無名退職サラリーマンの挑戦
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「京子、散歩に行って来る」
「気をつけてね」
「ん?車にか」
「それもあるけど、今日は2月22日よ。 あの騒動を見る気でしょう」
「よく分かるな。 でも心配いらない、遠くから見るだけだから。 何かついでに買って来る物あるか」
「あるわ」 ポケットからメモ用紙を取り出して 「はい、これ買い物リスト」
「じゃ、行って来る」
「くれぐれも気をつけてね」
「大丈夫だ」 と言って染谷滝治はいつもの散歩コースに向かった。 が、今日はちょっと寄り道をする。県庁前の騒動を見るために。
2月22日は竹島の日である。 県庁では、今まさにその式典が行われている最中で、県庁前では韓国人と日本人との間で怒号が飛び交っているはずだ。 染谷滝治はそこに向かったのである。
二月の松江にしては、今日は珍しくスカッ晴れである。 抜けるような青空だ。 わずかな冷たい風も心地よい。 スカッ晴れという表現は、元々東北の言葉であるが、出雲地方は、何故か東北の飛び地であるかのように、島根県内でも、そこだけ東北弁が使われているという特異な地域だ。 ”砂の器”はこれがトリックになっている。
島根県庁は、観光都市松江にふさわしく国宝松江城に隣接していて、それなりに見栄えのするロケーションなので、滝司お気に入りの 散歩ルートになっている。
県庁に近づくにつれて喧騒が聞こえて来た。 いろんな音が混じってて、かなりうるさい。
日本右翼の街宣車が何台か見えてきた。 数人の韓国人と見られる男たちと怒鳴り合っている。 「ウリ~、独島~」 と韓国人が叫べば、それに対して日本側街宣車が「帰れ」コールである。 毎年のワンパターン光景だ。
滝治は、「けったくそ悪い奴らだで」 と呟いた後舌打ちした。 腹わたは煮えくり返っていたが、騒動の中には飛び込んでは行かない。 飛び込んで行きたい衝動には駆られる。 が、それは不可能だ。島根県警や他府県からの応援の機動隊が、騒動が大きくならないようにがっちりと壁を造っているからだ。 滝治はただ見物するしかない。
もっとも、機動隊がいなくてもそのような無謀な行動をする気はないし、出来もしない。 思うだけである。 初老の男がどうこう出来るものでもない。
その式典に抗議するために、わざわざ韓国から来る韓国人もご苦労なこった。 その執念と言うか、彼らの粘着性にはほとほと感心してしまう。
騒動を起こす目的で来日する、それら韓国人がいとも簡単に、簡単どころかほぼ自由に入国でき、また、竹島の日の式典を妨害するために,島根県庁前に堂々と集合出来るというのは、はなはだ納得出来ないことだ。 このような不逞外国人は顔認証して、次回から入国を拒否しなければならない。
なぜそうしない? もめ事を極度に恐れる官僚的な発想なのだろうか? だとしたら、この騒動は永遠に続きそうだ。
幸い今まで暴力沙汰にはなっていない。 口喧嘩、罵り合いの範囲で収まっている。 それもそのはず、先ほども言ったように島根県警と他府県からの機動隊とが、敵味方の間にガッチリと壁を造っているからだ。 他府県の応援の機動隊員の方には、島根県民として心から、本当に感謝したい。
毎年2月22日に日韓の間で騒動起こす竹島の日とはいかなるものなのか。
竹島の日は2006年に竹島の集いとして始まり、今年2018年で十三回目となる。
当初は島根県だけの内輪の式典であり、政府関係者は誰もいなかったが、2013年になって始めて内閣府政務官が出席した。 島根県としては大臣クラスの出席を要請していたが、それはいまだ実現していない。何故だろう? 例によって、かの国に対して忖度が働くのだろうか。 バカな話だ。
竹島の日が制定されたことに対して早速韓国が反応した。 独島はウリのものだ! と、彼ら特有の火病を起こし、やかましく抗議してきた。 それは年々エスカレートし、政府関係者の出席とも相まってピークに達しようとしている。 そしてそれ以来、この騒動は年中行事になってしまった。
わざわざ島根県まで来て騒動を起こすエネルギーがあれば、それをもっと有意義なことに使えないものかとも思うのだが・・。 彼らのメンタルは不思議だ。
もっとも、韓国人は日本で悪さをすればヒーローになれるという屈折したお国柄であるから、無理をしてでも日本で騒いで一花咲かせたいのだろう。 やれやれだ。
もちろん日本側の感情も、当然、穏やかではなくなってくる。 彼らの理不尽な抗議につられて感情がエキサイトし、状況は一触即発の雰囲気が出来上がってしまっている。 それを機動隊の努力で何とか収めてはいるが、今後どうなることやら。
染谷滝治は、しばらくその騒動を眺めた後、京子に頼まれた買い物をするためにスーパーYUMEシティーに向かった。
退職して毎日家に居る身としては、ちょっとした買い物でも楽しいし、憂さ晴らしにもなる。 竹島の日は別だが。
買った物を小脇に抱え、我が家のある閑静な住宅街に向かった。 滝治は普段から散歩と、ちょっとした買い物をかねて、この辺りを歩くのが好きなのだ。
ここから我が家まで、だいたい3キロメートルある。 後方の喧騒を苦々しく思いながらゆっくりと歩いた。 空の青さと頬を撫でる、ちょっと冷たい風だけが、相変わらず心地よい。
五十分かかって家に着いた。 いつものようにポストに突っ込まれたチラシなどを取り出し、ドアを開けた。
「ただいま~」
「お帰りなさい」 居間のソファーに座って12インチのノートパソコンを操作していた京子が、その手を止めて、こっちを向きながら言った。
「遅かったわね。あの騒動どうだった? あなた、危なくなかった?」
「あ~、危なくはないさ。 機動隊ががっちり彼らを取り囲んでいるからな」
「見るといつも不愉快になるって言ってるわりには、毎年行ってるわね」
「はは・・。ほんと、そうだな。今日もしっかり不愉快になってきたよ」 買い物袋をキッチンで開きながら、滝治はそう言った。
「私やポングレに当たんないでよ」
この夫婦は2羽のウサギを飼っている。 ネザーランド種で名前はポンとグレ。 ポンは茶色で、グレは灰色、なのでグレ。 二羽とも6歳になる。
「おいおい、そんなことするわけないだろ、当たるなんて」
「そうね、確かにあなたは何かに当たるってことはしないわね。 そういう主義だったわよね」
「家の中に不愉快なことは持ち込まないよ。 自分の家というものは、常にほっと落ち着ける場所じゃないと家庭を持つ意味ないじゃないか。そうだろう」 と、滝治は教科書のような理想的なことを言った。
この夫婦は連れ添って四十年間大きな喧嘩もせず、ここまでやってきたのだから、確かに理想的な夫婦かもしれない。
そのポンとグレだが、知り合いから赤ちゃんウサギをもらってくれないかと言われ、軽い気持ちで、いいよって返事をしたのが大間違い。こんなにも手のかかる動物だったとは・・。 爪と歯をカットするために月に一回、動物病院行く羽目になった。羽目になったというのはちょっと可哀そうかな。 でも、正直負担に感じることもあった。 一年に最低十二回は動物病院に行くのである。 滝治が生まれてこのかた病院に行った回数よりもはるかに多い。
「ポン、爪伸びたわね。 たまには私が動物病院へ連れて行ってもいいわよ」
「歯も伸びているだろう。いいよ、俺が連れてく。 たまに暴れたりするから俺じゃないと」
最近では連れて行くのを、けっこう楽しみにしてるみたいだ。
退職後、毎日時間はたっぷりあるので、ドライブを兼ねて動物病院に行くのが気晴らしになるのであろう。そのドライブする軽自動車がラパンなのだから洒落になってる。
「あんた、ポングレを、ほんと、猫可愛がりするわね」
「ウサギなのに猫ってか。はは・・。でも、なんで可愛がるのに猫が登場するんだろうな」
「見返りを期待しない愛情なんだって」
「へえ~、そうなのか。 確かにポングレに見返りを求めても無理だな。 ここ掘れワンワン。子犬のほうがよかったかな。はっは」」
「先ほどの怒り収まった?」
「いんにゃ、それは別。 この憤りは島根県民なら誰しも持っている感情さ。 いや、最近は島根県民だけじゃないな、今では全国的な憤りになってきている。 京子は全然そんな気持ち無いのかな?」
「でもね、竹島なんて・・。問題が大きすぎて、私らレベルではどうしょうもないわね」
「そりゃそうだ。 俺たちレベルどころか、島根県知事でも、いや、総理大臣レベルでも難しい問題だ。だから、こんなに長引いて、解決の糸口さえ見えない」
実際、日本国政府も手をこまねいていたわけじゃない。 オランダのハーグ国際裁判所に持ち込もうとしたが、韓国が乗ってこないのでどうしょうもない。裁判になれば韓国に勝ち目がないことを彼ら自身が一番よく知っているからだ。
相手が乗って来ようが来まいが、何度でも訴えればよいと滝治は思うのだが・・。 周辺国とは波風を立てたくないということだろうか。 北方四島も尖閣もみなそうだ。 その弱腰が滝治を苛立たせる。 形だけの抗議ではしかたがない。
「問題が大きすぎるか・・、俺たちレベルではどうしょうもないか・・。 だけどな、あの巨大な徳川幕府も、小さな力が寄り集まって、最終的に倒れたぞ」
「うわ!すごい例えを持ち出したわね。 呆れた」
「どんな難問でも、解決のための蟻の一穴があるはずだ」
「何? それ。 あんたが蟻になって堤防でも壊そうっての?」
「堤防を壊しちゃまずいな。 はっは」
「問題解決のための手がかりね。 それは私も分かるわよ。その小さな穴をどうやって開けるのよ」
「さあ~」
「おやおや、頼り無いわね。ほっほ・・」
滝治は,その一穴を何度か職場では開けて来た。 とは言え、竹島問題もそうなのか? 何だか次元が違うような・・。 滝治も、それは十分分かっている。 なので・・空しい。
「ねえ、あんた。 退職してから、そろそろ一年ね。最初は、毎日が日曜日で嬉しいと言ってたけど、今はどうなの?」
「自由な時間がたっぷりあるってのは、いいな~。 これで大金持ってりゃいうことない」 実感だろう。 大金は別にして。
「お前はどうなんだい? 信用金庫やめてからかなり経つだろ」
京子は、5年前まで信用金庫で事務をやっていたが、現在は主婦業に専念してる。 パソコンの扱いもお手の物でブラインドタッチもでき、滝治はいつも感心している。
この夫婦の子供は一男一女の二人で、二人とも,独立してちゃんとやっている。 なので、滝司と京子は自分たちのことだけを考えればいい。
さっきもいったように、現在時間はたっぷりあり、お金も、大金とは縁がないが生活にはまったく困っていない。
京子は以前から、お互い退職して時間がたっぷりできたら、夫婦二人して、キャンピングカーでも買って、全国の温泉めぐりでもしたいな、という仄かな願望があった。 あくまでも仄かな願望である。 キャンピングカーは高価だし、そんな贅沢品無理かなあ~、とも思ってる。 なので、それを滝治に面と向かって真面目に提案したことはない。 もちろん冗談交じりの軽い話の中では言ったことはあるが。
でも、それ以外にもささやかな老後の楽しみ方はいろいろあるだろうし・・。 そういうことをあれこれ考えるのも、また楽しかった。
「ねえ、あんた、長いこと仕事がんばってきて、やっと自由な時間がたっぷりできたんだから、なにか自分の好きなことをやれば」
「やればって, 何を?」
「さあ~、」
竹島は1905年に島根県に編入され、島根県隠岐郡竹島となった。 他国から奪ったものではない。 なので、当時どこからもクレームは来ていない。 歴史的にも日本のものなのだ。
竹島周辺は優良な漁場で、多くの日本人漁師が漁をしていた。 イカ アワビ サザエなど豊富な海の幸に恵まれ、漁民にとって、まさに宝の島であった。 が、今はそれがない。 戦後のどさくさに紛れて韓国初代大統領李承晩によって、その宝島が奪われてしまったのだ。 悪名高き李承晩ラインが引かれたのである。火事場泥棒されたといってもいいだろう。 それによって多くの悲劇が漁民を襲った。
いつものように竹島周辺に漁に出た福岡の漁船が、韓国軍の銃撃を受け・・、韓国軍と言ったが、表向きは独島警備隊といって警察組織を装っている、その実は、軍に所属する特殊部隊で紛れもなく軍人だ。さすがに軍を表面に出すのはまずいと思ってるのだろう。
そんな警備隊が竹島にいるとは知らず、いつものように漁に出た福岡の漁船が突然銃撃を受けたのだ。船長が被弾し、治療もされず韓国で死亡するという事件が起きた。 第一大法丸事件である。
1965年に日韓基本条約が結ばれるまでに3929人が抑留され、拿捕された漁船は328隻で、死傷者は44人にのぼる。
島根県庁知事室。 浜溝知事と秘書の大沢がいる。 知事室のインテリアは質素を旨とする浜溝知事好みで、極めてシンプルである。 が、賓客の手前、一応油絵と壷が飾ってある。 価値のほどは分からない。
「知事、ごくろうさまでした。竹島の日も大きな騒動もなく、無事に終わってよかったですね」 大沢が言った。
「あ~、そうだな。 島根県警と、他府県から応援に来ていただいた機動隊の方には感謝の一言だね」 窓の外の松江城を見ながら、浜溝知事は答えた。
さらに、「年々、竹島の日も全国的に知られるようになったのはいいが、一番怖いのは、この式典がマンネリ化することだ。 インパクトのある、何かがそろそろ必要だね」
「政府から大臣が出席されれば、相当なインパクトになるんですけど・・」 大沢が残念そうに言った。県からは何年も前から要請しているが、なぜか実現しない。
「あちらは竹島に軍隊を常駐させてるってのに・・。 悔しいです」
「うん、残念だ」
総理大臣でも来てもらえれば、と思うのだが、実現しそうにない。 いつか、ぜひ実現させたい。気持ちだけが募る。
「ところで、今度の知事選ですが、今回も無投票になりそうですね。 対抗馬がいません」 大沢は嬉しそうだ。
「う~ん、そうなるかな」 知事は相変わらず外の松江城を眺め、その景色を堪能している。
「あれえ~、どうしたんですか?浮かない顔して」
「うん、何か張り合いがないなあ~」 浜溝知事はやっと外の景色から目を離し、大沢の方を向いた。
「なにを贅沢なことを言ってんですか。 無駄な労力を使わなくていいんですから、結構なことじゃないですか」 大沢は笑みを浮かべ満足そうに言った。 そりゃあそうだろう、秘書としての自分の身が安泰なのだから。
「無駄な労力とは思わないよ。 選挙というものは複数の立候補者がいて、それぞれ政策や意見を主張して、それを有権者が判断し投票する。 無投票当選ってなんか喜びがないなあ~。 それって、県民の何パーセントぐらいに支持されてるかどうか分からないじゃないか。無投票だからといって全員が私を支持してるはずないだろ。 それに、初当選したときの感動がだんだん薄れていくのが、我ながらこれでいいんだろうかと思ってしまうんだ」
と言って、また外の景色に目をやった。相変わらず外はスカッ晴れで真っ青な空が広がっている。 さぞ、洗濯物がよく乾くだろう・・、なんて知事は思っていない。 たぶん・・。
「知事、そんな青臭いことおっしゃっちゃあ~・・、あ、いや、失礼しました」 大沢はあわてて謝った。
「はっはっは・・。青臭いか、本当にそうだな、はっは・・。七十過ぎの爺さんの言うことじゃないな」浜溝知事は豪快に笑った。大沢は知事のこんなところが好きだった。そして尊敬もしていたし、このような知事の秘書になれたことを感謝している。
「県民の支持率は、普段のアンケートでも十分わかるじゃありませんか。いつも絶大ですよ」 確かにそうだった。でも、それは強力な対抗馬がいないということでもある。
「ねえ~、大沢さん」 急に声のトーンが変わって大沢の方を向いた。 浜溝知事は老若男女問わず、誰に対してもさん付けで呼ぶ。 もちろん幼児や子供に対してはちゃんやくんだが。
「はい?」
「私は知事二期勤めてきたが、これと言って何か成果を上げてきただろうか」
「沢山あるじゃないですか。 なぜそんなことをおっしゃるんですか。 二期八年、そつなく勤めてこられたじゃないですか」 嘘ではなかった、大沢は本当にそう思ってる。
「そつなくねえ~。 でも八年間、ずっと人口減少は収まらず、景気だってぱっとしない。若者は都会に行って帰って来ない。 私も高校を出てすぐに東京に行ったから、若者の気持ちも分からんでもないがね。 わが県の人口は現在七十万人だ。これ以上減ったらと思うと恐怖を感じるよ。 在日の韓国人や中国人よりも少ないんだから深刻だ。 おっと、知事がこんな弱音を吐いちゃいけないな。 それをなんとかするのが私の仕事だからね。 それを期待して県民は私に一票を投じたのだから。 祭りがあるごとに餅つき大会に参加するだけのセレモニー知事になっちゃ、だめだよな」
と、いって、また外の景色に目をやる。
「そんなに自分を卑下しないでください。 県民の絶大な支持があるからこそ前回の選挙、無投票で当選したんですから。 それに、知事がおっしゃった問題は、島根県だけではなく全国どこでも同じでしょう。大都会を除いてどこも苦労してますよ」
「絶大な支持か・・。地方選挙は、どこも投票率が低いだろ。 有権者にあきらめのムードのようなものがあるんじゃなかろうか?・・。 おっと、また知事らしくない弱音が出てしまった。 いかんな。 はっは」
大沢も浜溝知事の苦悩は痛いほど分かってる。 が、そうですね知事、と言うわけには行かない。
確かに、人口減少や不景気は全国的な問題であった。 だが、浜溝知事にとって、他県がそうなのだから島根県がそうなのもしかたない、という言い訳は、知事が絶対に口にしてはいけない台詞だと浜溝は思っている。
どんな選挙でも、選挙に当選してすぐ達磨に墨を入れて両目にしてしまう人がほとんどであるが、知事になるのが目的になってはいけない。
知事になるのはあくまでも手段で、なってからが大変なのである。 だから浜溝知事の達磨は今でも片目のままだ。 本人は仕事に対して、何かをやり遂げたという実感が無かった。
染谷滝治は、いつものようにお気に入りの散歩コースを歩きながら、いろいろ自問していた。 右手には松江城がある。それを見るともなく、心の中で、「何かをすれば・・、か」 京子の言葉を思い出していた。
何をする?健康のためにゴルフ? そんなの趣味じゃないし。 テレビでよく紹介されてる蕎麦打ち・・? うん、あれは面白そうだ、蕎麦は好きだし、興味はあるな。 ただ興味があるというだけでやってみよう・・と、そこまでは思っていない。 滝治は出雲蕎麦が大好きで、自分でも打ってみようと思ったことはあるが、思っただけである。 読書はどうだろう。本は今でもそこそこ読んでいるし、今更って感じだな。
