鬱と妄想
学校でもこのことだけしか考えられなかった。家に帰っても同じだった。
生きているからには眠れているはずなのだが、「次の日になった」という実感がまるでない。ひたすらぶっつづけで不安に苛まれている気がする。
それが何ヶ月も続いている。
終わりが見えない。
最初は心配してくれていた妻も、いつまで経っても何も変わらないおれに呆れたのか、もの言いが邪険になってきた。
祐一だけは変わらない。
夕食のときに「食欲がない」と言ったら、「パパ、しょくよくがないの?」と、隣から心配そうに覗きこんできた。
おれはこの子を守らなければならないのに、心配させてどうする!
味のしない飯を無理やり詰め込んだ。
心療内科で薬を処方してもらったが、効いていない。もしかしたらおれは、ずっとこのままじゃないのか?このまま何ヶ月も何年も、ずっと怯えながら生きていかなければならないのか?
いっそのこと、死んだほうが楽なんじゃ…。
考えてはいけないことを考えてしまった。
いつの時間も、自分が死なないかと怖くて仕方がない。
職員室の机で伏せっていたとき、筆立ての中のカッターナイフが目に入った。
どうしようもなく気持ち悪くなった。
車が怖いのは変わらないが、ホームに立っていて電車が入ってくるのが恐ろしい。
自分が線路に飛び込まないかと恐ろしい。
何よりも恐ろしいのはキッチンだった。
火がある。ガスがある。油がある。
何よりも包丁が恐ろしい。
自分が台所に行って包丁を握って走りだす。
そんな妄想が頭から離れない。
…包丁なんか握って、おれは何をするつもりなんだ。
死を連想させるものが、すべてが恐ろしい。
死にたくない!
だけどもしかしたら、死ねば「死の恐怖」から逃れられるんじゃ…。
うわあっ!
状態がさらに悪化している。
死ねば楽になれる…。
もはやただの妄想ではなく、この言葉が声として聞こえるようになっていた。
喫煙室の戸を開けた。
あれほど死を恐れていながら、煙草をやめようとは思わなかった。禁煙などという能動的な行いをする余裕はない。
もう一つの理由は、飲酒が禁じられていたからだ。アルコールには不安を助長させる効果があるらしい。
飲んだ翌朝ほど不安がひどい。
ただでさえ、朝は気持ちが憂鬱になる。
さらに、抗鬱剤や睡眠薬とアルコールを併用すると危険だとも医者から言われていた。
朝には人生が終わっているかもしれない。
そう思うと余計寝られなくなる。
喫煙室の中には、鈴原幸多という数学教師が座っていた。自分より四つほど若い。はっきりした歳は忘れた。煙草を取り出して火を点けると、鈴原が話しかけてきた。
「信ちゃん元気ないじゃん、どうしたのー」
馴れ馴れしい口調である。この男はハンドボール部の顧問だ。学生のころからハンドボールをやっていて、彼が顧問になってこの部活は強くなった。強いだけではなく生徒たちが行儀よくなった。そして彼に限ったことではないが、体育会系の教員は体育会系の人しか尊敬しないところがある。少なくとも自分が知っている学校ではすべてそうだ。
そして生徒指導を専門としている教員は、生徒指導ができる先輩しか尊敬しない。
自分は、生来の気の弱さもあって生徒を指導するのにどうも気後れするところがある。
もっとも今は、自分のことで精いっぱいで生徒どころではないのであるが。
しかしそうでなくても、他人が他人を怒っているのをそばで聞いていると、居たたまれなくなる。実を言えばどこかに逃げたい。逃げられないのなら、耳をふさいでいたい。
むろん教師である以上は、そんなことは許されない。
つくづく教師に向いていない性格だと思う。
そして、自分のような不適格者が教師を続けていられるのは、鈴原のような教員が生徒をひきしめてくれているからだということもわかっている。
だからどうしても、鈴原に対して卑屈な態度をとってしまう。
「いや、別になんでもないよ…」
「なんでもないことないでしょー」
この男に、今の自分をそのまま告げたいとは思わなかった。
「あまり、言いたくないんだよね…」
鈴原はむっとしたようで、わざとらしく笑いながら言った。
「寂しいなぁー。ホントにさびしい」
こちらもむっとしたが、ケンカするような気力はなかった。
「まあ…、こんなことを言うのも何だけれど、一言で言えば死ぬのが怖いんだよ」
鈴原は、待ってましたというように身を乗り出してきた。
