13
展示室はがらんとしていた。絵と絵の間隔は広く開けられており、広い室内の中央にはその場しのぎのような3人掛けのベンチがぽつんと置かれていた。
オフィーリアが順路に迷い戸惑っているのに気付いた職員が張り切って右手を上げた。
「お好きな順番で見て頂いて構わないのですが、せっかくですから古い順にご案内いたしましょう。まずはこちらから」
職員はキュレーターという役職なだけあって、オフィーリアにも理解できるように噛み砕いてゆっくりと説明してくれた。心のこもった対応、そして芸術に対する真摯な態度にオフィーリアはだんだんと緊張がほぐれていった。
「これは天使がユヴトゥミウス神の元へ信書を届けに来た時の絵です。この天使はユヴトゥミウス神に仕える天使の中でも最も美しいと言われている天使です」
透けるような金髪に青白い顔、頬に走る朱が印象的だった。男性とも女性とも見える天使は確かに美しく神々しかったが、クラウディオや先ほど出会ったジャンの方が生気があって美しいと思った。
そう、ジャンは幽霊には見えなかった。確かに生きている人間だった。
だったら、どうしてあんなに体が震えたのだろう。
「一番奥の展示がメインとなっております」
立ち止まって考え込んでいたオフィーリアを呼ぶように、職員の声が室内に響いた。はっとして顔を上げたオフィーリアは、あわてて後を追った。
職員はガラス張りの大きな箱の前にいた。箱の中には小さめのベッドくらいの大きさの台が置かれており、その上には薄汚れた布でぐるぐる巻きにされた細長い物が置かれていた。
「これはユヴトゥミウス神の聖遺骸です」
「聖……遺骸!? えっ、し、死体ですか!?」
オフィーリアが思わず一歩後ろへ跳び退ると、職員が嬉しそうに目を細めた。
「これはレプリカです。本物の聖遺骸は、大聖堂で厳重に保管されていますよ」
「はぁ……びっくりした。え、でも本物があるんですか?」
「ええ……ご存じありませんか? 学校の信教の時間に習いませんでしたか?」
「えっと、私、子供の頃は体が弱くて学校に行けなくて……必要最低限のことだけを家庭教師に習っただけで」
オフィーリアが震える手を押さえながらそう言うと、職員は気の毒そうな顔をした。
「……そうでしたか。それはご苦労なさいましたね。お元気になられて良うございました。大きな式典ではユヴトゥミウス神の聖遺骸を祭って行われます。ああ、次は近々行われる叙階の儀で見ることができるのではないでしょうか」
「ひええ、み、見たくはないです、けど」
「ははは。そうですか。聖遺骸と言いましても、腕の骨の一部ですけどね」
神様のものだろうと何だろうと、死体なんて見たくない。オフィーリアは少しずつ聖遺骸のレプリカから距離を取った。
「では、隣の部屋へ移動しましょうか。隣は国内の若手作家の作品を展示しています」
展示室から出たオフィーリアは隠れてほっと息をついた。
それほど芸術に興味の無いオフィーリアには、若手作家の斬新な絵画や彫刻は理解できなかったが、話の止まらない職員を見ているのは楽しかった。二つ目の展示室を出たところで、ちょうどクラウディオが迎えに来た。
「小娘を押し付けて悪かったな」
クラウディオが鷹揚に声をかけると、職員は恐縮したように頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。なかなかこうしてお客様とお話しすることもできませんので、調子に乗ってしゃべってしまったのを聞いていただきまして。つまらなかったでしょうに、申し訳なかったです」
「いいえ! とっても勉強になったし、楽しかったです!」
オフィーリアが胸の前で大きく手を振りながらそう言うと、職員はさらに頭を下げた。
「では、邪魔したな。また何か気付いたことがあったら、ささいな事でも連絡してほしい」
「かしこまりました」
玄関まで職員は見送ってくれ、オフィーリアとクラウディオは馬車に乗り込んだ。
「何か気付いたことはあったか」
クラウディオは馬車の窓をすぐに閉めた。外の景色が見えないと、二人きりなのをどうしても意識してしまう。
「ええと、特に嘘や違和感はありませんでした」
「職員は何か言っていたか」