「やっぱ、あれか、あれしかないな・・」 滝治は何かを決断しようとしている。 が、次の瞬間、「いや、やっぱり無理かな」 おいおいどっちなんだよ。 相当迷ってるみたいだ。
滝治は、京子に言われるまでもなく退職したらやりたい事があった。 それは心に秘めたままで、今まで誰にも言ったことが無い。 いや、人にとても言えるようなことではなかった。
しかし、言うべき時が来たかな・・。
ついに決断した。
「ただいまあ~」 滝治は買ってきた惣菜を冷蔵庫に入れるためにキッチンに向かった。
京子は居間の隅に置いてあるマッサージチェアに座ってタブレットをいじっている。 マッサージチェアのスイッチは入っていない。 最近ではソファー代わりに使っていて、本来の目的はどっかにいってしまった。
「お帰りなさい。またコロッケ買ってきたの」
「ピンポ~ン!当たり。 よく分かったな」
京子は軽く笑いながら、「分かるも何も、コロッケを買ってくるのはいつものことでしょ 。あんたの食生活、安上がりで我が家の家計大助かりよ」
「俺は子供の頃、コロッケ大好きだったな。 それが今でも変わらないってことだ。カレーライスも俺にとっちゃご馳走だな」
60歳代の田舎育ちの子供の頃の食卓ってそんなものかも知れない。 それはお前んとこだけだって!という声が天から聞こえてきそうだが、実際、滝司にとってそうなのだからしょうがない。
あんた、今まで一生懸命働いて来たんだから、そろそろプチ贅沢でもしたらどうなの?。 それくらいの余裕はあるわよ。 何か食べたいものないの?」
普段から食事には全く文句を言わない滝治に、京子は何か美味しいものをと思うのだけれども、滝治の好きなものは大衆食堂のメニューにあるような、親子丼 カツ丼・・などなどで、それらも美味しいとは、私も思うんだけど、なんだかな~、って感じね。
「何!贅沢していいってか!」
「え~、いいわよ。 世の中には美味しいもの沢山あるでしょ。 河豚とかしゃぶしゃぶとか、松坂牛のステーキなんてどう?」 と、言いながら、京子は、これって私の食べたいものばかりねと思って、くすっと笑った。
「うん~ん、そうか! それじゃあな、京子!三百万円用意してくれるか!」
時間がとまった。チッチッチ・・。 沈黙の後、やっと、おもむろに京子が、
「ふ~ん、ずいぶん贅沢なものお召し上がりになるのね。 ミシュラン三星レストランのフランス料理のフルコースでもご所望ですか?」
「ナイフとフォークは苦手だ。 どうせ食べるんなら、極上のうな重のほうがいいかな」
「それが三百万円もするの」
ちょっときつい顔をして、「正直におっしゃいよ!何に使うつもりなのですか!」
「どうしても聞きたい?」
「あたりまえでしょう! 三百円じゃないのよ、その一万倍。大金よ」
ちょっと間を置いて、「ははあ~ん、分かったわ。 男が人に言えないことで大金が必要・・。 それは大体、飲む 打つ 買うのどれかよね。 結果によっちゃ離婚もありうるわね」
「おいおい、ちょっと待てよ。 熟年離婚はきついな。 飲む 打つ 買うって、何てこと言うんだよ。長年一緒に住んでて、それらのことには縁が無いの、分かってるだろう」
「う~ん、確かにそうねえ。でも、それって、逆に見れば面白みの無い、つまらない男ってことかしら・・」
「つまらない男って! ひどい言い方だな。 多数の男は仕事に追われ、額に汗水して家族のため、いや、家族のためなんてのは、ちょっと恩着せがましいかな。 とにかく、必死に働いてて、そんな道楽にのめり込む余裕なんてないさ」
「分かってるわよ。 ちょっと言い方が悪かったかしら。ごめんなさい」
軽く謝った後、さらに、
「余裕も無いのに道楽に走って家族も自分の人生も駄目にするニュース時々聞くわね。 その点我が家はそんなことも無く良かったわ。 あんたに感謝よ」
「今度は持ち上げるのか。 はっは・・。じゃ、三百万円用意してくれるかい」
「だから、その大金、何に使うのって、さっきから聞いてるのよ。何で素直に言えないのよ」
「う~ん、その~、何て言うか・・、言いずらい」
「男が言いずらいってことは、、飲む 打つ 買うのどれかよね・・。いいかげんしてよ! 堂々巡りじゃないの」 軽く切れた。 「それとも、車?あんたスポーツカー欲しいなあって以前言ってなかった?」
車なら許してあげようかなと京子は思った。 長年、滝治が欲しいものもあまり買わず我慢してきたことを知っている。 けっしてケチではなかった。 私や子供には、渋らないで何でも買ってくれた。 私たちが喜ぶと滝治は本当に嬉しそうだった。
「車、う~ん、欲しいな。 今まで軽自動車しか買ったことがないから、たまに一郎の普通車に乗るといいなあ~って思うもんな」 長男の一郎は現在、自衛隊の宇都宮駐屯地に勤務している。
「でも、車じゃないんだ」
「だから、何って何度も聞いてんじゃないの!」 さらに切れてきたみたいだ。
「そうだな、俺もはっきり言わないと誤解されてもしかたないわな。 じゃ、言おう。京子、俺が何言っても絶対に笑うなよ。 絶対にだぞ」
と言いながら、滝治は口元に笑みを浮かべてる。 なんだか笑いをこらえているようだ。 自分でもこれから言うことがよっぽど変なことだと思っているのだろう。
「何よ、自分が笑ってんじゃないの。いいかげんしてよ」 京子、完全に切れた。
「すまんすまん」
世の中の夫婦の会話というものは、このようなオチャラケた内容がほとんどである。 それはお前んとこだけだって! という声がまた天から聞こえてきそうだ。
「実はな、俺、来る島根県知事選に立候補しようと思う。 なので、供託金三百万円いる。 と、まあ~、こういうことだ」
また時間が止まった。チッチッチ・・。何秒経ったのだろう、京子がやっと口を開いた。 あきれた口調で・・「ふ~ん、知事にねえ~」 ぼそっと、言った。
「あんた最近冗談が下手になったわね。 面白くないわ」
「いやいや冗談じゃないから。 本気だよ。 俺は今まで何事にも本気で当たってきたのは、京子も知ってるだろ」
「そうかしら、けっこう適当にやってきた部分もあるでしょ」
「わっはっは・・」
「笑ってごまかさないでよ。 藪から棒に知事にって、気でもふれた?」
「おいおい、ひどいこと言うなよ。 俺が立候補するのが、そんなに変か」
「相当変よ。 今の今までそんなことこれっぽっちも言ったことないじゃない。 それが突然、びっくりするわよ。 いや、びっくりって言うより、へ?って感じね」
「そうかあ~、そうだよな、俺が知事に立候補だなんて、ふつう驚くよな。 自分自身でも、なかなか言い出せなかったんだから」
「あのね、言っとくけど、あんた高卒よ。 それも通信制の高校。 知事は無理よ」
「今の言葉、胸にグサっと来たぞ。 そうかあ~、高卒では知事になる資格が無いのか。 残念」
「何言ってんの、もちろん資格はあるわよ。 資格はあるけど当選は無理っていう意味よ。 世間の人は学歴とか職歴とか、そういうところで判断するでしょう。 全国に高卒の知事なんて一人もいないでしょう」
「え~、そうかあ~。 う~ん、こりゃハードルが高いな」
「でもね、市長ならいるわね。 横浜の女性市長、名前何て言ったかしら・・。ごく普通の家庭の主婦が、家にいるの退屈だからって車のセールスを始めて、すぐにトップの成績になったそうよ。 その実力が認められて、大手スーパーの社長にスカウトされたのよね。 この人、確か高卒よ。 人それぞれどんな能力を秘めてるか分からないものね。 それが今では横浜市長だから、正に立志伝中の女性ね。 実力だけで上り詰めたんだから、すごいわあ~!尊敬するわ」
「横浜の女性市長のことなら、そんな話、俺も知ってるよ。 だから俺が知事になっても可笑しくないだろう」
「どうしてそうなるのよ、可笑し過ぎるわよ。 横浜市長は特殊な例で参考にならないわ。 あんた、そもそも何をやりたくて知事になりたいのよ」」
「言いにくい」
「また。いいかげんにしてよ!」 京子、さらに切れそうだ。
「たぶん・・、知事になって高収入を得て老後を悠々自適に過ごしたい。まっ、こんな企みでしょ。 確かに人には言いにくいわね」
滝治が,「知事の年収は千三百万円位らしいよ。 我が家にとっっちゃ夢見たいな金額だ。 そんな高給貰ったら、確かに贅沢三昧できるわな。 それもいいかな」 と、にやついた顔で言った。
「あんた、目が¥マークになってるわよ。 何が贅沢三昧よ。 コロッケと店屋物の丼で満足する人が」
「はっは、そりゃそうだな」 言った後、あわてて手を横に振りながら、「いやいや、違うって。俺は収入目当ての立候補じゃないよ。 でもな、その金額、知事の重責を思えば安いくらいかもしれない」
「じゃ何? 名誉でも欲しいの」
「そうかあ~、名誉も手に入るか。 良いことずくめだな」
「ばかね、そんだけ大変な仕事ってことよ」
ちょっと間をおいて、
「私たち、バカな話してるわね。 しょせん、大金にも名誉にも縁が無いのに、取り越し苦労もいいところ。もう一度聞くわ。 何で知事になろうと思ったの。 どういう魂胆なのよ」
「島根県を良くしたい」 滝治はさらりと言った。 京子の方はさらりとは行かない。 ドリフのように体中でずっこけた。
「何よそれ! 中学校の児童会長の選挙じゃないんだから、そんな幼稚な公約、お笑いもんよ。 ったく、もう~」
さらにあきれた口調で、「はいはい、立候補なんて冗談だったのね。 少しでも信じた私がバカだっわ。はいはい、終わり々。現実に戻りましょ」
「島根県を良くしたい。 これって、そんなに変か?」
「住みやすい社会にしたい、犯罪の無い社会にしたい、待機児童をなくしたい、何々したい・・。 そう言ってそうなれば苦労は無いわよ。 平和平和ってお題目唱えてれば、世界が平和になると思ってるお花畑の人達と一緒よ。 無責任もいいとこ」
「そりゃあそうだけど、出来る出来ないは別にして、まず目標を立てなくちゃ」
「ふ~ん。じゃ、目標を立てて、具体的にどうすれば島根県が良くなるのよ」
「島根県の当面の問題は人口減少、それから景気回復、とりあえずこの辺かな」
「あのねえ~、それって全国的な問題だからね。 大都市を除いてどこも苦労している問題よ。 県知事や頭のいい官僚がどんなに努力しても、なかなか解決できないのに、あなたはどうやって解決するつもり?」 もっともな疑問だ。
「それを今から考える」
京子は、またまたずっこけそうになった。「ずいぶんのんびりした立候補者ね。さっきも言ったけど、あなたは高卒の普通のサラリーマンなのよ。 それが知事に立候補なんて・・」 深いため息をついて、
さらに,「現在の浜溝知事の経歴知ってるの?」
「え~と、相当な高学歴らしいってことは聞いたことがある。 京子もやっぱり三高の亭主の方が良かったのかな。お前は4大卒だし、どっちかというと京子の方が知事に向いてるかも。はっは」
現知事の経歴もよく知らないで、それに挑戦するなんて・・。京子は、またまたあきれた。
「誤解しないでよ。学歴がどうであろうと、あなたは私たち家族にとって及第点の旦那様よ」
「及第点って、ぎりぎり合格ってか。 まあ、いいや。はっは」
「じゃ、言いなおすわ。十分合格点よ」 ちょっと褒め過ぎかしらと思いながら、言った後、自分でも少し照れた。滝治は満更でもない表情をしている。
「世間の人って投票するとき、さっきも言ったように学歴職歴で判断するでしょ。 高卒じゃ、やっぱりハンディあるわね。 でも、あなたヒラタ技術研究所のような大企業で、よく部長になれたわ。その点偉いと思うわよ」
ヒラタ技術研究所は、日本の家電業界のトップ企業で、世界中に工場を持っている。 松江にも工場があり、島根の経済に多大な貢献をしている。
「あ~、それな。不景気のどん底の時、何気なく提案したあの製品が大ヒットしたからな」
「六面液晶ルービックキューブね。 六面揃う手順を教えてくれるやつ」
「俺な、どうしてもルービックキューブ六面揃えたくてがんばったけど、難しくてできなかった。 なら、六面を液晶画面にして揃う手順を示せば、誰でもできるんじゃなかろうかと思ったんだ。 それが思わぬ大ヒットしたもんで、松江の事業所が、全世界にあるヒラタ技研の事業所の中で売り上げトップになったから、その貢献が認められて部長になれったってわけだよ」
「偉いわあ~! でも、私、それ使っても未だに揃えられないわ、ほっほ」 実際ルービックキューブ六面揃えるのは至難の技だ。 皆さんも苦労したんじゃなかろうか。
「でも、ルービックキューブだけで部長になれた訳じゃないでしょう。 日頃のあなたの勤務振りが認められたのよ」
京子続けて言った、「部長になれたから、じゃ、いっちょ、知事にでもってわけには行かないわよ。 ちょっと待ってね、浜溝知事の詳しい経歴調べてみるわ」 と言ってノートPCを手に持った。
「え~と、・・、石見川本町出身で、あら、あんたの出生地に近いわ。 あんた川戸だったわよね。 え~と、それで、江津学院入学。あら? 入学して三ヶ月で浜田中央高校に転校してる」
「何で転校したんだい?」
「校風が合わなかったみたいね。入学したとたんに暴力振るわれたらしいわ。たちの悪い不良がいたみたい。教師も見ぬ振りしてたらしいわ」 京子はウキペディアを読みながら言った。
「ウキペディアにそんなことまで書いてあるのか。 驚いたな・・。 入学そうそう殴られたら、そりゃ~、転校したくなるわな」
「わっ!すごいこと書いてある。 飛び級制度があれば、小学生の時に高校に行けるくらいの神童だったらしいって書いてある。 スーパー頭脳ね。 で、当然のごとく東大卒で、あらまあ~、その後ハーバード大に行ってるわ。 それから、旧大蔵省に入って、天下りも何件かしてる。 ふ~、こんな巨艦に挑もうなんて・・、あんた、相当無謀じゃない?」 ウキペディアを見ながら、京子は感心しきりだ。
「こう言うのあるぞ。 とおで神童、じゅうごで才子、二十歳過ぎればただの人ってな」 滝治はことわざを引用した。
「よくそんなの知ってるわね。何よ、それって負け惜しみ? 到底ただの人って思えないわよ。 この人に出来ないことってあるのかしら?」
誰でもそう思うかもしれない。 が、滝治は・・。
「はっはっは、おいおい、何言ってるんだよ京子、この人にも出来ないこと沢山あるだろうよ」
「どんな」 怪訝そうに聞き返した京子。
「体操の内村航平のようにウルトラCできるかな」
「たとえが極端よ。 出来るわけないでしょ!あんた、内村選手のファンなの」
「あ~、大ファンさ。 浜溝知事が出来ないこと他にもあるぞ。 歌は上手いのかな、楽器は出来るのかな、料理は、野球は、サッカーは、裁縫は、ジャグラーは、落語は漫才は・・、他に、え~と?」
「もういいわよ」 強引に遮った。
「話が変な方に行っちゃったわ。 私は、あくまでも学業成績がすごいって感心してるだけよ。 なのに何よ、漫才って。知事にそんなこと求めてる人って誰もいないわよ。 バカね」
「漫才師から大阪知事になった人いたじゃないか」
「いたわね。 その人、哀れな末路だったわ。 いや、だからそういうことじゃなくて・・」
「分かってるよ,京子の言いたいことは。 俺は、つまり、世の中にはいろんなスーパー頭脳があるってことさ、いや、能力と言った方がいいかな。 いや、この表現も違うかな。 元々能力無くても、好きこそ物の上手なれで、努力して能力を身につける人もいるだろうし、どっちかと言うとこういう人の方が一番多いかも知れない。 俺思うんだ。頭脳にも能力にも大小は関係ないって。 大きい歯車や小さい歯車それぞれが噛み合って物事が上手くいく。 40年以上工場で働いてきてそれがよく分かる 。何年前だったかな、京子が俺の工場に見学に来て、玄関に入った時の京子の第一声を、俺は今でもはっきり覚えてるぞ」
「?、 私、何て言ったかしら」 きょとんとした顔で聞き返した。
「その時、京子はこう言ったよ、うわ~、きれいって!」
「言ったかどうか忘れたけれど、確かにすごくきれいだったって印象はあったわ」
「契約してる清掃会社の人が、本当によくやってくれてたんだ。 社会って、いろんな職業の、つまり、大小の歯車の噛み合わせだろ。 そこに優劣は無いよ」」
「それは私にもよく分かるわ。 それがスーパーエリートの浜溝知事と何の関係があるのよ」
「スーパーエリートだからこそ出来ないことってあるんじゃないかな」
「何それ? 禅問答みたいね」
この夫婦の晩御飯は遅い。 八時頃からちびちび晩酌を始めて、一時間後の九時のテレビニュースを観ながらゆっくり食事を始める。 ほぼ毎日このパターンである。
一日でテレビを観るのはこの時くらいで、普段はほとんどパソコンやタブレットでユーチューブなどの動画共有サイトを観ている。 これが、この夫婦のひまな時間の過ごし方だ」
「なあ~、京子。 俺が知事に立候補したら迷惑かな? 確かに三百万円は大金だから、京子の気持ちも分かるよ。 けど、供託金は一定の投票数を取れば戻ってくる」
京子の作ったチャーハンを口に運びながら言った。 京子の味付けはプロ顔負けだ。 本当に美味い。
「一定票取れればね。 一定票って、何票?」
「え~と、総有効票数の十分の一だったかな」
「それに必要なお金三百万だけじゃないでしょ。 ポスターとかハガキとか、いろいろお金掛かるわよ」
「う~ん、そうだな。 だったら、そんなもんいらないかな」
「でも、何で供託金て必要なのかしらね? 三百万円用意しないと立候補させないなんて変よね。 諸外国じゃ、高くても五万円くらいって聞くわ」
「そりゃあ~、冷やかしや売名行為を防ぐためさ。 誰も彼も立候補したら多すぎて選管が大変だからだろ。 三百万と高額なのは新規参入者を防ぐためだろうな。 世襲を守りたいのさ」
「逆に言えば、大金持ちの人は売名行為でも何でも出来るってことね。 そうそう、こんな人いたわよね、どんな選挙にも顔をだす・・、名前何て言ったっけ。あ、思い出した、藤吉郎とか言う人、いたわね」
「あ~、いたな。他にも発明家の・・、え~と、名前忘れた。 金もってる人は選挙を遊び道具にできるってことか」
「お金は無いけど清貧でりっぱな人もいると思うけど。 こういう人はシャットアウトしちゃうわけ? 何か不公平よね」
