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パンデミック  作者: 桜桃なる猫
第四章 悲劇の研究所
40/59

40.密室の二人

 玲奈を襲った二人組はあえなく捕らえられ、表向きはパンドラから追放されたという事になっている。


 実際には、外への扉を開くことで侵入してくる放射能のリスクを減らす為に放出などされず、遺体安置所となっているゴミ置き場に捨てられるという更なる恐怖を与えられ命を落とす事となるのだが、それは一部の者しか知らない事実だった。






ーー60日目、イニーツィオ



「んん〜、んんんんっん〜ん〜ん〜んっ」



 薄暗い部屋の一角で鼻歌を口ずさみながら愉しげに電子顕微鏡を覗き込む一人の女。


 レンズに顔を近付けている時は集中しているようで唄は止まるが、顔を離すとその続きが奏でられていた。



「んん〜ん〜っ、ん〜んんんんんっん〜」



 いくつもの水槽に入れられた受精卵を育てる為の小さなモーター音だけが聞こえる落ち着いた空間、パソコンに向かいキーボードを叩く音も心なしかリズムを刻んでいるように聞こえてくる。



「ん〜んっんんんんっキャーーーッ!!」



 一人だけの研究室で突然誰かに肩を持たれれば飛び上がって驚くのも無理はない。

 あまりの慌てように持っていたペンが宙を舞い床に叩きつけられると、静けさが支配する室内に乾いた音を響かせた。



「もぉっ! 死ぬかと思いましたよ!! そういうのは止めてくださいっ」



 身を縮こまらせた菜々実ではあったがそれ以上何もしてこない事に恐る恐る振り向くと、あまりのリアクションの大きさに苦笑いを浮かべる見知った顔。


 それをさせた人物も僅かな悪戯心があっただけで、これ程までに盛大な反応が得られるとは思ってもみなかったのだ。


「いや〜悪い悪い。 あまりにも機嫌が良さそうだったからちょっと驚かそうと思っただけなんだが……すまない」



「暴漢に襲われるかと思いましたよっ!」



 頬を膨らませながら涙を浮かべる姿にやり過ぎたと感じ、座ったままの菜々実に近寄るとその顔を優しく抱きしめた。


「それはCパケッツでの出来事の話しかい?」


「先生は私が襲われても何とも思わないのですか?」



 二人組の事はあの時食堂にいた人達は勿論の事、その数時間後に婦長笹野の口からパンドラ中に放送が流され全ての人に周知される事実となった。


 それはこれから悪くなって行くだろう治安を抑制させる為の目的で行われたのだが、菜々実にとっては恐怖心を植え付けられるだけのモノであった。



「忘れてないかい? 君の部屋兼研究室もそうだが、ココは私の信のおける者しか入れない場所だよ?

 君は最初から守られている、だから暴漢に襲われる心配など米粒ほども無いのだよ」



「もぉ、意地悪っ。 そこは君の……んっ」



 言葉を止める為だけに塞がれた唇。


 それを分かりながらも受け入れる菜々実は八木の首に腕を回しもっと欲しいと求め続ける。


「何か成果があったのかい?」


 暫しの口付けの末に顔を離すと恍惚とした表情で続きを欲するが、そんなことより研究の方が気になる八木。



「先生がご褒美をくれるのなら教えてあげなくもありませんよ?」



 自分の優位性を理解しタダを捏ねる我儘娘の首筋にキスをすれば、小さな反応と共に甘い吐息が漏れ出る。

 女とは面倒な生き物だと思いつつ、数度繰り返した上で耳に舌を這わせ、耳元で囁く。


「ご褒美は後だ、良い子だから教えておくれ」


「けち……」


 八木が身を離せば、これ見よがしに大きな溜息を吐いた菜々実も諦めてパソコンへと向かう。



 画面に並べられた表やグラフ、それは知らない者が見ても何が何だか分からない。 だがそれを見つめる八木の顔は真剣そのもので、黙ってその様子を見続けていた。



「グラフからも分かる通り、一週間前から三柿野 琴音の身体的成長は急激に緩やかになっています。

 またSARS-CoV-3(クロト).1の増加量も落ち着きを見せていることから、特異体として完成間近なのでしょうね。


 そして注目すべき点は脳波の方で、フェイトに入ってからずっとδ(デルタ)波のみが観測されていた彼女ですが、ここ最近はθ(シータ)波が多くなり、時折り波形が乱れてα(アルファ)波が混ざるようになって来ました。


