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パンデミック  作者: 桜桃なる猫
第四章 悲劇の研究所
41/59

41.想うからこそ……

ーー61日目

 今日はパンを作ると言って咲と玲奈は食堂へと行ってしまう。

 一人残された剛はといえば、マスクをしながらもノルマをこなそうと訪れる人達に混ざりジムで汗を流していた。


 〈ルームランナー〉はウォーキングからプロのランナーのトレーニングまで行える機械で、手軽に運動出来ることから〈エアロバイク〉の次に人気があった。



「おはよぉ、頑張ってるね〜」



 数人の使用者をスルーして剛に近寄ると、すぐ横、剛からも見える位置に立ち、いつもの笑顔で声をかけて来る。



「おっ、はっ、よっ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」



 ランニングにしては早い速度である12㎞/h、すでに30分はその速度で走り続けている剛には喋りかけられても話すだけの余裕は無かった。


「すごい速いけど大丈夫なの?」


 絵里の質問に笑顔で手を挙げ返事をするがそろそろキツくなってきたのでこのタイミングで休憩でもするかと思った矢先だった。


「ずっと同じペースより、多少強弱があった方が刺激になって良いらしいよ?」


 不敵な笑顔で口の端を吊り上げると、あろうことか断りも無しに横から機械を操作する。



「ちょっ! 絵里っ! さんっ!」



 電子音が二回響けば表記されている数字が12から14へと変化した。

 数字にしてみればたかが2㎞/hではあるのだが、いい加減に疲れた身体、体感速度にすると倍にされたかのように感じてしまうから不思議なものだ。



「ちょっ!? むりっ! むりっ、止めて!」


「はいっ、後30秒! ほらほらっ、剛くんなら出来るよっ!」



 調節ボタンへと伸びる手を叩いて速度を維持すると、小悪魔的笑顔でそんな事を言う。

 だが絵里も絵里で剛の様子をキチンと見極めた上で大丈夫そうだと判断しての事だったのだが、そんなものは剛には分からない。



「は〜い、休憩、お疲れ様っ」



 徐々に落とされて行く速度、最後は歩行ペースにまで遅くなり筋肉が悲鳴をあげるのを我慢して歩き切ると、ようやく機械が止められ降りることを許された。




 爆発する勢いで高鳴る鼓動、もうダメと膝が笑いそうになるのを必死で堪えてジムの端にある休憩スペースの椅子へと腰を着ければ、何も言わずともわざわざ冷たい水を持って来てくれる。