滝治もそう思った。 実際自分が立候補しょうと思った時、真っ先に頭に浮かんだのはお金のことだった。 お金がネックになって、政治的にりっぱなアイデアを持っていても立候補を断念する人がいるかも知れない。 確かに理不尽かな、と思う。
だが、誰も彼も好き勝手に立候補できるとなれば収拾がつかなくなるし、変なのも大勢でてくるだろう。300万円で線引きするしかないというのも理解できる。 でも・・高すぎる。
「お金のこともあるけど、・・。 それより私ね、あんたが立候補したら・・、何て言うか、そのお~、近所の人がどう思うか、何て言われるか、そっちの方が気になるのよ。 え~!あの染谷さんが~、知事に立候補! 身の丈ってものを知らないのかしら、染谷さんて只のサラリーマンでしょう、頭おかしくなったのかしら。ほっほ・・。 な~んてね。近所の奥さん方の格好の井戸端会議ネタだわ」
「ひどい言われようだな。 でも只のサラリーマンって、その言葉、全国のサラリーマンを敵に回したぞ」
「ごめんなさい。そういう意味じゃ・・」
「分かってるよ。 京子の言う通りだ。 一県の首長になろうとする、とんでもない野望を持つ人間の経歴にしては、俺はちょっと、ちょっとどころかそうとう弱いかな。しょせん,只のサラリーマンごときがって思われるだろうよ」
「ごめんなさい、いろいろ反対ばかりして。 悪く取らないでよ。 私だって、あなたのやりたいこと応援したいわよ。 でも、よりによって知事にって。 唐突過ぎて気持ちがついて行けないのよ」
「そうだな・・」 ポツリと滝治はつぶやいた。こんなにも女房が反対してることを無理やり推し進めても・・。 あきらめるか・・。
ちょっとの間無言が続いた。 そして、
「京子、俺、立候補諦めた」
それを聞いて、今度は京子が苦悩する番だ。
次の日、滝治はいつもの様に散歩に出かけた。
京子は居間で考えている。
あの人どうしちゃったのかしら、知事に立候補なんて。百パーセント落選するのは、あの人自身も十分分かってるくせに・・、じゃ、なぜ? 知事になるのが目的じゃないってこと。変ね、知事になるのが目的じゃないのに知事選に立候補する・・? 三百万円ものお金をどぶに捨ててまで。 じゃあ~、売名行為? 有名になりたいのかしら、まさかね。
私が、あまりにも反対するものだから、あの人も立候補諦めたといったわ。 あの時の顔、さびしそうだった。 なんで・・? そんなに落胆するほどの事かしら。 夫婦として四十年一緒に暮らして来たのに、本心が分からない。 こんな事初めて・・。 ため息をついた。
旦那が何かしたがってるのなら、素直にそれを応援すればいいじゃない、とも思う。 反面、旦那が何かしらのど壺にはまるのを止めるのも、また妻の役目よね。 とも思う。
どう判断を下すかは、それは夫婦間の信頼関係に比例するのかも知れない。 なら、迷うことは無い。簡単なことだ。 応援しよう。 京子は決断した。 が、後でその決断が、また迷うことになる。
「ただいま」 いつものように、滝治はポストから郵便物を取り出して玄関の下駄箱の上に置いた。
「買い物、キッチンに置いとくよ」 キッチンは京子がいつもきれいにしてくれてる。 ピカピカだ。
「おかえりなさい。ねえ、こっちに来てくれる」 居間のソファーに座ってる京子が呼んだ。
滝治は京子の向かいに座って、「何?」
「さっきね、隣の橋本さんの奥さん,松子さんとね話したのよ。 旦那さんの仕事、不景気で相当大変らしいわよ」
「ホテルの支配人だよな」
「ええ、日本海夕陽ホテルよ。 ビジネスのね」
「ネーミングが悪いよ。 夕陽じゃだめだろう、日の出ホテルとかにしないと」
「ちゃかさないで真剣に聞いてよ。 でね、あなたが知事ならどういう対策をとる?」
「いちビジネスホテルの景気に関しては、支配人の橋本さんが死ぬほど考えてるだろうよ。 それで客が来ないってんなら、ホテル経営のど素人の俺にいい考えなんてあるわけないじゃないか」 工場で図面ばかり見て来た滝治だから当然の答えだ。
「だから! ホテルの支配人としてじゃなく、知事の立場ならどうするかって聞いてんのよ」
「知事として・・か。 知事はあきらめたって言ったじゃないか」
京子は、それにはだまってる。
「でも変だな、外国人観光客は爆発的に増えているんだから、ホテルの需要は沢山ありそうなもんだが」
「島根県には観光資源が無いってこと? そんなことないわよね 。国宝松江城は有るし、出雲大社でしょう、宍道湖でしょう。 それに、隠岐の島なんていいわよね。 石見の方には世界遺産の大森銀山に、山陰の小京都津和野でしょう。 それに島根県で一番高い山の三瓶山が有るわ」
「一番高いといってもたったの千メートルだぞ、はっは・・。 中国地方で一番高い山は、鳥取県の大山だ。 それだって1900メートルで、外人には興味ないさ」
「確かに山の高さは売り物にならないわね。 でも、出雲大社なんて外国人にも興味あるんじゃないかしら。 外国の人だって、その荘厳さに触れれば感動するんじゃないの?」
「来るきっかけが無いってことか。 交通不便だしな 。県内に空港は三つもあるのに・・。 新幹線が無いのが痛いな」
因みに、その三つの空港とは、出雲 石見 隠岐である。 隣の鳥取県にも米子空港と鳥取空港とがあり、この二県で五つもの空港があるのだ。 人口は二県を足して百二十万ほどなのに。
「ネットで観たんだけど、栃木の方に猿がビールを運んでくれる居酒屋があるんだそうだ。 外国人にえらく人気があるらしいよ。 それに、長野の方にも猿が入る温泉があって、こちらもユーチューブですごい再生回数だそうな」
「猿 猿 って何よ。 ほっほ・・。 猿が解決してくれるの」
「いや、猿だけじゃないぞ。 奈良公園の鹿なんか、これもユーチューブでしょっちゅう紹介されてるし、あと、何て言ったかな、そうそう、大久野島だったな。 別名ウサギ島。 ウサギだらけの島で、ここも外国人に大人気らしい。 他にも、猫カフェやフクロウカフェ・・」
京子が遮った、「ちょっと待ってよ。 島根県を動物ランドにしたいの。 島根に何か目玉になるような動物いた?」
「うちのポンとグレ。はっは・・」 滝治は、クチュクチュと餌のペレットを食べてる可愛い二羽のウサギを見ながら言った。
「ご冗談」
「他には、ヤマタノオロチなんてどうだ。 はっは・・」
「それって動物? 呆れた」
「神楽は有名だぞ。 子供の時夜更かしして眠い目をこすって見たもんだ。 石見神楽だけどな。 ヤマタノオロチが登場する朝方には、大抵寝てた」
「あんた石見川戸出身ですものね」
「つまりだな、観光客を呼べる何か売り物があればいいのさ」
「売り物て?」
「それが分かれば苦労しない。 風が吹けば桶屋が儲かる・・」 滝治はこのフレーズが妙に気に入っている。
「風が吹かせればなあ~」滝 治はため息交じりでボソっと言った。
「あんた、風を吹かしたくて知事に立候補しようとしたの?」
「知事の話はもういいよ。 金もかかるし・・。 京子にも迷惑かけたくないし・・」
「でも、チャレンジしたいんでしょう。 あんたの本心の本心を聞かせてよ。 何も無くて突然知事に立候補なんてありえない。 何か心に秘めてるんじゃないの?」 問い詰めた。
「そうだな、京子には何でも話したい。京子、俺が何を言っても笑わないでくれ。絶対だぞ」
「何よ、真面目な顔して。笑わないわよ。だから、言いたいこと言って」
「俺はな、俺はな、実は・・」 またしても笑いをこらえた。
「何よ!また自分から笑ってんじゃないの。 いい加減にしてよ!」 夫婦の会話というものは、ほとんどがこのようなおちゃらけ・・・。
「すまんすまん。京子に笑われる前に先に笑っとこうと思って。 実はな、俺、島根県立軍を創設したいんだ」
時間が止まった。 よく止まる。 何秒かたって、京子がキョトンとした顔で聞き返した。
「しまねけんりつぐん・・? 何それ」
「軍隊だ」
「だから、なによそれ?」
「京子は軍隊を知らないのか」
「知ってるわよ。 戦争する、あの軍隊でしょう」
「戦争をしないために軍隊をもつという面もあるぞ」
「ええ、抑止力になるって意味ね。 それが、何であんたと関係あるのよ?」
「島根県単独で軍隊を持ちたい」
「え?・・・、島根県・・軍隊?」
「島根県立軍を造りたい」
京子の頭の中は混乱していた。 例によって冗談話かしら? いやいや、そう思えない雰囲気があるわ。軍隊って・・。 軍隊はすでに国にあるし、ん? あれは自衛隊?
「軍隊持って何しようっていうのよ」
「もちろん竹島を奪還するためだ」 滝治はさらりと凄いことを言った。
京子、返す言葉が無い。
「わっはっは・・、冗談だと思ってくれていいよ。 さ、コーヒーでも飲もう」 この場ではこれ以上いう必要もないだろうと思い話を止めた。
冗談だとは、京子は全然思っていなかった。 40年も一緒に暮らしてきたんですもの、冗談かどうかすぐ分かるわよ。 と、心の中で呟いただけで口には出さなかった。
滝司も冗談を言ったのではなかった。
次の日、滝治は、またまたお気に入りの散歩コースに向かおうとしている。
「じゃ、行って来るよ。 言われた惣菜忘れずに買ってくるからな」
「気をつけてね」
京子は、一人になってタブレットを見つめるでもなく思案していた。 あの人が知事に立候補。 悪いけど落選確実。 供託金が戻ってくるかどうかも分からない。 いや、分かってる、絶対に戻って来ない。 さらに立候補の理由が軍隊を造りたいだなんて、追い討ちをかけて落選確実・・。 そりゃ~、私だって応援できるものならそうしたい。 でも、あまりにも荒唐無稽。 ちょっと引くわ。 いや、ちょっとじゃなく相当引くわ。 立候補の理由が理由なだけに世間の人の嘲笑を買いそう。
お互い冗談だということで、無かったことにして、元のように普通に老後を二人して楽しめばいいじゃない。 わざわざ面倒なことに首突っ込まなくても・・、と思う京子であった。
あの人妙なこと言ったわよね。 エリートだからこそ出来ないことがあるって。 逆に言えばエリートでないから出来ることがある・・、それって何? エリートでない人、自分自身のこと言ったのかしら。つまり自分なら出来ることがあるって。
滝治は中学を卒業後、集団就職でヒラタ技術研究所に就職した。 働きながら通信制の高校で機械を学んだ。 元々機械いじりが好きだったので成績はトップクラスだった。
そんなあの人が出来ること・・、
「何かしら?」
私が降りてあの人の立候補に賛成しようかしらと、ちょっと思ったが、島根県立軍と聞いて、その思いはみごとに粉砕された。
軍というのは、戦闘機とか戦車とかいるでしょ、他にも戦艦もミサイルとかも。 一番必要なのは兵隊よね。 県にそんなお金どこにあるのよ。荒唐無稽もいいところ。
ばかばかしい、止めた止めた! 考えるの止めたわ。 あの人も冗談だって言ったんだから、冗談なんでしょう。
でも京子、なぜか釈然としない。 いろいろ悩み多き年頃なのか・・?
夜の九時、いつものようにTVニュースを観ながら滝治はウイスキーをロックでちびちび飲んでいる。 京子は発泡酒をこれまた、ちびちび飲んでいる。 滝治は、ビール系はグ~っと一気に飲むもんだと京子にたまに言うが、そういう飲み方を京子は出来ないらしい。 お茶を飲むように少しずつ飲む。 まあ、どんな飲み方をしても自由だけど。
「ねえ、あんた。 島根県の人口は七十万人くらいよね」 発泡酒を片手に京子が言った。
「あ~、そのくらいだ。世田谷区より少ないらしいよ。 因みに鳥取は五十万人前後だったかな。 それがどうした」
「私が子供の頃、島根県の人口は九十万人だったわ。 二十万人も減ったのね。 人口増やすの、どうすればいいのかしら」
「前にも言ったように、県の偉い人達が朝から晩まで考えても減ってるんだから、どうしょうもないわな」 実際、どうしょうもない話を二人はしている。
「俺たちの子供二人も県外に出て行ったんだから、人口減少の責任の一端が、俺たちにもあるぞ」
「そうよね。一郎は防衛大学に由美子は音大に行くのが希望だったから、しょうがないわ」
「景気回復すれば、ある程度の人口流出の歯止めにはなるだろう」 滝治はちょっとの間考えてお気に入りのフレーズ、「風が吹けば桶屋が儲かる」 を独り言のように言った。
「経済効果というものは思いがけないひょんなところに現れるって意味よね」
「そうだ。 逆に言えば経済は計算通りに行かないってことだ。 これだけでも共産主義経済は上手くいかないってことの証明になるわな。 はっは、共産主義の話は今んとこ関係ないか」
その時、滝治にとって衝撃のニュースがテレビから流れた。 韓国の文大統領が竹島に上陸したのだ。 さらに日王に土下座しろとのたもうた。 日王とは天皇に対する蔑称である。
滝治の顔色が変わったのを京子は見逃さなかった。 この人、退職してから、ますます竹島のことに過剰に反応するようになった、ような気がする。
黙って横目で滝治の顔を見つめた。 そして思った。 この人、私と子供の言うことは何でも聞いてくれた。 そして、自分のことはいつも後回しだったわね。 おそらく会社でもそうなのであろう。 上司の言うこと、部長になってからは部下の言うこと、今まで、人の言うことを聞いてばっかりの生活だったんじゃないかしら。
会社は、まあ、しょうがないとしても、家では我が儘の一つや二つ有っていいのに・・。
でも、この人、私たちの喜びが自分の喜びだと、いつも言ってた。 真実そうなのであろう。
逆に、私だってこの人が喜んでいる姿を見るのは嬉しいし、私も幸せな気分になる。 じゃ、いいじゃない、立候補したいって言うんなら、それがこの人のやりたいことなら、応援しても・・。
京子は、我ながら理屈っぽいと思いながらこの結論に至った。本当は結論あり気で理由は後付けだ。
「ねえ、あんた、自分の寿命どれくらいと考えてる。 もちろん私としてはあんたに長生きして欲しいわよ。 それでもあえて聞くの」
「そうだな平均寿命くらいは生きたいな。 今、男性は八十歳かな」 因みに女性は八十九歳である。
「ということは、後十三年生きるとして、毎日散歩してささやかな買い物をして、家では私と他愛の無い話して・・」
「おいおい、他愛の無いって、はっは・・。 楽しい夫婦間の会話じゃないか」
「そりゃそうね。 それにしても、これから十三年は随分長いわよね」
「時間の長い短いはよく分からないが、それがどうした?」
ちょっと間があって。
「あんた立候補すれば」
「うん?」
「知事選よ」
ぶ~! 滝治はウイスキーを吹いた。
「どうしたんだ、どういう風の吹き回しだ」 口元を拭きながら 「いいのか?お前、反対してたんじゃないのか」 あ~あ、パジャマのズボンまで濡れて・・。
「六十五歳まで、あんたは私たち家族のために一生懸命働いてくれた。 そして、これからはあんたの自由時間よ。 知事に立候補したいんでしょう。 あんたのことだから、何か秘めたものがあるのでしょう。 いいわ、応援する。三百万円も用意する」
「ありがたいけど・・、いいのか」
「一つくらいあなたの我が儘を聞いてあげたいのよ。 我が儘って言い方は変かな。とにかく好きなことやって」
滝治が急に立ち上がった。「京子、立って」 京子が立ち上がった。
「京子!ハイタッチ!」 パチ~ン! 二人でハイタッチをした。 ハイタッチは一人ではできない。
「でも、落選確実だぞ」
「確実ね」
立候補者に対する事前説明会にも出席し、告示日に正式に立候補を表明した。
知事室。
「驚きましたね、対抗馬が現れましたよ。 いや、対抗馬にもならない全く無名の新人です。 冷やかしかな?」 大沢が首を傾けながら言った。
「選挙が行われるのはいいことだ。 ところで、その、何て言ったっけな、名前」
「そめや たきじ、です。 元ヒラタ技研の部長です。 去年定年退職してますね」
「あ~、その会社の社長とは懇意だな。 我が県に多大な貢献をしてるよ。 それで、その人はどこかの政治団体に所属してるのかな?」
「いいえ、全くそういうことは無く、ごく普通の一般市民ですね。 知事、六面液晶ルービックキューブをご存知でしょうか。それを考えたのがこの染谷という男です」
「ほお~、なかなかのアイデアマンなんだね。 どんな政策を持ってるんだろ?」 浜溝現知事、染谷滝治に少しは関心があるようだ。
とにもかくにも十七日間の知事選挙戦が始まった。 戦と言っていいのかどうか・・。
滝治はポスター無し、ハガキ無しで挑むと決めた。 テレビでの政見放送だけが顔を知られる機会である。いや、そうでもない。
滝司は、ポスター、はがき、そんなのは古臭いと思っている。 せっかくネットというものがあるのだ。 その影響は計り知れないということも十分理解している。
明日の朝、いよいよ政見放送によって染谷滝治が知事選立候補者としてデビューするのだ。
夜九時、日本海夕陽ホテルの支配人橋本正夫は深夜勤務の従業員に後を託し帰路に着いた。 染谷滝治の隣家である彼の帰宅時間は遅い。 そして朝は早い。
ピンポ~ン 「帰ったよ」 疲労困憊の彼は帰宅したら毎夜、風呂に入って、ちょっと日本酒を飲んで、晩飯を食って、仕事の残務をやって・・、寝るのは午前二時頃になる。 そして朝九時までにはホテルに行く。 疲れるはずだ。が、サービス業ゆえに疲れた顔をお客様に見せる訳にはいかない。
風呂上りに妻の松子が、「ね~、あなた知ってる? 隣の染谷さんの旦那さん、知事に立候補したのよ」
「知ってるよ。 まさか隣の染谷さんが、驚いたね。 ホテルの従業員の間でも話題になってた」 正夫は日本酒を手酌でチビチビ飲みながら言った。 彼は手酌で飲むのが好きなのだ。
「ほんと驚いたわ。 染谷さんて、ごく普通のサラリーマンだったでしょう。 それが知事に立候補って、信じられないわ。 身の程知らずよね。 頭どうかしちゃったのかしら」 誰かと同じようなことを言ってる。
「立候補するのは自由だけど、まあ、勝算はゼロだな。 大手企業を定年退職して退職金と年金とで余裕があるんだろうよ。 で、退屈しのぎで立候補ってとこか」 皮肉っぽく、勝手な想像した。
「浜溝現知事に勝てるわけないのに・・。 お金かかるんでしょ。 京子さん大変ね」
「現知事が再び当選したところで、うちのホテルの業績は変わらんよ。 何とかしようと皆がんばってるんだがね。 今更巨額な投資はできないし・・。ふう~」 ため息をつく。
実際、日本海夕陽ホテルはかなりの経営難で、このままだと倒産もありうると上層部から言われている。 後一年もつかどうか。 支配人として責任も感じていた。
「知事に立候補だって?気楽なもんだ」 染谷家とは良好な関係を続けてはいるが、羨ましさも相まって、そんな隣人が少し腹立たしい。