 これは目覚めが近いという何よりの証拠かと思います」



「やはり琴音くんの方が先に目覚める、か。

アトロポスはどうなんだい?」



「ご覧の通り身体の成長は行き着いたようで成長具合も常人と変わりありません。

 ですが彼女の脳波は安定したδ(デルタ)波を保ったまま、つまり深い眠りの世界にいます」



「起きてもおかしくはない、それでも起きようとしないのは君の意志なのかい?」



 後ろ手を組みアトロポスの眠る水槽へと歩みを進める八木。 彼女を眺めて楽しむ時間は彼にとって至福の時間であり、邪魔される事を嫌う。


「はぁ……やっぱりご褒美無しじゃない。 本当に拗ねて見せれば振り向いてくれるのかしら?先生」


 小さく呟く不満になど答えは返って来ない。

 そんなことは分かりつつも言わずにはいられなかったのだが、やっぱり駄目かと諦め、不満を募らせながらも作業の続きをする事にしたのだった。






 肩までの黒髪は真っ直ぐで艶々、それはとても手入れの行き届いた健康的な髪で、お嬢様である千鶴の髪も凄く綺麗だとは思っていたが前を歩く女の髪も触ってみたくなるほどに綺麗なモノだった。



「久しぶりよね? 一度会っただけだけど覚えてる?」



 一見するとキツイ印象を与える切れ長の目と黒縁眼鏡、前から見ても後ろから見ても「千鶴のお姉さんですか?」と聞きたくなる程に似ている。



「その様子じゃ覚えてないようね、悲しいわ」



 ここはヴィルカントの一室、身長に体重にと手際よく仕事をこなしながらも話しかけてくるのは今回の健康診断の担当だと言われた菅野 美香。


 彼女の話しではパンドラ入所の際に絵里と共に会ったと言うが、剛からしたら朧げにしか覚えがない。


 最近になってCパケッツに転属されたのだそうだが理由までは言わなかった。

 しかし誰もいなくなったAパケッツではやる事が無くなったからに違いない事は剛でも予測が出来る事実だった。



「ここには誰もいないわ、出来れば本音が聞きたいんだけど?」



 美香と絵里は親友、その絵里が頻繁に話題にしていた剛と話す機会をずっと待ち侘びていたのだと言う。


 更に続けられたのは絵里推し。


 絵里の魅力、可愛さ、失敗談、聞いていて悪い気はしなかったが、全ては剛の思いを絵里に向ける為の布石だと思うと絵里にも美香にも申し訳なく思う。



「美香さん、すみません。 僕には彼女が……」



「そんなの知ってるわ。 でもそれとこれとは関係がない。 聞きたいのは貴方が絵里をどう思ってるのか。

 絵里の事、嫌いではないのよね?」



 先日、八木に頼まれた事が頭に浮かび、美香も同じ事を言うのかと少しだけ嫌気が差す。

 あの時了承したつもりはないがハッキリと断りを入れなかった事に後悔してしまう。


「もちろん嫌いじゃありません、でも……」

「でも、好きでもない?」

「いえ……それは分かりません」

「そう、正直で良いわ」



「ちょっと! 美香さんっ!?」

「大丈夫、これ以上は何もしないわ」



 椅子に座る剛の背後に回ると フワリ と抱き付いて来た美香。

 そんなことをされて落ち着いていられるはずもなく、振り払おうとするがすかさず待ったがかけられる。



「芽衣裟の事聞いたわ、ちょっと強引に迫ったんですってね。


 草食系って言うの?今の子達って奥手な子が多いじゃない?

 女に興味が無いわけじゃないくせに、ちょっとした後押しがないと踏み込めない。 だから手を引いてあげるつもりだったってだけで何も無理矢理とかそう言うんじゃなかったはずよ?」



 今更そんな事を聞いても彼女の顔を見るたびに一歩退いてしまうのは治らないだろう。


「彼女以外とこういう事したら駄目って思ってるんでしょ? 大丈夫、これは貴方の本心を知る為の治療みたいなものよ。

 これ以上は何もしないから落ち着いて、目を瞑って……少し深呼吸をしましょうか」



 落ち着けと言われても見知らぬ他人に抱き付かれれば無理というもの。

 緊張から鼓動は早くなり、逃げ出したい一心だ。



「ほら、ゆっくり吸って〜、吐いて〜、吸って〜、吐いてぇ……」



 それでも早く解放してもらいたくて苛々しながらも言いなりになっていれば、美香の落ち着いた声は不思議と心地よく響き、段々と抱き付かれているのも気にならなくなってくる。



「良いわね、その調子、目は瞑ったままよ。 今、貴方の背後にいるのは私ではなく西脇玲奈だと想像してみて?

