26.突然咲いた一輪の花
「っく、はぁはぁはぁはぁはぁはぁ……」
一月以上もの間毎日のようにジムで身体を動かしてはいるが、全力ダッシュなどという限界まで力を振り絞ることなどなかった。
『女が怖いのか?』
実際には “女” が怖いのでは無く、自分を受け入れてくれていると感じていた家族以外の全て、つまり剛の中で “他人” と括られた人間という生き物全てを避けていた。
だがココに来てからというものグループメイトである克之と玉城以外で話したのは積極的に近付いてくる年上の女性ばかり。
その所為あって剛本人ですら、芽衣裟の言動で “女性が怖いと思っている” と錯覚してしまっていた。
そもそも散歩を始めたきっかけである喉の渇きを潤すため、辿り着いた食堂の自販機擬きで水を取り出すと一息で飲み干してしまった。
「はふぅ……」
最初に迫って来た絵里は剛の気持ちを察っしてすぐに身を退いた。
二度目は咲。
心の距離を縮めるのを目的として押し倒されたが、揶揄い半分に遊ばれて終わった。
そして三度目の芽衣裟。
全力で抗ったにも関わらず動きもしなかった手は恐怖を煽るものだった。
もしあの時、扉が開かなかったとしたら、今頃は芽衣裟に喰われていた事だろう。
押し付けられた胸と背筋を突き抜けた快感はその後を期待させるものではあったのだが、他人を受け入れることに緊張した心はそれを上回り、逃げ出したい一心だった。
灯りの調整された通路を二本目のペットボトルを手に疲れた足取りで フラフラ と歩いて行けば、夜中と括られる時間帯だというのにジムの奥から変わった音が聞こえる。
興味を唆られ覗いてみれば、天井から吊るされた黒革の円筒と向き合う金髪の女性と、真っ直ぐ突き出された拳の奏でる鈍い音。
「ハッ!」
素人の剛から見ても様になっている綺麗な立ち姿。
リズム良く当たった拳の最後には、大きく開かれた長い脚が華麗と言える回し蹴りを繰り出し、天井に繋がる鎖を鳴らした。
「見世物じゃないわよ?」
肩までの金の髪が揺れる様と流れるような動作に見惚れていれば、どうやら向こうも剛の存在に気が付いたようだ。
「剛くん? どうしたの?こんな時間に」
わざとらしい溜息を吐いた後、敵意が剥き出しになった鋭い横目で背後を確認した咲は、思わぬ観客に不思議そうな顔で振り向く。
「いや、ちょっと喉が渇いちゃって……それより咲さんは武道を習っていたんですか?」
「あぁ、うん、少しだけね。 恥ずかしい所を見られちゃったわね」
「何言ってるんですか、カッコ良かったですよ?」
拳を痛めぬ様に握られていたタオルの代わりに置いてあったペットボトルを手にするとにこやかに歩みよる。
だがその顔には秘密がバレて困惑するような苦い表情が少しだけ混ざっていた。
「ストレス解消にサンドバッグを殴りつける女に対してカッコいいとか、褒め言葉じゃないわよ?」
「そうですか? 僕は咲さんを見てカッコ良いと思ったからそう言ったんです。
僕としては褒めてるつもりですよ?」
「すみません」と来るかと思いきや、珍しく自分の意見を通した剛はいつものギャップもあってか、咲の目には妙に男らしく写った。
「そっか、なら、ありがたく受け取っておくとするわ」
「はい、受け取ってください」
いつものように昼間も顔を合わせたが、なんだか急に成長したように感じる。
だがいくら成長の早い思春期の男の子とてたった何時間かでそうも変わるものではない事は言わずと知れること。
違和感を覚えた咲は、後頭部に手を回して頭を引き寄せるとオデコを突き合わせる。
「咲さんっ!?」
そんな事をすれば気が気でないのは剛の方。
もちろんソレ込みでの咲の行動だったのだが、びっくりはすれど意外にも嫌がる様子は見受けられない。
「熱は無いようねぇ」
「熱なんてありませんよっ! 突然何なんですか?」
期待した反応が得られずすぐに解放されたのだが、当の本人も嫌がっていない自身の気持ちに困惑しているという不思議な状況。
剛の肩に手を置いたまま真っ直ぐに見つめる咲は身長170㎝と女性にしては高い方だが、剛は178㎝とそれよりも高い。
細身の咲と体格の良い剛、側から見たらバランスの取れた良いカップルにも見える。
「……何かあったの?」
部屋を出てからココに来るまでの間の出来事、短時間で二度も起こった事件が剛の頭を過っていく。
『女が怖いのか?』
頭の中で再び問われる疑問。
診療所では芽衣裟に押さえつけられ恐怖を感じた。
しかし今は一歩踏み込めば身体がぶつかる距離にいながら、怖いどころか、咲がすぐそばにいる事が嬉しいと感じている。
『絵里の事をどう思っているんだ?』
(僕は咲さんの事をどう思っているのだろう?)
