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地獄の扉  作者: 恵梨奈孝彦
3/3

開いた扉

「マンハッタンに行ってみましょう」

「…なぜ?」

五歳までいたとはいえ、懐かしさなど微塵もない。いやなことがあった場所でしかない。

「あそこで何があったか確かめるために!」

 正直言って気がすすまない。

 何があったのかはっきりするのが怖い。

 しかしそうは言わなかった。

「何を甘ったれたことを言ってるんだ。いつまでこんなことを続けるつもりだ。おまえのせいで家族も、生徒も、教員もみんな迷惑してるんだぞ!」

 むろんこれは、自分の心の声ではない。自分が正直な気持ちを口に出したら返ってくるだろう反応を予想しているだけだ。

ひとはマイナスなことを聞かされるのをいやがる。要するに自分の都合なのだが、それはいい。だれだって自分の都合を優先するものだ。しかしマイナスな言葉を聞きたくないのを自分の都合だと理解せずに、相手のためだと説教しだす人がいる。だから正直な気持ちを伝える前には人を選ばなければならない。だからおれは、妻の言うことには逆らわない。


 アメリカ行きの、飛行機のチケットや宿の手配、先方への連絡はすべて妻がやった。きっと感謝するべきなのだろう。

 しかし、行きの飛行機の中は地獄だった。

 一日中布団の上で寝ているだけでもつらいのだ。すし詰めのような座席に、半日以上もすわっていなければならない。

 トイレに立つのにさえ、隣の人に声をかけなければならない。

 祐一は妻の実家に預かってもらっている。

 祐一に会いたい…。

 自分の座席のそばに巨大な扉がある。


 眠っていた自覚はない。ただ、目の前にドアが現れた。

 どこかの玄関のドアのようだ。

 きしんだ音を立ててドアの板が、向こう側に吸い込まれるように開いた。

 その内側に包丁を持った少年がいた。

 少年はひどい憤怒の表情をしている。

鼻にしわを寄せたまま少年が言った。

「パパ、どいてよ…。じゃまをしないで」

 「パパ」は思った。この子を絶対に外に出してはいけない!


 そのとき幻覚が消えた。見えるのは無機質な飛行機の室内の床と壁だけである。

 あの少年はどこか、祐一に似ていた。

 あれが地獄の扉なのか。

 あの扉の外に出したら、祐一が加害者になるということか…。

 やっとマンハッタンについた。密室から体は解放された。

 壁が湾曲して青い、巨大な星条旗を掲げた交番。将軍とかいう看板を出したロブスター屋。中央分離帯のわずかばかりの碧。ピンクの水牛を連れたサンタクロース。馬鹿でかい交差点には、横の棒からにょっきり信号が生えている。摩天楼が続く通りでは、巨大な墓石に空気が圧迫されている。

 目につくものすべてが大雑把だ。寒い。

 四車線も五車線もある道路に車がみっしりと充満し、信号が変わるごとにみっしりしたままものすごいスピードで前進する。特に目障りなのは、毒々しく真っ黄色に塗られたタクシーだ。これらの車の全てにドアがついている。

 歩道でも、この寒いのにTシャツ一枚でガンガン音楽をかけて歌っている奴、踊っている奴、みんな騒がしい。世界一の先進国とは思えないほどみんな声がでかい。

 ものすごく気持ち悪くなってきた。何も考えられない。ただ、妻のあとをついていくだけだ。しゃれっ気も何もない建物についた。

 地元の地方都市なら大きな建物の部類だが、ここではむしろこじんまりした印象だ。建物に入ると、妻が受付で何事か話している。

イリノウムのタイルの床と打ちっ放しのコンクリートが、廃校か廃病院のようだ。この建物の中で、いいことが有りそうな気が全くしない。

妻は受付からこちらに来ると、階段を昇るように促した。階段は踊り場が巨大で、手すりも大きく、古いけれども凝った、波のような形の彫刻が施されている。

二階の壁はそれでもクリーム色に塗られていたが、あちこち剥げていた。そこに巨大な扉がはめ込まれていた。やはりゴテゴテした彫刻が施されていた。無駄に重厚だ。豪華というより恐怖を呼び起こさせる。