「僕の知り合いのお爺さんで、戦争に行った人がいるんだけれど、この人が言っているんだよ。『おれは戦争で人を殺めた。良心の呵責に責められて苦しくて仕方がない。だからおれは、死が救いなんだ』って。だから、死を恐れることなんかないんだよ…」
見当はずれのような、そうでないようなことを言ってきた。
ただ、この際だからもっと言ってみようかという気になった。
「実はね…、死んだほうが楽になるんじゃないかと思っちゃって…」
鈴原は、怖い顔をして言った。
「なんてこと言うの…」
涙が出てきた。
「ありがとう、怒ってくれて…」
うれしかった。「だったら死ね」と言われたらどうしようかと思っていた。みんな、自分など生きていようが死んでいようがどうでもいいのだと思っていた。
しかし、そうではないんだという気持ちに一瞬にせよ、なれた。鈴原がさらに説教臭いことを言っていたようだったが、聞いていなかった。
別にそれで妄想や不安がなくなったわけではない。しかし、鈴原に話をきいてもらっていけばだんだん楽になっていくかもしれない。
次の日、喫煙室の戸を開けようとした。中から鈴原の声が聞こえてきた。
「きのう信ちゃんがねぇ、『死んだら楽になれる』とか甘ったれたこと言ってたんですよ。そうしたら泣き出してね。全然平気そうに見えたんだけれど、それで違うんだなって思って…」
学年主任が鈴原に何か言っているのが聞こえたが、そのまま職員室に帰った。学年主任には、自分の病気のことは伝えてある。
結局あの男は、マイナス思考の言葉を聞くのがいやだっただけか。自分の気を滅入らせたくないから、おれの言葉をさえぎっただけか…。
かりそめの人のなさけの身にしみてまなこうるむも老いのはじめや
急に太宰の歌を思い出した。
変わらず、自分が死ぬのではないかという妄想と、「死ねば楽になる」という頭の中からの声がおれを責めつづけている。
朝が最悪だ。夕方になればまだましになる。
しかし、眠れるわけではない。
何か月も眠らないで生きていられるわけはないが、眠っているとは思えない。
母親が死んだのは夏の終わりだったが、もう冬がそこまできていた。
医者は「日が長くなれば気持ちが楽になりますよ」と言っていたが、とてもなるとは思えない。
それに冬至までは長い。
布団の中に入る。
「死ねば楽になれる」という声が聞こえてくる。
車が通る音が自分を責めるのが聞こえてくる。
すぐそばにあるはずの玄関のドアが恐ろしい。家の中にあるカッターナイフが、ガスコンロが、ライターが、何より包丁が恐ろしい。
恐怖にふるえながら、上半身をゆっくり起こした。
隣の祐一の顔をじっくりと見る。
いつものようにかわいい顔を見て落ちつこうと思った。
このとき、いちばん考えてはいけないことを考えてしまった。
もしいま、祐一の体に覆い被さって頚を絞めたら…。
…バカバカしい!
なんでおれがこの子を、何よりも大切なこの子を殺そうとするんだ!
…しかし、可能だ。
もしおれがその気になったら、それを妨害するものは何もない!
昨夜まで自分を癒していた祐一の寝姿が、世界でいちばん恐ろしいものになった。
「ハンドボール部が県大会で優勝して、東海大会に進むことになりました。鈴原先生が顧問になられてから、ハンドボール部は変わりました。生徒からも父兄からも厚い信頼を寄せられています。ただ厳しいだけではない、人間的な暖かさがあると私のところにお話される保護者のかたが大勢います。みなさんの部活もハンドボール部のように…」
職員朝礼の間は机にふせっているわけにはいかない。校長が何か言っているけれども全然頭に入ってこない。いつの間にか話が終わっていた。まわりの教員が立ち上がった。自分も立つ。礼をして座った。
担任ではないので朝のSHRに行く必要はない。机にふせようとしたら鈴原が近づいてきた。さっき彼の名前を聞いたような気がしたが覚えていない。
自分の前まで来ると、手を差し出してきた。
自分も手を出すと、ぐっと握ってきた。
「これからもよろしくお願いします…」
珍しく敬語で話すと、満足そうにどこかへ行ってしまった。
何を考えているかさっぱりわからない。
わからないことを考えている余裕はなかった。
朝から、夕べ考えてしまったことで頭がいっぱいだ。
おれが祐一を害するような真似をするはずがない。そんなことなどありえない。
…本当にそうか?