朝六時ちょっと前、滝治と京子はテレビの前に二人して鎮座している。 自分と浜溝現知事の政見放送を観るためだ。
「ねえ~、あんた、緊張するわね。 私、心臓がどきどきして手が微妙に震えてる」 京子が、いかにも緊張した顔で言った。
「収録の時、言うべきことは全て言った。 後はなるようになれって心境だ。 まあ、京子はのんびり観てればいいよ」 滝治は比較的落ち着いているようだ。 内心のほどは分からないが・・。
「のんびりって、そんなの無理よ。 あんたの姿を始めてテレビで観るのよ。 それも政見放送だなんて、何だか現実じゃないみたい」 普通の主婦なのだから当然のことだろう。
また、京子には別の憂鬱があった。 それは今日は生ゴミの日で、八時までに出さなければならないのだ。
あ~、近所の奥さんと鉢合わせしたらどうしよう。 反応が創造できた。 絶対に狂人扱いされるわ。だって、島根県立軍ですもの・・、憂鬱。 内心思うだけで、滝治の手前声には出さない。
プップップ プ~! 午前六時の時報が鳴った。
滝治と京子は四十六インチ液晶画面を凝視してる。
ただ今から 島根県知事選挙 候補者の経歴と政見を放送します。
この放送は 公職選挙法に基づいて 候補者の政見をそのままお伝えするものです。
これから放送しますのは 無所属 浜溝伝二郎さん。無所属 染谷滝治さんのお二人です。
最初に紹介されるのは現知事の浜溝伝二郎氏だ。
島根県知事候補 無所属 浜溝伝二郎 七十六歳 東京大学 法学部卒業 ハーバード大学修了・・旧大蔵省・・。
では、浜溝伝二郎さんの政見放送です。
「島根県民の皆様、島根県知事に立候補いたしました浜溝伝二郎です。過去二期知事職を勤めさせて頂きました私がこんな事を言うのは恥ずべきことではありますが、私自身満足のいく仕事が出来たかと言うとそうでもありません。やり残した事が沢山あります。人口減少や商店街のシャッター通りなど、その他にも問題は山積みです。忸怩たる思いであります。どうか私にやり残した仕事をやらせて下さい、完成させてください。地域の特色を活かし文化を育て、豊かな郷土を創造したいと思います。
ぜひ皆様のご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
最後に、今回は前回の無投票と違いまして選挙が行われることを、私は嬉しく思います。
皆様の清き一票を浜溝伝二郎に、ぜひご投票下さいますようお願い申し上げます。
島根県知事候補 浜溝伝二郎さんの政見放送でした。続きまして・・。
「あなた、いよいよ・・」 京子、言葉がうまく出ない。 出ないどころか今にも気絶しそうだ。 それもそのはず、夫婦間の会話ならともかく、島根県立軍というとんでもないことを全県民に発表するのである。 どんな反応が来るか・・怖い。 きっと嘲笑の嵐の予感がする京子であった。
一方、滝治は画面を凝視している。
島根県知事候補 無所属 染谷滝治 六十七歳 通信制高校卒 ヒラタ技術研究所 ・・。
では、染谷滝治さんの政見です。
「皆様、このたび島根県知事に立候補いたしました染谷滝治です。
私のやりたいことはただ一つ、島根県隠岐郡竹島を奪還するということです。 ただ叫んでいるだけでは取り戻せません。実力行使が必要です」
滝治はごくりと唾を飲み込んだ。さすがに自分でも、これから言うことが常識から相当かけ離れてることを自覚してるのだろう
「その為に、私は島根県独自の軍隊、すなわち島根県立軍を創設したいのであります」
この瞬間、京子はテレビの前の聴衆の反応を思って身震いした。 そして顔が赤くなった。 やっぱり恥ずかしい。
「国がやらなきゃ県がやる。 これが、私、染谷滝治の知事選に賭ける偽らざる意気込みであります」
滝治が言ったのはこれだけである。 時間が余った。 が、相当なインパクトを世間に与えた。 それは創造通り、嘲笑と狂人扱いの罵声であった。
「ねえ~、あんた・・」 京子は滝治に声をかけたが次の言葉が見つからない。
「京子どうだった、俺ってけっこうテレビ映りいいな。惚れ直したかな」
その言葉を無視して、「あんた、怖くないの? 我が家を一歩外に出ればどういう反響が渦巻いているか、私、恐怖すら覚えるわ」
京子は滝治に対して、何て図太いんだろう、言い方を替えれば動じないと言うか堂々としてると言うか・・。
この人にこんな一面があるとは信じられない。新しい滝治を発見した思いであった。 それとも、ただの無神経なのかしら? それとも呆けちゃったのかしら? おいおい。
「法律に基づいて立候補して自分の思いを述べる。それがどうして怖いんだい?」
「でも、内容が内容だから・・」
「心配すんな、別に危害は加えられないから」 ならいいが・・。 若干の不安はあった。 そして、後にそれは当たることになる。
そろそろ生ゴミを出しに行かなければならない。 出す時間は午前六時~八時と自治会で決められている。京子はいつも六時になると真っ先に出すのだが、今日は足が重い。 隣の橋本さんの奥さんとは,いつも同じ時間に出し、挨拶を交わし、ちょっと世間話をする。
だが、今日は避けよう。 八時ぎりぎりに出すわ。 昨晩からそう決めていた。
トゥル トゥル ・・・・ 固定電話のコールが鳴った。
京子が受話器を取った。「はい、そ・・」相手は最後まで言わせず。
「お父さん、どうしたのよ! ち、知事に立候補って、聞いてないわよ」 長女の由美子が、かなり動揺し早口でしゃべった。
「由美子、おはよう。元気にしてる? 桂一さんや雄気、元気?」 桂一は義理の息子である。 雄気は七歳になる長男だ。
「そんなことより、知事に立候補だなんて、お父さん、どうしちゃったの、気でも違ったの」 思うことは皆同じみたいだ。
「あら、政見放送、広島でも放送されたの?」
「何言ってんの、ネットよ」
「あっ、なるほどね。お父さんの立候補、驚いた?」
「驚いたってもんじゃないわ! 信じられない。 お金だって沢山かかるんでしょう。 いや、お金のことより、立候補したって落選確実じゃない。 お母さん止めなかったの。 それに・・」
「それにって、何?」
「近所の人に、は、恥ずかしいわよ。 普通のサラリーマンが知事に立候補って、身の程知らずって言われそうで・・。 学歴だって・・その~,お父さんには悪いけど、相手に太刀打ちできないわ」
「ほっほ・・。 思うこと一緒ね。 私もね、最初そう思って反対したのよ。 でもね、お父さん、私たちのために一生懸命働いて来て、自分のことはいつも後回し。 だからね、お父さんの我が儘一つくらい聞いてあげてもいいかなって思ったのよ。 まっ、定年退職祝いかな」
「何言ってんのよ。 車が欲しいとか、旅行に行きたいとかなら分かるわよ。よりによって知事に立候補って、我が儘のレベルからぶっ飛んでるわよ!」
「お父さんが話しがってるみたい。 電話変わるわね」
滝治は子機を取った、「お~、由美子、元気か、桂一さんとはうまくやってるか」 男親にとって、娘との会話は楽しい、そして嬉しい。
「お父さん、いったい・・。 ふう~、同じこと言うの疲れるわ。 お母さんとのやりとり聞こえたでしょう。こんな重要なこと、何で黙ってたのよ。 お兄さんには事前に話したの?」
「いや、話してないよ。反対されそうで・・。 はっは」
「されるわね。 大金使ってまで、どうして負ける選挙に立候補したの?売名?」
「おいおい、ひどいな。 どうして負けるって決め付けるんだ。 勝ったらどうする、何かご馳走してくれるかな」
「もういいわ。立候補したんだからしょうがないわね。 親子だから一応応援するわよ。 応援しがいがないけど・・」 由美子は、そう言って電話を切った。
「なんだ、もっといろいろ話したかったのに、あっさり切られたぞ」 残念そうに子機のスイッチを切った。
「愛想の無いやつだな」 ぶつぶつ言いながらソファーに深々と座った。
京子はそれどころではない。
「そろそろ八時だわ。しょうがない、ごみ出しに行かないと。誰にも会いませんように」
会えばいろいろ言われるだろうし・・。それも、たぶん皮肉っぽく。 と、心の中で勝手な妄想をしていた。 悩み多かりし京子である。 悩みと言えるかどうか・・。
ゴミ袋を左手に持ち、そ~っとドアを開けて左右を伺った。
「私、何してるんだろう。 亭主が知事に立候補したからって、こんなにびくびくする必要があるのかしら。 もっと堂々とすればいいじゃないの。 悪いことしてるわけじゃなし」
「染谷さあ~ん、おはようございます」
ドキ! やっぱりこうなるのよね。私を待ち構えてたんだわ。
「あっ、ど、どうも、おはようございます」 しどろもどろに挨拶をした。全然堂々としていない。
「松子さん、今日はごみ出し、お、遅いんですね」
「え~、ちょっと家事に手間取って」
京子は嘘だと思いながら、隣人が知事に立候補したんですもの、待ち構えて話したい気持ちもわかるわ。 当然その話題から入った。
「ねえねえ、テレビ見たわよ。 あなたのご主人、すごいわねえ~、知事に立候補ですって。 いつ頃から考えてたのよ。 すごい決断ね。 もちろん応援するわよ、お隣さんが知事になったらと思うとわくわくするわ」一気にまくし立てた。
「あの~、大橋さん・・。応援して下さるのは嬉しいんですけど、期待に応えられそうにないわ」京子は、まだゴミ袋を左手に持ったままだった。
「奥さん、何言ってるのよ。奥さんがそんな弱気じゃ困るでしょう。あっ、収集車が来たわ。早くゴミだしましょう」
二人はゴミステーションの扉を開けてゴミ袋を置いた。
「もっと話したいんだけど、朝いろいろ忙しいでしょうからこのへん・・でね。 じゃ~ね奥さん、また後でお話しましょう」 と言って松子さんは家に戻った。
京子は思った。今頃近所中で、どこの家庭も立候補についての話題で盛り上がってるだろうと。このすごい重圧、いったい何かしら、押しつぶされそうだ。でも跳ねのけなければ、とも思うのであるが・・、それがなかなか難しい。立候補理由が理由なだけに。
ゴミ出しした後、以前ならポストから新聞を引き抜いて家に入るのだが、新聞は去年滝治の定年退職を機に取るのを止めた。 夫婦とも、今はもっぱら情報はネットから得ている。
家に入ると、滝治は電話で誰かと話してた。 笑いながら話してる。知り合いみたいだ。話が終わったのか滝治は電話を置いた。 と、また電話が鳴った。今度も笑顔で話してる。そして電話を置くとすぐさま、また電話が鳴った。これが5~6回繰り返された。 そしてやっと落ち着いたらしく鳴らなくなった。
「引っ切り無しに電話がかかってくるのね。何?」
「会社時代の友達からだよ。 皆驚いてた。染谷さん、知事に立候補したのか~! ってね。皆が判を押したようにこの言葉から始まった。はっは・・」
「皆さん応援してくれるのね。有難いわね」
「皆ではないよ。 一人すごい剣幕で文句言って来た奴がいた。 たぶん在日だね。 これからもっと、こういうの増えるだろうな」
「え~、何? 文句言って来る、そういう人いるの」
「もちろんさ。 軍隊造って竹島を奪還しようって政見放送したんだから、当然反発する連中は沢山いるだろうし、それは覚悟の上だ」
「怖いわ。在日の人を敵に回したのね」
「いや、中には日本人もいるだろうよ。隣国ともめごとを起こすなってな。それに日本人は軍隊って言葉に敏感だから、この言葉を言っただけでアレルギーを起こす人、沢山いるだろう」
「じゃ、何?敵だらけなの? 味方はいないの」 不安がよぎる。
「いても少ないだろうな」
「は~・・」 京子はため息をついて思った。 また落選確実の要素が一つ増えたと。
京子は複雑な気持ちだ。ひょっとして、うちの亭主はとんでもないことに首を突っ込んだのかしら・・。そもそも、落選確実の選挙に、何で立候補する気になったのだろうかと、また同じ疑問がよみがえる。 その答えは島根県立軍を造りたいから、と同じ返事が返ってくる。でも、当選しないとその夢も叶わない。 いや、万が一当選しても叶わないだろう。 なのに、なぜ?・・・。
と、そこへ、また電話がかかってきた。今日は一日中電話に悩まされるわ、たとえそれが応援の電話だとしても。
「知事、聞きましたか。島根県立軍ですって。 狂人ですかね?」 秘書の大沢が浜溝現知事に話しかけた。
「まだ次期知事に決まったわけじゃないよ。 浜溝でいいよ。 それに相手を狂人扱いにしてはいけない。法の手続きをふんでちゃんと立候補した人だから」
「次期も、当然浜溝知事に決まってるじゃないですか。 浜溝さんなんて私にはとても呼べません。いつでも浜溝知事です。 でも、染谷って男普通じゃないですよ。 島根県独自の軍を造って竹島を奪還するだなんて、聞いた時、開いた口が塞がらないとはこのことだと思いましたよ」
「はっは・・、私もね、かつて、いつまでたっても埒が明かないんなら、島根県独自で、実力行使で竹島を取り戻そうと思ったことがあったんだよ。 もっともこれは居酒屋での酒飲み話だけどね。 さすがに島根県立軍という発想は無かったな」
「当たり前ですよ。 そんなこと言ったら浜溝知事としてのりっぱな経歴にキズがつきます」 大沢はムキになって言った。
「ふむ、キズがつく・・か。 だとしたら私は知事として経歴にキズがつかない範囲でしか仕事ができないってことだね」
「いいじゃないですか、キズがついたら大変ですよ。 率なくやって来られたんですから、これからも無難に率なく率なくですよ」
「あんなこと堂々と言える染谷滝治っていう立候補者、ちょっと羨ましいな」 ポツリとつぶやいた。
「へ?」 大沢は聞き取れなかったようだ。
「それじゃ、街頭演説に行きましょう。 松江駅前から始めましょうか」
「うん、行こう」 浜溝は久しぶりの街頭演説で、ちょっと身の引き締まる思いだ。
滝治は10時だというのに、まだ家でのんびりしていた。
「ねえ、あんた、ふつう立候補者は外で演説するんじゃないの?」 京子の質問はもっともだ。
「演説か~。 言いたいことテレビで言ったし、しなくてもいいかな。 どうせ狂人扱いだし」 自分で狂人って言ってりゃ世話無い。
「そうだ、京子、お前、車の窓から白手袋嵌めて通行人に手を振るか」
「え~、ちょっと・・、抵抗あるわあ~、そんなの慣れてないし。 知り合いに見られたら、恥ずかしいかも」
「はっは・・、そうだろうな。俺もそんなのあんまり好きじゃない。 車を走らせながら名前を連呼するって、ただ騒音を撒き散らしてるとしか思えん。 それにゆっくり走るのは他の車に迷惑だ」
「じゃ、どうやって選挙運動するの? どうやって有権者にアピールするのよ?」
「ポスターに名前連呼。こんなの、もう古いよ。ネットなら勝手にどんどん拡散してくれる。 俺の強力なインパクトのある政策により2チャンネルでは大騒ぎになってるだろうな」
「島根県立軍ですものね」 普段からネットに親しんでいる京子には、滝治の言うことはよく分かる。
「ポスターよりテレビ、テレビよりネットよね。 ひょっとして、現時点ではあんたの方が浜溝さんより話題の中心になってるかも」
「浜溝さんは、たぶん今頃街頭演説してると思うわよ。 気にならないの」
「そうだな。 ここでのんびりしてても仕方ないか。 とりあえず街に出てみるよ。 散歩もかねて。 何か買い物あるか」
「ちょっと待って、買い物リスト、メモするから」 京子も全然選挙に気持ちが入っていない。 買い物の方が大事だ。
滝治はメモを受け取って外に出た。「松江駅前に行ってみるか・・。 浜溝さんいるかな、多分いるだろう」 独り言を言いながら松江駅に向かった。
松江の駅前では、浜溝立候補の周りを大勢の人が囲んでいる。 時々拍手がわく。 六年ぶりの街頭演説なので、それなりに盛り上がっていた。 プチお祭りのようだ。 選挙カーの周りには浜溝立候補と大沢秘書と、他に何人かのボランティアの女性がいて手を振っている。
「浜溝さん、三期目決まりだねえ~。選挙があろうが無かろうが決まりだね」「そうだろうな」 集まった聴衆が口々に同じようなことをしゃべっている。
「当然、無投票当選になると思ったけどなあ~。 まさか対抗馬が現れるとはね。 冷やかしかな?」「売名?」・・。 悪い言葉ばかりが飛び交う。
「その対抗馬ってのが、島根県立軍だの言い出す狂人だから、浜溝さんも力が入らないんとちゃうかな。はっは・・」 誰かが言った後、周辺で嘲笑が起きた。 その周辺の中に滝治も居た。 が、誰も彼に気づいていない。
「でも、狂人扱いするのは可哀そうだ。 竹島を取り戻したいという彼の気持ちは、俺は十分理解できる」 他の誰かが言った後、
「そうだな」 と、その部分だけには賛同するものが何人かいて、滝治は若干気持ちが救われた。 もっとも、全てを狂人扱いするギャラリーの方が圧倒的に多いのだが。
「その新人立候補者の顔も知らないし、いったいどんな奴だ?政見放送見たくらいじゃ顔を覚えられないもんな。 何でポスターが無いんだ? 当選する気全く無いじゃないのか。 はっは・・」 周りの人もつられてどっと笑った。
誰かが、「ちょっと待ってなスマフォで見てみるわ」 スマフォをちょこちょこいじった後、「ほらこの人だ。 こんな顔した人だ」
皆、それぞれスマフォを取り出し滝治の顔を確認し始めた。 後ろ方で滝治は苦笑いをするしかない。 それとともにネットの威力を改めて知った。
滝治は、そろそろその場を離れようとした。 その時,「染谷さ~ん、染谷さんじゃないですか」 声を掛けられた。
声の方を向くと、会社時代の部下の大塚がにこにこと笑みを浮かべながら近寄って来る。
「あ~、大塚さんか。 久しぶりだね」 この場で呼び止められたのは、ちょっとまずいかなと思ったが、しょうがない。
「驚きましたよ。 まさか、染谷さんが知事に立候補だなんて。 どういう風の吹き回しですか」
「いやあ~、ちょっとね。はっは・・」 気持ちは早くこの場を離れたいが、大塚さんが話しかけてくるので、そうもいかない。
「島根県立軍ですって。 俺、感心しましたよ。 染谷さんらしいなって」
「え、俺らしいって? テレビでそれを言った後、皆に狂人扱いされてるんだよ 。女房子供にもね」
「染谷さんは、仕事でいつも奇抜なアイデアを提案されてたじゃないですか。 頭が柔らかいって言うか、よくいろいろ自由な発想ができるなって、密かに尊敬してたんですよ」
「おいおい、おだてるなよ。 買かぶり過ぎだよ。 提案のほとんどは採用されなかったしね」
彼らの会話を周りの何人かが小耳に挟んだ。 ひょっとして、この人染谷とか言う候補者?そういえば、今スマフォで見た顔じゃないか!