妻がノックした。扉の分厚い板が内側に入った。中にはアメリカ人の基準でいうと、小太り程度の中年女性が待っていた。

「リカコ! ようこそマンハッタン署へ! 当署のカウンセラーの、エズメ・コールフィールドです!」

エズメはにこにこ笑いながら妻と握手をすると、こちらにも手を伸ばした。手を握ると叫ぶように言った。

「ノブアキ! ずっとお会いしたかったのですよ! さあ、どうぞ中へ!」

流暢な日本語だが、言うことはアメリカ人らしい。いくら何でもおれにずっと会いたかったはずがない。

応接間なのだろう。カーペットが敷かれ、低いテーブルにソファーが置かれている。装飾らしい装飾はなかったが、掃除は行き届いているようだ。窓の外に街が見える。

妻が自分の状況についてエズメに話している。テーブルの上に見慣れない機械が置かれていた。カセットデッキというらしい。

「なるほど。ではこれを聞いてもらいましょう。三十年前のあの日に何が起きたか、すぐにわかるはずです」

 妻の話を聞き終わったエズメはおれの了解も取らずにデッキのスイッチを押した。

ガチャッと大仰な音がした。

…やはり何が起きたかを知るのが怖い!

本当におれは父親殺しなのか?

詳細は忘れてしまっても、あの、必死にドアのノブを引いていた感覚は今でも生き生きと残っている。父親が危険な路上から中に入ろうとするのを、妨害し続けた感覚…。このとき自分が立ちあがらなかったのは覚悟ができたからではなく、そんな気力がなかったからだ。いま、地獄の扉が開こうとしている…。


テープが回りはじめて数秒たってから音が聞こえはじめた。

『もしもし! 警察ですか!』

 若い。しかし自分の声だ。

 その時、「あの日」のことがくっきりと思い出されてきた…。

 あの日、父親も母親も出かけていておれはひとりで留守番をしていた。

 インターホンが鳴った。父親の姿が見えた。

 スピーカーボタンを押すと、父親が「鍵を忘れたから中から開けてくれ」と言っているのが聞こえた。

 玄関まで走った。その時、スピーカーから父親が叫ぶのが聞こえた。

「ダメだ!」

「どうしたの?」

 インターホンのカメラに、血まみれの父親と、笑い狂っている黄色いコートの男が映った。

警察だ…。警察に連絡しなくちゃ!このころの習慣で、電話をスピーカーモードにした。

『もしもし! 警察ですか!』

『はい。こちらマンハッタン分署』

『パパが! 家の前で黄色いコートの男に刺されてる!』

『正確な住所はわかりますか!』

『住所…。わからないよ』

 目の前のエズメが声を出した。

「これを聞いて、一度はいたずら電話を疑いました。申し訳ありません。この時応対していたのは私です。当時も日本語がわかるということで重宝されていました」

 アメリカでは子どもを一人で外に出すという文化がないため、「正確な住所」を教えられていなかったと思う。

『ここは…、マンハッタン…』

『それはわかっています。正確な住所を!』

 あのときおれは父親に聞くべきか迷った。

いよいよおれが、必死に中に入ろうとした父親を外に閉めだした様子が聞こえてくる…。

今いる応接室、ここのドアさえも怖い。

あの、必死にノブを引いている記憶が、生き生きとこの右手の平に残っている。

だけど、ドアを見ないのはもっと怖い。首を廻して見た。内側もまた、大げさな彫刻が施されて…。

 どこか違和感がある。

 この時はまだ、その理由に気づかなかった。

 そんなことは関係なく、あの日の記憶が次々によみがえってくる。

 あのあとおれは、キッチンに行き、シンクの下についた開き戸を開け、包丁を握って立ち上がった。包丁を提げたまま玄関へ走る。

何のために?


 テープレコーダーから声が聞こえる。

『どうしたんだ』

 目の前にいるエズメが言った。

「当時の署長の声です」

 テープのエズメが言った。

『子どもが、家の前で父親が刺されたと言っています! イタズラではなさそうです!』

『どこからだ!』

『わかりません!』

『逆探知は!』

『やっています。だけどまだ…』

『なんだそのシステムは! 日本製じゃないのか!』

『うちの署に、そんな高級品を買う予算があるわけないじゃないですか!』

 その時、テープレコーダーからかすかな叫び声が聞こえた。

『パパ、あけてよう! ぼくがそいつをやっつけてやる!』

『日本語か? 何を言ってる!』

『子どもが、外に出ようとしています!』

『バカな! 何のために!』

『父親を守るために!』


 馬鹿な。おれは確かに必死にドアを引いていた!

