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大聖堂の小さな門をくぐると、やはりたくさんの人々が訪れていた。ここでは身分の差はない。貴族も平民も、王族だって同じ門を通って同じ道を通る。
家族の幸せを願う者。思いつめて懺悔にやって来た者。巡礼しているのだろうか、旅装束の者もいる。
彼らが視界に入った瞬間、オフィーリアの膝がガクガクと震えた。
「はわっはわっはわわ」
「おい、大丈夫か」
クラウディオが前のめりに転がりそうになるオフィーリアの腕を掴んだ。両手両足を広げたポーズで踏ん張り何とか耐えているオフィーリアに、通りすがりの人々が奇異な視線を送って来る。
せっかく連れてきてもらったのに一歩も前に進めないなんて。
頭の上でクラウディオが息を吸う音が聞こえた。怒鳴られる、と身をすくめたものの、クラウディオはそのままため息をついただけだった。
「仕方がない。おい、掴まれ」
クラウディオがまるでエスコートするかのような品のある動作で左ひじを差し出した。オフィーリアは頬と胸の奥がかあっと熱くなるのを感じ、思わず伸ばしそうになった手を止めた。
「その、婚約者のいらっしゃる方の腕を取るのは、あの、あまり、良くないのではないかと、思います」
クラウディオは一瞬きょとんとした表情をした後、やっと自分のことかと気付いてそっと腕を下ろした。
「では、勝手にどこかに掴まれ」
「でも」
「お前、このままでは歩けないだろう」
反論のしようもなかったので、オフィーリアは考えた末にクラウディオが着ているコートの腰部分のベルトに掴まった。
「あの、でも、私っ、突然転ぶかもしれないので、やっぱり長官にご迷惑を」
「いいか、よく聞け」
クラウディオは、オフィーリアに背を向けたまま顔だけ振り返った。
「俺は、嘘をつかない。俺以外の声は聞くな」
オフィーリアはぽかんと口を開けてクラウディオを見上げた。
「分かったか」
「……はい。……震えが止まりました」
クラウディオは少しだけ目を見開いてオフィーリアを見た。震えていないのを確認すると勝ち誇ったように、にっ、と笑った。
「そうだろう」
クラウディオがそのまま歩き始めたので、オフィーリアはあわてて後を追った。足の長いクラウディオに必死でついて歩くオフィーリアは、再び人々の注目を集めていた。
「……何だか迷子の子供を連れて歩いているみたいだな」
「はあ、はあ、す、すいません」
息切れするオフィーリアにやっと気付いたクラウディオが、少しだけ歩くスピードを落とした。
「遠回りになるが、人の少ないところを通っていくか」
「はふぅ、すみません」
「まったくだ」
「はあ、はあ」
大聖堂の裏手にまわると、そこはベンチがひとつ置かれた殺風景な庭になっていた。生えているのは雑草だらけではあるが、人の通るところはきちんと手入れされており、端の方は腰のあたりまでの柵が張り巡らされていた。
「大聖堂は丘の上に建っていたのですね」
「ああ、ここまでは緩やかな坂道だからあまり気付かないが、ここは丘陵地帯だ」
「向こうの丘はここよりも見晴らしが良さそうですね」
「確かに眺めはいいが、向こうは王家と王家に連なる者の墓地だぞ」
「ひゃあ! お墓!?」
「お前は何も知らないんだな。俺は王弟としてこの国の未来が少し不安になってきたぞ。ほら、そこに座って少し休め」
オフィーリアをベンチに座らせると、クラウディオはひとり柵の方へすたすたと歩いて行ってしまった。
柵の方は下方から風が吹いているのか、クラウディオのピンクの髪がふわりと揺れていた。背の高いクラウディオのその姿は、子供の頃に母と見た満開に咲く木蓮を思い出させた。
私が一人で刑部省で働いているって言ったら、お母様びっくりするかしら。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、急に膝が震え始めた。
「あわわわわっ、な、なんでぇ」