「はい、どうぞ」


「え、あ、ありがとう」


 一人分の隙間を空けて隣に座った絵里も自分のペットボトルに口を付け、剛が落ち着くのを笑顔で見守っている。


 もっと側に行きたい、でもこれ以上近いと怒られる。 そんな葛藤をする絵里はまるで主人の機嫌を伺う仔犬のよう。



『絵里の事、どう思ってるの?』



 静かに響く美香の声、それは剛の頭の中だけに聞こえる思い出されただけの声。


 木霊す質問は昨日を呼び起こし、頭の中は多種多様な絵里の笑顔で埋め尽くされて行く。



「ひゃぅっ!?」



 太腿の脇に置かれた絵里の手に触れる剛の手。


 素っ頓狂な声を出してしまったのは、何の脈絡も予兆も無く、あまりにも突然の事だったから。


 それはただ添えられただけに留まらず重ねられる面積をゆっくり増やすと、指の間一つ一つに剛の指が挿し入れられ固い結びつきとなる。


 だが当の絵里は嬉しい筈なのにその事が信じらず、これが現実なのかと疑いしばらくの間魅入ってしまう。



「絵里さんって……可愛いよ、ね」



 続けてされる不意打ちに熱を帯びる絵里の顔。 この二ヶ月でどれだけアプローチしても同局の磁石の如く一向に縮まらなかった距離が、剛の方から寄って来てくれた。


 それは感動するほどに嬉しい出来事で、事実、涙が溢れる思いで目頭が熱くなる。



「まだはっきりとは分からない、分からないんだけど……絵里さんの事、女性として好きなのかも知れない」



 導かれる手は間近まで擦り寄った剛の太腿に乗っかり、もう片方の手で優しく撫でられる。


 たったそれだけの事で背筋が ゾクゾク として吐息が洩れそうになり、見上げた笑顔は王子様の様に キラキラ とデコレートされていて思わずうっとりしまう。



「剛くん、本当に? 本当にそう思ってる? 私を揶揄ってるだけじゃないの?」



 夢見心地ではあったが自分を見失った訳ではない。

そんなことを聞けば気分を害するかも知れないとは思いはした。 それでも今ある現実が信じられず、どうしても聞きたくなった質問。


 だが、剛の笑顔は変わらず優しく、離された手が腰へと回れば、それだけで天にも登る幸せな思いで満たされてしまう。



「昨日、美香さんに言われたんだ、絵里さんの事どう思ってるのかよく考えてって。


 目を瞑って心の中を探したら今まで何で気が付かなかったんだろうってくらい沢山の絵里さんが僕の中に居た。 これって僕が絵里さんの事をずっと気にしてたって事だよね?


 だから決めたんだ、自分の気持ちに素直になろうって。


 僕には玲奈さんと咲さんって二人の恋人がいる。 二人共大好きなんだ。

 けど絵里さんの事も好きだ。 これからもずっと一緒に居たいと思ってる。


 だから、パンドラから逃げ出して玲奈さんと、咲さんと、絵里さんと僕、どこか遠い場所で四人で暮らそうよ。


 でもその為にはまずフェイトを手に入れないと……その方法はまだ見つかってないんだけどきっと何とかなる」



 目を伏せた絵里を説得するように静かに語りかける剛。

だが絵里の気分は天国から地獄へと叩き落とされ、最悪のモノと成り果てていた。



「剛くん……私の事が好きならキスして」


「えぇっ!?……い、い、い、良い、よ?」



 少しの戸惑いを見せはした。 しかし望まれるがままに、顔を上げた絵里の唇へとゆっくりゆっくり近付いて行く剛。


 念願が叶いそうで早くなる鼓動、だがそれと共に膨らむ絶望感。


 絵里の希望通り唇が重なる一歩手前、差し込まれた一本の指がそれを阻止する。



「ど、どうしてっ?」



 間近で見上げてくる絵里は唇を噛み、溢れんばかりの涙を溜める複雑な顔に我に返る。



  “何故僕は絵里さんにキスしようとしているんだ?”



「剛くんの気持ち、凄く嬉しい。 でも次は剛くんの意志でして欲しいな」



 両頬に涙の筋を作りながらも精一杯の笑顔を向けると、席を立ちそのまま出て行ってしまう。


 何故突然告白などしたのか、何故話してはいけないフェイトの事を話してしまったのか自分自身で理解が出来ない。

 それでも今確かな事は、フェイトの事より何より絵里を泣かせてしまったという罪悪感が胸の中をグルグルと渦巻いているという事だった。






ピッ

「話がある、何処にいるの?」


 足早に廊下を歩く絵里は耳に付けたインカムに指を当て目的の人物とコンタクトを取ると、告げられた場所へと向かう。

 その顔に笑顔は無く、普段の絵里からは想像もつかないほどに固い表情、そこにあるのは剛に手を出した親友に対する怒りであった。



シュゥゥゥゥンッ



「早か……!?」


 並べられた6つの机、奥側の一つに座りパソコンを眺めていた美香。

 扉が開いて絵里の姿が見えた途端その表情から「不味ったか」と悟ったのだが、その時にはもう手遅れだった。



「カハッ!」



 とてもではないが耐える事など出来無い突風に煽られた感覚、視認出来ない空気の壁が襲いかかり椅子ごと壁に叩きつけられ呼吸が止まる。



ダンッ!



