、大丈夫です! 歩けます!」
「だめだよ。きちんと診てもらおう」
ジャンは踊り場にいた自分の護衛にオフィーリアを手渡し、軽快な足取りで階段を下りて行った。屈強な護衛の腕から逃げられるわけもなく、少しだけ震えの治まったオフィーリアは大人しく医務室に連れて行かれた。
医官に軽く頭や腕を診てもらい、念のためオフィーリアはここでしばらく休んでいくように言われた。
「あのっ、私、階段は落ち慣れているのでこれくらい平気です。だから、あの、もう」
「確かに抵抗もなくコロコロと転がってきたものね。慣れている感じがした」
なぜかジャンが医官を医務室から追い出してしまい、今は部屋に二人きりだった。オフィーリアはベッドの端に腰掛け、ジャンは医官が座る椅子に足を組んで座っている。
オフィーリアは自分の両手に視線を落とした。何度も手のひらをくるくると裏返したり、軽く振ってみたりもしたが、なぜだか全く震えていない。医官と護衛が部屋を出て行った後、ぴたりと震えが止まったのだ。
「伯爵令嬢の君はどうして階段を落ち慣れているの? そもそも、君は会うたびにいつもどこかから落ちているよね?」
ジャンが可愛らしく小首をかしげて尋ねた。その声は少し高く、囁くようで頼りなげだ。いつもは確かに高めではあるが、もっと腹から声を出しているような、威厳のある冷たいしゃべり方だったはずだ。公爵らしく装っているだけで、本当は人懐こい人なのだろうか。だから体が震えた? でもそれくらいで立てないほど震えてしまうだろうか。
オフィーリアは違和感を覚えつつも、初めてまともな状態でジャンをじっくりと見た。
「あの、公爵閣下はなぜここへ」
「ジャンでいいよ」
「いえ、そんなわけには」
「ジャンて呼んで。私たち、友達だろ」
「……恐れ多いことでゴザイマス」
ニコニコと機嫌よくほほ笑んでいるジャンの青い目を見たら、オフィーリアは嫌な予感がしすぎて背中に急に汗をかいた。
「私は今日、君と仲良くなりに来たんだ」
「私はそんな身分ではありません……」
「君は私を心配してくれただろう」
この人、あんまり友達いなそう。何となく。オフィーリアは思った。
「クラウディオから秘密を聞いたんだろう?」
「長官から秘密を聞いたんですね?」
ふたりの声が同時に響いた。
悪役令嬢の前で自ら階段を落ちる安定のオッフィー。
そして、ギリギリ間に合わない安定のジャン。