そのうち手も大きく震えだし、体勢を保てなくなったオフィーリアはベンチから滑り落ちた。地面に横座りになり、手をついたが体を支えきれなくそのまま土に頬をつけて倒れた。
「大丈夫か? 君」
耳元で軽やかで品のある声が聞こえた。力強く抱き起こされると、さらに大きく体が震えた。
「あわわ、あわわわわ」
「何かの発作だろうか。私の声が聞こえるか? 持病の薬などは持っていないのか?」
「はわ、はわっ、ひええぇぇ」
がくがくと震えるオフィーリアには相手の顔がよく見えないが、服装や口調からして貴族の男性のようだった。震えが止まらないのは彼のせいだ。彼の言葉のどこに、こんなに震えるほどの嘘があるというのだろうか。
「おい、そいつに触るな!」
クラウディオの大きな声が聞こえ、オフィーリアは男から引きはがされるように強く引っ張られた。クラウディオに肩を支えられると幾分か震えが治まり、やっと男の顔を見ることができた。
「クラウディオ」
男が驚いた様に眉を上げてクラウディオを見ていた。襟足を伸ばした金髪、髪と同じ色をした長い睫毛が縁どる青い瞳。クラウディオとはまた違うタイプの美人だな、とオフィーリアは思った。男は物憂げで、さみしげな瞳を揺らして待っていたが、一向にクラウディオが返事をしないので、先に口を開いた。
「こんなところでこっそり逢引きなんて、いけないね。クラウディオ」
見た目とは裏腹に、男がクラウディオをからかう様に笑った。
「黙れ。これは俺の部下だ。お前はこいつには近付くな。早くどこかに行け」
「ふうん。そんな感じには見えないけどな。その娘、医者に連れて行かなくて大丈夫?」
「お前がいなくなれば治る。だから、さっさと帰れ」
「はいはい。じゃあ、お大事にね。レディ」
呆れたように返事をして男が立ち上がった。背はそれほど高くはないが、細身で高級そうな服装をしている。首元をしっかり覆うクラバットには大きな宝石の付いたタイピンが留められていた。クラウディオを呼び捨てにできるということは、間違いなく王家に近い高位貴族なのだろう。オフィーリアは今すぐ無礼を詫びたいと思ったが、高貴な方にこちらから声をかけていいものかと迷っているうちに、迎えにきた護衛騎士と一緒に男は去って行ってしまった。
「おい、立てるか」
「はい……あの方がいなくなったら震えが収まりました」
「……お前はあいつには近付かない方がいい」
ゆっくりとオフィーリアを立たせたクラウディオが、珍しく気まずい表情をした。
「あの方とお知り合いですか」
「あれは……ジャン・ビガット公爵だ。あいつが出歩くなんて珍しいな……ああ、そうか」
クラウディオはそう言ったきり、顎に手をあてて考え込んでしまった。
何だか仲が悪そうだったけれど、これは言わない方がいいだろう。オフィーリアは口をつぐんだ。
ビガット公爵家はとても古い歴史のある家で、確か現在の公爵は子供の頃病弱でほとんど寝たきりだったそうだ。成長してある程度健康になったものの、爵位を継いだ今でも社交界には全く参加せずほとんど人前には姿を現さない。同じような境遇だったので、世間に疎いオフィーリアでもビガット公爵という名前だけは知っていた。まあ、オフィーリアの場合は仮病なのだが。
それにしても、ほとんど会話もしていないのに立てなくなるほど震えるなんて初めてだ。というか、足が震え始めたのは彼が視界に入る前だったような気がする。どういうことだろう。そこにいるだけで体が震えるだなんて、もしや存在自体が嘘……?
「まさか……あの方は、幽霊……」
「バカかお前は」
冷たくオフィーリア見下ろしたクラウディオだったが、ふと、視線を斜め上に向けるとニヤリと笑った。
「まあ、あながちそれも間違いではないか。すぐそこに墓地もあることだしな」
「ひゃああ! 長官っ、早く、行きましょう! 私もう歩けますからっ」
目に涙を浮かべて騒ぐオフィーリアを笑いながら、クラウディオは懐かしそうに向こうに見える丘を眺めた。
ピンクの木蓮を見て、クラウディオの髪色を決めました。