 その時、ここのドアを見た時の違和感の理由にやっと気がついた。

 日本でノブを引いて、自分はドアを閉めようとしていたと思った。

 日本の玄関のドアはたいがいが外開きだ。

 玄関で靴を脱ぐ習慣があるため、内開きではドアを開け閉めする際に靴が邪魔になってしまう。

 しかしアメリカでは玄関で靴を脱いだりしない。この部屋のドアもそうだが、都会のような治安が悪い土地では内開きが多い。暴漢に鍵を破られた時の用心のためであり、ドアの内側に重い家具を置いてバリケードをつくるためだ。

 おれはあの日、内鍵を開けて思い切りノブを引いた。

 ドアを閉めるためではなく開けるために!

父親を外に閉め出すためではなく、外に出て父親を守るために!

 このおれに、そんなことができたなんて…。

だけどなぜ、結局外に出なかったんだ?


『…だめだ。信明。外に出るな!』

かすれた声がテープレコーダーから聞こえる。

『パパ、どいてよ! ぼくがそいつを!』

 署長の声がした。

『子どもは外に出たのか!』

『いえ! 刺された父親が、扉を引っ張って、子供が外に出るのを防いでいます!』


おれが必死にドアを開けようとしていたのを、瀕死の父親がノブを引っ張って閉じていたんだ。瀕死と言っても大人と子どもだ。おれはドアを開けることができなかった。

あの、飛行機の中で見た幻影。

あの少年は、祐一ではなくておれだったんだ!

少年が祐一に似ていたんじゃなくて、祐一が少年に似ていたんだ!

だから「パパ」は、おれの父親は、少年を、おれを、外に出してはならないと感じた。

少年が加害者になるのを防ぐためではなく、被害者になるのを防ぐために!

あれこそが文字通り「地獄の扉」だったんだ。

それを開けまいと、おれを出さないように防いでいたのは…。

おれは愛されていた!

おれは父親殺しなんかじゃなかった!

おれは虐待なんかされてなかった!

虐待が連鎖なんかするわけがない!

祐一にそれが影響することはない!

おれが祐一を殺すなんて、絶対にありえない!

祐一に会いたい…。今すぐ祐一に会いたい!


『逆探知出ました! ハードウェアリバー街スクルプチュア通り213番!』

『近くにいるパトカーを全部向かわせろ。犯人は黄色いコートの男だ。見つけしだい射殺しろ! 何としてもこの勇敢な親子を助けるんだ!』

『もうやってます!』

近づいてくるサイレンの音。

引っ張っていたドアの重みが消えた。

外に飛び出した。

倒れている血まみれの父親にとびついた。

「パパ、ごめんよう…。まもれなくてごめんよう…」

父親が息も絶え絶えに言う。

「おまえは強い…。パパがいなくても…」


ガチャツという大きな音がしてテープが終わった。それとともに自分の中の再生も終わった。

エズメが話し始めた。

「あなたは、父親を守ろうとしたことを無意識の奥深くに抑え込んでしまった。それほどあなたは自分を責めた。それほどあなたは勇敢だった。わたしがずっとあなたにお会いしたかったのはそのためです。しかしこれは、少年だったあなたがやらなければならないことではない。我々の仕事です。お父様を守れなかったことを深くお詫びします」

 エズメはそう言って立ち上がると、アメリカ人らしくもなく、深々と頭を下げた。

「数か月前にお母様がお亡くなりになったそうですね。お悔やみ申し上げます。お母様がおっしゃった『あの日に父親を乗り越えた』というのは、『あの日にあなたが守られる者から守る者になった』ということです。

お母様が入院されたあと、あなたはひどい緊張状態にあった。それがお父様を守ろうとした緊張を思い起こさせた…」

突然内戦電話が鳴った。エズメが立ち上がって歩いていく。

窓の外を見た。

マンハッタンに黒の帳が降りはじめる。

そろそろクリスマスだったか。

雪だ…。

窓のすぐ近くを、粉雪が風で流されながら舞い散っている。

街路樹に次々と灯りが点くのが見えた。

大都会にはホワイトクリスマスがよく似合う。

暖かそうなコートを着た子どもたちが、ツリーの下ではしゃいでいるのが見える。兄弟だろうか。追いかけっこをしている。

 あれほど煩わしかった街の喧噪が、なんだか活気にあふれたもののように見えてきた。

「リカコ、あなたにお電話です」

「私にですか?」

 エズメに受話器を渡された妻が話し始めた。

「え? お父さん…? なんでこっちに…。どうしても来たがったからって…、お金はどうしたの?」

 その時、部屋の入口の扉が勢いよく開いた。

 その向こうには、これまで見たこともないほどの美しい少年が立っている。

 こちら側に開いた扉が勢いあまってゆらゆら揺れている。

 祐一は部屋にとびこむと、にこにこ笑いながら叫んだ。


「パパ!」



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