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 大聖堂の事務室に行ったが、教皇は不在だった。あまりじっとしている人ではないらしく、仕事中でも手が空けばほうき片手にふらりといなくなってしまうらしい。


「お掃除大好きなんて、やっぱり神様にお仕えする人は違いますね」

「そうだな。今の教皇はめずらしく散財もしない堅実な方だ」


 二人は教皇を探してあてもなく大聖堂の周りを歩いていた。

 花壇を作るわけでもなく、華美な置物を飾るわけでもない庭には、ぼうぼうの雑草の合間に無造作に生えた黄色い花が揺れていた。かと言って放置している様子もなく、枯れた花や落ち葉はきちんと片付けられ、人工的な自然という感じがした。

 大きな木を回り込み、建物の角を曲がった瞬間、オフィーリアの膝ががくんと揺れた。


「ナーヴェ嬢、大丈夫か」

「ちょっと大げさにバランス崩しただけで、大丈夫です。自分で歩けるので、きっとまだ距離があると思います」

「この先には誰もいないようだが」

「ええ。だから、多分、わわっ、この先の建物に何か破損か障害があるのだと思います」


 オフィーリアは壁に手をつきながら少しずつ進んで行った。


「おい、どこへ行く」

「何かあるのは、この先です」

「だから、わざわざそちらへ行く必要はないだろう」


 クラウディオがぐいと腕をひっぱると、オフィーリアはきょとんとした顔をした。


「だって、だって、行って直さないと、誰かが怪我しちゃうかもしれないんです」

「お前はもう修繕係じゃないだろう」


 オフィーリアの瞳にみるみる涙が溜まっていく。ぎょっとするクラウディオを無視して、オフィーリアは再びおそるおそる歩き始めた。

 歩を進める度に、膝の震えは少しずつ大きくなっていく。壁につかまる手まで少しずつ震え始めてきた。


「ふえっ、ふわわっ、ひゃああ」

「その変な声は出さないと歩けないのか」

「ふええ、で、出ちゃうんですぅぅぅ、ほへええ」

「…………」


 へっぴり腰のオフィーリアの後ろを歩くクラウディオが、額に手をやってため息をつく。

 今にも涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で我慢しながら、オフィーリアはぎくしゃくと一歩ずつ歩いて行く。


「はっ、はわっ、ほへっ、あわわわ、おおっと! 危なっ、今のは危なかった!」


 壁に寄りかかり、ぜいぜいと肩で息をするオフィーリアの瞳から、とうとう一粒涙が流れた。上着の袖でそれを拭うと、堰を切ったように次から次へと涙がこぼれていった。それでもまた一歩、震える足を前に進める。


「……お前の情緒、今どうなってるんだ……」


 泣くほど嫌なくせにどうして行こうとするんだ。何なんだ、その執念。クラウディオはこの初めて見る生き物を、不思議な気持ちでただただ、見つめた。


「この辺りだと思うのだけれど……ああ、お兄様がいれば壊れている場所を見つけてくれるのに。私じゃ正確な場所は分からない……」


 建物裏の薄暗い雑木林を抜けると、古ぼけた壁の一角に出た。オフィーリアはきょろきょろと戸惑ったように辺りを見回していた。腰が抜けたように壁に体を押し付けて何とか立っているオフィーリアを見て、クラウディオは確かにこの辺りに何かがあるのだろう、と思った。

 ガサガサと草をかき分けて歩く音が近付いてきて、クラウディオは振り返った。


「ストラーニ公爵? ここは立ち入り禁止区域ですよ。こんなところで一体何を」


 そこには白いローブを着た白髪の男性が訝し気な表情で立っていた。


「教皇。事務所へ行ったら、あなたが行方不明だというので探しに来ました」

「ああ。それは申し訳ございません」

「いや、まあ、突然訪れた俺が悪いのだが。近くを通ったものだから、久しぶりに挨拶でもと思ったんだ」

「それはそれは、ありがとうございます。ちょっと庭掃除をしておりました」


 教皇が長い袖を優雅に揺らして指さす方向には、枝葉を落とされた丸裸の木が一本立っていた。


「あれは?」


 クラウディオが首を傾げると、教皇はおかしそうに口元を袖で隠した。


「見つかってしまいましたね。あの木は毎年この時期になると数日だけ真っ赤な花を咲かせるのです。しかし、花が散った後の葉には虫が集まってきてしまう性質がありましてね。ろくに手入れする暇もありませんので、花の見ごろが終わるとああして枝葉を落としてしまうのです。ふふ、落とした枝を集めて焚火をして、芋を焼いて食べるのが楽しみでしてね。こっそりひとりで枝を集めていたところです」


