8.vs激辛カレー
ジムでの敗北を理由に “激辛” と書かれた一見すると普通のカレーなのに香りたつ匂いが既に辛そうな刺激的なカレーをお盆に乗せられた剛が、頬を痙攣らせながらも克之の向かいの席に座ったすぐの事だった。
「一緒しても良いかな?」
鮮やかな黄色いナース服に身を包んだ身長152㎝の童顔の女の子は、短く整えられた栗色の頭に黄色のナースキャップを載せている。
『管理者』
そう呼ばれる事になる黄色い看護師達は、薄桃色の看護衣を着て病院で従事していた看護師とは違い地下シェルターパンドラ専属の人間なのだが、一般人である剛達にはそんな事は分からない。
その内の一人である《六條 絵里》は剛にマイクロチップを埋め込んだ看護師だった。
「ん? 別に構わないぜ?」
「ありがと」
何の用だと不思議に思いながらも断る理由もなく、その可愛さ故に許可すれば、幼い顔を微笑ませて手にしたお盆を剛の隣に置くと静かに席に着く。
用意した昼食にも手を着けず、その様子をじっと見つめる二人。
「何だか辛そうなカレーだね」
視線など気にする素振りもなしに剛の座る椅子の端に手を突くと、机に置かれた刺激臭香るカレーを興味津々に覗き込み、手で仰いで匂いを嗅ぎ始めた。
そんな事をすれば光を受けて天使の輪の出来たツルサラの髪が目の前に来るのは必然で、思わず身を逸らして出来る限り距離を置こうとしたとしても、剛にとっては近すぎる危険領域に侵入された事に変わりはない。
「こう言う辛いのが好きなの?」
「え? いや、これは……」
「ちょっと味見していい?」
女性に免疫の無い剛からしたら、乗り出した身体はそのままに間近で見詰められては否応無しに鼓動が高鳴ってしまい堪ったものではない。
返事をする間も無く剛のお盆にあるスプーンを掴むとカレーのルーをほんの少しだけ掬い口に入れた。
途端……
「辛っ!! 何よこれ〜、こんなの無理無理ぃ」
スプーンをお盆に放り出すと慌てて自分の持って来た野菜ジュースの蓋を開けてゴクゴクと音を立てて飲み込んだ。
彼女が離れてホッとするのも忘れてこれから自分が辿る運命を知れば、冷や汗が出てきたとしてもおかしくは無いだろう。
たった一舐めで涙目に成り果てた絵里は、両手で持ったジュースの缶に口を付けたまま信じられない物を見る目で剛を見ると「本当に食べるの?」と無言ながらに訴えかけてくる。
「クククッ、剛ぅ〜、美味そうなカレーだな、おい」
「ね、ねぇ……やっぱり違うのに……」
「俺が指定したのはソレだ、つべこべ言わずにさっさと食えよ。 それとも何か? お前は約束すら守らないようなしょうもない男なのか?」
堪えきれない笑いを滲ませつつスプーンを手にした克之は、自分の前に置かれているカレーを掬い口に運び始める。
そのカレーとは剛の前に置かれている物と全く同じ物。 勝てる自信があったわけでは無かったが、勝った方が昼食を決めると言う軽い約束に二つ返事でOKを出してしまったのだ。
「うほっ! 辛ぇ〜、やっぱカレーはこれくらい辛くないとカレーなんて名前で呼べやしねぇよなっ!」
蓋を開けてみれば今の現状、辛い物が好きな克之は額に汗を滲ませながらもパクパクと勢い良く食べ進めているが、思わぬ登場と共に願ってもいない先陣を切った絵里の撃沈する姿を目の当たりにすれば剛の食が進むはずも無い。
「どうしたぁっ? 食わねぇのか? 男ならビビってねぇでガンガン攻めろ!
お前が男なら……な」
「いやぁ……止めた方が良いと思うよぉ?」
『男なら』と言う謳い文句は剛の心を奮い立たせるのに十分な効果をもたらした。 そして、それを後押しするのは『約束』と言う言葉。
だが、間髪入れずに発せられた絵里の否定的な言葉と苦笑いとが弱い剛の心に揺さぶりをかけ、後ろ髪を物凄い強さで引っ張り、引き抜いてしまおうという勢いであった。
「いやっ、僕はやる! だって、約束したんだからっ!!」
「いいぞっ、その勢いだ! 立ち止まるな!振り向くな! 男なら一度決めた事は死んでもやり通せ!! 行けっ! 剛!!」
平常心であったならば急に寄って来た可愛いお姉さんが口を付けたスプーンに萌えているところ。
だが、今の剛は克之の煽りを受けて変なスイッチが入ってしまったようで、最早絵里との間接キスなど意識下にありはしない。
スプーンを手に取り大きく掲げると、気合と共に激辛カレーの中にぶち込んだ!
(この激辛カレーを駆逐する!)
脳内で何かの役と自分とを重ねた剛は手にしたスプーンに掬えるだけのカレーを乗せると、山盛りになった激辛カレーを口の中に迎え入れる!