「作品の説明だけで……特に、何も」
「ふむ。絵を見て何か気付いたことは」
絵画の天使よりもクラウディオの方が美しいと思った、なんて言ったら絶対に怒られる。んぐ、と言葉を呑みこんだオフィーリアは、手が震えているのを隠すようにそっとお尻の下に敷いた。
「天使の絵が印象的でした」
「他には」
「えっと、えっと、あ! 聖遺骸のレプリカがありました。大聖堂には本物の遺骸があるそうですよ!」
「そうだが」
「次は今度の叙階の儀で本物が見られるって言ってました」
「そうだ。そんなことも知らなかったのか。職員に驚かれただろう」
「病弱で学校に通えなかったので必要最低限のことしか習っていない、って言ったら困らせちゃいました」
「ユヴトゥミウス教のことは必要最低限のことだと思うが。お前の家は本当にお前に甘いな」
クラウディオは呆れたように言い、背もたれに体を押し付けた。
「ちなみに叙階の儀は大聖堂ではなく、王宮の敷地内にある神殿で行うんだぞ」
「んげっ、建築院の近くじゃないですか!」
「国内の聖職者の任命式だからな。大聖堂では狭いんだ。毎年、兵部省の兵団が仰々しく護衛して聖遺骸を運んで来ていたのに、知らなかったのか」
「知りませぇん……」
涙目で返事するオフィーリアは震えていない。そんなことも知らない貴族がいたことに、クラウディオは呆れるやら驚くやら、顔をひきつらせるだけだった。
「あのう、それは、えっと……」
建築院の応接室で、ベルナルドはだらだらと冷や汗をかきながら身を固くしていた。その向かいのソファでは、優雅な動作で足を組んだクラウディオが座っている。ただし、氷のように冷めた瞳でベルナルドをひたすら見下ろしてはいるが。
建築院の紅茶は特段美味しいわけでもないがまずいわけでもない、ごく普通の味がした。クラウディオはぬるくなった紅茶をすすった。
「別にお前をどうこうしようと言うわけではない。ただ、気になったから尋ねているだけだ」
「はい……」
ベルナルドは覚悟を決めたようにごくりと唾を飲みこみ、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「閣下のおっしゃる通り、妹ほどではありませんが、僕にもおかしな能力があります」
クラウディオは紅茶のカップをそっとテーブルに戻し、足を組みかえた。
『……ああ、お兄様がいれば壊れている場所を見つけてくれるのに。私じゃ正確な場所は分からない……』
大聖堂でオフィーリアが思わず口走った言葉がどうしても引っかかっていた。オフィーリアでは正確な場所はわからないが、ベルナルドならわかるというのか。この兄妹はいつも二人一組で修繕の見回りをして成果をあげていた。
「俺は気になったことは必ず調べないと気が済まない性格でな。お前の能力とはなんだ。続けろ」
ポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐったベルナルドが口を開く。
「僕は建物に関してだけ違和感を察知します。破損箇所はもちろん、柱や床の歪み、壁の内部の腐食など……妹のように体に異変はおきませんが、まともではない建物を見分けることができます」
「ほう、建物に関してだけ。だから、あの夜会の時は廊下の腐った場所の特定はお前がやっていたのか」
「はい。あの時は、妹だけではなく、僕も違和感を抱いていました……。隠していてすみません」
「いや、いい。お前は聞かれたことに答えた。それだけのことだろう」
言葉とは裏腹に、責めるようなまなざしを送って来るクラウディオからベルナルドは必死で目をそらした。
「なるほどな。お前の親は? お前たち兄妹だけが特殊な能力があるのか?」
「……父は数字に関して違和感を察知する能力があります。ですので、今は建築院で構造計算の担当をしております。このことは、建築院の管理長だけが知っています」
「お前も父親も天職についていると言ったところだな。遺伝か」
「はい。祖父は重さに関すること……同じ形のものでもどちらの方が重いとか、そういったことがわかるので、建築院の資材管理の担当をしていました。曾祖父も、その前も何らかの能力があり……代々、直系の長男だけに現れる能力だったのですが、オッフィーまでなぜかあんな能力を持ってしまって……かわいそうに……」
