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地獄の扉  作者: 恵梨奈孝彦
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母のことば

地獄の扉

 


外に出ると、日差しにちょっと力がない。

残暑はまだ厳しいが、空気そのものに盛夏のような逞しさがない。

秋がまた来る。

陳腐な感想だが、秋という季節は、どこか不安定な気分にさせられるため好きではない。

それは母親が入院してちょうど一週間めのことだった。


子どもを連れて病室に入ると、母親は簡素なベッドの真っ白なシーツに横たわっていた。

消毒液のツンとしたにおいが、なんとなく気を滅入らせる。

何に使うのかわからない、ディスプレイとランプ、スイッチがたくさんついた、人間の体よりも大きな縦型の機械が目についた。

その巨大さが不安をかき立てる。

クリーム色の壁に華やかさがまるでない。

ある日妻から、母親が熱を出して救急車で運ばれたという連絡がきた。

肺炎だった。

ものを飲み下す力がないため、点滴のみで栄養を摂っている。母がかつて、「ものを食べられなくなったら死んでもいい」と言っていたことを思い出した。母の鼻の下にかかった緑色の半透明のチューブと、やせ細った腕に刺さった点滴が痛々しい。

それでも彼女は、孫の姿を見ると笑顔をみせた。

「おばあちゃん、こんにちは」

母はこの、初めてできた内孫を文字通り目に入れても痛くないほどに可愛がってきた。

「ゆうちゃん、こんにちは」

痩せてはいるが顔色はいい。病人らしい臭いはしているが、まだ幼い祐一もそれを指摘することはない。

「信秋、わたしもそろそろお父さんのところに行くことができそうだよ」

父親は、そのころ住んでいたアメリカの都会で、強盗に刺されて死んだ。

「あんたがお父さんを乗り越えたのは、お父さんが死んだあの日だったね…」

その時母親が何を言っているのかわからなかった。父が死んだとき、自分はたしかにその場にいた。しかしまだ五歳、その時のことを何も覚えていない。母はそれ以上何も言うことなく目をつぶってしまった。

母の言ったことが気になったが、子どもの前でさらに聞くことをためらった。

「子どもづれだし早く帰りなさい」

「また来るから」

「おばあちゃん、早く元気になってね」

母親は寝たまま、点滴をしていないほうの腕を上げて挨拶した。

帰りに主治医が「肺炎がよくなっているらしい」と言ってくれた。呂律もしっかりしていた。まだ大丈夫だろう。


翌日、ひとりで病室に行った。できれば「お父さんを乗り越えた」とはどういう意味かを聞きたかった。しかし母親の様子は、昨日とは大きく違っていた。

あまりにも苦しそうに息をしている。何か聞くことのできる状態ではない。

主治医に「肺炎から回復した状態に体がついていってない」と言われた。

その日の夜、9時すぎ、母親が他界した。


その日のうちに母の体を家に迎え、翌朝枕経を読んでもらい、学校と親戚に連絡し…。

喪主となり通夜でも挨拶し、出棺でも挨拶をし、四十九日の払いでも挨拶をし、払いの席では料理が足りなくならないかの心配をし、特別有給はまたたく間に過ぎた。

四日後、母が死んで初めて出勤して帰ってきた夜のことである。

我が家の玄関の内側は半畳ほどのスペースしかない。今立っている靴脱ぎ場には、自分のサンダルと運動靴、息子の靴、妻のサンダルと靴が、狭い空間を埋め尽くしている。

ノブを持ってドアを閉じた。

…何かおかしい。

いや、おかしくはない。毎日やっていることだ。

そういうことではない。自分は確かにこの、ノブを引く感触を知っている。

いつ?

まさか、父親が死んだ夜に?。

あの日、自分とドア一つ隔てた外で父親は死んだ。

だが、その場にいたはずの自分に、全くその時の記憶がない。

私は靴を脱ぐと部屋に入り、ワイシャツのまま書斎の床に寝転がった。

本があふれた床は、自分一人が寝られる程度しか露出していない。

寝ころんだまま、ずっと前に読んだ本に書かれていたことを思い出した。

「人間は自分の心を守るために、自分にとって不利益な記憶、思い出したくない記憶を抹消しようとするが、意識を追い出された記憶は無意識の底に抑圧されていて、ちょっとしたきっかけで意識に浮上してくる」

あの「父が死んだ夜」は、自分にとって思い出したくない記憶であることは間違いない。しかし、不利益な記憶とは…。

だが今日、ドアを引く感触を生々しく思い出した。自分は確かにあの夜、必死にドアのノブを引いていた!