 苦しさに喘ぐ中、薄目を開けて見れば、壁へともたれる顔のすぐ横に突き付けられた腕と、先ほどと変わらず静かなる怒りの見え隠れする絵里の顔。


 怒る事の少ない絵里だったが、怒る事自体が苦手であり『怒り』と言う表情ですら得意ではない。

 それでも精一杯の感情を表に出す辺りが彼女の本気度を窺わせるものなのだが、そんな顔ですら美香には可愛いと思える。



「くっ、いきなりね。 私、責める方が好み……」



「うるさいっ!」



「っあ、ぐっ……ぁはっああっ!」



 再び放たれる重たい空気。

その圧力は凄まじく、美香の体重の10倍もの力が重くのし掛かり美香の身体を壁へと押し付ける。


 念動力サイコキネシスとは意思の力だけで物体を動かしてしまう未知の力。


 それは通常、目に見える机だとか椅子だとかといった物を動かすのが精々なのだが、能力に秀でた絵里の感覚はそれとは比べものにならないモノで、目に見えない空気ですら支配下に置く事が出来た。



「何でなの?」


「くぅ……話しをするのなら順を追いなさい」


「白々しいっ!」



「カッハアッ!…………ゴホッゴホッゴホッ」




 容赦なく襲いかかる三度目の重圧、SARS-CoV-3(クロト).1の適合で多少なりとも強くなった身体とて無敵になった訳ではない。

 身体中の骨が悲鳴を上げこれ以上は駄目だと告げてくるが、彼女の気分次第では再びアレが来る。



「どうして剛くんに手を出したのっ!?」



 悲鳴にも似た問いに苦痛も吹き飛び思わず吹き出したが、そのまま笑っていては本気で殺されかねない。


「どうして、ですって? そんなの聞くまでもないじゃない。 貴女の為によ、絵里」



「偽りの心を植え付けておいて私のためですって? 私がそんなもの貰って喜ぶとでも思ったの!?」



「……貴女、西脇玲奈と神宮寺剛がデキたの知って身を退くつもりでいたでしょ?

 学生時代からずっと、絵里を見てきた。 でも一度たりとも絵里から誰かを好きになったことなんて無かった。 ううん、違うわね、誰かを好きになった事自体が初めてなのよね?」


「そんな事は……」


「自分は誤魔化せても私は誤魔化されないわよ? 誰かと付き合ってても全然本気じゃなかった。 言葉通り本当にただ付き合ってあげていただけ。

 外面の良いとこだけを見せて本心は隠したまま、むしろ私と一緒の時の方が絵里らしい絵里の姿だった。


 それが今はどう? 剛を思い、焦がれ、悩む。 四苦八苦してどうにか振り向かせようと努力するなんて完全に恋する乙女じゃない。 口惜しいったらありゃしない、絵里は私の……私だけのモノなのに!


 それが何?


 この間は二号でも愛人でも構わないって言ってた癖に、自分の気持ちを押し殺してまであの女に渡すの? 絵里が好きになった剛を黙って渡してしまうの?


 なんでって聞きたいのはこっちよっ」



 美香に備わったのは超能力という特殊な力の中でも特異なモノで、催眠術と言った方が分かりやすい。

 心を支配し意のままに操れると聞けば凄い能力のように思えるがそれほど利便性に富むものではなく、苦労無く万人に影響を及ぼせるものでもないのだと言う。



「剛くんは……私ではなくあの娘を選んだ。 剛くんが残り僅かな人生を幸せに過ごす為には私はただの邪魔者でしかない。 だったら私が剛くんを諦め……」


「剛くんが、剛くんが、剛くんの為にっ!