「あの~、あんた立候補者のそめや何とかっていう人かい?」 滝治と同い年くらいの白髪の男性が聞いて来た。
「え~、そうなんですよ。 こちらが島根県知事選に立候補された染谷滝治さんですよ。 よろしくお願いいたします」 大塚がしゃしゃり出て言った。
「おいおい、よせよ大塚さん。 こんな場所で。 浜溝さんに迷惑じゃないか」
徐々に滝治の周辺に人が集まってくる。
「お~い皆。 対立候補の染谷っていう人がここにいるぞ」 誰かが大声で叫んだものだから、いよいよ滝治は注目を浴び、さらに人々が集まって、
「へ~、あんたが染谷滝治さんかい」「こんなとこで何してるんだい」「浜溝さんの偵察かい?」 口々に質問が飛んでくる。
「偵察だなんて人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。 散歩の途中に偶然に通りかかっただけですから」 滝治は軽く否定した。
「散歩の途中だって。 いやにのんびりしてるじゃないか。 当選する気無いのかな?」 はっは・・周りから笑いが起こった。
「ところで染谷さん。 島根県立軍なんて本気で考えてるのか。 政見放送で言ったんだから、あながち嘘ではないとは思うんだが。見たところ、狂人にも見えないが・・」
小さい声で誰かが ’狂人’と言うのが聞こえた。 その声につられてか、聴衆のあっちこっちから’冷やかしか~!’’売名かあ~!’’変人~ん!’声はだんだん大きくなり、それは怒号に近くなっていった。
浜溝陣営の選挙カーでもこの異変に気がついた。
「皆さん私の方を見てないんだが・・? あそこに誰かいるのかな」 浜溝は演説を止めて、聴衆が群がってる方向に目をやった。
「有名人とかいるんでしょうかね、」 大沢も怪訝そうな顔をして、その方向を見ている。
その時、選挙カーの下のボランティアの女性の大きな声がした。
「対立候補の染谷滝治さんがいるんですよ~。 あそこにいるんです~」
「そめや・・? あの島根県立軍の」 大沢とボランティアの女性たちは冷ややかな笑みを浮かべている。
「ほ~。 染谷さんが私の演説を聴きに来てるのかい」 浜溝は心の中でどんな人かなと思い、実際に会ってみたいと思い、
「降りて、ちょっと彼に会って来よう」 といって選挙カーを離れようとするもんだから大沢は慌てて「ちょっと、ちょっと知事、どこ行くんですか」
「彼と話してみたい」 止める大沢を振り切って滝治の方へ歩き出した。 大沢がばたばたと後を追う。
聴衆も驚く。 おい浜溝さんがこっちに来るぞ。 なんだなんだどうした。 口々に叫ぶ人を掻き分けて、とうとう滝治の正面に来て、
「染谷さんでしょうか」 浜溝はニコニコしながら滝治に話しかけた。
「染谷滝治と申します。 始めまして、お初にお目にかかります。 どうも申し訳ありません。 私が通りかかったばっかりに、演説を中断させてしまって、迷惑をおかけして・・」
大沢がよこから、「本当にそうですよ」
「やめなさい大沢さん。 すいません染谷さん。 気を悪くなさらないで下さい」
「いや、大沢さんって言われるんですか。 大沢さんの言う通りです 。迷惑をかけたのは私の方ですから」
「いいんですって」 浜溝は手を横に振って、
「私はあなたにお目にかかりたかったんですよ。 ぜひあなたの選挙演説をお聞きしたい」
「え、はあ? そ、それは恐縮です」
「染谷さんはどこで街頭演説されるんでしょうか。 私も、ぜひ聴きたい」
「それが、その予定は無いです」 滝治がこう言った後聴衆から笑い声が起こった。 笑い声の間にも、おい真面目にやれとか、当選する気あるのかとか、浜溝さんに失礼じゃないか、とかの声が飛んで来る。
「まあまあ皆さんいいじゃないですか、それぞれ事情の有る事だし。 そうだ染谷さん,よかったら私の選挙カーの拡声器を使って政策の一端を聞かせて下さい。 さ、さ、どうぞ遠慮為さらず」 浜溝は滝治の腕を取って自分の選挙カーへ連れて行こうとした。 側にいる大沢は声こそ出さないが相当あわててる。
滝治はこの展開に一瞬ためらったが、「ま、いいか」 好意に甘えようと思い、聴衆のざわめきの中、浜溝の選挙カーに向かった。
聴衆の声はざわめき以上のものにはならない。 笑い声やら、中にはがんばれよ~、などの掛け声も聞こえた。心から知事選で浜溝の対抗馬とは思っていないからなのだろう。 余興を見る思い程度のことだ。
滝治は浜溝の選挙カーのサイドに立った。 上には島根県知事立候補者浜溝伝二郎の文字がある。その文字の下で浜溝指示の人達に向かって政策をしゃべろうとするのだが、それはなんとも妙な図式だ。
「皆様、私はそめやたきじと申します。 横にいらっしゃる浜溝様のご好意により、このマイクを借りて皆様にご挨拶をする機会を得ました」 合間に時々ヤジが飛ぶ。 おいおい、敵方に同情されてどうすんだよ! 笑いがどっと起きる。
「私が訴えたいのは只一つ、それは」
聴衆が先に言った、「島根県立軍だろ」 また笑いが起きる。
「その通りです。そして・・」 また聴衆の中の1人が先に言った。
「竹島を奪還する。そうだろう」 さらに他の人が、「島根県単独で韓国とドンパチやる気か」 ざわめきが起こる。やはり狂人ですかな・・いろんな声が飛び交う。 そんな声を滝治は気にもせず続けた。
「国がやらなきゃ島根県がやる。 これが私の偽らざる気持ちであります」 熱を帯びてきた。
「素手で戦うのか! 真面目に言ってんのか!」 聴衆もだんだん怒り声になってきた。 冗談半分で聞けば腹もあまり立たないが、真剣に聞こうとすればするほど余りにも現実離れでSFチックなものだから腹も立ってくる。
「具体案を言え! それが無ければ只の寝言だぞ!」 そう言われてもしょうがない。 もちろん滝治もそれは十分理解しているが、作戦を敵?に手の内を明かすことになるのでこの場では言えない。
「冷やかしや売名行為で立候補したんなら許さんぞ。 我々をバカにした話だ。 浜溝さんに対しても失礼だぞ」
滝治と聴衆との間でディベートが始まった。
横で浜溝は笑みを浮かべ滝治を見ている。 翻って自分の時はどうだろう。 聴衆は静かに聴いてくれて、締めくくりは拍手とがんばれよの声で終わる。 演説の内容はともかく毎回気持ちの良い終わり方だ。 特に大沢は、いつも自分の横で満足そうにしてる。 もちろん影では反対意見を言う有権者もいるだろうが大きな声にはなっていない。
その真反対が隣の染谷氏だ、まるで聴衆と喧嘩してるようだ。 なぜか浜溝にはそれがいきいきとした光景にみえる。 羨ましいのだろうか? 自問した。
「どうやって県独自の軍隊を造るんだ! 具体案を言え! そんなもん無いくせに立候補なんかするな!」 そうだ!そうだ! の声が後に続く。
それに対して滝治は、「具体案を言ってやるから俺を知事にしろ! そしたら全て話してやる! もっとも話せる範囲だけだ。 作戦は秘密事項なもんでな」
もう話す言葉も聴衆とタメ口である。 気取ったしゃべりは出来なくなった。
浜溝と大沢はポカ~んとしてる。 そして大沢が浜溝の方を向いて、「やっぱり狂人でした」 それには浜溝は黙ってる「・・・」
浜溝は思った。 具体案など有るのだろうか、私には想像も出来ない。 口から出まかせ? だとしたら・・とんでもない食わせ者・・。 だが、そんな風には見えない。 食わせ者でないとすると、彼はとんでもない恐ろしいことを言っている。
島根県立軍だの竹島奪還だの主張すれば全韓国人を敵に回してしまう。 いや、日本人の中にも猛烈な抵抗があるだろう。 島根県はそれら連中の矢面に立ってしまうのだ。
しかし・・。 浜溝は思う。 染谷さんには申し訳ないが彼は落選するだろう。 だから彼の言う島根県立軍も、結局はポシャって只の話だけで終わってしまう。 ならいいが、いや、良くない。 そうなれば今度は矛先が彼一人に向かってしまわないだろうか。 しかし、こうも思う。 落選した人間の、それも一介のサラリーマンだった染谷氏の発言に、世間がそこまで過剰に反応する者がいるだろうか。
浜溝は心の中で思った、いるだろう、と。
染谷と聴衆とのやりとりが終わって、「浜溝さん、どうも有難うございました、こんな貴重な経験をさせて頂いて何とお礼を言っていいやら」 言いながらマイクを返した。
「いやいや、私も染谷さんの考えが知れて良かったですよ。 大変参考になりました。 良かったらいつでも私の選挙カーを使ってください」 余裕たっぷりだ。 大沢が横で、そんなバカな。 と、つぶやいた。
「はっは・・、ありがとうございます。 でも、今回限りでけっこうですよ。 でないと浜溝さんまで狂人扱いにされてしまいます。 狂人は私一人で十分ですよ。 はは・・」
そこに取材に来ていた地元のだんだんテレビと日本海新聞の記者が2人にインタビューを求めた。 そして、何と浜溝より先に滝治にマイクを向けた。
浜溝はこの場面では仕方ないなと思って苦笑したが大沢は面白くない。 記者に向かって、「き、君、浜溝知事に先にインタビューするのが礼儀というものじゃないか」
浜溝はすかさず、「大沢さん、止めたまえ。 染谷さんと私は同じ立候補者だ。 どちらからインタビューするかは記者さんの自由だよ」
それを聞いてあわてたのは滝治だった。
「す、すみません確かにその通りでした。 私が差し出がましいことをして」 浜溝の方を向いて恐縮そうに頭をさげた。
「よしてください染谷さん。 私たちは立候補者として平等ですよ。 記者さんたちは染谷さんの方に興味をお持ちになったんですよ。 ですからどうぞ先にインタビューを受けて下さい」
「そういう訳には行きません。 浜溝さんから、ぜひ」
「染谷さんこそ・・」 譲り合いが始まった。 麗しきシーンだ?。 記者たちは苦笑いしている。 滝治の県立軍があまりにもインパクトがつよいため、どうしても滝治にインタビューをしたいのだろうが、序列的には浜溝が先だろう。
で、結局二手に別れてインタビューをすることになった。 ゆるい選挙戦である。
そして、それらが終わって滝治の帰路に、聴衆の中の何人かが途中まで着いてきたが、その人達もいなくなって一人になると、今日の出来事が頭の中をかけ巡る。 自分は知事選挙というとんでもないことの当事者になってるんだと、あらためて実感した。
「知事に立候補だもんな。 我ながら凄いことに挑戦してる」
どんだけの人が自分を見たのだろう。 どんだけの人が自分の言ったことを聞いたのだろう。 自分の名前が一気に県内に知れ渡ったかと思うと、ちょっと空恐ろしささえ感じてしまう。
いや、県内どころではない。 滝司の尋常ならざる言動は注目を浴び、ネットはもちろん中央のテレビにまで取り上げられたのだ。
なにを今更。 そんなこと最初から分かっていたはずだ。 そして、それを狙っていたはずだ。
家に着いた。 ポストの郵便物を取り出して玄関を開けて、「ただいま、帰ったよ」 と、いつものように声をかけた。
「お帰りなさい」 後ろから京子の声が返ってきた。「橋本さんとこへ行ってたのよ。 お茶でも入れるわ」
キッチンでお茶の用意をしながら、「どうだった街でのあんたの評判」 京子にとってもそれが1番気になることだ。
「案の定狂人扱いされたよ」 聞いて京子は反応はしない。 そうだろうなという顔をしてる。
「でも、あんた選挙カーも無いのにどうやって皆に聞いてもらったのよ。 大声でも張り上げたの?」
「それがな京子、聞いて驚くな。浜溝さんがマイクを貸してくれたんだ」
「?」
「浜溝さんが演説している所に遭遇してな、そうしたら浜溝さんが俺に近寄って来て、ぜひ染谷さんの話を聞きたいと言われてマイクを貸してくれたんだ。はっは」
「はっは、じゃないわよ。 何よそれ。敵に情けを受けてんじゃないのよ。 恥ずかしくないの」
「敵だなんて失礼だよ。 もっとも敵と思えるくらいに俺がちゃんとした立候補者ならばいいがな。 はっは」
「あんたも立候補者なんだから、知事になるぞ~って気概を持ちなさいよ。 立候補に賛成した私がバカみたいじゃないの」
「ごめんごめん。 確かにその通りだな。 はっは」
「あきれた。 で、狂人扱いされた後どうしたの。 それで終わり?」
「皆とディベートが始まった。 圧倒的に俺の方がやり込められたよ。 ま、しょうがないわな。 島根県で軍隊を持とうって話だから、そりゃあ狂人扱いされるわな」
「本人が狂人って言ってりゃ世話無いわね。 それで投票日まで何するの。 今日のように適当に散歩でもして過ごすの?」
「最初そう思ったけど考えが変わった。 一応県内の雰囲気を知りたい」
「選挙活動・・。 やっぱり車から拡声器で名前を連呼するの? ラパンに染谷滝治って描くの?」
「前にも言ったようにそんなことはしない」
「じゃ、どんな選挙活動するのよ?」
それには応えず、「京子、明日津和野に行くか。 ちょっとロングドライブになるけどな」
「え、津和野。 もちろん行きたいわ。 嬉しい。え、でも、何で?」
「選挙の雰囲気を知るためだ。 松江から一番遠い町、すなわち津和野だ。 そこへ行こう」
「白手袋で手を振らなくていいんでしょ」
「何もしなくていいよ」
それを聞いて京子はホットした。
「してもしなくても結果は同じだから」
「へ?」
選挙活動でもなんでもない。 ただのドライブだ。
「皆様、夕方7時になりました。 だんだんニュースの時間です。 知事選挙の模様をお知らせします。 今日、珍しい事がありました。 なんと浜溝立候補と新人の染谷立候補が遭遇し、浜溝陣営のマイクを染谷氏が借りて演説するというハプニングがありました。 いやはや前代未聞の驚くべきことです」
「あんたのこと言ってるわ。 ちょっとした有名人になったわね」 晩飯の遅い二人はソファーでくつろいでテレビを見ている。
「こういうの有名人になったって言うのか? ただたんに顔と名前を知られたってことだ。 凶悪犯が連日テレビに映っても有名人になったって言わないだろ」
「例えが極端よ。 凶悪犯だなんて。 立候補して皆に顔と名前を知られたんだから立派な有名人よ。 もっともっと有名になって知事に向かってまっしぐらよ」 妙にポジティブな京子だ。
「知事に向かって・・か。 確かにそうだ。 もっと自分を売り込まなくちゃ」
「そのために明日、ラパンで津和野に行くんでしょ」
「明日の朝6時に出発しようと思う。いいか」
「私はいいわよ。久しぶりの遠出ね。 お弁当でも作るわ」
「いや、いい。 適当な所でコンビにに入って、そこで弁当でも買おう。 そうすれば人々と接点ができる」
「そお~・・」 作りたかった京子、ちょっと残念。
テレビでは今日の浜溝と滝治との出来事が映し出されてる。 アナウンサーはどちらの立候補者の支持が多いの少ないのとは言わない。 興味ないようだ。 選挙結果はすでに分かってるというような雰囲気なのだ。 アナがしゃべる内容ももっぱら滝治という男の奇行? に関してばかりである。 この点に関しては浜溝よりも滝治のほうがはるかに存在感があるが、その存在感も票にはつながらない、ということも分かってるようなアナのしゃべりっぷりである。
「ポングレの世話があるから津和野へは日帰りになるな。 片道3時間として、朝6時に出れば9時頃に着ける。時間はたっぷりある」
「あら、他の町は? 帰りすがら寄るの?」
「いや、1日1市だ。 ピストンドライブになる。 明後日は浜田市に行こう。 明々後日は江津市と川本町でその次の日が大田市、大森銀山へも寄ろう。 一応こういうスケジュールを考えてるけど、何か異論ある?」
「それ全て日帰り?大変。 でも遊びじゃないんですものね。 いいわ、それでいきましょう」 といいながら遊び気分いっぱいだ。
「ちょっと早いけど、お酒飲む?」 いつもは八時過ぎから始めるのに、まだ七時ちょっと過ぎだ。
「お前が飲みたいんなら、付き合うよ」
「人のせいにしないで」
「はっは、それじゃ気合付けと行こうか」 こういうことはすぐに意見が一致する。
「 かんぱ~い!」
ラパンのエンジンをかけた。 調子よい。
「京子、行くぞ。 火とか水とかちゃんと止めろよ」
「分かってるわよ。 戸締りもしっかりしたわ」
後ろから、「あら、お出かけですか」 声がかかった。
振り返ると、松子さんだ。
「おはようございます」 滝治と京子が同時に挨拶した。
「ニュースで、染谷さんのことやってて、感動したわあ~。だって、いつも見てる隣の染谷さんの顔がテレビに映ってるんですもの。 すごいわ」
確かに知り合いの顔がテレビに映ると、何となく別人に見え新鮮に感じたことは誰にも有るんじゃなかろうか。いや、誰にもあるってことは無いか。
でも、橋本の奥さん、感動したという割には、何となく顔が冴えない。
「どちらに行かれるんですか」
「これから津和野に行くんですよ。 久しぶりの遠出で、今朝、ちょっと早起きしたわ」
「羨ましい。 遠出どころか近くにも旦那と一緒にドライブ、最近してないわね。 あら、ごめんなさい。 急いでるんでしょう。 気をつけて行ってらっしゃいね」
朝日にキラキラ光る宍道湖を右に見ながら、滝治はラパンを運転していた。 国道9号線は渋滞とは縁が無く、ドライブするには最高だ。 もっとも、それが人口減少の結果なら単純に喜んでばかりいられない。並行して走る山陰高速はまだ未完成でいつ全線開通するのか分からない。
開通したところで70km/h制限の片側一車線じゃ、利用者は少ないだろう。
地元テレビのモーニングショウでは・・、島根県民の皆様、お早うございます。 朝8時になりました。さんいん朝もやスタートダッシュのお時間です。 早速、知事選挙の話題です。島根県立軍創設を政策に掲げて立候補した染谷滝治さんについてですが、コメンテーターの盆小原さん、どうお考えでしょうか・・。
滝治の話題が取り上げられた。 コメンテーターは三人いる。その中の最年長が盆小原だ。 ぼんこばらという苗字は島根県独特のものである。 その盆小原に、さわやかな朝に相応しい笑顔の素敵な女性司会者がマイクを向けた。
「お話にもなりませんよ。 狂人のたわ言です。 このような男が、こんなバカげたこと言って立候補だなんて・・。 全国に対して恥ずかしい限りです」 顔を歪めてはき捨てるように言った。
「では、お隣の石飛さんはどのようにお考えでしょうか」
「全く、盆小原さんに同感です。 島根県で軍を造って竹島を奪還しようなんて、SFアニメーションじゃあるまいし、ばかばかしい。 やはり狂人なんでしょうよ」 小バカにしたような笑みを浮かべてる。
「なるほど。 それでは、来海さんはどうですか。 やはり同じようなご意見でしょうか」
「確かに、染谷さんって方、とんでもないこと言ってますね。 実現不可能なことが選挙の公約だなんて、まあ、狂人扱いされてもしかたないでしょうね。 でも、私、彼の心情はよく分かるんです」
「えっ、お分かりになるんですか」 司会者がちょっと驚いたように反応した。
「ええ、竹島はご存知のように不法に占拠されてます。 そして、今まで多くの漁民が拿捕され死傷者も出ています。 抗議も言葉だけでは何の効果もありません。 だったら軍隊で奪還という気持ちは良く分かるんです」
「だからと言って、軍隊で取り返すなんて、それも島根県単独で軍を造ってだなんて・・。 はっは・・。 あほらしい。 荒唐無稽もいいとこだ」 盆小原が半笑いで言った。
石飛も続いて、「そもそも日本国憲法で、国でさえもちゃんとした軍隊が持てないのに、島根県で軍隊を造るなんてこと言ったら、国に睨まれてすぐに潰されてしまいます」
「私も実現できるとは思いませんが・・。 最近の日本は国中に、何やら鬱積したものが感じられるような気がするんですよ」
来海は、国際間の問題で日本人のフラストレーションを毎日のように感じている。 それは、まだちゃんとした形にはなっていないが、確かに存在し、徐々に増幅してるようにも感じるのだ。
「鬱積したもの。それは何でしょう?」 女子アナとしては興味の無いことでもあるようなふりをしてマイクを向けなければならない。
女子アナが聞いたが、来海は答えるのが面倒くさくなった。 普通に毎日の情報に接していれば、いやでもそれが分かりそうなものなのだがと・・。 言葉には出さない。思っただけである。
このワイドショーの番組の内容は、いつもだったら天気が良いの悪いの、洗濯物が良く乾くでしょうとか、或いは芸能人の誰それがくっ付いたの別れたのとか、どこどこのラーメンが美味しいだの、他愛の無いものばかりである。
ところが今日のテーマは滝治の島根県立軍である。 来海は手ごたえあるテーマにちょっと喜んだ。が、すぐに気持ちが萎えた。 そして悟った。 しょせん、この番組で真剣な話をしてもだめだと。 ニュースは刺身のつまで、あくまでバラエティーショーなのである。 朝から国際情勢も無いか、と納得した来海だった。
「さあ、何でしょう」 とだけ来海は言った。
次の女子アナの話題は、「今日、浜田の城跡の桜が満開です・・・」
来海は心の中で、重いテーマは茶の間の人々に敬遠される。 地方局の限界かな。 いや、中央の放送局も同じだろう。地方の、それもマイナーな島根県の知事選などに興味が有るはず無いだろう。
が、来海の読みははずれた。
一方、東京のキー局では。朝8時、「みなさあ~ん、おはようございまあ~す。 サンサンモーニングの時間で~す。 今日は○月○日の○曜日で~す。 お天気は~~」 長年この番組の司会をやっている女性アナの軽いノリで、毎日始まる。
軽いノリではあるが、政治経済ネタから始まるというところは,朝のワイドショーとしては地方局と若干違うところか。
何項目かのニュースが、世間で識者と呼ばれる有名人に解説された後、何と滝治のことが話題に上がった。
「皆さん、今、島根県で知事選が行われてるんですが、浜溝氏の無投票当選が確実と思われてたんですけど、とんでもない対抗馬が現れました」
「とんでもないって、どういう意味?浜溝氏を脅かすくらいすごい人物ってこと?」 三人のコメンテーターの中の一人が言った。この人もかなり有名な評論家で,名は武田邦夫という。
「ごく普通の、サラリーマンを退職された方なんですけど、名前は染谷滝治さんて言います。 この人の言ってることがすごいんです。 軍隊を造りたい、それも島根県立軍をですって」
「ほお~!おもしろいね。 その人、島根県で軍隊を造って何をしようっての?」
ちょっと変人と思われてる武田が興味を示した。
「あっ、分かった」 女性アナが応える前に自分で理解したようだ。
「はは~ん、竹島だね」
「はい、そうなんです。 それで、軍隊造って竹島を奪還するというのが、彼の主張なんです。 驚きますよね」
「はっは・・、なんだね、それ。狂人かね。 泡沫候補にもならんな。 ばかばかしい」 杉谷という別の評論家が、あきれるように言う。
それに武田がすぐに反論して、「奪われたものを取り返したい。その気持ちがどうしてバカバカしいんだい」
「だって、考えても見てくださいよ。 竹島を取り戻すのに軍隊を造るって、それ、韓国に宣戦布告するようなもんじゃないですか。 さらに憲法9条によって日本から他国を攻撃することはできません」
「何を言ってるんですか。 9条が有っても攻撃はできますよ」
「へ?」 杉谷が怪訝そうな顔をして首を傾ける。
「自衛隊は先に攻撃出来ないだけで、攻撃されたら、すぐさま反撃は出来ます。 竹島では漁師が何十名か銃撃を受け死傷者が出ています。 すでに攻撃されています。 よって、日本はいつでも韓国に対して攻撃出来る状況にあります。 違いますか」
「そんなむちゃくちゃな・・」
「なぜですか。 やられっ放しでいいんですか。 それじゃあ~日本男児とは言えないな。 はっは・・。 だから私、染谷さんの気持ち、十分分かりますよ」 と言いながら、この人も内心では実現不可能な滑稽話と思ってるのだろう。 でないと笑いを交えて話したりできない。 それにしても、いつもながらの人を食ったような話しっぷりだ。
こんな調子で、スタジオ内では賛否両論でわいわいがやがや、いや、否が圧倒的に多い。が、久しぶりに熱の入った番組になった。
ネットでは、誰かが興味を持ったテーマがすぐにアップされる。 2チャンネルに早速スレッドが立った。 島根県立軍創設を掲げて知事選に立候補した染谷氏!