 いつも一緒にいる彼女の笑顔、繋いだ手の感触、触れる肌の質感…………今の気分はどんな感じ?」



『剛くんっ!』



 耳元で囁かれる美香の声に玲奈の声が重なり、やがて玲奈の声とすり替わる。


 閉じた目の奥、暗闇の中に現れた玲奈が剛に向かい両手を伸ばして微笑みかける。

 次の瞬間には背中から覆いかぶさり、身を乗り出して顔を覗き込んでくれば、いつもの屈託のない笑顔がそこにあった。



「どんな?…………心が、落ち着く……暖かくて……心地良い……」



「そう、恋人とは心の支えとなってくれる大事な大事な存在。 剛は西脇玲奈が好きなのよね?」


『剛くん、私の事……好き?』



 頭に直接響く美香の声は幻想的で現実味が無く、トンネルの中で話すように幾重にも反響して頭に残る。

 聞こえていないようで聞こえている美香の質問は玲奈の声の副音声。



「大好きだよ、玲奈さん」



 目を細めて嬉しそうな顔で笑顔を作ると剛に口付けをするが、唇の感触が無くなり心の中で目を開けば、そこにいたのは玲奈ではなく絵里であった。



「絵里を初めて見たとき何を感じた? 剛のベッドの上、距離を縮める絵里は可愛いかったわよね? 貴方にとって絵里は何? どんな存在?」


『剛くんっ、私の事は……嫌い?』



 剛から離れ、目の前に移動した絵里は胸の前で手のひらを合わせて祈るようにしている。 その顔には不安が広がり、いつも笑っている彼女の印象とは随分違う。



「嫌い……じゃないよ」


『じゃあ……好き?』



 花が咲いたように明るくなる絵里の顔。 手を広げてスーッと近寄ると、剛の肩に両手を置き、顔を近付け答えを待つ。


 緊張するほど近い距離ではない、だが絵里がすぐ側で見てると思うだけで鼓動は高鳴り、気が付けば自分の手を伸ばして背中へと回していた。



「好き……なのかな……」


『本当!? ねぇ、もう一回言ってよ。 もう一回、ちゃんとっ!』



 抱きしめた絵里の身体は玲奈より少しだけ膨よかだが、小さくて少し力を入れ過ぎれば壊れてしまいそう。


 絵里の手も背中へと回されるが、精一杯の力が込められているだろうに弱々しい。 だがそれが心地良く感じ、そんな彼女を守ってあげたい衝動に駆られる。



「僕は、絵里さんの事が……好きだよ」


『嬉しい! 私も剛くんが大好きだよっ!』



 剛の肩に顔を埋めて存在を確かめるようにグリグリと顔を擦り付ける。


 仄かに香る化粧品の匂いと頬に当たる栗色の髪、絵里がすぐ側にいる事が嬉しくて自分も首を傾け頬を寄せた。



「どうやら本心は見えたみたいね」



 ハッキリ聞こえた美香の声が気になり目を開けば、そこはさっきまでの真っ暗な場所とは真逆の真っ白な壁に囲まれた広い部屋。

 しかも自分の前にいるのは絵里ではなく、椅子に座り剛の手をそっと握る美香がいるだけであった。



「あ……え? 何?」



 状況が理解出来ず戸惑う剛に向け柔らかく微笑むと、眼鏡のフレームを指で摘んでかけ直した。



「絵里の事をどう思ってる?」


「絵里さん……ですか?」



 思い起こされる絵里の笑顔、ただ笑顔と言っても一種類ではない。

 楽しそうに笑う顔、嬉しそうに笑う顔、幸せそうに笑う顔、安心して笑う顔……この二ヶ月で彼女の見せた様々な笑顔が頭を過ぎる。



「分かりません」


「素直で可愛いわね、絵里が気に入るのも分かる気がするわ。 どうせなら私も剛の彼女にしてもらっちゃおっかなぁ」



 膝と膝がぶつかる様な距離で片目を瞑り、これみよがしに尖らせた赤い唇から投げキッスを送って来る。


 それが嫌だと思いはしなかったが、彼女の言動が冗談だとしても勘弁してもらいたい。



「美香さんのような美人と僕とでは釣り合いが取れませんよ。 丁重にお断りします」


「あら、意外っ。 そんなお世辞が言える子だったのね。 益々興味湧いちゃうわ?」



 立ち上がった美香に背中を叩かれ何故か気怠い身体を押して立ち上がれば、そこに寄り添いあたかも恋人のように腰へと手を回して来る。



「ほらっ! 後がつかえちゃうからね、次行くわよっ」


「えっ!? あっ、ちょっ、美香さん?」



 そんな事をされて嫌だと感じなかったのは不思議に思いはした。 だがそれよりも早足に歩き出した事に意識が取られる。

 そのまま美香に連れられ次の部屋の扉を潜ると、まだ残る検査を済ますべく再び彼女の言いなりになるのだった。












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