58.愛の罠
「離岸した! 水深も十分よ!」
「絵里!早くっ! 急いで!!」
「このぉっ……!」
奥歯を噛みしめながらも胸の前で見えないボールを押し潰すようにして力を込める絵里、仄かな光に包まれた潜水艇が念動力により水中に沈みゆく。
見た目は完全にクルーザーながらも本当に水の中でも大丈夫なのかと操舵室付近に集まった全員が固唾を飲んで見守る中、前面のガラスを湖面が通り過ぎ、少しだけ景色が青味がかって見えるようになる。
透明度の高い地下水は視界も良好で本当に水の中なのかと疑いたくもなるほどだったが、船体の下から立昇る気泡が “ここは水中である” と教えてくれていた。
ゴゥンッ!
水の中でも伝わる一際大きな地響きがした一刻後には船体が大きく揺さぶられ全員が床へと投げ出される。
「くぅぅっ!」
絵里の必死の制御にも関わらず何度も揺られて立ち上がれない。
パンドラに押し上げる筈だったエネルギーが行き場を失い、近くにあった脆い空間へと押し寄せて来たのだ。
「限界まで深度を下げて! 本命の波がすぐに来るわ、それに乗って地底湖から脱出しないと落石で押し潰されるわよ!」
地底湖全体を揺るがす大きな振動、何百万年もかけてゆっくりと造られた鍾乳石はいとも簡単に崩れ落ち、遠ざかる水面を叩くことで速度を落としながらも大小様々な岩が雨のように降って来るのが視認できる。
「姉さん!」
「今はまだ黙って床に伏せてなさい。 ここまで来ておいて舌を噛んで死んでしまっても知らないぞ?」
だいぶ治ったとはいえ揺れる船内、絵里の座る椅子に手を掛けにこやかに振り返った女性はまさしく剛の姉、純恋だった。
突然現れたその姿に歓喜していれば グンッ と電車が発車したときのような慣性力を感じて後方へと転がりそうになる。
「ぃよっ!」
床に這いつくばりながらも壁の一部に手をかけどうにか姿勢を維持すると床へと垂れ下がる赤くて長い髪が目に入り、それを追って顔を上げれば目の前に蹲み込んで片手を上げる女の姿が目に映る。
「美月!!」
このままでは押し潰されると、姿勢を維持するのに精一杯だった絵里を手伝い潜水艇を前へと押し出した美月。
だが彼女は大仕事の後、力を使い過ぎでお疲れモードに入り、後のことは絵里に任せる気満々でいた。
「美月お姉ちゃんっ!」
すぐ隣の巨大試験管で眠っていた二人は精神世界で顔を合わせてすっかり仲良くなっていた。
飛び付き、猫のように頭を擦り寄せる琴音の髪を撫で回して癒される美月ではあったが、再会の感動から剛まで飛び付いてきそうな雰囲気に「止めてよ?」と冷ややかな目で見ていたところに飛んでくる現場監督からの非情な指示。
「みーつきぃーっ! 身体はサボってても手は動かしなさい! みんなまとめて海の藻屑にしたいのかっ!!