「んんんんんっっっんんっっ!!!!!」
だが克之が選んだ激辛カレーの破壊力は想像を絶するもので、口に入れた瞬間に拡がった筈のカレースパイスの風味などは一切感じさせず、代わりに超強烈な痛みが口の中を占拠する。
無数の針で同時に刺されたような鋭い痛みは短い間隔で何度も何度も襲い掛かり、たった一口で何時間も運動したような汗を瞬時に吹き出させた。
「ぷははははははははははっ! おまっ、お前何してるんだよっ! まだ一口目だぞ? 早よっ、早よ食えよっ! あはははははははははっっ」
それでもなんとか外に出さないようにと、口を押さえながらも上半身を右に左にと揺らして悶え苦しむ剛を見て大笑いするものだから、周りの注目を浴びるのは当然だろう。
このままでは駄目だと、少しだけ働く思考で意を決すると嫌がる喉を無視して無理矢理飲み込めば、大きなハリセンボンが喉を通って行くような錯覚に陥り、その後を追うようにマグマが垂れ流されたような焼かれる感覚が襲い来る。
「はい、コレ飲んだら?」
この世のものとは思えないほどの激痛で流れ出した涙に濡れる視界の中、見かねた絵里が差し出した野菜ジュースを無遠慮に奪い取ると、躊躇う事なく口を付け一気に飲み干し空にした。
「どうしたっ、もう終わりか? さっきの気合はどこ行ったよ?」
「ご、ごめん……ゴホッ!これは、ちょっと……」
「なんだよ、残すなら罰ゲームな?」
「罰ゲームぅ?」
「そうだな……」
刺す痛みは幾分落ち着きを見せたものの、腫れ上がったのではないかと思える様な ジンジン とした焼ける辛さは野菜ジュースなどまるで受け付けず、今なお口の中に居座り続けている。
だがそんな事など露知らず、首を伸ばして周りを見回すと意地の悪い笑顔を浮かべて剛へと首を近付け「お前もだ」と小さく手招きする。
「あの女、お前の股間をマジマジと観察した女があそこにいる。 アイツをナンパして来い」
「なっ、ナンパぁぁ!?」
「馬鹿っ、声でけぇよ!」
バレて難易度が上がらないようにと気を遣い、わざわざ顔はそのままに視線だけで何処にいるのかを匂わせた克之の努力は奇しくもも当の本人によって踏みにじられた。
家族を除けば、毎日顔を合わせていた同じクラスの女子ですらまともな会話をした記憶が無い程に女性との接点の無かった剛。
そんな男に “ナンパ” などと無理難題を吹っかければ驚くのも無理はないだろう。
慌てた様子で顔を向ければ、離れた席から騒がしい剛達を興味有りげに見ていた “覗き女” と目が合い「何?」と首を傾げられてしまう。
ただ幸いな事に、剛の漏らした一言は聞こえてはいなかったようだ。
「あら、ナンパなら私をしてくれれば良いじゃない? 君ならウェルカムだよ、た・け・る・くんっ」
肘をついた手に顎を乗せ、もう片方の手を剛の頬にそっと添わせた。
丸みを帯びた輪郭がより一層の幼さを感じさせる “可愛い” と言う言葉がとても良く似合う絵里。
普通の者ならば浮かれてしまいそうな言葉でも、かけられた相手が対人免疫不全の剛であっては期待される効果を発揮しない。
突然の事に極度の緊張が走れば背筋を ピンッ! と伸ばして硬直すること5秒。
我に返った途端に青い顔になると、伸ばされた両手と共に思い切り首を振り始めるものだから絵里も「何事?」と不思議がっている。
「無理無理無理無理むりぃっ! ナンパなんて無理だよぉ……」
「アレは駄目、コレも駄目って、でけぇ格好しといて小さなガキじゃねぇんだから駄目駄目言うんじゃねぇよ。 選択肢はやったろ? どっちかに決めろや」
ピタリと動きを止めると、微笑みを浮かべて「私だよね?」とナンパ待ちする絵里を見たのだが、そんなお誘いをしてくれていたとしても剛には「じゃぁ……」などと言う勇気はありはしない。
それでも堅く目を瞑り、迷いに迷った挙げ句に出した答えは肉体的な地獄の方だった。
「戦わなければ勝てないんだ!」
またもや頭の中で有名なキャラに成り切り勇気を奮い立たせると、勢い良くスプーンを手にして天井に向かい大きく掲げた。
「うそ……」
予想だにしなかった行動に驚く絵里だったが、克之は口角を吊り上げ「やるじゃねぇか」と心の中で呟く。
「うぉぉぉおぉっっ!!」
急降下したスプーンに再び盛られる刺激臭漂うカレー、勢いそのままに口へ飛び込むと襲い来る激痛に「男だろ!!」と気合のみで目を瞑り、拒絶する喉を無視してそのまま飲み込む。
するとすぐに次が届けられ、流れ作業の様に口に放り込まれるカレーを黙々と処理して行く剛。