世界で一番の美人と言われれば納得してしまいそうなほど綺麗な人。
それでいて気配り上手で優しい性格は、嫌いだと言う人などいないのではないかと思う。
ちょっぴりお茶目な彼女は毎日何かしらの意地悪をしてくるが、それが剛との距離を縮める為の計算された触れ合いだと理解はしている。
その所為あってか、咲にかまってもらえることが嬉しいと感じるようになっていた。
本当の姉のように心を許せる玲奈とも仲が良く、三人で過ごす時間がとても幸せに思えていた。
もう一人の姉のような、それでいてもう少し惹かれる何かを感じる女性。 少なくとも今、肩に置かれている手を払い除けようと思うことはない。
寧ろ……その手に自分から触れたい。
「剛くん?」
返事のない剛の顔を覗き込む咲。
造られたのではと疑いたくなるほど整った顔が近付けば、鼓動が高鳴り顔に熱を帯びる。
『こんな人が彼氏だったら……』
あの時の言葉が思い起こされれば同時にあの妄想までもが甦り、目の前にいる咲があらぬ表情を浮かべる姿と重なり鼓動が跳ね上がる。
「さ、さささささ、咲さんっ!!!」
堅く目を瞑り吐き出された言葉に、何か相談事かと手を下ろして聴く体制に入ろうかとした時だった。
「ん?」
腫れ物にでも触る様に出来うる限りそっと手を捕まえる剛、両手で大事そうに握りしめたその行動の意図が分からず小首を傾げる咲。
「あのっ! あのあのあのですね…………も、もしも……もしもの話しですよ?」
「うん、何?」
顔を真っ赤にしながらも必死に言葉を絞り出す様子にそんなにも緊張しなくてはならない相談事かと不思議に思う。
だがもしかしてもしかすると、とうとう玲奈の事が好きなのだと自覚したのかと勝手な予想を立てて内心ニンマリしていた。
「えっと、あの……その、あのあのですね……」
「剛くん、落ち着いて。 ちゃんと聞いてるから少し落ち着いて話そう」
提案を受け、言われるがままに三度の深呼吸をする剛。
その間も手は繋がれたままで、緩く握った手を離そうとはしなかった。
「た、例えばの話しなんですが……」
「うん、それは分かったわ。 仮定の話しなのね?」
加速していく剛の心臓は留まる事を知らず、咲にまで聞こえそうな程に力強く脈打っている。
「はい。 もしも……もしもです! もしも、もしも僕が……」
「うん、剛くんが?」
その瞬間に向けて高まる緊張は剛の意識を何処かに持ち去ろうとしていた。
だが、歯を食いしばり耐え、『もしも』という隠れ蓑を纏いどうしても聞いて見たくなった言葉を吐き出した。
「もしもっ!僕がっ!……その、あの…………つ、つ、つ、つつつ付き合って下さい!!!!!!」
勢い余った剛の告白。
「……って言ったらどうしますか?」と続くはずだった言葉は置き去りにされてしまったが、自分の素直な気持ちが言えた事は剛にとっては快挙を通り越して天変地異レベルの大事件であった。
「………………………ん?