地底湖を出るまででいいから働けっ!!」
「私、疲れてるのに……人遣いの荒いことで」
「あぁっ!? 何か言った?」
「了解しましたぁ、軍曹殿ぉ〜」
二人のやりとりに首を傾げていた琴音だったが彼女なりに状況を理解すると、純恋に見えるようにわざとらしく溜息を吐いた美月の服を引っ張った。
「美月お姉ちゃんがやったみたいにこのお船を押せば良いの?」
「ん? うん、そうだよ」
「じゃあ、琴音がやってあげるっ!」
彼女が間違えることなく読み取った仕事は船を前に進める事、そんなの簡単だと言わんばかりに得意げな顔をして人差し指を立てた右手を突き上げた。
「えぇっ!! うそうそうそうそうそうそっ!?!?」
琴音の力で猛烈な推進力を得たまでは良かったが突然ペースを乱された絵里は火の車。
降り注ぐ岩を念動力で逸らしながらも必死に前へと進めていた潜水艇。 予想外の速さで進むようになれば対応しなければならない目標物がガラリと変わり見なければならない範囲も広くなって予測が難しくなる。
「絵里!前!! ぶつかるっ!?」
落ちて来る岩に集中するあまり潜水艇があらぬ方向へと進み出せば前を照らす二つのライトが映し出したのは天井まで突き出す大きな柱、水中で見ればそれは壁にしか見えないほどの物だった。
「くっ! このぉっ!」
潜水艇の制御に全ての力を裂き柱への激突は避けきるが、その先は地底湖に設置してあった照明の届かない真っ暗闇。
潜水艇に取り付けられたライトだけが頼りだった。
狭い視界の中、SARS-CoV-3.1のおかげで普通の者よりは身体能力に優れた絵里ですら反応出来るギリギリのスピード。
だが、急速に狭くなってくる通路が絵里の神経をすり減らす。
「もう無理! ぶつかる!!!!」
「琴音! もう大丈夫だから、力を止めなさい!」
いくら透明度があっても所詮は水の中、潜水用にと強力なライトを装備はしているものの、それにも増して進むペースが早すぎて周りの壁にぶつかりそうになるのを純恋に支えながら立つ菜々実の念動力がフォローしながら狭くなった水路を走り抜けて行く。
「えっ? 琴音もう何もしてないよ?」
地底湖を抜けるまででいい、純恋の言葉はちゃんと聞いていた。
真っ暗になった辺りから琴音は船を押すのを止めていたのだが、爆発の影響を受けた水の流れが全ての物を外へ押し流そうと勢いを増し、その流れに上手く乗ってしまっていたのだ。
「ここまま行くしかない! 頼むわよ、絵里!」
「そんなこと言われてもっ!!」
「手伝うから頑張りなさいっ!!」
打つかれば大破、水中に投げ出されれば呼吸など出来ずたちどころに命を落とすだろう。
それは各所にしがみ付きながら見守るしかなかった全員が理解していた事。
(頑張れ!)
絵里を応援する思いは皆同じであった。
更に水路が狭くなれば勢いずく潜水艇は暗闇を突き進むジェットコースターのようであった。
だが進むべきレールもなければ安全装置などもちろん無い。
曲がりくねる度に身体は振られ、必死にしがみ付いてはいるが暴れ馬のように払い除けようと右に左にと揺さぶられる。
「キャーーーっ!」
「玲奈さん! 捉まって!!」
「これっ、大丈夫なのか!?」
「勘弁してください勘弁してください勘弁してください」
「たーすけて〜っ!!」
更に狭まる通路、加速する潜水艇。
流れゆく視界は最早制御する事など不可能な状態で、船の周りに圧縮した水の膜を張り巡らせ激突する衝撃を緩和させるのが精一杯。
バウンドするボールの様になすがままされるがままに身を任せる他なかったのだが、その影響を受け船内はますます荒れ狂い全員の悲鳴がこだましていた。
自動車とは違う小さなハンドルの奥にある大型の液晶画面には船の状況が分かりやすく表示されており、その隣にある別の画面はタッチパネルになっていて初心者でもある程度簡単に操作が行えるようになっている。
「バラストはこれで制御すると……んでぇ?ハンドルは使わずに左右のジョイスティックで進行方向を決めてっと……」
咲と入れ替わった純恋は座り心地の良さそうな皮張りのシートに身を埋め、膝の上に広げた分厚い説明書をめくりながら操作の感触を確かめていた。
「咲さん……姉さん……」
「あ、気がついた? 身体は何ともない?」
意識が戻ればソファーで眠るみんなの姿、聞こえてきた声に誘われて二つある操縦席の間に立つ咲の隣に歩み寄れば、純恋の様子を見守る菜々実の姿もそこにあった。
窓ガラスの先に見えるのは薄暗くはあるが深い青色の素敵な景色、澄んだ水の中で太陽の光が僅かに届くそこは水深50m程の太平洋の真っ只中だった。