 教皇はふふふ、と目を細めて上品に笑った。


「ほえっ、ほわわわわっ」

「おや、そちらの方はどうなされました」

「これは俺の部下で……ちょっとばかり体調を崩しているが、すぐに治るから気にしなくていい。ほら、掴まれ」


 クラウディオに抱えられ、少しだけ震えの収まったオフィーリアは顔を上げた。


「ちょ、長官、あれ、あれです、きっと」


 オフィーリアの指さす方向を見ると、三階の窓横のタイルがひび割れ剥がれ落ちていた。


「タ、タイルは一枚剥がれると、まわりも剥がれていきます。……小さなタイルでも、三階から、落ちてきたらとても危険です」


 オフィーリアが息も絶え絶えにそう伝えると、一緒に見上げていた教皇もあごに手をあて頷いた。


「気が付きませんでした。確かに危ないですね。すぐに修理を頼んでおきましょう」

「ちょっと待て」


 クラウディオはオフィーリアを再び壁に押し付け、一階の窓枠に近付いて行った。


「これは……足跡が微かに残っている。ここにも。誰かが登ろうとした跡が残っている」

「何ですって?」

「この上の部屋は?」

「二階は書庫、三階は……私の、教皇の執務室です」


 クラウディオは、厳しい顔つきで足跡を睨んだ。よく見れば足をかけたであろうタイルも少し欠けている。


「何者かが忍び込もうとしていたようだ。気を付けた方がいい」

「ええ、……書庫などを一度点検した方が良さそうですね」

「そうだな」


 へたり込んで座っているオフィーリアを持ち上げ、クラウディオはもう一度三階の窓を見上げた。


「……警備を増やすように、俺からも兵部省(ひょうぶしょう)に要請を出しておこう」





 美術館へ向かう馬車の中で、クラウディオは腕を組んで黙ったままだった。気まずい沈黙の中、オフィーリアは座席の隅っこで小さくなっていた。


「あの、お騒がせしてしまって、申し訳ありませんでした」


 微かに聞こえる程度の声で、オフィーリアがそう言うと、クラウディオが瑠璃色の瞳を細めてじろりと睨んだ。


「ああ。全くだ。危険があると分かっているのに、いつもああして無鉄砲に近付いているのか」

「え、でも、あの、私はあまり出かけませんし、仕事中は兄と一緒にいますので」

「怪しい者が忍んでいたらどうするつもりだったんだ」

「えっと、それは、何とか逃げます……」

「あんな腰が抜けた状態で逃げられるものか。いいか、今後は絶対に一人で出歩くなよ!?」

「ふぁ、ふぁい……」

「分かったのか!?」

「はいっ!」

「……しかし、今回はお前のおかげで不審な足跡を見つけることができた。よくやった」


 怒った後に褒める。何て部下の心を掴むのがうまい人だろう。オフィーリアがキラキラした瞳でクラウディオを見ると、これ以上ないくらいとても嫌そうな顔をされた。


 それほど時間はかからずに美術館へ着くことができた。特別展示のない平日の午後は訪れる客も少ない。それでもクラウディオはすれ違う他の客からかばうようにしてオフィーリアの斜め前を歩いてくれている。

 事前に連絡をしておいたため、クラウディオの姿を見つけた職員がすぐに飛んできた。


「お待ちしておりました、長官殿。ご案内させていただきます」

「いや、我々は絵を見に来たわけではなく、話を聞きに来ただけなんだ」

「話、ですか」


 キュレーターの名札を付けた職員は、戸惑いつつ首を傾げた。


「最近、外国からの客が多いと聞いているが、どのような者たちだったか聞きたい。それから、そいつらが何を見に来ていたか」

「外国からの客ですか……。その、見た目ではっきり分かる方は以前と同じくらいの人数だと思いますが、見た目はそれほど変わりなく……話している内容やちょっとした所作に違和感のある方は非常に増えた感はありますね」

「つまり、非常に近しい隣国から来ている、ということか」

「出身国をお聞きするわけではありませんので、憶測ではありますが。おそらく」

「そいつらは、いったいどの絵を……」


クラウディオが続きを話そうと口を開いた時、わいわいとやかましい集団が廊下を曲がり姿を見せた。

 美しい黒髪をなびかせ、派手なドレスに身を包んだ令嬢を中心に、取り巻きの令嬢たちと護衛の兵士たちが笑い声と共にこちらに向かって歩いてきた。お互いの顔を認識できる距離まで来たところで、令嬢が立ち止まった。


「まあ、クラウディオ様」


 驚いて声をあげたのは、クラウディオの婚約者であるステッラだった。


「……ステッラ」

「ご機嫌よう、クラウディオ様。奇遇ですわね。お会いできて嬉しゅうございます」


 美しい礼を見せたステッラは、顔を上げるとゆっくりとクラウディオの後ろに隠れているオフィーリアに視線を移した。


「あら、あなたは……。もうお加減は良いのかしら」


 オフィーリアはあわてて慣れない礼をした。


「ナ、ナーヴェ伯爵家長女のオフィーリアです。覚えていてくださって、とても光栄です」


 ぎこちなく姿勢をもどすと、ステッラの後ろに立つ令嬢がバカにしたように鼻を鳴らして笑った。


「ああ、長官室付きの事務員となったと伺っておりますわ。……今日はお二人でお仕事かしら」


 クラウディオは「ああ」と素っ気なく返事をした後、オフィーリアに振り返った。


「お前は先に館内を案内してもらってこい。後で追いかける」

「は、はい」


 おずおずと後ずさり、オフィーリアとステッラの間で視線を彷徨わせている職員の方へと近付いて行った。


「では、こちらへどうぞ」

「はい、お願いします」


 後ろ髪をひかれつつも、オフィーリアは促されるままクラウディオに背を向け展示室へ向かった。


兵部省に属する騎士団が捕まえた犯罪者を取り調べるのが刑部省です。

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