50.正義の在り方
背後から抱きついた菜々実は回した手をお腹の前で組むと、半身を逸らして横から覗き込み輝くばかりの微笑みを八木へと向ける。
「ギリシア神話の運命の三女神、クロト、ラケシス、アトロポス。
神宮寺剛の身体で進化した新たなウイルスは便宜上
SARS-CoV-3.3と名付けさせてもらいました。
運命の糸を紡ぐクロト、選ばれた者は例外なく人間を超越する力を手に入れました。
しかし、運命の糸の長さを測るラケシス、つまり寿命を決める女神は、クロトに選ばれなかった者でも死んで行くのを良しとしないようで、その力を打ち消し生きる力を与える事でしょう」
「つまり神宮寺剛が創り出した新種とは?」
「彼の身体に生まれたSARS-CoV-3.3は対ウイルス用ウイルス。
このウイルス自体が人間に及ぼす影響はまだ分かりませんが、敵対ウイルスに自らを合成させ相手を相殺していきます。
他のウイルスを感知して始める増殖速度は凄まじくインフルエンザなど比ではないようにも思えますが、何度やっても増殖し過ぎる事は無く、相手を駆逐し終わる頃には殆どが死滅しほぼウイルスの居ない状態となります。
実験に使ったのはSARS-CoV-3及び
SARS-CoV-3.1、増殖の遅いウイルスではその力に勝てず全てが死滅してしまうようですね。
研究時間は足りていませんがSARS-CoV-3.3があればウイルスによるパンデミックは無くなる可能性がある。
このウイルスを抗ウイルス薬として精製出来れば世界中が欲しがるんじゃないですか?」
SARS-CoV-3.1の適合により産まれる超能力者を戦闘兵器としてA国に売り付け、そこで得た莫大な資金で更なる研究をする。 それこそが八木の密かに考えていた未来構図。
それを薄々感じており賛同する事が出来なかった菜々実は、八木に対する最後の問い掛けをした。
人類を苦しめるウイルスを殺す選択をするのか、それとも一握りの人間を超能力者へと進化させる方を選ぶのか。
SARS-CoV-3.3から造られる抗ウイルス薬は飛ぶように売れるだろう。 そうなれば想像もつかないような莫大な収入となり八木の計画と遜色無い生活が送れる筈で、その後の研究にも影響は無いはずだ。
出来る事ならウイルスを殺す方を選んで欲しい、考えてを改めて欲しいと願い提案した選択肢ではあった。
「先生ぇ? 報告は一旦終わりです。 ここは危ないですから未来に任せて離れましょう?」
才色兼備とは彼女の事を言うのだろうと改めて思う。
フェイトを創り出し、それがSARS-CoV-3並びに
SARS-CoV-3.1を押さえる効果があると突き止めた張本人。
研究熱心であり、自分を支える良きパートナーであり……良い女だった。
恐らくこれほどの女は他にはなかなか見つからない事だろう。 それを失うのは非常に心苦しく思う……が、仕方あるまい。
「ふえっ!?」
鷲掴みにされた腕に驚いた表情を浮かべたのも一瞬、無理矢理振り回され走る肩の痛みと突然訪れる浮遊感。
視界は反転し、目で追えないスピードで景色が流れて行く。
「!!…………くぉっとぉ ! くっそ重てっ……大丈夫か?」
動けず固まっていた克之達に向け投げ捨てられたのは『廃却が決まったフェイト製造機をお前達にやる』という未来からのメッセージ。
「重いとか失礼ねっ! あと、人の胸を許可なく触らないでくれない!?
ったく、最近のガキンチョは……でも、助けてくれてありがとう」
そういう事態も想定していた菜々実だったが、恐らく八木のポケットにあるだろう潜水艇の鍵を奪取するのに失敗したと舌打ちするもののすぐに気持ちを切り替え、生身の人間でありながら自分の身を挺して受け止めてくれた克之に出来る限りの笑顔を添えて感謝の言葉を渡した。
「お、おぅ……」
確かに胸は触った、だがそれは不可抗力というもの。
助けたのに文句を言われ不機嫌になるかと思いきや、菜々実の持つ包み込まれるような不思議な暖かさと、三十路過ぎという接する機会の無かった年上女性の色香に惹かれて柄にもなく照れて見せる。
そんな克之の異常にいち早く気がついた千鶴ではあったが、新たな一面を見て彼への理解を深めるだけに留めておくのであった。
「ちょっと、未来ぅ? 人をゴミみたいに投げ捨てないでくれない? 彼が受け止めてくれなかったら怪我してたじゃない。 一体何のつもりなのよ?」
顔は呆れており、腰に手を当て怒ってますと表現する菜々実は、一段上にいる未来を真っ直ぐ指差し抗議する気満々の姿勢。
だがその未来はといえば、目を細め、普段通りを装う菜々実を「よく言うよ」と蔑み見下ろしていた。
「村松くん、君を失うのは心苦しいよ。 出来ればずっと私の側で支えて欲しかった。 非常に残念でならないよ」
「先生!? どういう事ですかっ? 説明してくださいっ!」
⦅裏切る決心はついた?⦆
これ見よがしに掲げられた5㎝ほどの黒い棒、それはイニーツィオに仕掛けられていた声を録音する機械。