「虐待の連鎖」という言葉がある。
虐待された子どもはそうでない子どもにくらべて、親になって自分の子どもを虐待するケースが多いということだ。
もし自分が幼いころ虐待を受けていたら、祐一を虐待してもおかしくないじゃないか!
…何を考えているんだおれは。
虐待の連鎖を断ち切るのに成功した親たちもたくさんいる! だいたい、おれが虐待をうけていた根拠なんかどこにもない! すべて妄想じゃないか!
…だめだ。
そんなことを考えている間にも、祐一の頚を絞める妄想が頭から離れない。
夜中に呼吸を荒くしたおれはむっくり起きあがる。
祐一はいつものように天使のような顔をしてすやすや眠っている。
おれは祐一の体にのしかかる。
目を覚ました祐一ははねおきようとするが、大人の体重をかけられて身動きすることができない。
おれは祐一の細い頚に手を掛ける。
体重をかけながら両手の指に力を込める…。
この妄想が何回も何回もくり返して浮かぶ。
子どもに害を与える前に自分が死んだ方がいいのかもしれない。
死ね……。
言葉が声になって頭の中にわんわん響く。
今日何百回目かの、祐一を絞め殺す妄想が最初から始まった。
祐一の姿を見ていた。
これほど怖い思いをしながら、祐一の隣以外では寝られなかった。
すやすや寝ている祐一は、自分の頭の中とは関係なく可愛らしい。
しかしあの妄想は、遠慮無く頭の中を占領している。虐待が連鎖されるものなら、祐一にも連鎖するかもしれない。
バカな!
おれが虐待されていたかもしれず、父親殺しかもしれないから、おれが祐一を虐待するかもしれず、それが連鎖するかもしれないっていうのか! 「かもしれない」が四つある想定に何の意味がある!
だけど…。
もしおれがおまえを殺そうとしたら、おまえがおれを殺せ。
そのとき、襖が乱暴に開けられた。
「あんた! こどもに何を教えてるの! こどもに人を殺せとか教えるなんて、正気なの!」
妻がおれを無理矢理部屋の外に引っ張り出した。おれを二階のダイニングに座らせると一気にまくしたてた。
「だいたい、何でこんな状態になってるのよ! 父親殺しだの虐待だの物騒なことばっかり聞かされるこっちの身にもなりなさいよ! そんなことがあった証拠なんかどこにもないでしょ! ぜんぶあんたの頭の中にしかないんだよ!」
そんなことはわかっている。だけどどうにもならない。
「あんたに一晩中顔を見られているから祐一が寝不足になって、学校で頭が痛いとか言ってるんだよ!」
…気づかなかった。
「それに『おれを殺せ』だとか…、父親に言われて、この子が本当にそうなったらどうするの!」
この後妻は祐一をたたき起こして自分の寝室に連れていってしまった。
それからも自分の症状は何もよくならなかった。
変わらず車が怖く、自分は父親殺しではないかと怯え、自分が死ぬのではないかと恐れて、何よりもドアが恐ろしかった。
ただ、子どもを殺す妄想を抱いても、祐一が隣に寝ていないのはいいことなのかもしれない。ただし、妻に説教されてからは、祐一がだれかを殺すのではないかという妄想にさえも支配されていた。
自分が血まみれの父親に泣きついて「パパ、ごめんよ。○○○○○てごめんよう…」と言っている。
これがただの妄想とは思えないくらいに、まるで本物の記憶であるかのように生き生きしている。父親が何かしゃべっているようだが、何も聞こえない。
聞きたくないんじゃないか?
父親から責められている言葉を聞きたくないんじゃないか?
妻が言った。
「もういいよ。こんなことを続けていてもしかたがない」
とうとう捨てられるのか…。長いといえば長い、短いといえば短いつきあいだった。…祐一にもう、会えなくなるんだろうか。
「マンハッタンに行ってみましょう」