そうよ、そうよ、その通りだわ。 剛の為にはアンタなんか居ない方がいいっ」



 いつもクールで落ち着いている印象しかない、それなのに怒りから眉間に皺を寄せた美香。

 そんな顔の彼女を見たのは長い間一緒に過ごしてきた絵里でも初めての事だった。


「居ない方がいい」それは自分でも考えていたクセに、美香に言われると胸を抉られるような痛みが走り涙が溢れてくる。

 別に美香に嫌われた訳ではないのだが、剛にもフラれ美香にも見捨てられたような悲しい気持ちがのしかかってくる。


 “自分は要らない存在” そう思った瞬間、涙が頬を伝って行く。



「西脇玲奈と付き合ってる剛にとって絵里は不要な存在よ。 邪魔者?全くもってその通りだわ。 剛の為を思って身を退く、少女漫画みたいに綺麗でカッコいいわよね。


 でも絵里の気持ちはどうなるの?


 確かに私は自分の力を剛に使った。 でもね、何も西脇玲奈を捨てて絵里のところにやろうって魂胆じゃない。

 私がしたのは剛の本心を表に出させただけ、西脇玲奈という蓋を外して絵里の事を自分でどう思ってるのかを分らせてあげただけよ」



 美香は言った、剛が口にした想いは暗示により言わされたものではなく、剛の本心なのだと。

 そんなこと知りたく無かった……せっかく諦めようと心に折り合いを付け始めたところだったのに。



「一つだけ、良いことを教えてあげよっか?」



 勢いに任せてやり過ぎたのか、怠そうに壁へと頭を預ける美香。


 そんな状態に追い詰められても絵里への気持ちは揺らがず、これからの事を案じて困惑を始めた絵里を哀れみ救いの手を差し伸べる。



「剛は……たぶん死なない」


「えっ!? どう言う事なのよっ!!」


「教えてあげるのは一つだと言ったよ? 質問は受け付けませ〜ん」


「何よそれ、勿体ぶらないでっ!」


「何を言っても無駄よ。 恐らく剛は生き残る、だからさ……」



 あまりの驚きに段々と近付いてきた絵里の顔は少し首を伸ばせば触れ合う距離、頬に跡を付けた滴を手で拭ってやった。


 目を瞑り深く息を吐き出すと、突き合わせたオデコから温もりを感じる。


 本心からすれば剛になど渡したくはない、たが絵里の幸せこそが美香の幸せなのだと チクチク とした痛みを訴える心に振る舞うべき建前を言い聞かせる。



「諦めず頑張んなさい」



 良く知る目の奥を覗き込めば、それが嘘や出任せではない事が分かるくらいに近しい存在。 いつも支えてくれる、癒してくれる、困ったら泣き付けば必ず助けてくれた美香。


 その美香が『剛を諦めるな』と言ってくれている。


 わざわざの根回しは思い返せば中途半端なモノで、あんな状態であれば今のように絵里に責められるのは分かりきったこと。


 それを見越しての美香の布石。



「んっ……」



 長い、長い口付け。


 謝罪と感謝の込められたキスはいつもの甘い時間とは違いただ唇を重ねただけのもの。


 両の頬に触れる手の感触だけでその想いが分かるのは、美香にとって何よりも大切な存在だから。



「ごめん美香っ、ありがと!」



 顔を離した絵里はとびきりの笑顔だった。

それに見惚れていれば、並んだ二つの机を軽々と飛び越え急ぎ足に部屋を出て行く。



「ったく、世話の焼ける奴だなぁ……コホッコホッ。

 精々上手くやりなさいよ、絵里……って、自分の気持ちを殺して綺麗に身を退いたつもりでいるのは私の方か」



 誰も居ない看護師の詰所、壊れかけた椅子から落ちてしまいそうなほど浅く腰掛け足を投げ出した。

 それは絵里の癇癪で受けたダメージが緊張の無くなった今になって辛いと感じ始めたから。


「私の絵里を盗った神宮寺剛、許さんぞ……」


 目を瞑り大きな溜息を吐けば困惑する剛の背後から飛び付く絵里の幸せそうな顔が思い浮かぶ。

 絵里の幸せを願い、そっと押した背中……後悔はほんの僅かにだけしか、無い。



「な〜んて……なっ」










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