これに対して賛否両論が、いや、やっぱりここでも否の方のコメントが圧倒的に多い。 そして当然のごとく狂人あつかいだ。 が、中には強烈に滝治に賛同するコメントも見られる。
「話し合いなんて何度やってもだめだ。 奴らは漁師を銃撃して竹島を奪ったんだ。 ならこちらも同じことをして取り返すのがなぜ悪い」 これに対して、もっともだというコメントもある。
「日本は、やっと戦争を終わらせ、今何とか平和に暮らしている。 あのような小島をめぐって、また争うなんて愚かなことじゃないか。 全く、この染谷という男はバカじゃなかろうか」 これまたもっともらしい意見だ。こちらの方が圧倒的に賛同者が多いだろう。
「平和に暮らしている? 北朝鮮に何人拉致されてると思ってんだ。 北方四島は返って来る兆し(きざし)も無いし。 毎日のように尖閣は領空領海を侵犯されている。 これで平和に暮らしているだと。 ふざけんな。 そういう平和ボケが国を危うくするんだ」
「何! じゃあ、軍隊を造って戦争しろと言うのか」
「違う違う。 戦争をしないために強力な軍隊を持つのだ。 国家としての主権を守るためにだ」
「持てば使いたくなるのが人情だ」
と、まあ、こんな風に、テーマがテーマだけに一旦火がつくと熱を帯びてくる。
さらに、毎日ユーチューブに登場するこんな人もいる。
「みなさん、こんにちは。 敷島旭日会の倉沢で~す。 チャンネル登録お願いしますね。 みんな、今島根県で知事選挙が行われてるの知ってるかな。 俺さ、びっくりしたと同時に、なんか嬉しくなっちゃてさ。 浜溝って現知事が無投票で続行と思われていたんだけど、対抗馬が現れたんだよ。 染谷滝治っていう人なんだ。 彼が掲げた政策が、何と軍隊を造りたい、それも島根県立軍をだってさ。 どう思う? 俺、応援したい気満々だよ。 けどさ~、まず、間違いなく落選だろうね。 はっは・・。 でも、こういう人が堂々と出て来たってことが、何となく嬉しいじゃないか」 これに対してgoodが約10、badが約1000。反応はやっぱり否定的なものが圧倒的に多い。
放送を終えて、倉沢は染谷滝治という男に会ってみたくなった。 隣に座ってる、同じく敷島旭日会の寺田に声を掛けた。 寺田は倉沢の五つ下の35歳である。
「あのさ~、寺田よ。 島根県に行かないか。 染谷って人に会って見ようと思うんだが」
「俺も、ちょっとその男に興味をそそられるかも。 でもここから遠いっすよ」 こことは東京である。
「確かに」
「でも、行きたい」
その頃、滝治と京子は日本海を右に見ながら津和野に向かっていた。
「大田市だ、腹減ったな。そろそろ何か食うか」
大田市には世界遺産大森銀山がある。 他にも鳴き砂の琴ケ浜や、島根県の最高峰三瓶山がある。最高峰と言ってもたったの1000mだ。 中国地方で一番高い山は、標高1900mの大山で鳥取県にある。 中国五県に高い山はあまりない。
「この先、道の駅 キララ多伎があるわね。 海っぱたの景色のよいところよ。 会社の人と何年か前に行ったことある」
「じゃ、そこに寄ろう」
「みんな、あんたに気づくかしら。 政見放送で全県に顔を晒したんですもんね」
「いちいち人の顔なんか気にしてないよ。 政見放送で映った顔を凝視して記憶する人なんて、まずいないだろう」
その通りだった。 道の駅キララに寄って店内をうろちょろしたが、誰も他人なんか気にせず買い物をしている。 滝治と京子はサンドウィッチと助六とほうじ茶を買った。 運転しながら食べられるからだ。
車に戻り、また右に日本海を見ながら9号線を下った。
江津市に入った。 山陽パルプの企業城下町で、人口は3万人弱である。 また市内都野津町には赤い瓦で有名な石州瓦の大きな工場があり、その工場に隣接して、浜溝知事が入学した江津学院がある。 前記したように暴力を振るわれ、すぐ浜田中央高校に転校した。
さらにラパンは快調に走り、浜田市の畳が浦付近まで来た。 畳が浦は1600万年前の地層を見ることできる国指定の天然記念物だ。
そこを通過し、浜田市街地に入る。 浜田市は人口5万人で山陰有数の漁港があり、特にカレエが有名で、ブランド化している。
浜田の市街をちょっと抜けた所に人気ランキング、常にトップクラスの道の駅夕陽パークがあるが、今回は寄らない。
さらに進んで益田市に入った。 涙で描いたねずみで有名な雪舟はこの地で没している。 この益田市で国道9号線は日本海を離れ、内陸へと続く。 山口市方面へ20kmほど進むと、そこが津和野盆地である。 島根県の最西端で山口県との県境に位置する。
「着いたわね。 あんた疲れた?」
「いや、大丈夫だ。 楽しいドライブだよ。 9号線はまず渋滞しないし、日本海を見ながらの運転は疲れを感じさせない。 このまま山口市や宇部市を通って瀬戸内海まで行ってみたいな。 はっは・・」」
「あんた、知事選に立候補してる緊張感まるで無いわね。 正直、私もこのままドライブを続けたいって思ってたの。 ほっほ・・」
などと喋りながら、津和野の町中に入って町営駐車場に車を止めた。
「駅前で自転車をレンタルしよう」
レンタル自転車の料金は、1日中借りて1台につき800円だった。 氏名と住所を書いて、料金二人分を払って、滝治と京子は颯爽と? ペダルを漕いだ。
側溝の清流には様々な色彩の鯉が泳いでいる。 2人はすっかり旅行気分で津和野の街を堪能していた。このまま観光で1日を過ごしたい気持ちだ。元々、積極的なのか消極的なのかよく分からない選挙活動だから,半分遊びで津和野に来たようなもんだ。
でも、消極的と言うのはおかしいな、それは矛盾している。 返って来るかどうか分からない供託金に大枚300万円も用意したのに、消極的だなんて・・?
「京子、そろそろ昼だ。 どっか食堂でも探すか。 駅前には大体、まんぷく食堂とか有るよな」
「そうね、たらふく食堂とかもね・・。有るわけ無いでしょ! 今時、みんなファミレスに変わってるわよ。 自転車を借りる時、駅前に行ったでしょう。 食堂なんて無かったわ。 せっかく津和野まで来て大衆食堂ってのもどうかと・・。 どうせ親子丼でも食べたいんでしょう」
「カツ丼だ。 蕎麦屋に行こう。 そこなら何でもあるだろう」
などと、他愛の無い会話をしながら蕎麦屋を見つけて、そこに入った。 蕎麦屋と言っても、丼物もカレーライスもある。
注文をとりに来たウエイトレスに、いや、おばちゃんに京子がカツ丼と天ぷら蕎麦を注文した。
このおばちゃん、滝治には全く気付かない。 店内にいる6~7人くらいの客も滝治の方にはチラっとも見ず、もくもくと何やら口に運んでいる。 なので、当然気付かない。 もっとも顔を見られたとしても結果は同じだろ。
「この蕎麦、美味しいわ」
「うん、このカツ丼も美味い。 子供の時に食べた、どこか懐かしい味だ」
食べた後、滝治はレシートを持ってレジ前に立つ。 70歳くらいの店主と思しき男性がレジを打った。
滝治の顔を見てお釣りを渡したが、知事選の立候補者が目の前にいるとは夢にも思っていない、と思われた。
「ごちそうさま。美味しかったです」 と言って二人は店を出た。 そして、またレンタル自転車に跨り、山陰の小京都津和野の街中を再びサイクリングし始めた。透き通った水が流れる側溝の錦鯉を見ながらまたペダルを漕ぐ。 その錦鯉の美しい姿を堪能しながらのサイクリングは、もうすっかり観光客気分だ。
彼らが去った蕎麦屋では・・。
レジの男性とウエイトレスのおばちゃんは夫婦であった。
「ねえ、あんた。 さっきのお客さんの顔、どこかで見たような・・?」
「あ~、今朝テレビで見た顔だ。 名前何て言ったかな、そめやだったかな。 知事選の立候補者だよ。 間違いない。 政見放送で彼の言ってる内容が、とんでもなく強烈だったので印象に残ってる」
「え~! あの人立候補者なの。 それにしては選挙運動してるようには見えなかったわよね。 何であんた声、掛けなかったの?」
「美味しそうに食べてたから、そっとしてた方がいいかなと思ってな。 はっは・・。それに他にもお客さんいたから、もし、この場で選挙運動が始まったら適わん」
「ふ~ん・・、あの人の政策って何?」
「島根県で軍隊を造って竹島を取り戻すんだってよ」
「え~! 戦争するっての。 いやだわあ~。 あんな人、当選させたらだめよ」
「はっは・・、心配すんな。 まっ、当選は絶対無理だわな」
津和野は隠れキリシタンにまつわる歴史がある。乙女峠マリア聖堂は比較的有名で,滝司と京子は、今度またゆっくり来よう。 などと話しながら街中を巡った。
「3時か。 そろそろ帰ろう」 滝司は時計を見ながら京子に言った。
「そうね。 今からなら夕方に着くわ」
自転車を返却する為に、また駅前のレンタル屋に向かった。
「ごめんくださあ~い」 店の中に向かって、京子が声をかけた。 店のおやじさんが奥から小走りで出て来て、「あ、どうも。 返却ですか。 有難うございました。 どうでしたか津和野でのサイクリングは? 天気が良くてようございましたね」
「え~、気持ちよくサイクリング出来て、最高に楽しかったです」
二人がそう言って,その場を離れようとした時、おやじさんが・・、
「あの~、失礼ですが、染谷さんですよね。 知事選に立候補された」
滝司と京子は軽く驚いて、おやじさんの方を振り向いた。
「はい、そうですけど、よく分かりましたね」
「最初、自転車を借りに来られた時には気付かなかったんですがね。 さっきまで、店の奥でテレビのワイドショーを見てたんですが、あなたのことやってたんですよ。 どのチャンネルもあなたのこと・・、染谷さんのことで盛り上がってました」
「ワイドショーで・・。 私たち車の中だったから知らなかったわ」 京子がつぶやくように言った。
「それも全国ネットのワイドショーですよ」 おやじさんが付け加えた。
「へ~、俺のことを全国ネットのテレビで。 驚いたな。しかし、何で田舎の知事選をわざわざキー局で取り上げてんだろ?」
「染谷さん、とぼけちゃだめですよ。 島根県立軍創設なんて言ったら、そりゃあ~、インパクト大有りで中央のテレビも興味持ちますよ」
「いや、とぼけてる訳じゃ・・」 と言いかけて止めた。 半分当たっているからである。
「と言うことは、私は全国で狂人扱いされてるってわけですね」 苦笑いしながら言った。
おやじさんは,まさか、はいそうです。 とは言えない。
「いいえ、賛同する者もいましたよ。 数は少ないですが」 事実だった。
再びラパンに乗り込んで帰路に着いた。 当然ではあるが、今度は日本海を左に見てのドライブである。時刻は午後3時を少し過ぎていて、松江には夕方6時頃着くかな、と,滝司は思いながらハンドルを握っている。 先ほどのレンタル自転車屋のおやじさんとのやり取りを思い出していた。
あのおやじさんはテレビで俺のことを知った。あの蕎麦屋にもテレビがあった。誰もがネットを見てるわけじゃないんだ。テレビの影響力もまだまだ捨て難いな。
「賛同する者もいた・・、か。 彼らも狂人かな? はっは」
「何、一人で笑ってるのよ。 いやね」 助手席の京子が運転している滝司の横顔を見て言った。
「さっきのおやじさんの話でね、賛同してくれる人がいるって聞いて、ちょっと嬉しかったんだ」
「私も驚いたわ。 県立軍は別にして、気持ち的には、それだけ竹島を取り戻したという人が結構いるってことよね」
「結構いるかどうかは分からないが、そうだったらもっと嬉しいけどね」
日没前に二人は家に着いた。 京子が先に降りて、ポストに突っ込まれてるチラシなどを取り出したが、その中に大きめの画用紙があり、太い黒マジックで何やら書いてある。 それを読んで京子は驚いた。
「あ、あなた、大変。これ読んで」 画用紙を滝司に渡した。それには・・。
”独島は我々のものだ。 あなたの主張には憤りを感じる。 即時撤回するよう要求する。 韓朝統一有志連合会”
と、殴り書きしてある。
これは滝司にとって想定内であった。 こういう抗議が来るだろうなぐらいのことは覚悟していたが、こんなにも早いとは思ってもいなかった。
選挙戦二日目で、まだ始まったばかりである。 また、染谷滝司という立候補者は全く無名で、さらに狂人などと言われ,知事に当選する見込みは100%無いのである。 そんな泡沫立候補に早速抗議が来るということは、それだけ敏感な問題だという証拠だ。 いや、敏感などと言う表現は生ぬるい。 軍隊を造って竹島を奪還しようという話である。 これは、つまり島根県が韓国に宣戦布告してるってことじゃないか。
一県が他国に宣戦布告できるかどうかは・・わからないが。 いや、わかってる。 絶対できない。
たいして驚きもせず、妙に冷静な滝司を見て、京子は、
「ねえ、あんた怖いわ。 大丈夫なの。 どんな人が来たのかしら」
京子も,滝司の政見放送で主張したことがとんでもなく大きな問題だということをひしひしと実感した。
「人数は何人かな?一人じゃないだろう。 まっ、それもすぐ分かる。 また来ると思うからね。 そんなに心配しなくていいよ。 ただし、あまり大勢だと近所迷惑になるかも。 しゃ~ない、そうなったら一軒一軒謝罪するしかないな。 とにかく家に入ろう」
家に入ると、すぐにケージの中のポンとグレに餌を与えた。 喜んで食い始めた。 その姿を見ると、いつも滝司は癒される。
「コーヒー入れるわ」
「いや、ビールにする」
二人はシャワーを浴びた後、早めにチビチビと晩酌をやり始めた。
「う~ん!ビールが美味い!」 滝司は一気に飲み干した。 普段は発泡酒だが今日は本物の?ビールだ。久し振りにロングドライブをしたので,たまにはプチ贅沢もいいだろうと、理由にもならない理由で缶ビールを帰路の途中で買ったのだ。
「今日は、ビールが一段と美味いな。 現役時代、仕事の後のビールが一番美味いと感じていたが、今でも、やはりそう思うね。 今日は仕事の後ではないが、程よい疲労感がある」
一気飲み出来ない京子は、チビチビ飲みながら頷いた。
トュルルル~・・。キッチンの固定電話が鳴った。
「あ、俺が出る。 ついでにビール持ってくるから」 また抗議かな・・。 などと思いながら受話器を取った。
「はい、染谷です。」
”突然、電話差し上げて申し訳ございません。 私、だんだんテレビの企画課の吹金原と申します”
「だんだんテレビ、ふきんばらさん。 何の御用でしょう?」 ふきんばら、という苗字も島根県独特のものだ。
”え~、実は・・”
「はい、 はあ~、 最終日に浜溝さんと・・、はい、 なるほど・・分かりました」
相手は”よろしくお願いいたします”と言って電話を切った。
若干心配そうな顔をしていた京子が、「何だったの?」
「だんだんテレビからだ。 浜溝さんと対談して欲しいんだって。 選挙戦の最終日にね」
「え~!浜溝さんと面と向かって・・。あんた、大丈夫?」
「何が? お互いの政策を言い合うんだから、いいチャンスだ。楽しみだ」
京子は不安そうな顔をしている。 何たって相手は知事8年務めてきた巨艦なのである。
「でも、テレビで対談なんて。 こういうのはもっと早くスケジュールが組まれるんじゃないの」
「組むつもりは無かったんじゃないかな」
「へ?どうして」
「浜溝さんと対談するほどの、価値のある立候補者じゃないと思ったんだろうよ」
「ふ~ん失礼な話ね。 条件を満たし立候補すれば皆平等でしょう」
「はっは・・。 京子だって、最初浜溝氏のような巨艦相手に立候補なんて無謀だって言ってたじゃないか。 どうしてもネームバリューというか、格というものがあるからな」
「新人の立候補者にとっては、すごく不利ね。 だから地方は世襲ばかりになるのかしら」
「地方だけじゃないけどね・・。まっ、いいか。 自然体でテレビに出て、思うことを喋るだけだ」
「あなたのことを軽視してたのに、なんで急に対談を組んだのかしら」
「世間がざわついたからさ。 捨て置けなくなったんだろう」
「ふ~ん。ところで、明日どうするの?」
「浜田市に行こうと思ったが、やはり連日のロングドライブは疲れるな。 歳かな。とりあえず明日はドライブは止めだ」
「ロングドライブというほどのものじゃないでしょう。 助手席で楽しんでた私が言うのも何だけど。 県内でのドライブをロングドライブなんて言ったら、長距離トラックのドライバーに笑われるわよ。 それこそ一日で1000kmくらい走るんでしょう」
「それもそうだな」
「自転車のレンタル屋の親父さんがあんたのこと知ってたでしょう。 私、驚いたわ。やはりテレビとかSNSとかの効果って絶大よね。 車で名前を連呼して走り回るのがバカみたいに思えるわ」
「いやいや、俺もそう思っていたが、レンタル屋のおやじさんのようにテレビから情報を得る人も沢山いる」
「そりゃそうだけど、テレビは一方向だから世間の反応が分かりづらいじゃない。 でも、ネットでは、同じような考えを持つ人がすぐに反応して来るから分かり易いわ」
「確かにそうだ。そして、たちまち炎上したりする。 島根県立軍なんて、炎上するには格好のネタだしな」
「炎上してるかどうか、2ちゃんでも見てみるわね」 京子はノートパソコンを開いた。そして、
「ほっほ・・。 見事に炎上してる」
「そうか、盛り上がってるか」 と、滝司は言った後、明日は、韓朝統一有志連合会とかいう、抗議の画用紙を置いてった連中が来るだろう。 連中と言ったが人数は今んところ分からない。 一人かもしれない。
出かけないで、その人達とじっくり話し合うってのもいいかな・・。 のんびり構えてる滝司であった。 でも、彼らと話し合うのは無駄のような気もする。 彼らは感情的に,独島は我々のものだと主張するだけだ。 今からでもそれは分かる。 日本には竹島が日本領土だという証拠が沢山ある。 主張はすれ違うだけで、どこまで行っても平行線だろう。 それは面倒くさい。
「適当にお茶を濁すか・・」
明朝、滝司と京子は、朝食後のお茶を飲みながらくつろいでいた。
二人の前には、いつもパソコンがあり、それには防犯カメラがWifiで繋がっていて、玄関から通りまで映すことがことができる、もちろん録画もできる。 32ギガバイトのUSBは三日でいっぱいになるので、三日毎にフォーマットする。
そのモニターに三人の男が映ってて、我が家の方に近づいて来る。 近所の人ではないことはすぐ分る。
「三人か・・。 面倒くさいが会うしかないな」
京子が心配そうな顔をして滝司を見た。「あなた・・」
「大丈夫だ。 まさか暴力は振るわないだろう」
ピンポ~ン。 チャイムが鳴った。
滝司はインターフォンの受話器を取って「はい、 どちら様でしょう?」
「お寛ぎだったでしょうか。 突然、申し訳ございません。 私どもは敷島旭日会の者で、私は倉沢と申します。 ぜひ、染谷さんにお目にかかりたくて、こうして三人でお訪ねいたしました」
「しきしま・・? くらさわ・・? ひょっとして、あのユーチューブの・・?」 あのチャンネルなら毎日のように見ている。 かなり嫌韓色が強い。
昨日の抗議の連中とは違うということで、構えていた滝司は拍子抜けした。 滝司は玄関ドアに向かう。
「あっ、お前は出なくていいよ。 とりあえず、俺一人で出よう。 どちらかというと仲間だ」
不思議そうに、「そうなの?」
京子は半分腰を浮かしていたが。 心配そうな顔をしてうなづいた。 そして、またソファに腰を下ろした。
カチャ。 ドアを開けると、そこには三人の男性が深々と頭を下げていた。 きちんと角度まで揃っていて、まるで軍人の礼のようだ。
「あ、頭を上げて下さい。 そんな仰々しい礼をされると困ります」
三人は頭を上げた。「私どもは東京から来ました。 今朝着いたばかりで、アポも取らず申し訳ありません。 私は倉沢と申します。 そして、こちらが寺田でこちらが酒井と言います」
倉沢と寺田は40~50歳くらいかな、酒井という人は20代後半に見える。 滝司はそう思った。 三人ともラフな格好をしている。 サラリーマンでないことは誰にでもすぐ分る。
右翼っぽい雰囲気はあるが、それにしては穏やかで紳士的だ。
「どういったご用件でしょうか」