さらにぎゅっと強く拳を握りしめたベルナルドに、クラウディオは鼻白んだ様子で息を吐いた。
「お前たちがそうやってかわいそうがって甘やかすから、あいつはろくな一般常識も知らずに育ったんだろう。いつまでも手元に置いておけるわけがないのだから、いい加減……」
「オッフィーは、僕が一生守ります! あなたにそんなことを言われる筋合いはありません!」
相変わらず目をそらしたままではあったが、ベルナルドははっきりと言った。クラウディオは少しだけ目を見開いて口を閉じた。
「オッフィー、……妹は、僕が守ります。ずっと、子供の頃からずっとそうしてきたんです。これからだってそうです。だから、早く妹を返してください」
クラウディオはベルナルドから視線を外さずに、そっと紅茶に手を伸ばした。その少しばかりの沈黙に、ベルナルドははっとしたように落ち着きを取り戻し、少しだけ頬を紅く染めた。
「申し訳ありませんでした。閣下に失礼なことを」
「前々から感じていたが、お前の妹への執着は少々異常だな。何がお前をそうさせる」
「……」
「……母親か?」
ベルナルドは床を見つめたまま、肩をびくりと震わせた。
やはりそうか。クラウディオは確信した。
今では話題にのぼることもほとんどなくなった、奇跡の離婚。世間的には終わった話ではあるが、彼らはまだその渦中にある。貴族の婚姻は政略結婚が多いため、子をもうけた後には愛人を作り、そちらで暮らすことも多い。ただし、政略結婚である以上婚姻は継続し、形式上は夫婦であるふりをする。
しかし、家にオフィーリアがいるのだとしたら。
「僕たちの家族はとても仲良く暮らしていました。しかし、物心ついた頃に妹の能力が発動してしまいました。妹は母親の前で震え転びまくり、それまでの平和だった家庭はもうなくなってしまいました。震えて泣くオフィーリアに、困った顔をする母。僕と父は何もできませんでした」
「……そうだろうな」
「父と母は離婚することにしました。嘘の生活を止めない限り、オフィーリアはまともに立っていることができませんから」
クラウディオは紅茶に手を伸ばしかけ、空であることに気付いて手を止めた。やり場のなくなった手を持ち上げ、頭を掻いた。
「貴族の離婚なんてめったにないからな。王宮の官吏たちが過去の書類を引っ張り出して手続きの手順を調べたと聞いている」
「ええ……あの頃の父は王城へ通い詰めひどく疲弊していました」
そうつぶやくと、ベルナルドはゆっくりと両手で頭を抱え、うつむいた。
「僕は、あの時、妹を責めてしまったんです。母親が家を出て行くこととなり、動揺したんです。僕だって母に愛人がいるのはうすうす分かっていた。でも、今までそれでうまく暮らしてきていたのに。どうして、それを、台無しにするんだって。母様を返してって」
クラウディオは黙ったまま、目をそっと閉じた。その頃ベルナルドは十才くらいのはずだ。その年の少年に理性的な言動を求める方が間違っている。
「その時、オッフィーは泣きませんでした。泣くのも忘れて、呆けたように突っ立っていました。それで、やっと、僕は気付いて。ずっと、ずっと、母親が嘘をついているのに戸惑って、転んで怪我をして。傷付いていたのは、オッフィーも同じだったのに」
クラウディオは目を逸らすことはしなかった。ぽろぽろと涙を流すベルナルドの顔は、オフィーリアによく似ていた。
「オッフィーは僕が一生かけて守ります。だから、早く、オッフィーを返してください」
クラウディオは小さく息を吐き、うつむいて右手で眉間を揉んだ。
クラウディオは嘘が嫌いだ。若い王子だった頃は何かを期待して近付いて来る輩ばかりだった。嘘くさい笑顔を正面から非難してやれば、奴らはそそくさと逃げて行った。心にひっかかることはすぐに自分で解決する。それがクラウディオの性分だ。
しかし、こうして兄妹の傷付いた心に不用意に踏み込んでしまった自分の不躾さを、クラウディオは初めて、恥じた。
次回は12日(月)AM11時更新です。
クラウディオ、来週まで(´・ω・`)ショボーンとしたままです。
アグレッシヴな日曜日をお過ごしください!