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竜の神殿

 城へ戻る馬車の音が遠のいていく。


 美しい泉の傍らに建つこの神殿に残されたのは、私とアメジストの二人だけ。周囲の森は、二人の声を聞き漏らすまいと息を潜めているかのように静かだ。あるいは、何も聞かないように眠ってしまったのかもしれない。

「これが聖水を汲む泉ね」

 近づけば、水辺の様子から水位が下がっていることがはっきりとわかる。泉をぐるりと囲う草花は水面から遠く茂り、普段は水で満たされていると思われる部分には砂地が露出している。

「儀式が成功すれば、この泉に水が満ちるのよね」

 頭の中で何度も反芻したことを、改めて口にして確認する。

「ええ。そうね」

 アメジストが歩むと、薔薇色のドレスがさざめく。

 ゆるく編みこんでまとめた髪には、薔薇を模した同じ色の髪飾りに、真珠色の薔薇のつぼみが添えられている。

 黒髪を月の光に濡らすその姿はまさに、夜露を戴いた薔薇のように美しい。


「こんなときに言うのもおかしいかもしれないけど、そのドレスを選んで正解だったわ。とても似合ってる」

 思わずそう口にすると、突拍子もない言葉に驚いたのか、ぱちぱちと瞬きした後に破顔した。

「こちらこそ、お願いして正解だったわ。ありがとう」

 そう口にすると、まるで舞踏会のように優雅な会釈をした。

「結局私一人で決めたから、ハンナはえらく悔しがっていたけどね」

 そう笑うと、私も負けないくらいに優雅な会釈を返した。

 真珠色のドレスに、ゆるく編みこんでまとめた髪。薔薇を模した真珠色の髪飾りには、艶やかな薔薇色のつぼみを添えた。

「さながら、紅薔薇と白薔薇の姉妹ってところね」

「私たちらしいでしょ?」

「ええ」


 二人並んで、改めて竜の神殿を臨む。

 目の前の巨大な扉は、まさか一枚の渓青岩を削りだして造ったのだろうか。何人の手を借りれば動くのか想像もつかないそれは、二人を招くかのようにこちらへ向かって開け放たれている。一般的な歌塔ならば扉を囲むように竜や水をかたどった装飾が施されているが、意外にもここでは見当たらない。つるりとした石が組まれているばかりだ。

 深呼吸をひとつして、声を出す。

「では、入りましょう」

 玉座の間で対面したときと同じドレスに身を包んで、でもその時にはなかったお互いへの信頼感を抱きながら、二人並んで神殿へと入った。


 目の前には、さまざまな濃淡の青色で形作られた荘厳な空間が広がっていた。

「すごい……」

 アメジストの唇から驚きの声がこぼれる。

 この美しさを的確に表現する言葉を持ち得ず、私はただ感嘆の息を漏らした。

 竜の神殿はごく限られた神官にしか出入りを許されていない。年越しの儀の最初にここで一年の感謝を述べるのは国王の大切な役目だが、その際に付き添うのも神官のみで、王族は城で王の帰りを待つのが慣わしだ。

 初めて目の当たりにする竜の神殿に、私たちはただただ圧倒された。


 渓青岩を知らない者が見たら、氷を削りだして造った建物かと勘違いするかもしれない。しかしその青は氷よりも深く、柱の一本に触れれば確かに岩石の冷ややかさが伝わってくる。聖歌塔を見馴れている私でも触れて確かめてしまうくらいの透明度に、この神殿が格別な渓青岩を使用して建てられたとわかる。

 渓青岩が透かす満月の光は、内部の構造を隅々まで淡く照らしている。

外から見たときよりもずっと広く感じるのは、あまりに天井が高いからだろうか。聖歌塔と似たような構造ではないかと想像していたが、柱と柱の間につながれたアーチ状の構造は初めて目にするものだ。

 アーチの上部には透明なガラスをはめた丸窓が設けられている。渓青岩は豊かな水と並んでこの国の貴重な財産だが、その性質は未だ謎が多い。月の光をよく透過するが日光はあまり透かさない特性を持つので、日中は採光窓が必要なのだろう。


 祈りのための座席は一切設けられておらず、御説話をする教壇もない。四面の壁には立像はおろか絵画の一枚すらなく、改めてここは人のための建物ではないのだと思い知る。

「何も、いないみたいね」

 アメジストの控えめな声がこだまする。

 この空間で竜が待ち構えているとばかり思っていたが、そうではないらしい。ぐるりと回ってみたが、冷たい壁にもたれる姿はおろか、林立する柱に潜む影もない。

「上、は私たちには無理ね」

 念のため高い天井の隅々に目を凝らすが、丸窓が目に留まるばかりで竜の翼の片鱗も見えない。

「竜はどこにいるのかしら」

 二人の靴底が床に触れるたびに、しずくが水面を打つような心地よい音がこだましている。

 私の脳裏に、長い間忘れていた記憶がよみがえってきた。


「ねえお父様、私も付いて行っちゃだめ?」

 年越しの儀が近づいた寒い夜、私はこっそり父に尋ねた。

 換気のためにほんの少し開いた窓から、ぽたぽたと落ちる雨だれの音が聞こえていた。

「これはお父様の役目だから、シトリニアにとられては困るなぁ」

 大きな手にわしわしと頭をなでられながら、私は頬を膨らませた。

「ちゃんとお姫様らしくしているわ。はしゃいだりしない。竜ってとっても大きくてきれいなんでしょ?会ってみたいの」

 小さな手にしっかりと持った『建国の物語』の絵本を見て、父は大きな身体をかがませて私と目線を合わせた。

「竜とお父さんの約束だから、誰も連れて行けないんだよ。だから……」

 父は言い聞かせるように何か言葉を続けたが、ふてくされた私の集中力は途切れ、記憶の鮮やかさは急激に失われていった。

――その後、お父様はなんて言ったっけ?

細く途切れそうになる記憶の糸を懸命にたどる。

「だからいつか竜に会う時のために、覚えておきなさい」

――いったい何を?

 ふわりと風が吹き、後れ毛がうなじを撫でた。


「シトリニア、これを見て」

 アメジストが呼ぶ声が私を現実に引き戻した。その刹那、記憶の片鱗をつかむ。

「ここに扉があるの。風が吹いてくるわ」

 目を凝らさなければわからないほど巧妙に隠されていた一枚の扉を、アメジストが開いていた。人がちょうど二人横に並んで通れるほどの、不思議な大きさの扉だ。

 ゆるやかに吹いてくる空気はかぐわしく新鮮だ。どこか外へとつながっているのだろうか。

「思い出したわ。竜は恥ずかしがりやだから、いつも神殿の一番奥で眠っているの」

「ということは、竜はこの先にいるのかしら」

「きっとそうよ。行きましょう」


 扉の先には天井の高い回廊が続き、その両脇には一定間隔で配置された太い円柱が並んでいるのが見える。

――ここからの景色は、あの夢と似ているのね

一歩踏み出した姿勢で思わず足を止めた私を、アメジストが振り返る。

「どうしたの?」

「えっと、その、手をつないでもらってもいい?」

 アメジストはふっと笑みを浮かべ、左手を差し出した。

「二人なら大丈夫よ。行きましょう」

 右手を重ねてしっかりと握り、扉の中へと足を踏み入れた。


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