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前編

 枝を伝うそいつは、此方をじっと見ていた。


 虫という奴は目に単眼と複眼という二つの種類を持ち、より高尚な虫程、沢山の目を持っているらしい。一体、その目で何人の私を捉えているのだろうか。そう考えると、いやはや気色の悪い物である。


 木漏れ日射し込む街路樹は真夏の匂いがした。私は大きな入道雲が浮かんでいる透き通る様な青空を見上げると、ポケットから取り出したハンカチで噴き出してくる汗を拭った。

「他人に良い事をすると、自分にも返ってくる」

そんな言葉がかつて存在していた気もするが、過度な期待は出来ない。完全に貧乏籤である。何故、こんな事になってしまったのだろうか。


「時間を戻せるのなら、貴方はどんな過去をやり直したいですか?」


 女生徒が私に問い掛けた。不可解な言動でクラスから浮いている娘である。では自分はどうなのかと言うと、浮き沈みも無く相手にすらされない「影の薄い」という言葉がよく似合う、何の面白味も無い男なのだけれども。


「貴方が望めば、どんな時間も取り戻せると思うの」


 私は首を傾げると、力無く苦笑した。一体どうしてしまったというのだ。気でも狂ってしまったのだろうか。失礼だとは分かっていても、私は深い溜息を我慢する事が出来なかった。


「少しでも共感出来たなら、放課後に校門で待っていて」


 そう言うと、彼女は今まで見せた事のない満面の笑みを浮かべた。私は思わずドキリとした。先程までの警戒心は何処へやら、好きでもない女性の前で顔を赤く染めて萎縮するという醜態を晒らした。


 フワリと夏服のブラウスが揺れる。仄かに良い香りを残して、彼女は霞の如く姿を消した。


 これはデートのお誘いであろう。普段目立たない存在の私にとっては、千載一遇の好機に思えた。よく考えてみると、言動はどうであれ、すっとした透明感のある上玉ではないか。男女の逢い引きなんぞ生徒の分際で経験出来るとは、いやはや何とも隅に置けぬ男なのだ。


 もう四時限が終了しており、本日の授業は五時限までなので、後一時間程で放課後が訪れる。一時限位はさぼって帰ってしまおうかとも思っていたが、根は真面目なのだ。今までの行いあっての、思いも寄らない幸運なのである。


 授業が終わるや否や、浮き足立った私は息を弾ませながら校門へと急いだ。彼女はまだ来ていない様で、男性が女性を待つ古臭い映画のワンシーンが頭を過る。


「嗚呼、これが青春という奴なのだろうか」


 今まで浮かばれなかった身の上の私に罸は当たるまい。折角なので、少しの間、悦に浸る事にした。


「待った?」


 私は彼女の声で我に返った。どんな顔をして待っていたのかは分からないが、外から見れば『恋に現を抜かす木偶』として映っていたのではなかろうか。そう心配すると、恥ずかしそうに首を横に振った。待ち焦がれた彼女は二割増しで美しく見えた。私は喜びと照れ臭さでそわそわと身体を震わせた。


 ふと振り返ると、周囲から多数の視線を感じる。確かに対象が対象であり、実際にはそうそう無い光景なので物珍しさもあるのだろうが、それを知っていても他人から注目されるのは満更悪い気分ではなかった。


 私は彼女と二人で初夏の家路を満喫した。彼女が笑うと嬉しかったし、私が笑うと嬉しそうだった。


 道すがら彼女はひっくり返った虫を助けると、

「他人に良い事をすると、自分にも返ってくる」と小さく笑った。

「それは虫だ」そう囁く天の邪鬼を、私は必死に押さえつけた。


「少し寄りたい所があるの」


 彼女の頼みに私は無言で頷くと、快く承諾した。乙女の頼みを無下に断る程に野暮ではないし、寄り道なんて中々ときめいてしまうではないか。私は胸の高鳴りを押さえられずにいた。


 彼女の願いは「歩道橋に上りたい」という、寄り道と言うには随分と可愛らしい物であった。大通りの立派な歩道橋は少し帰宅路からは逸れてしまうので、彼女は気を遣ってくれたのだろう。しかし、暇人の私にとってはどうという事も無く、むしろ大歓迎である。何なら、このまま語らい合って一夜を明かしたとしても、全く問題は無かった。


 二人並んで歩道橋の階段を上る。私は勇気を出して彼女との進展を図ろうと考えた。寄り道を誘うという事は、もっと長く一緒にいたいという気持ちの現れであろう。微かな期待を胸に段差を飛ばして先行すると、彼女の手を牽こうと企てた。しかし、儚くも厭らしい気持ちは見事に掻い潜られ、彼女は軽やかに頂上へと駆け上がると、後ろに手を組んで意地悪そうに微笑んだ。赤い夕日を背にしたその構図は、絵にして額縁にでも飾っておきたくなる程に見事な物で、後光の射す女神の前では、冴えない男は跋が悪そうに自分の髪を触るしかなかった。


 高架下には数多くの営みの流れが存在した。忙しなく同じ方向に流れていく自動車を見下ろしていると、何となく学校に行っているだけの自分と重なった。「周りの世界も大して変わらない」そう感じると、日常の嫌な事がとても小さな事の様に思えた。


「私と一緒に遠い所に行ってくれる?」


 彼女は優しく問うたが、目は笑ってはいなかった。突然の提案に私は答える事が出来なかった。戸惑いを隠せない私を見かねた彼女は、意を決した様に目を瞑って大きく息を吐き出した。


「理解して貰えないんだね」


 彼女が寂しそうに笑うと、純白の制服の裾が宙に舞った。微かな香りだけを残すと、何事も無かったかの様に交通の畝りに身を投じた。


 私は急いで手を伸ばしたが、初動が遅れた為か彼女の腕を掴み損ねてしまった。初めて話し掛けられた時の透明感と去り際の雰囲気がまるで同じ感覚で、「こういう事だったのか」と妙に納得せざるを得ない。置き場の無くなった指は虚しく空を泳ぎ、私はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。


 暫く唖然としていた私は、「望めばどんな時間も取り戻せる」という彼女の言葉を、ふと思い出した。聞いた時は不可解で到底理解出来ぬ言葉ではあったが、物は試しである。誰が聞いたとしても阿呆にしか見えぬであろうが、このままでは心残りから気分が悪くて仕方がない。私は彼女を取り戻したい一心で、懸命に「これは夢であって、現実ではない」と念じた。


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