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中編

 目を開けると、不思議にも私の隣には彼女がいた。


 呆けている私を見つめると、彼女は「どうしたの?」と不思議そうに笑った。「何だ、悪い夢か」と、私は安堵で胸を撫で下ろした。「何でもないよ」と答えると、彼女に安心しきった笑顔を見せた。


 次の瞬間、彼女が視線を落とした先では、深緑色の葉の上で虫がだらしなく腹を見せていた。私は嫌な感じがした。彼女は夢と同じ様に虫を助けると、やはり夢と同じ様に「他人に良い事をすると、自分にも返ってくる」と小さく笑った。私は背筋が冷たくなっていくのを感じた。


 同じだ。まるで同じなのだ。過去をやり直しているというのか。私は混乱し、気は動転した。


 しかし、彼女の言っていた事は嘘ではないという事を思うと、彼女に非難される謂れは無く、「間違っているのは世間一般で、我々に罪は無いのかもしれない」という考えに到達した。『被害者面』と罵られてしまうかもしれないが、何だか心が落ち着いた。


 だが、疑問は深まるばかりである。大体、時間が巻き戻る等という事が一般的に起こりうるのであろうか。彼女は最初から掴み所がなかった。もしかしたら幽霊なのかもしれない。普段あまり使わない私の脳味噌は、事態を収拾するのにやや時間を要した。少し時間を置いた後に彼女が虫に触れていた事実を思い出し、あらぬ考えを否定する。


 そうこうしている内に、「少し寄りたい所がある」と彼女に問い掛けられた。私は心の中で頭を抱えた。もし私が一緒に行かなければ、彼女は自ら命を投げ捨てはしないかもしれない。そう考える事も出来なくはなかったが、宛が外れた時の事と、彼女の強い眼差しを考慮するに、決意は相当固い物であると感じた。散々悩んだ結果、気付くと私は無言で頷いていた。家路を離れ歩道橋へ向かう途中、情けない話だが、私は何度も逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。


 歩道橋の階段を上る。私の気持ちは逆立っていた。無理もない。これから自殺しようとする人間を止めなければならないのだから。


「そんなに緊張する?」


 彼女はやや苦笑すると、私の事を気遣った。緊張の余り歩き方がぎこちなくなっているそうである。その優しさには感服するが、そもそもの原因は貴女にあるのだけれども。私はやや不満を感じたが、無理矢理に笑顔を作って、彼女の優しさに応じる事にした。


 これが恋の悩みであるのなら、何と可愛らしく、羨ましい事であろうか。私の心には『自殺』という二文字が突き刺さって抜けなかった。何だか処刑台の階段でも上っている様な錯覚に囚われた。


 頂上に到達する。長い雲が吸い込まれていく様な茜色の空を見ていると、何だかこの世の物ではない気がして、生きている心地がしなかった。


 ぼんやりと空や高架下を眺めていると、「一緒に遠い所に行ってくれるか」と彼女が問うた。以前と同じ提案である。今度は突然云々という言い訳等は許されない。


「この橋桁の下でなければ」


 私の言葉に彼女は目を丸くした。


「確かに俺みたいな男に声を掛ける女子なんて、普通じゃ考えられない。だからって道連れは御免だよ」


 私は彼女の目を見ないように、鼻息を強めながら、やや冷たく言い放った。


 沈黙の時間が流れる。もう少し優しく言えば良かったか。私は自分のずぼらな性格を呪った。私が静寂に耐えきれなくなった丁度その時、彼女は重苦しそうに口を開いた。


「理解して貰えないんだね」


 以前と違い、その声は震えていた。推測するに、彼女は私を道連れにする気は無かったのだろう。ただ、見ていて欲しかっただけなのだ。他人に知られずに一人で死ぬというのは、何とも寂しい物なのだから。


 彼女は私に背を向けると、歩道橋の手摺に足を掛けた。良い子の皆は決して真似をしてはいけない。手摺とは手で掴む物であり、転倒防止の為の補助器具なのである。


 二回目の私は冷静だった。彼女の腕を掴むと、半ば強引に橋上へと引き戻す。すると、やや乱暴であったか、彼女はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。膝をついて踞る彼女を見ると、少し悪い事をした気持ちになった。


「貴方は何の為に生きているの⁉」


 彼女は私の手を強引に振り払うと、感情的に私を罵倒した。前言撤回。何と失礼な事であろうか。確かに生きているのか死んでいるのかさえ気にされてはいない気もするが、他人にとやかく言われる事ではない。私は柄にもなく、すっかり頭に血が昇ってしまった。


「そんなに死にたきゃ、一人で死ねばいいだろ!」


 私は腹の底から力一杯叫んだ。握り締めた拳が微かに震えている。生きてきた中で、こんなに怒りを覚えたのは初めてかもしれない。


「ああ、やっちまった」と後悔して、思わず目を離した瞬間だった。藍色のスカートが目の前でたなびく。彼女はヒラリと歩道橋の最上段に飛び乗ると、寂しそうに笑った。そうして以前と同じ様に、爽やかな残り香と共に眼下へと身を投じた。


 虫が節だらけの腹を露にして、懸命に藻掻いている。もそもそと足を動かすものの、一向に元に戻る気配は無い。その姿は実に滑稽に見えた。


「頑張って」


 彼女はそう言うと、そっと虫の縁を指で押さえた。すると、事も無げに腹這いになる虫。虫は礼を言うかの様にチラリと此方を伺うと、いそいそと葉陰に身を隠した。彼女の小さな優しさに、嘲笑っていただけの自分を愚かしく感じた。


 そんな取り留めの無い事を思い出していたら、涙が自然と溢れ出して止まらなくなった。無性に彼女を抱き締めてやりたい気持ちが押し寄せてくる。私は心から彼女を助けてやりたいと願うと、一心不乱に時が戻るよう念じた。

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