だいぶ頑張ったみたいだけど、誰に言ってるのか分かってる?」
「えっ!? さ、咲さん……に…………です」
先程の全力ダッシュを思い出したかの様に高まる体温。 そのときより更に早く動く心臓は爆発する勢いで、頭は真っ白になり、見えている筈の咲ですら白い靄に掻き消されて見えなくなっていた。
だが、咲からすれば予想外の言葉。
例え話とはいえ極度の緊張から言い間違えたのかと疑ってみたがそれも違うと言う。
「その気持ちは嬉しいわ。 けど、私は剛くんが思うほどいい女でもないし、何より穢れた私は剛くんとは釣り合わない。
だから、その気持ちは……」
「咲さんは穢れてなんていませんっ!!!」
目を丸くしてびっくりするくらいの大きな声は誰もいない室内に響き渡り、緊張でおかしくなっている剛でも「しまった」と後悔するほど。
初めて見る剛の真剣な眼差しに、例え話の予定だった告白の本気度を知る事となった。
いつからそんな事を考えていたのか気になるところではあったが、一先ず落ち着かせるのが先かと手を解き首へと回したのだが、いつものように嫌がる素振りがない。
そのまま身を寄せると静かに抱き付き、剛の首筋に顔を埋める。
「ぁ……ぅ、えぇっ!?」
突然の事に再び頭が真っ白になってしまう剛だったが、全身で感じる咲の存在感を心地良く思う。
(咲さんが!咲さんが!咲さんが!咲さんが!咲さんが!咲さんが!咲さんが!咲さんが!)
そればかりが埋め尽くす頭で考える放棄された自分の手のやり場。
こんな時どうしたら良いのか分かりながらも『どうしよう』と迷いに迷う。
しかしこの状況を作り出したのは他ならぬ咲だ。
ならばと己を奮い立たせ恐る恐るながらも自らの手も咲の背中へと回してみる。
(こんなに、細いんだ……)
初めて触れる女性の身体。
伝わってくる暖かな体温と少しだけ早い鼓動。
首筋に感じる息遣い。
「剛くん」
「…………はい」
剛が落ち着くまで置かれた間は、咲の事しか考えられない人生で最高の時間だった。
「何があったのか話してくれない?」
(話す? ……何を?)
あまりの変わり様に何かしら事件のような事があったのだろうと踏んだ咲。
だが、至福の時を謳歌する剛は何を話して欲しいのか分からず黙ったままでいた。
「話したくないならそれで構わないけど、良く聞いて。
パッと見はさ、自分でもそこそこ綺麗な容姿だとは思うけれど、さっきも言ったけど私は薄汚れた女なの……誰かに好きになってもらう資格なんて無いほどに、ね。
だから、見た目に騙されちゃ後で後悔することになるわ。
その点、玲奈は見た目も文句なしに可愛いし、私より女の子らしい性格よ。 それに剛くんとも歳が近いし、仲も良いでしょう?
こんな事言ったら怒られるだろうけど、あの娘も剛くんに惹かれてるのよ?
だから、さっきのを練習だと思って玲奈に告白しちゃいなさいよ、私は二人を応援するわ、ね?」
一世一代の交際の申し込みは、やんわりと断られた事は理解出来た。
しかし、咲を抱く腕が緩まることは無く、少しも動きを見せない剛。
「例え話だって言ったのに本気なんだもん、びっくりしちゃうわよ。……剛くん?」
何の反応もない剛の顔を見れば、どこか遠くを見つめたままで立ち尽くしている。 しかしそれでも背中へと回された手は離すことはしなかった。
頬を伝う滴に驚きはしたが、それは言葉にならない心境の現れ。
濡れた頬を手でそっと拭き取ると、剛の頭を引き寄せ自分の肩へと押し付ける。
「剛くんの気持ち、嬉しかったよ。 とってもとっても嬉しかった。 でも私は駄目なのよ、誰かと結ばれる資格なんてない人間なの。
だから、玲奈を幸せにしてあげて? ね?」
返事も無ければ反応も無い剛の頭を優しく撫でる咲。
人間を拒否し続けた剛の胸に初めて開いた恋の花は、僅か数分で儚く散った。
その後、貸し切りになっている広い部屋で、暫くの間二人だけの時間を過ごす事となる。