「はい、先生の仰る、島根県立軍を創設して竹島を奪還するというお話に、いたく感銘を受けました。もっと詳しくお伺いしたい」
せんせい・・? 俺の後ろに、誰か先生がいるのかな、と思って、滝司は後ろを振り向いた。
「染谷先生、そんな古典的な大ボケはよろしいですから、ぜひ竹島奪還のお話を聞かせて下さい」
横にいた、寺田と酒井が、プっと小さく吹いた。
「生まれてこの方先生なんて呼ばれたことがないもので、本気で後ろに誰かいるのかと思いましたよ。 お願いですから、二度と私のことを先生なんて呼ばないで下さいね。 人を先生と呼ぶのも、あまり好きじゃないな。 いや、気になさらないで下さい。
ところで、しきしまと聞いてピンと来たんですが、あなた方はネットで有名な、あの敷島旭日会の人達ですね」
「え、ご存じですか」
「ご存じも何も、毎日拝見してます。 日課になってますよ」
「それは嬉しいな。 でも、拝見はよして下さいよ。 そんな堅苦しいチャンネルじゃないですから・・、はっは・・。敵も沢山いて物凄いアンチコメが来るんです」
横で寺田と酒井も、そうだという顔をして小さくうなづく。
「敵が沢山か・・。 そうだろうな」 と、それは滝司も十分納得できる。 。この人達のユーチューブチャンネルは、韓国人にとっては、かなり不愉快な内容なのである。
「ここでは何ですから、どうぞ家の中へお入りください」
ドアの内側で様子を伺っていた京子は、京子も知っているユーチューバーなので、ほっとして、お茶の用意でもしなければと思いキッチンに向かった。
倉沢がすかさず言った、「それはご遠慮いたします。 奥様にご面倒をお掛けするわけにはいきません」
「ご面倒だなんて・・、遠慮なさらずに、どうぞお入り下さい」
「いえいえ、奥様にしたらお茶とかケーキとか、突然の客に用意するのは煩わしいものです」 妙に気をつかう三人だ。
ケーキ? そこまでは京子も考えてはいないだろう、と、滝司は思って苦笑した。
ドアの内側で聞いていた京子は、ケーキ? お茶だけではダメなのかしら。 ケーキ食べたかったのかしら・・。 いろんなことを考えた。
「それに、夜通し車で走って来ましたので手土産も持参できませんでしたし、今日は挨拶だけでお暇致します。 それより、染谷先・・、いや、染谷さんに、実はご注意申し上げたいことがあります。 警告と言った方がいいでしょうか」
「警告? それは穏やかではないですね。 なんでしょう」 と聞き返したが、滝司は大よその検討はついていた。
「島根県立軍を造って竹島を奪還する。 この強烈な主張は、全韓国人と日本人左翼を敵に回したってことで、猛烈な抗議が来るでしょう。 ひょっとして身に危険が及ぶかも知れません 。十分注意して頂きたい」
「ちょっとお待ちください」 と言って滝司は家の中に入って、昨日のメモを持ってきた。
「これをご覧ください。 昨日、留守中にポストに入れてありました」
倉沢がそれを読んで、「やや、もうこんなのが来ていたのですか。 う~む、行動が早いな」
寺田と酒井も順にそのメモを読んで、お互い顔を見合わせた。 そして、無口だった寺田が、
「と言うことは、我々はここで奴らとバッティングするかもしれませんね」
これまた今まで無口だった酒井が、「奴らを待ちますか」
「それはだめだ。 ひと騒動起きると染谷さんやご近所の人に迷惑をかける。 それに相手の人数も分からない。 ひとまずホテルに行こう。 今日は染谷さんに、ほんの挨拶に来ただけだから」
寺田と酒井もうなづいた。
「突然お邪魔して申し訳ありませんでした。 それじゃ、私たちは一旦これで」
「何のお構いもできませんで・・。あ、ところでどちらにお泊りでしょう? それと携帯の番号を教えて頂けませんか。 何かあれば連絡しますから」
「おっと、そうだ忘れてた。 ホテルは日本海夕陽ホテルです。 私の携帯番号は080・・・・・。です」
日本海夕陽ホテルと聞いて滝司は、ちょっと嬉しかった。 橋本さんのところだ。 少なくてとも三人分の経済効果があった。 とにかく隗より始めよ、だ。
三人が行こうとした時、倉沢がまた足を止めた。
「染谷さん、さっきのメモもう一度見せて下さい。 ちょっと引っかかることがありまして」
「?、はいどうぞ。何か?」
倉沢はメモをジッと見て。 韓朝統一有志連合会・・、はて?聞かない団体だな。 寺田、酒井、記憶あるか」
二人は首を横に振った。
それじゃ、明日。 と言って三人はホテルに戻って行った。
「彼らの知らない団体なのか・・。 在日と,とことん対立している彼らが知らないってことは、もぐりか?」 滝司は心の中で呟いた。
「まっ、いいか」
家の中に入ると京子が、「あの人達、いつもネットで見てる人達よね。 挨拶すれば良かったかしら」
「奥様に、お茶だとかケーキだとか手を煩わせたくないんだってさ。 だから別に気にしなくていいよ。それに明日、あの人達また来るから、その時ちょこっと挨拶すればいいさ」
「ケーキ用意した方がいいかしら」
「だから、家には上がらないんだって。 妙に気を遣う人達だね」
彼らが去って一時間ほど居間で寛いでいた。 玄関先を移す防犯カメラのモニターを何気なく見ていると、黒いホンダアコードが家の前に止まった。
「来たな」 滝司は彼らがチャイムを鳴らす前に玄関ドアを開けた。 後方で、京子は、今度ばかりは本気で心配そうな顔をしている。 今度は間違いなく、昨日、抗議のメモを置いてった連中なのだから。
滝司は玄関先で無言で立って、彼らを待ち構えていた。 こちらからは話しかけない。 そう決めていた。
相手は四人だ。 ガタイがいいのが二人、そうでもないのが二人。 顔を見ると、その特徴から在日だということがすぐ分かる。 皆、ちょっと癖がありそうだ。 と、滝司は観察した。
その中の一人が、いきなり凄みのある声で、
「染谷さん。あなたのふざけた主張、政策を取り下げてもらいたい! 独島は紛れもなく我々韓国のものだ」
他の一人が続けて言う、「独島は古来より朝鮮半島に属していた。 それを、日本は1905年に突然奪ったのだ。 我ら韓国人は1952年に苦労の末、やっと取り戻した。 それを、また強奪しようと言うのか!ふざけるな!」 かなり気色ばんでいる。
他の二人も、顔を真っ赤にして同じようなことを言ってるが、言葉が重なって内容はよく分からない。もっとも滝司ははなから聞く気はない。 こいつらの名前も聞く気はない。
最初に喋った奴が、またもや声を荒げ、「独島は古来より韓国のものであることを認め、そして知事選の立候補を取り止め、我々、いや、全韓国民に謝罪してほしい!」
滝司は、勝手なことを言いやがる。心で思った。こいつらと議論しても無駄だ。 論理もへったくりもない。 感情論で喚き散らすだけだ。
こいつら利用出来るかも知れんな。 バカとハサミは何とかだ・・。
今までじーっと黙っていた滝司が、突然、「うるさ~い! お前ら~の能書きを聞く気はない! とっとと失せろ!」
両隣4~5軒に聞こえるくらいの、多分、滝司にしては生まれてこの方、こんな大声を出したのは初めてだろうと、自分でも思いながら更に怒鳴った。
「二度と来るな!」 唾が飛んだ。
この怒声に驚いたのは、この四人よりも家の中にいた京子の方であった。
「え~! 何、あの人喧嘩を売ってるわ」 驚きのあまり気絶しそうになったが、辛うじて気を保った。
しかし、本当に喧嘩が始まると・・。 私が止めに言った方がいいかしら。 と思いソファーから腰を浮かしたが、遅かった。
「何い~!」 四人組な中で一番がっちりした体格で、いかにも猪突猛進タイプの一人が手を出した。 他の三人は止めようとしない。 パンチが滝司の右頬にヒットした。 衝撃で滝司は体が崩れそうになったが辛うじて片膝を付いただけで済んだ。
口から血がポタポタ落ちる。 四人が何か喚いているが、滝司は聞くどころではな
い。
リーダーっぽい奴が、「三上、行くぞ」
捨て台詞を残して彼らは去って行った。 もちろん、その捨て台詞も耳に入らなかった。 が、捨て台詞のフレーズなんて大体決まっている。 罵詈雑言の後・・・覚えてろよ! で去って行く。 昔の日活アクション映画はほとんどこのパターンだ。
滝司は口の血をぬぐいながら、「みかみ」 この名前だけははっきりと聞こえた。
京子が飛び出して来た。 顔が青ざめている。
「あんたあ~、大変。 血が、血が・・。 救急車呼ぶわ!」 スマフォをポケットから取り出した。
「いや、いい。 口の中をちょっと切っただけだ。 大した事ない。 それより、お前を驚かしてすまん」
「そんなのいいけど、とにかく河野クリニックに行きましょう。 口の中見てもらわなくちゃ。歩ける?」
二人は近所のクリニックに行った。殴られたことはだまっていたが、医者にはすぐばれる。
「染谷さん、気を付けて下さいよ。 かなり過激な政策で立候補されたんですから、反発する人も沢山いることでしょう」
医者は忙しいのに、一通り俺のこと知ってんだ。 滝司はちょっと驚いた。
「ええ、注意します」 と言ってクリニックを出た。口の中が薬で沁みる。 晩酌は無理かな、いや、アルコールは殺菌作用があるから、・・少しならいいだろう。 結局、飲むのか。
その日の午後、滝司は選挙活動もせず、口の中を気にしながらコーヒーを飲もうとしたが、口の中が滲みて上手く飲めない。
昼食は京子がお粥を作ってくれた。 お粥なんて何十年ぶりだろう。それを食べるのさへ苦労する。 キズが滲みながらも梅干しが美味しい。
京子はキッチンに立って洗い物をしている。 食器洗い機は持っていない。 音楽やニュースを聞きながら家事をするのが好きなのだ。 でも、さすが今日は音楽もニュースも聞いていない。 浮かない顔でスポンジを動かしている。
「ねえ~、警察に届けましょうよ。 立派な傷害事件よ」
「もう、すでに近所の人が通報してるさ。 そろそろ警察官が来る頃かな」
「近所の人が・・。 あ~、それであんな大声出したのね。 確かに近所中に聞こえてるわ」
「スマフォで撮影されてるかも知れん。 うちの玄関モニターにも、しっかり録画されてるし、こちらから、へたに動く必要はない。 へたに動くと同情を買うためのやらせだと思われてしまうからな。 ほっといても周りの人が勝手にどんどん拡散してってくれる。 SNSを利用しない手はない。 あの四人組もすぐ逮捕されて、どういう奴らなのかもすぐ分かるだろうよ」
「なるほどね。 あんた、あの人達に、わざと殴られるために、あんたのほうから喧嘩売ったのね。 何だか、いつものあんたとは様子が全然違ってたもの。 びっくりしたわ~。痛かったでしょう?」
「かなり痛かった」
「それにしてもあの四人組、暴力を振るえば大ごとになるって思わないのかしらね。 いい歳して」
「そういう風に今まで生きて来たんだろ。 それとも、彼ら在日同士の勢力争いかな」
「何?勢力争いって」
「派閥があるんじゃなかろうか。 それで自分たちをアピールしたかったんだよ」
「アピール? 派閥争い? よくわからないわ」
「はっは・・。あくまでも憶測だよ」
思った通り、それからすぐに、警官と報道関係の記者が何人か来た。 知事選の立候補者が、泡沫候補とはいえ暴力を振るわれたのだから、民主主義の根幹を揺るがす大事件だ。
思った通りスマフォで撮影していた人がいて、警察も映像で確認した。
滝司もいろいろ聞かれ正直に話したが、自分が大声を出し挑発したことは言わない。 もっとも、近所の人に聞けばすぐ分かることだが、警察もそこまではしなかった。
滝司が、急遽企んだことを実行して、それが、それなりの効果があったと感じた。 急遽企んだことって何だ? もちろん世間に波紋を起こすことだ。 耳目を自分に向けさすために。 今夜のテレビニュースは、ちょっと賑わうだろう。
夕方、京子は料理をしている。 二人は大食漢ではないので、つまみ程度の簡単なものだ。
滝司はケージの二羽のうさぎ、ポンとグレにチモシーを手渡しで食べさせていた。 ところで、以前、なぜウサギは羽も無いのに一羽二羽と数えるんだろうと不思議に思って調べたことがある。 答えは二つあった。 ウサギを捕獲するのに鳥と同様、網を使用していたということと、獣食を忌み嫌った時代に堂々とウサギを食すことができず、あえて鳥の仲間にしたということだ。
滝司にしては、こんな可愛い小動物を食べるなんて、と思うのだが、ウサギは捕食動物で、つまり他の動物にたべられるために存在する。 ウサギは戦うための武器を体に有していない。 ただ脱兎のごとく逃げるだけなのだ。
餌をやり終わってパソコンを見ると,ヤフーニュースの見出しに、島根県知事選の新人立候補者染谷滝司氏暴漢に襲われる。 が目に入った。
「おい、京子、ヤフーニュースに俺のことが出てるぞ。 はっは、早いな」
京子も洗い物の手を止めて、「あら、本当。 地方の小さな事件なのに、よく取り上げられたわね」
「俺の言ってることが、今の日韓関係の微妙なところを付いてるから、興味を持つ人も多いってことだ」
「苦々しく思ってる人も大勢いることが、今日の出来事でよく分かったわ」
「うん。 過激な敵がな」
トゥルルーー。 固定電話が鳴った。「誰かしら?」いろんなことがあったから、電話に出るのもちょっと戸惑ってしまう。
「はい、」 あえてこちらから名前は名乗らなかった。
「母さん、由美子よ。 父さん暴力振るわれたんですって。 何でそんなことになるのよ」 問い詰めるような口調だ。
「あ、由美子だったの」
「父さん、怪我したんでしょう。 今からでも遅くないわ、立候補を止めてよ。 暴力を振るわれるなんて予想外よ。 一度は応援しようと思ったけど、やっぱり知事に立候補なんて無謀よ。 それも、あんなとんでもない政策を掲げて・・」 一気にまくし立てる。
まさか京子の口から、父さん、わざと殴られたのよ。 とは言えない。
「由美子か」滝司が割って入った。「元気にやってるか・・」 滝司は続けて話そうとしたけど、喋れたのはここまでであった。 由美子が話させなかった。
「父さん、殴られたんでしょう、怪我したんでしょう。 血がでたんでしょう。 その内殺されたらどうするのよ。 私を心配させないでよ。 バカ」 ガチャンと切れた。
「おいおい、由美子。 まだ、話終わってないぞ。 何だ? いつも一方的に話されてばかりだ。 最近、ゆっくり話し合ったことがないな。 最後に親に向かってバカって、何て子だ」
「ほっほ・・。 心配してるのよ」
「心配されるのは嬉しいが、心配してるというより、怒られてるみたいだな」
「いいじゃないの。 あれが、あの子の親に対する愛情表現よ」
「ふ~ん。 そんなもんかね。 ところで、一郎からは全然電話が来ないな。 まあ、もっとも男ってもんは、あんまり親とは話たがらないものだけどな。 俺がそうだった」
「忙しいんじゃないの?」
「自衛隊員が忙しいってことは、どこかと戦争でもしてるのか」
「ばかねえ~、やってるわけないじゃないの。 戦争以外にもやることいっぱい有るんでしょうよ。 訓練、訓練の毎日と思うわ」
長男の一郎は、攻撃ヘリコプターのパイロットだ。 宇都宮市にある、陸上自衛隊の駐屯地に勤務している。 ヘリコプターを操縦するということが孝夫の子供のころからの夢だった。 その夢を着々と実現させていく一郎を見て、滝司は我が息子ながら感心していた。
7時のニュースが始まった。 な、何と滝司の今日の暴力沙汰がトップニュースだ。 やはり、知事選の立候補者が暴力を振るわれたということは、選挙制度の根幹を揺るがす、とんでもなく重大事件なのだろう。 気に食わない立候補者に暴力を振るう。 あってはならないことだ。 しかし、今回の事件は滝司の方から誘発した面もあるので何とも言えない。 が、怒鳴り声とパンチでは、当然、手を出した方が何倍も悪い。
そして、その四人が逮捕されたとのことだ。
「あら、名前が出たわ。三上にうるし谷、それに神田、和田,だって。もちろん通名ね。本名聞いたってしょうがないけど」
「通名でも彼らの名前には、お前も知ってると思うけど特徴があるだろ。 金田とか林とか三上とかさ」
「そうね。 でも、三世四世になると、それもはっきりしなくなるわね」
「まっ、そんなことはどうでもいいや。 今回のこと、俺も事件にしたくないから、彼らすぐに釈放されるさ」
次の日、敷島あすなろ会の三人が午前中に手土産を持ってやって来た。 滝司と京子が一緒に玄関に立っている。 お互いお決まりの挨拶を交わした後、
「奥様、これ、ほんのお土産です。 ささいな物ですが、どうぞお受け取り下さい」 と言って、紙袋を手渡した。
「まあ、まあ、これはどうもすみません。 さ、さ、中にお入りください。 お茶でも」
「いえ、今日は天気もよく、とっても気持ちが良いのでそこらの公園でご主人とお話ししたいと思います。ご主人、よろしいですか」
「ええ、いいですよ。 近くに小さな公園があります。 そこへ行きましょう」
四人は、途中で自販機の缶コーヒーを買ってテニスコート二倍くらいの広さの公園に向かった。
公園では、幼児連れの若い母親が二組いて、ブランコで遊んでる。 幸い、ベンチはこの母親たちから、かなり離れていて滝司達はそのベンチに座った。
子供達のキャーキャー騒ぐ声で、四人の話は誰にも聞かれそうにない。
缶コーヒーを一気に飲み干した倉沢が、「染谷さんが、あのような大胆な政策を掲げて立候補されたことを、私たちは本当にうれしく思い、心から感動しました。県立軍という発想は思いもつきませんでした。染谷さん。 ぜひぜひ、知事になって下さい」
それに対して、滝司は、「選挙活動しなくても当選確実の浜溝さんが、今もどこかの街頭で選挙演説しています。 一方、落選確実と言われてる私は、毎日のんびりしております。 どう逆立ちしても皆さんの期待に応えられそうにありませんな。 はっは」
「はは、じゃないですよ。 じゃ、なぜ知事に立候補なんかされたんですか? 知事になりたくないんですか」 もっともな疑問だ。
「皆さんのお力が必要です。 皆さんはSNSを上手に使われる。 そこで島根県立軍のことを広めて頂きたい。 全国ネットのテレビのワイドショーで取り上げられたくらいだから、関心を持つ人も多いでしょう。 竹島奪還と言っても、全国的な機運が盛り上がらないとどうしようもない。 軍などと言うと、アレルギーを起こす左翼連中が沢山いますが、そういった連中が猛烈に反発するでしょう。 さらに、全韓国人を敵に回し、身に危険が及ぶかもしれない。 実際、私は殴られました。 どうです? それでも協力してもらえますか」
「何だ、そんなことか。 お安い御用だ。 言われなくてもネットでバンバン島根県立軍のことを発信しようと思ってました。 身に危険が及ぶなんてことは慣れてますよ。 ご心配ご無用。 はっは・・」
「狂人と言われますよ」
「それに関しても、我々の方が慣れてます」
滝司は、その言葉の意味を十分に理解している。 以前から敷島あすなろ会は過激に韓国朝鮮人を非難している。いや、ヘイトに近いかも。 しかし、韓国は国家レベルで日本をヘイトしているので、敷島あすなろ会のそれは可愛いもんだ。
横から酒井が口をはさんだ。
「染谷さん、具体的にどのようにして軍を造ろうとしてるんでしょう? 私には見当もつきませんが」 一番大事な問題だ。
「おい、酒井。 それは言えないだろう。 敵に手の内を晒すようなもんだ」
「俺たちは敵じゃないでしょう。 もう仲間じゃないですか。 一蓮托生でしょう」
「念には念を入れよってことだ。 ね、染谷さん」
「でも、聞きたいじゃないですか」
寺田も口を挟んだ、「染谷さんのことだ、きっと深い考えを持っていらっしゃるんでしょう。 なあ、酒井。 今は聞かなくてもいいじゃないか」
「私たちは染谷さんに興味を持ちました。 一目お目にかかりたいと思い、島根まで来ました。 ただそれだけです。 選挙結果楽しみにしてますよ」
滝司は冷や汗が出た。 深い、具体的な考えなんかありゃしない。 島根県立軍なんて、知事になろうがなるまいが実現不可能なのは、提唱してる滝司さえもできるとは思っていない。 目の前三人には申し訳ないが、話すことなど何も無いのである。
戦闘機一機、100億円以上するのだ。 島根県のどこにそんな金がある?