“カレーは飲み物”
長年の末に極意を会得した達人の如く、噛む事も無いままに胃の中へと劇薬を流し込めば吹き出す汗は止まる事を知らず、垂れ流れる鼻水は滝の様。
いつの間にか出来た人垣の中心地、風体など気にもせず異臭漂うカレーを食べ進める勇気ある若者へと無言の応援が注がれていた。
だが……
「ごほっ!…………げほっ!げほげほっごはっ!!」
駆け登り途中で階段を踏み外して転げ落ちるように、順調に見えた快進撃は身体が限界を知らせようと変なところを刺激して生まれたたった一つの咳で足を止め、拒絶を示し続けた胃がチャンスとばかりに逆流を図る。
「兄ちゃん、あと少しだっ! 頑張れ!」
口に手を当て、咳の合間に唾を飲み込み、そうはさせじと喰らい付く剛に野次馬からの声援がかかる。
「ごふっ! ごほっごほ……はぁはぁはぁ」
何が彼をそこまで駆り立てるのかは定かではない。
だが、困難を乗り越えただひたすらに前に進もうとする剛の姿は輝いて見えたようで、避難生活を送る決心をしたものの先行きの不安さを感じていた人達の心に何かを残したようだ。
「どうしたぁ? おめぇまさかとは思うがギブとか言わねぇだろうな? 壊滅した日本という国の遺産をゴミ箱に捨てるとか言わねぇよなぁぁ!?」
壊滅……頭の中に過ぎる父親、母親の顔。 日本で唯一かも知れない避難所を知りながら連絡を取れずに別れる事となった姉と妹……もう会えなくなってしまった家族の為にも僕は生きる!
死にかけていた剛の目に三度闘士が宿ると、身体の中から出ようとする咳ですら飲み込み、最後まで手放す事のなかったスプーンに力が籠る。
「このやろぉぉっ!!」
雄叫びを上げて持ち上げた皿を既に痛みしか感じなくなった口に付け、残り僅かになったカレーを全て掻き込んだ。
少し間が空く事で加速を止めた口ではあったが、傷口を束子で擦るような痛みが再び襲い掛かり両足を踏み鳴らして悶えるものの、最後の最後で負けるわけには行かない!
数秒の格闘の末、最後の強敵をどうにかこうにか飲み込めば、剛の掲げた右手に数人の観客から拍手が起こる。
「剛くんっ! 大丈夫!? 剛くんっ!!」
だがその称賛は肝心の本人の耳には届く事はなく、達成感に満ちた涙のガッツポーズのままに傾いて行くので、隣に居た絵里が大慌てで受け止めれば既に意識が無い状態だった。
「焦ったぁ……無理し過ぎて気を失ってるだけみたい。 少し休めば回復するでしょ。
このカレーは後で撤去します。 皆さんは彼のように無茶しないでくださいね」
黄色ナースの絵里が解散を告げると、剛の頑張りに満足そうな顔色を浮かべた野次馬達もそれぞれの席へと散って行く。
「ねぇ、なんで剛くんにこんなの食べさせたの? 普通に考えたら無理だって分かってたでしょ?」
「んぁ?」
自分のカレーの残りを平然と食べていた克之に冷たい視線を向ければ、最後の一口を口に入れ良く味わった後で言葉を返した。
「俺が無理強いしたみたいに言うけどよ、どうするか決めたのは剛だろ? カレーに負けてイラつくのは分かるが俺に当たるのはお門違いだぜ?」
「でも貴方が煽ったから剛くんは……」
「お前さ、なんで剛に近付こうとするんだ?」
スプーンを置いた克之はコップに入った水を飲みながらも、睨んでいるとも取れかねない鋭い眼差しで絵里を見据える。
大人の男でも退いてしまいそうな強い視線にもめげずに冷めた目で見返すと、一呼吸置いてから克之にしか聞こえない程度の小さな声で返事をした。
「彼が気に入ったからよ、悪い?」
「ハッ! 妥当な答えだな。 まぁ理由なんてどうでもいいけどよ、一つだけ忠告しておいてやろう。
俺は剛をダチだと認めた。 お前がそいつと男女の関係を持つだけなら何も言うつもりはないが、もし何かしらの危害を加えるような事があれば全力で叩き潰す。
覚えとけよ、おんな」
「ご忠告ありがとう、でも心配には及ばないとだけは言っておくわ。
それでね、お友達さん? 悪いけど彼を部屋まで運んで貰えないかしら? 私じゃ重くて引き摺る事になるのよね、それじゃあ可愛いそうでしょ?お友達さん」
「ったくよぉ、世話が焼ける奴だな、おい」
文句を言いつつも立ち上がると二人分の食器を片付けに行く。
「男女の関係……かぁ。 先は長そうだね、剛くん?」
そんな克之の後ろ姿を見つつ独り言を呟くと、腕に抱く剛の頬を突き、食べようと思って持ってきたパンの缶詰をポケットに入れたのだった。




