15
王城内の図書室は専門書ばかりであまり人気がない。オフィーリアはクラウディオに命じられた本を探して、ひとり天井まである本棚をのんびり眺めて歩いていた。
入り口入ってすぐのカウンターでは司書が居眠りをしていた。あのカウンターは窓からの日差しが当たって心地よい。眠くなってしまうのは仕方がないと思う。
ここまで歩いて来て誰ともすれ違わなかった。久々の一人きりを満喫すべく、オフィーリアは腕を大きく広げて背伸びをした。
「あ、あの辺りかもしれない」
独り言を言いながら、とある棚に架かっている本に手を伸ばした。あともう少し。指先が何度か空を切り、オフィーリアは諦めて脚立に上った。本を手に取り、ぱらぱらとめくって中身を確認していると、急に両手が震え始めた。
「えっ、やだ、何……」
少しずつ、震えが大きくなっていく。そのうち膝までもがガクガクと震え始め、オフィーリアは立っていられなくて、そのまま脚立から落ちて尻もちをついた。
「んぎゃあ!」
お尻も痛いが、落とした本は無事だろうか。あんな分厚い専門書をもし壊してしまったら、オフィーリアの今月の給料がまるまる吹っ飛ぶかもしれない。掴まろうと脚立に手を伸ばしたが、震えてうまく掴めない。何度か指先が脚立をかすめていたが、突然その手を誰かにぎゅっと握られた。
「大丈夫かい?」
かすかに聞き覚えのある軽やかな声がして、顔を上げると、そこにはジャン・ビガット公爵が立っていた。心配そうな言葉のわりには、眉間にしわを寄せて怪訝な顔つきでオフィーリアを見下ろしている。
「ぎゃーーー!」
パッと手を離され、オフィーリアは再び尻もちをつく。
「はわ、はわっ、うわああ」
「……顔を見て悲鳴を上げられたのはさすがに初めてだよ……」
射貫くような鋭い目つきで、ジャンは引き攣ったように笑った。
「ひえぇぇぇ、ごごごごめんなさい。お願い、呪わないでくだいぃぃ」
「は? 呪うだって?」
「はわわ、呪わないでぇ。殺さないでぇ、まだ死にたくないですぅぅ」
「呪うって……私が? 君を?」
がくがくと体を震わせながら床をのたうち回るオフィーリアは、まさに呪われている真っ最中にも見える。ジャンはじっとその様子を観察していた。
「ううう、呪わないんですか?」
「ああ、とりあえずは」
「ええと、じゃあ、幽霊ではないのですね」
驚いて目を見開いたジャンが、口を押さえて笑い出す。
「くふふ、私が幽霊だと思っているのか、君は。そうか」
「幽霊じゃない……あっ、もしかして、あなたは……妖精の類ですか? 確かにそっちの方がぴったり」
「何を言っているんだ、君は」
口元を手で隠しながらオフィーリアを見下ろす横顔は、笑っているのにとても怒っているような、楽しそうなのにいら立っているような、そんなちぐはぐな印象だった。体の震えが止まらないオフィーリアは、床に転がったままジャンを見上げていた。
「そうだね、ふふ。確かに私は幽霊みたいなものだ」
ジャンはそうつぶやくと、音もなくオフィーリアのすぐそばにしゃがみこみ、床に手を突いた。怯えるオフィーリアの顔に、ぐぐっと顔を近付け瞬きもせずにしばらくの間睨みつけた。
「君はやはりクラウディオの恋人か。あいつから聞いたんだな、私の話を」
「えっ? は? こここここ恋人!? あの、何の話……」
「どこまで聞いたんだ、あいつから。全部か」
もはや声も出ず、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりするだけのオフィーリアの首を絞めるように、ジャンがシャツの襟元をぎゅっと掴んだ。
「答えるんだ。何を聞いた」
「な、何も。長官からは、何も聞いてません……」
「では、なぜ私にそんなに怯える」
ぶるぶると震えるオフィーリアの足をぎゅっと押さえるようにもう片方の手をあてたジャンは、シャツを掴む手に力を入れた。
「答えによっては、君を……」
「公爵閣下は」
同時にしゃべってしまいあわてて口を閉じたオフィーリアに、次を促すようにジャンは目配せをした。
「公爵閣下は……、なぜ、嘘を、つかれているのですか」
「……なぜ、だって?」
「あっ!」
がばっと起き上がったオフィーリアの頭が、ジャンの額にごつっと当たった。ジャンが額を押さえて痛そうにのけ反った。
「ひぃぃぃ、申し訳、ありません! そそそそんなつもりはっ」
「っ、いいから続けろ」
「あの、もしかして、どこか体の具合がお悪いのではないでしょうか! そうかも! 初めてのパターンだけど、あり得る! あの、すぐに病院で検査をなさったほうがいいかもしれません」
「……何なんだ、君は……」
赤くなった額を押さえオフィーリアを睨みつけたジャンは、やっとシャツを握る手を離した。呼吸しやすくなったオフィーリアは、はあはあと肩で息をする。
「あの、私、とっても、その、勘が良いのですっ。閣下は重大な病にかかっている可能性があります。お願いです。心配なので、すぐに病院へ行ってください」
「心配……」
「おい、何をしている!」
オフィーリアのこげ茶色の髪に手を伸ばそうとしていたジャンが振り返ると、そこには顔をしかめたクラウディオが立っていた。ジャンを突き飛ばすようにしてオフィーリアを抱き起こしたクラウディオは、そのまま彼女の頬に両手をあてジャンから目を逸らさせるように自分の方に向ける。その瑠璃色の瞳だけを視界に入れたオフィーリアの震えがぴたりと止まった。
