回廊の終わりで
私は渓青岩でできた美しい回廊を歩いていた。
その幅は二人で横に並んでも余裕を持って歩けるほどだが、透き通るような青色と高い天井のおかげか圧迫感は感じない。
一定間隔を置いて出現する太い円柱に、あの夢と違って何の装飾もないことを確認してほっとする。
「さっきから様子が変だけど、どうしたの」
気遣わしげな言葉をかけられて、不自然にきょろきょろしていた自分に気がつく。
なんでもないと言おうとしてアメジストの顔を見たが、もう隠しておけないと思った。悪夢の記憶も不穏な歌も、私一人で背負うにはあまりにも辛かった。軽く唇をかんでから、その気持ちを言葉にする。
「実はね……」
正直に、あの悪夢の話をした。
不安な気持ちを吐露する唇は止められず、図書塔で見つけた不穏な歌のことも話した。
「不安にさせてもいけないと思って、黙っておこうと思っていたの。結局言ってしまってごめんなさい」
不安を口にできた安堵感と、アメジストにまで嫌な思いをさせてしまった罪悪感で思考がごちゃごちゃになる。
今この瞬間も歩み続ける足が、一歩ずつ着実に竜の目前へと身体を運んでいることを思ってぞっとする。だが今立ち止まれば、恐怖でこれ以上進むことができなくなってしまうかもしれない。
右手を握る細い指に力がこめられ、私は顔を上げた。
「私はいなくなったりしないわ。ちゃんとここにいるから、大丈夫よ」
よほど私が泣きそうな顔をしていたのか、アメジストは困ったように笑った。歩み続けながら言葉をつむぐ。
「私ね、玉座の間に入ってきた貴女を見たとき、見とれたのよ。朝の光のように美しい子、まさに正真正銘の歌鳥だと思ったの。小さいころから何度も『建国の物語』を読んでカナリアとナイチンゲールを想像したけど、貴女はあんまりに完璧なカナリアだったのよ。だから始めて図書塔の扉を開くとき、意地悪しちゃったの。あの時はごめんなさい」
思いがけないことを聞いて目を丸くしている私に、アメジストは続ける。
「私は自分がナイチンゲールにふさわしいかはわからないけれど、歌が好きで、歌い続けてきてよかったわ。だって貴女に歌を教えることができたもの。……貴女があんなに歌えないというのは、予想外だったけど。一緒に歌えて、楽しかったわ」
私は思わず頬を緩めた。笑ったつもりだったが、泣き笑うような変な顔だったかもしれない。
「辛抱強く教えてくれて本当に感謝してる。ありがとう」
「いいのよ。私は、あなたがドレスを選んでくれてうれしかったの。これでお互い様よ」
深呼吸して気持ちを落ち着かせ、できるだけ不安なことは頭から追い出すように努めた。
――万全を尽くして練習したんだもの。二人ならきっと上手くいくわ
心からそう思いながら、一歩ずつ前へ進む。
くねくねと折れ曲がった回廊を歩くうちに方向感覚は失われてしまったが、いつの間にかゆるい上り坂から階段になり、上へ上へと進んでいることがわかる。
「上っていくわね」
「竜は翼があるから、高いところが好きなのかしら」
こんな話をしているうちに、頭の上に回廊の終わりが訪れた。
階段を登りきると、円形をした建物の屋上と思しき場所に立っていた。
正面からこのような建物は見えなかったが、すべてが渓青岩でできており、森のこずえが目下にある。きっと竜の神殿の一部なのだろう。
雲ひとつない空で、満月が高い位置から光を投げかけている。
私は静かに息を飲んだ。
ぐるりと囲んだ手すりを背にして、人が一人、立っている。
つないだ手を今一度確認し、二人で歩みを進める。
こちらを見据えたまま、その人は動かない。
女性とも男性ともつかない顔立ちに、肩に届かないほどの長さにそろえた青みを帯びた銀髪。ゆるいシャツにズボンというありふれた出で立ちが、逆に異質な雰囲気を感じさせた。
その喉から、大人びた少年とも落ち着いた女性とも受け取れる穏やかな声が発せられた。
「こんばんは、カナリアとナイチンゲール。ようこそ竜の神殿へ」
「初めまして。虹色の竜様に、歌を捧げに参りました」
私たちは声をそろえてお辞儀をする。
この人は何者で、竜はどこにいるのだろうか。
「では、早速聴こうか」
そう言うと、その人は手すりに背中を預けたまま腕を組んで目をつむった。どうやら今すぐここで歌え、ということらしい。
想像していた竜のどんな姿とも異なる光景に面食らいながら、アメジストを見た。彼女の表情から動揺を読み取ると、不思議に心が落ち着いてきた。
――頼ってばかりじゃなくて、私もしっかりしないと
深くうなずくと、胸元で金のウロコが揺れるのを感じた。
大きく息を吸い、握った手に力をこめた。
速き流れの 水底に
まどろむ太古の 思い出よ
速き流れの 水面にて
はじける真珠の かがやきよ
喉を出た歌声は、空へ、森へ、吸い込まれていく。
そういえば、こんなに大きな声を出して外で歌うのは初めてだ。もしかしたら、最初で最後かもしれないけど。
速き流れを 駆けくだる
赤き落ち葉の くれないは
アメジストがこちらを見ている。顔を向けると、自然に口角が上がるのがわかった。美しく装った姿に、村娘のように粉まみれになって笑った昨日が重なる。
ここからは高音域だ。今までの練習を信じて、歌に身を任せる。
天かけあがる 清流の
その背に乗った 稚児のよう
いざほとばしれ 白き滝
いざほとばしれ 清流よ
歌声の余韻が消えると、二呼吸の間を置いてその人は尋ねた。
「なぜその歌を選んだの?」
まさか、竜から質問を受けるとは考えていなかった。予想外の出来事に頭が回らないでいると、アメジストが口を開いた。
「この歌は水に関するものなので、水を請う儀式にふさわしいかと存じました」
「もう一曲、迷った歌があるでしょ。花のやつ。なんでそっちじゃないの?」
口元は微笑みを浮かべているが、銀色をしたその冷たい目はどうだろうか。
私たちは完全に、言葉をなくしてしまった。