ラフティングなど比べるべくもないほど激しかった揺れは一切無く、静かで穏やかで止まっているのかとも思えたが、時折迫って来る細かな浮遊物がそうではないと告げていた。
「さっき向こうから連絡があったわ。 二日くらいで合流ポイントに着ける予定だけど完全にナメられてるわね」
数千発という核攻撃は当然のように深刻な海洋汚染を招いていた。
二ヶ月以上経った今では汚染物質が拡がり海軍の作戦でも乗組員の健康を考慮してその海域には近付かない、もしくは比較的安全な海中を進む原子力潜水艦しか派遣されておらず、回収して欲しければ陸地から1,000㎞以上離れた指定ポイントまで来いと言われたらしくご立腹していた。
「気晴らしに貴重な燃料使って運転させてあげてるんだから、いい加減文句言うの止めなさいよ」
通常の大型クルーザーの3倍もの燃料を搭載していたとしても車の1/20以下というとんでもない燃費の船、それでいて抵抗の大きい水の中を進むとあらば更に悪くなる。
液体酸素を搭載しており海中を長時間進むのに問題はないのだが生活の為の電気を造るにも燃料は必要なモノで、燃費計の示すギリギリのラインまで来いという上から目線の指示に腹を立てていたのだ。
「原水沈めて我々の力を見せつける時ではないかね!?」
「頼るべき相手に喧嘩売るのやめなさい」
呆れる菜々実の意識も載せて咲の手刀が純恋の頭に落ちれば、大したことないはずなのに大袈裟に痛がって見せる。
「剛くん……」
「玲奈さんっ! それ……」
寝ているみんなに気を遣ってか、弱々しい小さな声で呼ばれて顔を向ければ、オデコにガーゼを貼り付けた玲奈の顔に驚いてしまう。
すぐに思い至るその原因。
自分も気を失うほどに揉みくちゃに揺られていたのだ、当然みんなも同じように揺られ踏ん張り切れなかった玲奈が何処かで頭をぶつけていたとしてもおかしくはない。
「えへへ、ちょっとぶつけちゃって……いい歳してかっこ悪いよね」
恥ずかしげな表情で照れたように指で頬を描く姿は可愛い限りだったが、今はそれどころではない。
「ごめん、自分の事で手一杯で玲奈さんの事守ってあげられなかった……本当にごめん」
「えっ!? そんなの剛くんのせいじゃないから気にしなくて……」
「いいや、剛の所為だっ! 全て剛が悪い!」
両手を振り「大丈夫だから」と言う本人に代わり、椅子を回してこちらを向いた純恋が鋭い剣幕で剛を指差す。
「玲奈が傷物になった全ての責任は剛にある! だからその責任をとって玲奈の生涯を世話し続ける義務があるのだっ!!
意義があるのなら申してみよっ!」
言葉の意味を理解するのに時間は必要無かった。
何が目的なのかは不明だが純恋が突然言い出したのは結婚の約束。
元より軽い気持ちで恋人などやっていない剛からしたら、玲奈に指摘された時からいずれそうなりたいと願っていた未来の話しだった。
自分でも申し訳なく思った玲奈の怪我、突き付けられた “責任” と守りたいと願う気持ち、この先もずっと一緒に居たい想いが全部溶けて混ざり合う。
無事にパンドラを脱出し生きる希望が見え始めたところに降って湧いた話題が背中を推せば、皆に祝福されてやってくる玲奈の花嫁姿が思い浮かび剛の気持ちは一気に押し固められる。
「玲奈さん」
「剛くん!? す、純恋の言う事なんて半分冗談なんだからっ、真に受けたら……」
決して嫌だとかそういう気持ちがあったわけではないのだが付き合い出してまだたったの二十日足らず。
向かうA国では結婚年齢に制限が無い州も半数近くあるのだが剛はまだ17歳という旧国では結婚出来なかった年齢であり、将来を決めてしまうには早すぎるのではと心配になる。
にも関わらず、添えるように両肩に手を置いてくる剛の真剣な表情……
「姉さんの性格は嫌という程分かってるよ、けどそうじゃないんだ。
これは誰の影響を受けるでもない僕の心からの想い……玲奈さん、僕は君の傍にずっと居たい、玲奈さんとこの先の未来をずっと一緒に生きて行きたいと感じてる。
だから……僕と結婚して貰えませんか?」
尾骶骨から頭の天辺までを駆け抜けて行く痺れるような心地良い感覚、本気で好きだと思える相手に言われるプロポーズは嬉しい事この上無く、両手で口元を押さえた玲奈の目には感動のあまり涙が溢れてきた。
深い青色の光が僅かに差し込むだけの薄暗い海の中、少しばかりの発電機の音がするだけの静かな部屋は二人だけの世界となる。
優しい眼差しで見つめる剛、少しだけ緩んだ驚喜の波を胸に抱きつつ泣きそうになるのをグッと堪えて口を開いた。
「私も剛くんが好き、ずっと一緒に居たい。 けど……私で良いの? 咲さんや絵里や野乃伽の事も好きだって言ってたのに、私なんかを選んでしまっていいの?