「こいつには近付くなと言ったはずだ!」
クラウディオの怒った表情に、ひいい、とオフィーリアは息を吸ったまま吐くことを忘れ、目を閉じた。
「クラウディオ、お前、恋人に私の秘密をしゃべったな」
「これは部下だと言ったはずだ。それに、お前の名前以外は何も教えていない」
「だったら、この娘の怯えた態度はなんだ。おかしいだろう」
「こいつの情緒不安定挙動不審はいつものことだ」
「え、そうなの?」
怪訝な表情をしながらも、ジャンが少しだけオフィーリアから距離を取った。あごに手をあてしばらく考える仕草をした後、ジャンはくるりと踵を返し、何も言わずに去って行った。
震えの止まったオフィーリアは、大きく息をついた。
「はうう、長官、ありがとうございました……」
「行くぞ、立て」
乱暴に腕をぐいっと引っ張り、オフィーリアを無理やり立たせ、クラウディオはそのまま図書室の外へ出た。図書室から十分な距離を取った頃、クラウディオは突然立ち止まった。
「オフィーリア!!」
バン! と壁を叩く音が間近で聞こえ、がちりと体を固くして見上げると、頭のすぐ横にクラウディオの腕があり、すぐ目の前には顔があった。
「お前は! 命じた資料を持ってくることすらできないのか!」
「ひぃぃぃ、ごっ、ごめんなさいぃぃぃ」
「もたもたしているから、あいつに捕まるんだ! 資料は持ってこない、近付くなと言った奴には近付く! お前の頭は鳥頭か!」
「申し訳ありませぇぇぇん」
こんなに恐ろしい壁ドンがこの世にあるとは。美麗な顔が怒るとことさら怖いことをオフィーリアは嫌という程思い知った。
「さっさと戻って掃除でもしていろ!」
「ふぁい……」
「返事!」
「はいっ!」
最後にひと睨みしてクラウディオはどこかへ行ってしまった。オフィーリアはしばらく壁にもたれかかったまま呆然としていたが、ふらふらとした足取りで階段を上り始めた。
「ねえ、ちょっとあなた」
階下から女性の声がした。おそるおそる振り返れば、そこには以前すれ違いざまにオフィーリアに悪口を言って来た他部署の女性二人組が立っていた。
ああ、弱り目に祟り目とはこのことかしら。とうとう直接嫌味を言いに来たわ。オフィーリアは諦めて素直に階段を下りた。
「あの、何かご用でしょうか……」
書類のファイルを胸に抱いた女性たちは顔を見合わせた後、上から下までゆっくりとオフィーリアをねめつけた。オフィーリアが背中に妙な汗をかき始めたころ、年上っぽい女性が口を開いた。
「ねえ、あなた。大丈夫?」
「へ?」
「さっき、長官に怒鳴られていたでしょう」
驚いて顔を上げると、二人の女性が心配そうに眉を寄せオフィーリアの顔を覗き込んだ。
「殴られてなかった? さっき」
「いえ! 殴られてはいません! 怒られただけで……」
「長官って美しくて素敵な人だと思っていたけれど、あんな横暴な人だったのね」
「あ、あの、その、私が仕事ができないから長官は怒っただけで、その、長官は悪くないんです……」
「だからって、こんなに人目のあるところで女性を怒鳴りつけるなんてひどいわ」
「ずっと憧れていたけど、もう冷めたわ」
「ね、びっくりしちゃった。厳しい人だとは聞いてたけれど、女性にあの態度はないわよねえ」
「え、あの……」
うつむいた振りをして自分の手足を確認したが、全く震えていない。彼女たちは本心からオフィーリアを心配して同情してくれているのだ。ほんのり胸が温かくなってきたオフィーリアの瞳に涙が浮かんだ。
「あ、可哀そう。泣いちゃった。怖かったのね」
「違うんです。あの、話しかけてもらえてうれしくって……」
オフィーリアが手の甲で涙をぬぐうと、二人の女性はくすりと笑った。
「大変なのね、あなたも。私たち、長官室と同じ棟の契約課にいるから、今度一緒にランチでもしましょう」
「そうよ、私たち話を聞くくらいしかできないけど、しゃべったらスッキリするわよ」
「あ、ありがとうございます!」
「それにしても長官にはがっかりだわ。私、出してた異動願取り下げなくちゃ」
「私もそうするわ」
オフィーリアはきょとんとして二人の顔を何度も見た。
「あの、異動願って何ですか」
「届け出を出しておけば、異動の時期に希望を考慮してもらえるの」
「長官室は美形ばかりのエリートがいるから人気があるのよ。普段は事務員の募集なんてめったにないから、あなたけっこう羨ましがられてるのよ」
「でも、きっとさっきの事で、異動願取り下げる人たくさん出てくると思うわ」
恐怖で震えていたからわからなかったが、そんなにたくさんの人に見られていたのだろうか。それはそれで、とても恥ずかしい……。
「じゃあね、いつでも話聞くから」
「がんばるのよ」
「ありがとうございます!」
オフィーリアは去っていく二人に深く頭を下げ続けた。スキップしたい気持ちを抑えて長官室に戻り、鼻歌を歌いながら掃除を開始する。窓辺で日向ぼっこしながらコーヒーを飲んでいたサムエーレが笑顔で振り向いた。
「あれえ。ナーヴェ嬢、ご機嫌だねえ」
「はいっ。長官が恐ろしい人だったおかげで、お友達が出来ました」
「うん!? クラウディオが……? ふ、ふうん。良かったね……!?」
オフィーリアは楽し気にほうきを操っている。サムエーレはしばらく考え込んでいたが、まいっか、とつぶやき、残りのコーヒーを飲みこんだ。
ガクブル令嬢と怒りんぼ公爵