寝たり食べたり驚かされたり
「おなかすいたよぉ~」
シトリニアは自室に帰ってくるなりお行儀悪くベッドに倒れこんだ。
ぽふ!
ふかふかの掛け布団に顔をうずめると、自然にまぶたが下がってしまう。
サイドテーブルに置いた『清流の調べ』の楽譜は、湿度を含んだ天気の中で何度も読み込んだからか、練習一日目にしてすでにふにゃりとしていた。
耳を澄ますと、春の雨が静かに窓をたたいている。白を基調とした猫足の家具がお気に入りの部屋は、青みを増した空気の中で水底のようにひっそりしていた。
二人は昼食の休憩を挟んだ後も、聖歌塔に篭ってみっちりと練習を続けた。
驚くことに、歌を教えられたことがないのはアメジストも同じだった。
ただしアメジストの場合はシトリニアと違って、周囲の思っていたとおり、いやそれ以上と言ってもいいほど歌が上手かった。幼少期は荘園付きの技官やメイドを集めてリクエストされた曲を歌う小さな会を開いたこともあったらしい。
アメジストは子供の歌を聴きたいなんて社交辞令よとつまらなそうに言ったが、シトリニアはそうは思わなかった。黒髪の天使のような少女が小さな口をいっぱいに開いて美声を響かせる様子は、周りの人々をさぞ和ませたことだろう。
なんにせよ上達するには楽しく歌うのが一番とアメジストは断言し、入浴中に歌うと格別に楽しいと勧めてくれたが、自分の音痴な歌が浴室に響くのを想像して寒気がしたので丁重に辞退した。
かくしてアメジストは、物心ついたときから自然にできることを人に教えるという難しい課題に直面したわけだが、方法を模索しながらも丁寧にわかりやすく教えてくれた。言葉を尽くし、シトリニアのパートを完璧に歌って聞かせ、楽譜に書き込み、あらゆる手段を使って歌の水準を上げようという熱意が伝わってきた。
シトリニアもそれに答えようと、とにかく教えられた動きを忠実に再現できるよう奮闘した。わからなければ質問して、指摘されればそのようにやり直す。ただひたすらそれを繰り返した。
その甲斐あって力や意識の分配方法が少しずつ身体に染み付いたようで、アメジストの足元にも及ばないまでも声量はなんとか出るようになってきた。
アメジストもシトリニアの上達にほっとしたようで、喉を痛めては元も子もないということで夕食の時間よりもかなり早めに切り上げて二人は自室に戻ったのだった。
「ビスケット食べたい」
胃袋の求めるままにつぶやいてみたが、すぐには身体を起こす気になれなかった。
沈み込むシトリニアの身体を受け止めたふわふわの掛け布団が、ぽかぽかと温まってきて心地よい。はちみつのように甘い眠りの気配で、次第に指一本動かすのも億劫になってくる。空腹を主張するお腹に意識を集中すると、普段意識しない部位の筋肉がこわばっているのを感じ、ドレス越しに触れたアメジストのしなやかな筋肉のぬくもりを思い出す。
――歌うって思いのほか疲れるのね。これはウエストが細くなるかも……
食欲と睡眠欲はどちらが勝るのだろう。薄れ行く意識の中でそんな疑問を弄んでいると、すとんと意識が落ちた。
「ここでいいわ。ありがとう」
少し離れた所から聞こえるのは、年を重ねた女性の声。
数名の気配と衣擦れがさわさわと去っていく。シトリニアの意識はゆっくりと浮上した。
「……叔母上様?」
なぜここに、と続けようとして身体を起こすと、いつの間にかブランケットがかけられていたことに気づいた。眠りの余韻が残った頭で部屋を見渡せば、ランプに照らされた室内には手の込んだキルトが掛けられたベッドが一つ出現している。
――?
自分の部屋に突然もう一つベッドが出現した衝撃で、シトリニアは否応なく意識がはっきりしてきた。白を基調に様々な水色の生地を取り合わせたキルトカバーは、細かい趣向が凝らされている。記憶をたどってみたが、このキルトカバーの持ち主が誰なのか全く見当が付かなかった。
「疲れたのね。よく眠っていたわ」
事態がよく飲み込めないシトリニアに、ソファに腰掛けた叔母上が柔和な笑みで声をかけた。
「ブランケットをありがとうございました。……ところでこのベッドは?」
「考えてみたのだけど、あなたとアメジストは今までほとんどお話したこともないでしょうし、儀式までにもっとお互いのことを知っておいたほうがいいと思うの。というわけで、今晩からアメジストもこの部屋で眠ってもらうことにしたわ」
シトリニアは、ぱちくり、と効果音が付きそうな表情を返した。
「叔母上様?浴室から帰ってきたら私のベッドが消えていたのですが、メイドに尋ねたらここに案内されて……」
そこへ件のアメジストが現れたので叔母上はもう一度同じ言葉を繰り返したが、お湯から上がって薔薇色に頬を染めたアメジストも、ぱちくり、という表情をした。
二人の顔を見て叔母上はうれしそうに声を上げて笑った。
「あなたたちは本当によく似ているわ。じゃああと二日、がんばってね」
ゆっくりソファを立つと、しとやかな表情の中に有無を言わせぬ謎の圧を感じさせつつ、ウインクをして去っていった。
ゆるやかに閉じられた扉を、姉妹はしばらく見つめた
「……帰ってしまわれたわね」
アメジストがつぶやくと、シトリニアも言葉を続けた。
「……そうね。詳しい説明がまるでなかったわね」
少しの沈黙の後、シトリニアは切り出した。
「伯母上様の意図はよくわからないけど、もしかしたら儀式が上手くいくヒントが隠されているのかもしれないわ。とにかくおっしゃった通りにしてみましょう」
歌以外にも何か儀式に関わる要素があるなら、なんでもやっておきたいと心から思っていた。
儀式の三つ目の約束が『秘密にすること』でなければ、昨日のうちにでも叔母上様の居室に押しかけて前回の儀式の際に何を歌ったのか、何が起こったのか、質問攻めにしていただろう。できることなら、ドレスの色や髪型すら同じにしようとしたかもしれない。
アメジストは自分のベッドにすとんと腰掛けて部屋内を見渡していたが、何かひらめいたように手を叩いた。速やかに扉が開かれ、メイドが姿を現す。
「お呼びでしょうか」
「私の荷物をここに持ってきてちょうだい。あと、フィオナを呼んできてね」
「えっ?」
シトリニアが小さく発した声が聞こえなかったかのように、アメジストはすっくと立った。
「かしこまりました」
メイドが一礼して去ると、アメジストはいたずらを思いついた子供のようにキラキラした笑顔でシトリニアを振り返った。
「あと二日だもの。せっかくですし他の時間も一緒に生活してみましょう。フィオナは私の乳母なの。荷物のことは彼女に任せれば大丈夫よ」
そこで急に真面目な顔になって続けた。
「もし二人で過ごすことが儀式の助けになるなら、やってみる価値はあると思うの」
シトリニアもその意図を理解し、深くうなずいた。
「ええ。やってみましょう」
くきゅる。
シトリニアのお腹が鳴ったので二人は顔を見合わせて笑い、食事へ向かった。