後編
「時間を戻せるのなら、貴方はどんな過去をやり直したいですか?」
彼女の質問に、私は驚かなかった。
「やり直したい事は沢山あるけれど、今は君を助ける事が一番だ」
そう告げたかったが、事情を知らぬ相手には余りにも唐突過ぎて、言葉には出来なかった。
「貴方が望めば、どんな時間も取り戻せると思うの」
彼女はいつも通りに繰り返した。無事、時間が巻き戻った事に私は胸を撫で下ろし、すっかり緊張感は緩んでしまった。
余計な事はしない方が単純に物事は解決するのかもしれない。頭では理解が出来ているのだが、元来堪え性の無い私は同感を抑える事が出来なかった。最初はとても驚いたが、体験した私にとってはこれ以上納得出来る言葉は無かった。
「確かに」
思わず相槌を打つ私に、彼女は怪訝そうに眉を顰めた。私は悪びれもせずに意味も無く腕を組むと、偉そうに数回頷いた。事態はよく分からぬ方向へと発展していきそうだが、何だかどうでもよくなってきてしまった。無責任かもしれないが、一体どうやったら、これまで以上に悪い結果になると言うのか。
「少しでも共感出来たなら、放課後に校門で待っていて」
そう言うと、彼女は少し不安そうな顔をした。適切ではない気もしたが、感情が表情に出易い私は得意気な顔でそれに応えた。
不思議な力は脆弱な小男を屈強な大男に変えた。そうだ、私は全てを見透かしているぞ。最初の頃とは違う面持ちであるが、同じ結末にしない為にも、それは好都合というもの。私は幾度やり直そうとも君を救いだす所存である。男は決めた事は最後までやり遂げるものなのだ。そう自分を奮い立たせると、いつも以上に元気が出てきた。
私は放課後になると、悠々と胸を張りながら校門へと向かった。何だか年頃の娘を想う父親の様な気分になってきたが、彼女が救えればそれで良し。いつもであれば失敗に怯えるであろう事態だが、何せ今回ばかりはやり直しが効く。世紀の小心者は特殊な力を得て、やや有頂天になっていた。
しかし、この能力は何処からやって来たのであろうか。もし私の物であるとすれば、今までの人生の中で念じて欲する機会には事欠かなかった訳だから、無論もっと早く才能に目覚めていた筈である。すると、彼女の物である可能性は高い。
一体、何度までやり直せるのだろうか。深く考えれば考える程、今までとは一転、急に不安を感じた。いやいや、もう三回。三回目なのだ。失敗する方がどうかしている。「今回で絶対に解決する気持ちが無くてどうする」と、私は自分を必死で励ましたが、所詮は小者風情。無惨にも魔法の鍍金は剥がれ落ち、元の見窄らしい姿を晒す羽目になった。
そう言えば、彼女は明らかに不信感を抱いていた。果たして約束の場所に現れてくれるのであろうか。来てくれなければ、私は対処のしようがなくなってしまう。自殺する場所が歩道橋であるかどうかは分からない訳であるのだから。
よく考えれば回避可能な事態であったが、よく考える性分ならばもう少しマシな人生を送っていよう。私は後悔の念に暮れ、何だかドン底に突き落とされた様な気分になった。嫌な脂汗がじんわりと染み出し、止まらなくなってきた。
「どうしたの?元気が無い様だけれど」
酷く狼狽した顔を捻ると、声のした方角には、眩い光に包まれるかの如き絶景が広がっていた。嗚呼、女神様。有難うございます。私は救世主を崇める様な気分で、急いで表情をキリリと端正な物へと整えた。しかし、これから女神を助けねばならぬというのに、これでは立場が逆である。とは言え、余計な手出しは陸な事がない。これ以上の無理は禁物である。私は流れに身を任せる事にした。
二人の家路は一人の家路よりも、遥かに輝かしい物であった。女子と二人きりで喋るのは何年ぶりであろうか。彼女の説得さえ成功すれば、やり直しなんぞに頼らなくとも、いつまでもこうして家路につく事は可能なのである。そう思うと、照れ混じりの恥ずかしさの反面、俄然やる気が湧いてきた。
いつもの様に虫を助けると、お決まりの歩道橋へ向かう。楽しい時間ではあったが、ただ一つ残念だったのは、彼女が終始此方を警戒している事であった。しかしながらに、私だって時を何度か遡った事のある人間に遭遇した事は無いのだから、仕方の無い事ではあるのだけれども。
途中で彼女を抱き締めてやろうとも思ったが、頬を激しく殴打されるのは目に見えていた。冒険に出るには、些か私は経験が浅く無力であった。この事も心残りと言えるだろう。
束の間の幸せは短く感じる。私達の旅路は終わりを迎え、歩道橋を上った先で沈み行く太陽を眺めた。初夏の夕暮れは二人の額を紅に染めた。
「綺麗だねえ」
私は彼女に話し掛けた。今までは彼女が私に問う事が殆どだったが、それが駄目だったのかもしれない。退屈な男は嫌われてしまうのである。会話はキャッチボールなのだから。
「確かにこの世の物とは思えないくらい」
自殺を考えている人間が『この世』という単語を発すると、言葉の重みが違う。私の背中をゾゾゾと冷たい物が蠢いた。
「世の中は汚いのにね」
私は恐怖心を振り払うと、同調する事で安心させて気を此方へと向ける作戦を試みた。嘘を吐いて騙そうという気持ちは微塵も無い。人はすぐに他人の所為にして逃げようとする、薄汚い生き物である。とは言うものの、それは私にも当て嵌まる事なのだが。
「私は自分も含めて皆に責任があると思うの」
予想とはやや違う答えが返ってきて、私は少し戸惑いを隠せなかった。確かに彼女の言う事も尤もである。卯建の上がらない人生であるのは、何も他人が原因である場合だけではない。色々な事情が重なりあった結果と言えよう。しかし、これから黄泉へと逃げ出そうとしている人間に、果たして口に出す資格のある言葉なのだろうか。私は彼女の闇を少しばかり覗いた気がした。
「私と一緒に遠い所に行ってくれる?」
三度目の私は思った以上に落ち着いていた。優しい口調ではあったが、彼女の目の奥には冷たくドロリとした狂気が確実に潜んでいた。私はゴクリと喉を鳴らすと、固く決意した筈であったのにも拘わらず、たじろがざるを得なかった。
「理解して貰えないんだね」
不本意ながら暫し圧倒されていた私は、彼女が歩道橋の手摺に足を掛けた時、ようやく身体を動かした。反射的に彼女の腕を掴むと、必死になって縋り付いた。
「自分や皆が悪いとして、何で逃げ出す必要があるんだ!」
私は叫んだ。心の悲鳴とも取れる叫び声だった。力強く声を張り上げた筈だが、所々掠れていた。
確かに私は弱虫で臆病である。しかし、一生懸命に何かを成し遂げようとすれば結果は付いて来ると証明したかったし、何より信じていたかった。
「私だけの所為でないのなら、世の中を変えずに逃げ出しても罪にはならないでしょう?」
彼女は目を潤ませながら悲痛な面持ちで訴えたが、此方としてもこればかりは譲れない。譲る訳にはいかなかった。私は彼女を掴む腕に更に力を込めた。
「離して!」
なおも強引に飛び降りようとする彼女に、私も無我夢中であった。彼女を引き戻そうと身体を抱えた瞬間、目の前が突然暗くなった。そして、私の身体は宙を舞った。