ノブを引く。必死にドアを閉じる。何のために?

父親は、「玄関のドアの外で」死んだ。

父親を玄関の中に入れないために!

間接的におれは、父親を殺した?

…妄想だ! 何の根拠もない!

ひどい焦燥感に襲われた。寝ていられなくなった。じっとしていられない。しかし立ったからといって焦燥感は全く減らない。のどなど渇いていなかったが、水を一杯飲んだ。

もしかしたらこれが、「不利益な記憶」なのか。だからいくら思い出そうとしても何も出てこないのではないか?

「パパ、ごはんだよーっ!」

祐一の声がした。

必死に努力して、しぼり出すような声を出した。

「わかった」

自分の「思い出したくない記憶」とは、父親を死なせたことなのか?

いや、母親は「あの日、おまえがお父さんを乗り越えた」と言った。もし自分が父親を死なせたのなら、母親がそんなことを言うはずがない。母親は、父親のことを大好きな人だった。

「パパーっ! ごはん!」

「悪い! さきに食べててくれ!」

おれは、父親殺しなのか!

「うわぁっ!」

と叫びたくなった。

しかし二階には息子と妻がいる。それが叫びを飲み込ませた。

再び布団の上に横になった。

なんでおれはこんなことを考えているんだ? 何の根拠もないのに!

ドアを閉めたからか?

ドアの近くにいると、恐ろしいことをたくさん思い出しそうな気がする。

もっと楽しいことを考えよう。

子どもだ。子どものことを考えよう。

祐一はとてもやさしいこどもだ。

自分には似ずに、妻に似てとても可愛い。

きっとおれといっしょに夕ご飯を食べられないことを残念がっているだろうな。

なぜこんなことになっているんだ!

ドアのせいか?

いや、ドアは毎日閉じている。

あの「お父さんを乗り越えた」という言葉が…。おれは「父親殺し」ということか?

自分が寝ている書斎から、玄関のドアまではわずか三歩半しかない。三歩半向こうのドアがひどく存在を主張してくる。いきなり書斎の引き戸が音を立てて開いた。

足元の向こうに妻の顔が見える。

「どうしたの?」

「ごめん、今日は晩飯いいから」

妻が立ち去ると、呼吸がさらに荒くなった。胃が鉛のように重い。とにかく、玄関のドアが気になってしかたがない。

目をつぶった。気になるのは変わらない。立ち上がってトイレに行った。用を足しても何も変わらない。洗面所で手を洗って水を飲んだ。

これだけのことなのにひどく疲れている。書斎にもどるのをやめて寝室に布団を敷いた。ジャージに着替えるのさえ大変な労力が必要だった。

このまま眠れるのだろうか。

さっきより少し遠くなったものの、玄関のドアがひどく気になる。

自分は玄関から遠ざかりたいのだろうか。

いや、実はあの日に、何があったのかを知りたいのではないか。

もう一度玄関に行ってみようか。

おれは何を考えてる! 後悔するに決まってる!

だけど、もう一度行かなければ、ずっとドアが気になったままだ。

よしっ!

玄関の靴脱ぎ場は、さっきと同じように家族の靴で埋めつくされている。

これを見ても何も思い出すことはできない。

いや「思い出すことができない」のは思い出したくないからではないのか。

サンダルを履いて、靴脱ぎ場の、わずかに残っている中央の空間に立った。

ドアを開けた。

閉め…。

たしかにおれにはこの、ノブを引く生々しい感触が残っている。

おれはあの日、必死になってドアを閉じていた!

なぜ?

必死にドアを閉めようとしているのは、外で必死に開けようとしていた者がいたからだろう。

ドアの外にいたのは父親だ。

父親が必死に中に入ろうとしていたのを、自分は我が身可愛さから妨害していたのか!