私は剛くんと一緒に居られればそれだけで……」
「僕は玲奈さんがいいんだ。
人と話すのさえ怖くて避けてた僕を変えるきっかけになったのは玲奈さん、人を愛するのがどういう事なのかを教えてくれたのも玲奈さんなんだ。
玲奈さんは僕の全てだ、絶対に失いたくない。
だからこれは僕から逃げられないようにする為の姑息な罠。 卑怯だと罵られても仕方ないけど、どうしても玲奈さんを捕まえておきたいんだ。
もう一度言うよ?
僕と結婚してください」
再び襲いかかる感情の波、耐えきれず頬を伝う涙は溢れ出した幸せがいっぱいに詰まった滴だった。
言葉はなくとも、次から次へと溢れ出す涙を溜めた目で剛を見返す玲奈が頷けばそれと共に茶色のポニーテールが揺れる。
幸せを呼ぶ色とされる青色の光を背景に重なる唇。
逆光に浮かぶシルエットは絵になるほど美しく人生の重大な分岐点を迎えた二人をひっそりと見守るはずだったのだが、幼き心は自分の意思を表現することを厭わなかった。
「あ〜、チュウしたぁ」
「琴音ちゃん!静かにっ」
ソファーで寝ていた一同は目を覚ましており、琴音の一言を皮切りに我慢する気などサラサラなかった野乃伽がチャンスは今だとばかりに立ち上がる。
「次は私の番……剛、私も……お嫁さんに欲しい……でしょ?」
「ちょっと!? 次は私でしょ? 順番守ってよ、野乃伽!」
「お嫁さん!? 琴音も剛お兄ちゃんのお嫁さんになるっ!!」
「お嫁さんっていつかはって憧れるよね。 よし!僕も剛のお嫁さんにしてもらおうっ」
「芽衣裟はん、本気なん? それならウチも……」
「琴音っ! 琴音っ! 琴音のば〜んん〜っ!」
美人が台無しになる引き攣った顔の玲奈と、冗談も程々にしてくれと言わんばかりでげんなりする剛など尻目に、思惑通りに剛ハーレムが出来そうな確信を得てご満悦な純恋。
前々から口にしていた琴音だけではなく、剛の彼女として認められた絵里や野乃伽、それに加えて芽衣裟や美菜水まで手を挙げ出せば運良く生き残った二人の看護師まで満更では無い顔を見合わせる始末。
「わーーーっ!! ちょっと待て! 結婚ってそんな軽いもんじゃないでしょう!?
聞いてる!? こらっ、聞けって!」
かつて彼女が推測したように剛の中で進化したウイルスSARS-CoV-3.3は女性を惹きつける特別な力を剛に与えたようだ。
「ねぇ……プロポーズって一生に一度なのよ? 折角の感動の場面なのに……私の幸せの余韻、返して? ねぇみんな、聞いてる?」
お祭り騒ぎで揉みくちゃにされる剛、その輪から弾かれた玲奈は一人、窓の外の海に向かい嘆きを訴えていたが、それを気にかけてくれるのは頭を撫でて慰めてくれる咲、唯一人だけだった。