が、滝司が今回のことで、狂人などと言われようが、世間に一石を投じたことは確かだ。 そして、それがどのような波紋を起こすのか、それが大きくなるのか、そのまま消えてしまうのか、世間がどのような反応を見せるのか、それに期待しているのである。 目の前の三人が仲間とは言え、到底、明確に説明などできるわけなかった。
静かな湖面に小石を投げただけなのだ。 いや、小石ではない。 前韓国人や左翼連中を敵に回したのだから、とんでもなく大きな岩石を投げ込んだのかもしれない。
「それじゃ、染谷さん。 私たちは一旦東京に帰ります。 また来ますよ」 と、言い残して三人は滝司の元を去った。
具体案なんかありはしない。 静かな湖面に石を投げただけなのだ。 それがどんな波紋を見せてくれるのか、滝司は待っている。
東京に戻った彼らは、ネットで染谷滝司と島根県立軍を大々的に売り出した。 しかし、軍を造る具体策など無い。 そこは、この三人の応用力で、有ること無いこと、口先三寸で上手いことを言うしかないのであるが、この三人、それが妙に板についている。
2ちゃんねる上では99%の否定派と、1%くらいの賛同派くらいに分かれてるように思われる。 賛同派の中にも面白半分の、興味半分の人が大多数であろうことは返信文を読むと容易に推測できた。
なので、実際は賛同する者は0.1%もいるかどうか・・? だがゼロでは無い。
その2ちゃんねるで飛び交う意見は、県立軍なんてできるわけない、狂人だ、バカじゃないの、島根県の恥だ・・など、ほぼ罵詈雑言だ。
ニコニコ動画、ユーチューブとも、同じような反応しか帰って来ない。
そんな中でも、竹島を取り戻したという気持ちは十分理解できる。 という返信を見つけた時には三人とも大いに喜んだ。 そして勇気づけられるのだった。
一方、滝司は、島根県知事選も最終日を迎え、浜溝氏とのテレビ討論が夜8時から生中継で行われる。
京子は緊張の面差しでテレビの前にいた。 広島の由美子も、多分,テレビの前で不機嫌そうにしてるだろうと思い、電話でもしようかしらと考えたが、あれほど父親の立候補に反対してた由美子だ。 反応が想像できたので止めた。
それにしても、お父さんの周辺は大騒ぎしてるってのに、一郎からは電話ないわねえ。 こちらから電話するのをあの子はいやがるし・・。
男の子ってこんなものなのかしら?
などと、思い巡らす内に八時になった。 CMに続いて浜溝と滝司が紹介され、お互いの顔がアップで映された時、京子は、あまりにも平然としている自分の旦那に驚いた。
「堂々としてるわ。 上がってる様子が全然ないわね。 テレビスタジオに入るなんて初めてのはずなのに」
番組司会者が、それぞれの立候補者の学歴、職歴を紹介し、この時点で圧倒的に滝司は不利であったが、いや、どの時点でも不利ではあるが、本人はそんなことを全然気にしてないように見える。
京子は、ちょっと思考した。
「選挙って、当選するのに必死な人たちばかりなのに、うちの人、全然そんなとこ見えないわ。 生活がかかってんだよ! と宣う政治家もいるのにね~。 自分の生活のために立候補って、それ政治屋だわ。それ比べてうちの人、当選しようと思ってないのかしら。 逆に言えば落選の恐怖も無いってことね。 私も知事夫人って柄じゃないけど・・。 何だか変な選挙だわ」
今更何を。 変な選挙ということは最初から分かってるつもりであったが、テレビ画面を見ながら、改めてそう思う。
「でも、ひょっとしてうちの人が・・、当選ってことになったら・・。 まさかね。ほっほ・・。私としたことが。 妄想なんかしてる場合じゃないわ」
司会者が、「それでは、まず浜溝立候補にお尋ねします。島根県には諸問題がありますが、その中でも深刻な人口減少と景気低迷、その辺のところ、浜溝立候補はどうお考えでしょうか」 司会者が問うた。
「わが県は出雲地方と石見地方の2州よりなり、それぞれ豊かな文化を持ちます。 経済的にも、最近は浜田のブランド魚であるどんちっちも成功している部類でしょう。 また、出雲地方では、全国的にも赤字空港が多い中、出雲空港が黒字であることは称賛に値することです。このように発展する可能性は、まだまだ他にも沢山あるでしょう。 私はそれを発見し、成長させたい」
言ってる内容は、浜溝氏が現役知事のときから繰り返し主張してきたことである。 二期八年知事を務めてきた浜溝氏の言葉は重みがあり、現実的だ。 が、今まで目に見える成果はあげていない。 それどころか数々の指標はマイナスだ。
全国の知事が等しく抱える、非常に難しい問題なのであるから、そう簡単に解決できるはずがない。 今更感のあるテーマでもあるが最優先の課題だ。
司会者は滝司にマイクを向けた。
「次に染谷立候補者ですが。 いやあ~、驚きました。 島根県立軍を設立しようだなんて。 それでは早速、染谷立候補にそれについて詳しくお聞きましょう。 染谷さん、お願いします」 司会者は珍獣でもみつめるような眼をしてる。
滝司は全然そんなことを気にせず、
「我が国固有の領土竹島が長年他国に占領されています。 その竹島を早く奪還したい。 その思いで立候補しました。 領土問題は話し合いでは解決しないというのが国際的な常識です。 自衛隊は憲法九条という愚法によって動けません。 いや、私の考えでは9条があっても動けると思いますが、今は、この場でそれには触れません。 国が金縛りにあって動けない、なら、島根県独自で竹島を取り戻すしかありません。 だから、島根県立軍です」
「島根県単独で韓国に宣戦布告するというのですか。 あまりにも力の差がありすぎると思いますけど」
スタジオ内で失笑が起きた。
「宣戦布告? 奪われたものを取り返す。 当たり前のことするのにそのような大げさなことはしません」
司会者が続ける、「それにかかる費用はどうするんでしょうか。 わが県にそんな余裕はありませんが。 どうお考えでしょう?」
「クラウドファンディングで集めます」
「はあ? クラウド・・。 なるほど。 で、どのくらいの金額を集めようとお思いですか」司会者は少々呆れ気味で聞いた。
「まったく分かりません。 多いければ多いほどいいですね」
また失笑がわく。
「その集めた資金でどのようにして軍隊を造るんでしょう。 私には見当もつきませんが」
「まさか、それを話すわけにはいきません。 手の内をさらすことになりますから。 ご勘弁を」 倉沢たちに言ったことと同じ答えだ。
「はっは、そうですね。愚問でした。 でも、お金を出すほうにしたら、そこんところが一番重要と思うのですが」
「信じていただくしかありません」
「アメリカには州兵というものがありますが、それと同じようなものを染谷立候補は造りたいとおっしゃてるのでしょうか」
「いいえ。 州兵は自警団のようなもんで軍隊ではありません。 なので、私の意図するものとは違います」
「なるほど・・」 司会者は面倒くさくなったのだろうか、それ以上軍隊については聞かず、
「それでは次の質問にいきましょう。 知事ともなれば低迷する島根県の経済を何とかしなくてはなりませんが、それについて染谷立候補はどのような政策をお持ちでしょうか」
「はい。私の、島根県における経済政策は、他の中国四県の協力を必要とします」
「どういうことでしょう?」
「島根県は新幹線が通っておりませんし、高速道路も、松江自動車道、浜田自動車道ともに片側一車線で、さらに70km制限と、高速道路とは名ばかりでお話しになりません」
司会者が口をはさんだ。
「今のお言葉、高速道路建設にご尽力された方が聞いたら、さぞご立腹されると思いますが」
滝司がすぐに反論する。
「それは逆だと思います。 高速道路設計者は、もっと高速で快適で、それこそ文字通り高速道路をドライバーに提供したかったのではないでしょうか」
「確かに、建設する前はそういう意気込みはあったでしょうね」 物わかりのいい司会者だ。
「そこで、私は提案したい。 中国道とそれに繋がる横断道を全て速度無制限にすることを」
全国のパソコンやスマフォでこの番組を見ていた人々の口から、お~! っという声があがった。
立候補表明以来の染谷滝司の一連の言動は、敷島旭日会の倉沢たちのネット上での活躍と相まって、全国的な関心ごとになっていた。 なので、関心の高さからユーチューブで同時配信されている。
おい。 速度無制限だってよ。 俺、走ってみたいなあ~。 日本のアウトバーンか。 そんなのできるわけないじゃん。 全国でいろんな声が飛び交う。
世界の高速道路の最高速度はフランスやアメリカなど、大体130km/h
である。
ドイツの速度無制限のアウトバーンは例外中の例外で、滝司は中国地方の高速道路を、日本版アウトバーンにしたいと言っているのだ。
滝司は続けた、「しかし、日本の車はリミッターによって180km/h以上は出ないようになってますから、無制限ではありません」
「180でも相当なスピードですが・・。 日本では無理なんじゃありませんか。 出来ないと思いますよ」 司会者が言う。
「出来ない理由を多々言うのは簡単です。 ですが、少しでも可能性があれば実現させてみたいと思いませんか。 それに車の性能は格段に進歩しています。 なのに交通規制はそのままというのは、どうかと・・。 車検も」
横で聞いていた浜溝は自分の官僚時代を回顧していた。 そして滝司の言葉が自分の胸に刺さった
「出来ない理由を言うのは簡単か・・。 思えば私は官僚時代、出来ない理由ばかりを探す毎日だったかもしれない。 そのほうが楽だし、出来ると言えば責任が生じてしまう。 もし、私が染谷さんのように工場勤務だったら、どうだったろう。 勤まっただろうか。 ふふ・・、それにしても私の政策と染谷さんの政策は次元がまったく違うんで、有権者の皆さんは、さぞ迷ってることだろう」
有権者が迷ってるはずはない。 世間の雰囲気は圧倒的に浜溝一択で揺るぎない。
であるが、投票する対象にはならないにしても、一般人は狂人のほうに興味を持つ。 なので、巷ではどうしても滝司の話題で盛り上がってしまうのだ。
それも、半分嘲笑の対象として・・。
番組が終わった。
「高速道路速度無制限・・。 ふ~」 家でテレビを見ていた京子は、まだまだ滝司が知事選に立候補した理由の全てを理解していないことをを知った。
そもそも落選確実の滝司が大枚三百万円をはたいて立候補したことを京子は賛成したが、どうも心の奥に釈然としないものがある。
売名行為と言われても仕方ないくらいとんでもない政策を掲げての立候補である。 老後の暇つぶし・・。 まさかね。男のロマン? ぷっ!
吹いた後、小さなため息をついた。
明日はいよいよ投票日だ。
滝司と京子は朝食を済まして二人一緒に投票所に向かった。 玄関先で橋本さん夫婦と合流し、橋本さんの主人とは久しぶりだったのでそれなりに話が弾んだが、ビジネスホテルの経営はいよいよ窮地に追い込まれてるようだ。
投票場への道すがら、これまた投票場へ行く人々が滝司の方をじろじろ見る。 ちょっとした時の人だ。 中には声をかけてくる人もいるが、それは少数だ。
滝司は、手ごたえがないなあ~と思いながら歩いている。 一緒に歩いている橋本さん夫婦も、たぶん、いや、間違いなく浜溝氏に投票するだろう。 私に入れてくれますか、なんて聞くわけにはいかない。
投票所では地元のマスコミが待ち構えていて、一斉に滝司の方に走ってきた。
マイクが5~6本向けられ、どうですか今の心境は、勝算は。 などと早口の質問攻めにあったが、それには適当に答え、二人は投票所に入っていった。
投票を済ませた後、買い物があるという橋本夫妻とは別れた。
「ねえ、私たちも買い物にでも行く?」
「いや、やめとこう。きっと、皆にまとわりつかれるだろうよ」
「そうね。あんた、ちょっとした時の人ですものね。 じゃ、夜の開票まで家でゆっくりしましょう。 とにかく、終わったわ。 お疲れさまでした」
「終わった・・・か・・。 そうだな」 が、滝司はそうは思っていない。 口元に笑みを浮かべ、心の中で、「これからだ」
島根県の投票率は国政でも地方選でも非常に高い。 常に全国でもトップクラスである。 過去何年も続けて一位であった。 が、最近はちょっと落ち目ではある。 それでも上位を維持してる。 もっとも、投票率が高いのは地方の特徴ではあるが。
何事もなく夜を迎えた。 二人は刺身をつまみながら早めの晩酌をしている。
「そろそろ八時ね。 あんた、どんな気分? 何考えてるの?」
「知事になった時の第一声を、どんなことを話そうかと思案してる。 気の利いたことを話したいからな」
「私も知事夫人になったら何着ようか、どんな言葉使いしようかと考えてるわ。 やっぱり、そうざあますわねえ、なんて言うのかしら」
そう言った後、二人は笑い転げた。 真剣味がない。
八時になった。 選挙速報の時間が始まると同時に、浜溝伝二郎当選確実がテロップで流れ、さらにアナウンサーが念を押すように、浜溝伝二郎氏が当選確実ですと発表した。
京子は滝司の手に自分の手をそっと重ねる。
全て開票されるのは明日の未明である。 後は滝司の獲得数を心配するだけの二人であった。
そして、翌日奇跡が・・。
島根県の有権者数は、ほぼ六十万人である。 今回の投票率は約七十パーセントであり、なんと!滝司は二割以上の票を獲得したのだ。 つまり、約十万人の人が滝司を支持したということになる。
それによって、嬉しいことに供託金三百万円が戻ってくる。 もちろん、滝司と京子は大喜びだ・・? 喜ぶ内容が本来の目的とは違うようだが、まあいいだろう。
倉沢氏から電話がかかってきた。
「染谷さん、残念でした。 すみませんお力にならなくて・・」
「いえいえ、とんでもない。 倉沢さんたちのおかげで十二万票も獲得しましたよ。 供託金がもどってくることになって京子は大喜びしてます。はっは」
「はあ・・、はっは。 その点については、よかったですね、としか・・。 で、これでもう県立軍は終わりでしょうか。 私たちはあきらめませんよ」
ちょっと間をおいて滝司が、「もちろん」
その後、お互いの近況を話し合って電話を切った。
もちろん、と言ったものの・・。
一か月の時が過ぎ去った。その間、由美子からも電話があり、選挙が終わってほっとした様子がうかがえて、声も普段通りに明るく、滝司も怒られずにすんだ。
滝司は、由美子には心配かけて悪いことしたな、と軽く謝ったが、ひょっとしたら、これからもっと心配をかけることになるかも知れない。そん時は、由美子にもっと、ごめんなと謝るしかない。
どんな心配? それは滝司にも漠然としたもので具体的には分からない。 予感がするだけである。
ともかく、静かな湖面に島根県立軍という石を投げたのだ。 どんな波紋が起きるやら・・。
知事選には当然のごとく落選したものの、かの国の反感を買ったのも事実だ。 日本の左翼にも睨まれるだろう。
短い選挙期間だったとはいえ、ある意味、存在感では浜溝氏より滝司の方があったといえる。
夜八時頃、一人の老人がママチャリを漕いでいる。 住宅街の入り口に止まって携帯を取り出した。
そのころ、滝司と京子はくつろいで、それぞれのPCでお気に入りのサイトを見ていた。
トゥルルル~・・。
「いいわ、私が出る」 京子は立って、由美子からかしら? こんな時間に何かしらね。などと思いながらキッチン横の固定電話を取った。
「はい、もしもし。 どちら様でしょう」
「夜分すみません。 私、浜溝です」
「はい、はまみぞさんですね・・? え! はまみぞ・・って。 もしかして、あ、あの知事の浜溝さんでしょうか?」
ソファに座っていた滝司が飲んでいた発泡酒を吹いた。
「はい、そうです。 実は今、染谷さんのお宅の近くにいるのですが、これから訪ねて行ってよろしいでしょうか。 ご迷惑でなかったら、ぜひお話したいと思いまして」
「え、は、はい、主人とかわります。 あなた~、」
「浜溝知事だって」
あわただしく京子から受話器を取って、
「もしもし、染谷です。 いや~、驚きました。 知事から電話だなんて。 どのようなご用向きでしょう?」
「突然すみませんね。 今、お宅の近くにいるんですが、ご迷惑でなかったらお目にかかってお話したい」
「迷惑だなんてとんでもない。 ぜ、ぜひいらして下さい。玄関前でお待ちしてます」
二人で玄関に出ていると、すぐに浜溝知事が、キーコキーコと自転車に乗って来た。
つづく