だがそのころおれは6歳だ。子どもが自分の命を守るためにドアを閉め続けたことが、それほど非難されるとは思えない。

ならばなぜそれを思い出せないのか。

もしかしたら、もっと罪深い、おそろしい記憶を閉じこめているからではないか?

不安を全く減らすことができないまま、寝室に帰った。

布団の上に寝転んだ。

神経が研ぎ澄まされると音がよく聞こえる。

普段は気にならない車の音が、今日はいやに耳につく。車には必ずドアがある。ドアが自分に向かって走ってくる。外を通る車が自分を責めにきているような気がする。一度気になってしまうと、そうとしか感じられなくなる。

車が来ていない時は、次はいつ来るんだろうかということだけが気になる。車が来れば、責められているような気がする。

サーっと音を立てて走ってきた車が一時停止して静かになる。

まもなく音がすることがわかっていながら、自分にはどうすることもできない…。

バカな! あれはただの車の音だ。おれとは何の関係もない!

理屈ではわかっている。しかし妄想が止まらない。しばらく車の音がしなかった。

いつ来るか、いつ来るか…。

サーっという音がする。

来た…。

音が止んだ。

再び車の音がした。責められている。あのドアはおれを責めている。

父親殺し…。

祐一が寝室に入ってきた。そんな時間か…。

「パパ、何かお話してよ…」

「ごめん。今日はちょっと疲れてるんだ…」

「そう! おやすみ!」

祐一が目をつぶったようだ。

車の音がしてきた。

父親殺し…。

気持ち悪くなってきた。

祐一はまだ眠っていないだろう。

そっと寝床を抜け出してトイレに入った。

真っ白な便器がまぶしい。

げえげえ吐いた。

便器の縁に手をかけていることを汚いと感じる余裕もない。

胃液までも空になったのだろう。出てくる液体が酸っぱいものから苦いものに変わった。

ペーパーで口をふき、鼻をかんだ。吐いたものを流して立ち上がった。

気力をふりしぼって洗面所に行き、口をよくすすいだ。隣に祐一が寝るのだ。吐物の臭いをさせるわけにはいかない。

寝室にもどった。

パタンと倒れ込みたかったが、祐一の隣にそっと寝た。

車の音が聞こえてくるのではないか。

そう思うと聞こえてこなくても恐ろしい。

車の音が聞こえてきた。

父親殺し…。

たまらず目を開けて祐一を見た。

少し落ち着いた。

父親殺し…。

これを何回も何十回も繰り返した。

ようやく夜が明けた。

次の日になった気がまるでしない。

少しは眠れたのだろうか。

隣の祐一はよく眠っている。起こさないように気をつけながら床を離れた。

何もしたくはないが、出勤はしなければならない。家を出れば車が走っている。音を聞くのも姿を見るのもつらい。

幸か不幸か、母親のことがあったため今年は担任を外してもらっている。

部活らしい部活の顧問でもない。

学校に来ても授業しかやることがない。

授業では、指導書に書いてあることを読んで、板書するだけですませた。新任研修でこんなことをしたらボロクソに叩かれるだろう。

職員室に帰ってきて机に伏せった。

何もやる気が起きない。

クラスでもあれば、生徒がどうしたこうしたということをいやでも考えさせられるが、今は自分のことしか考えられない。

おれは、父親殺しなのか?

何でおれがこんなことを考えなければならないんだ!

母親に「あの日、お父さんを乗り越えた」と言われたからか?

なぜ母親はあんなことを言ったのだろう?

あんなことを言われれば気になるに決まってるじゃないか!

…おれは本当に愛されていたんだろうか?

バカな。三十五にもなって何を考えている。

もう、両親ともにいない。

かつて自分がどう思われていたかなんて、いまのおれには何の関係もないじゃないか。

だいいち母親は、「お父さんを乗り越えた」と言ったんだ。「お父さんを殺した」なんて一言も言ってない!

…だめだ。不安がまったく減らない!

おれは、なんで「父親を家に入れまい」としたんだろう。

虐待されていたから?

ならばおれは、本当に「父親殺し」なのか?




………うわあっ!

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