盗聴器には気を配っていた純恋だったがボイスレコーダーが設置してあるかまでは気が回らずにいた。
しかし仮に有るのが分かっていたとしても、様々な機器のある研究室では探し出すのは困難だっただろう。
⦅旅行に行く準備は出来てる。 でも船の事は聞いたことなかったし、当然鍵の在りかは知らないわ⦆
勝ち誇るように口の端を吊り上げる未来。
美香の亡骸を抱えて動かなくなった絵里の心の叫びを受けて静まりかえったイニーツィオには、ボイスレコーダーから流れ出した菜々実と純恋の秘密の会話がよく響く。
「何か言い訳がありますか?菜々実先輩?」
嫌味たっぷりな猫撫で声に応えるように、長い溜息と一緒に自分の愛した八木への想いも吐き捨ててしまう。
気持ちに踏ん切りを付けた菜々実は演じる事を止め、人類を死滅させかねない敵に成り下がった八木と未来に向けて言葉のナイフを振りかざした。
「近年、地球規模でウイルスによる被害は増加する傾向にあります。
それは感染力の強い多種多様なインフルエンザであったり、進化を続けるMARS、SARSのようなコロナ系ウイルスであったり。
先生の発見したSARS-CoV-3.1は確かに人間を進化させる素晴らしい能力を秘めた新種のウイルス、けどそれを得る為に払う代償は多過ぎるわ。
進化する為に払うものだから、そう言われれば納得出来なくもないけど「君は残念」と言われた人が『人類の為に!』と喜んで死ぬなんて事はない。
ましてや先生の考えは軍事利用、コロナ不況でひっくり返った世界的地位を取り戻す為の餌としてA国に売りつけるつもりなんでしょう?
崩壊しかけた世の中、国家の威信、訳も分からずウイルスを植え付けられ死に行く罪の無い女性達。
わざわざ考えるまでもなくA国の独裁が地球規模で始まり、A国の為だけの恐怖政治が執り行われるでしょうね。
拡がる戦火、奪われる超能力兵士製造の秘密。 他国での増産の為にとまたしても犠牲になる女性の生命。
その弊害として漏れ出たSARS-CoV-3.1が一般人にも感染し、知らないうちに世界中に拡がりパンデミックとなれば男性の全ては居なくなる。
人間は種の保存が不可能となりやがて死滅、そんな未来を先生は望むのですか?」
菜々実の叫びは意見を違え争っていた3人の看護師の心に染み渡る。
自分達の身に宿すウイルスが人間を滅ぼす、そんな事を言われて平気な訳はない。
だがその為に犠牲となるのが自分であると思い至れば、すんなりと納得してココで死ぬなど怖くて出来ない。
「先生お願い、考えを改めてっ。 人類を死滅させる
SARS-CoV-3.1なんて廃棄して、人類の救いとなる可能性の高いSARS-CoV-3.3の研究をしましょう?」
八木の性格上考えなど変わらないと知りながらも、両手を胸の前で組み、祈るようにして懇願する。
菜々実の叫びを耳にし共感したのは八木ではなく克之達だ。
自分達を実験に使う八木の片腕である彼女をどうやって自分達側に引き込むのかが最大の課題であったのだが、どうやら黒幕である八木とは仲違いをしてくれたようで希望が見えた気になる。
だがSARS-CoV-3.1を廃棄すると言った時点で、それに犯されている自分達が生きる未来が無い事は頭から抜け落ちてしまっていた。
フェイトを飲みさえすれば治る、そう信じて疑わない、否、思い込まなければ迫ってくる死の影に精神が耐えられないのだ。
「地球環境は人間という害虫の手によって破壊され続けて来た。 それは一重に、増え過ぎた人間達が豊かに暮らそうと手前勝手に自然環境を破壊し過ぎた事にある。
人間を篩に掛けるSARS-CoV-3.1
選ばれし者が生き残り新たな世の中を造る、地球という惑星が生き残る為には人間という寄生虫は数を減らすべき時が来ているのだ。
人類の死滅? そんなものは問題ではない。
SARS-CoV-3.1と共にSARS-CoV-3.3も研究し選ばれた優秀な男だけが生き残る、それならば人間という種は保たれるだろう?
君こそ考えを変え私に従うべきではないのかい? 今なら全てを忘れて私の元に戻る事を許そう。 賢い君なら選択を間違えることもあるまい?」
環境問題は深刻ではあるが、世界的に地球を守ろうとした動きは近年活発化して来ている。
SARS-CoV-2が巻き起こした経済打撃により多少の滞りは仕方ないだろうが、その後の経済活動は引き続き環境に配慮したものであることだろう。
これからの人類の在り方を信じる、そう考えられれば
SARS-CoV-3.1による虐殺を正当化するなど容認出来る事ではない。
即座に横に振られる菜々実の首は八木も予想していた返答。
それを確認すると隣に降り立った笹野に促されて長い白衣を翻すと、机に置かれていた小さな水槽を腕に抱え奥へと続く扉を開く。
「残念でならないよ、菜々実。 だが、これでお別れた。 せめてもの手向として君の残り僅かな人生が有意義なモノである事を祈ってあげるよ。
サヨナラ、菜々実」




