愛し、愛されて(1)
ミスリルは己に意味や理由を求めない。
そう在るべくして在り、その存在は常に何らかの定義を持つ。自分が何かをする為に理由が必要なのではなく、自分が何かを成すからこそ存在出来るという事。
例えばそれは人の思考や概念を遥かに超越した領域の物であると言った所で、それは過言ではない。誰もが自分の中にある純粋な意思にだけ従い、本能的に生きていけたのならば恐らくそれは幸せな事だろう。
力や運命、この世界にある様々な事柄は人の行動を制限し、束縛し、意思を捩じ曲げてしまう。善悪の判断、是非の問い……。しかしだからこそ、人は存在出来るとも言える。
ならばそうしたしがらみ全てに囚われず、ただ己の願いだけを見つめ続ける事が出来る人間が居たとしたならば、それはこの上なく純粋な力とも成り得るのかもしれない。
例えばアダムという男の願いがそうであり、桐野秋名という女が願ったものもそうだと言える。人の身を越えた意思の導く先にあるものは破綻なのか、それとも超越なのか。
考え定義するだけ意味のないそうした事柄に意を囚われ、決して見える事のない疑問に執着するのも人間である証だというのならば、決してその足踏みは無意味などではない。
例えばこの世界の行く末や人の未来と言った不確かな事柄を決定する力を持つのは、その足踏みの内容によるのだろうから。
決して強く在る必要は無く。正しく在る必要もまた無い。願うまま思うまま、己の意思に正直に慣れたならば、恐らくそれまでとは違う世界が声に応える事だろう。
だから全ては無意味などでは無く。全てに理由や意味は無く。そしてやはり、未来を切り開くのは、純粋な意思なのだと。
「……一緒に来て、香澄」
囚われの香澄の手を握り締め、銀と呼ばれた少女は眉を潜める。
「貴方をここから、連れ出してあげる――」
握り締めた手から伝わる体温は温く指先を伝い、戸惑いを壊せないままの瞳は何かを訴えかける。
真実かどうか偽りかどうかなど関係ない。信じるべきものではなく、信じたい未来を信じるのならば。
一歩踏み出す足取りは、必ず未来への道を踏みしめる、限界を踏破する一撃と成り得るのだから。
⇒愛し、愛されて(1)
アルベドが始めて桐野香澄を見たのは、彼女が桐野秋名の中から見た研究所の景色だった。
生まれたばかりの赤ん坊である香澄を見て、彼女は何も考える事はなかった。そもそもアルベドというミスリルに思考する能力は存在しなかったのだ。
全くの無色の存在。銀色という名さえ、ただの呼び名に過ぎなかった。彼女は生まれた瞬間から意思を持たず、形を持たず、他のミスリルとも一線を画す存在だった。
元々ミスリルという存在は完全なる無色として世界に存在を受ける。彼らは人の意思に吸い寄せられそれらの意思を学び、人と変わらぬ人格と己の意思を獲得していく。
いかに契約の騎士団と呼ばれる限りなく原初に近い力を持つミスリルだとしても、それは他のミスリルと変わることは無い。彼らは元々は無色の存在であり、各々の色を見つけて生きてきた。
だが、アルベドだけは生まれてから桐野秋名の中に憑依するまでの間、ずっとずっと無色のまま生きてきた。彼女には他のミスリルに確実に存在している『人を知りたい』という欲求が決定的に欠落していたのである。
ミスリルとは何か? それを定義するのは恐らくあらゆる言葉を以ってしても不可能である。だが、『人を知り』『人に成り』『人で在る』事こそ彼らの三大欲求であり、その知識欲が他人の意識や記憶を搾取したいという激しい衝動へと繋がっている。
理解する事は彼らにとってこの上ない幸せであり、人の胸のうちに湧き上がる無限の『疑問』一つ一つに答えを見出す事こそ、彼らの究極でもある。
何故? 何故? 何故? それは彼らにとっての魔法の言葉。己の不確かな存在を現実に結びつける為に必要なプロセス。故に彼らは知りたいと願い知る為に行動し、知り続ける為に在ろうとする。しかし、アルベドだけは違っていた。
ミスリルでありながらミスリルらしい欲求を持たず、ただ空をふわふわと浮遊するだけの輪郭の無い魂。およそ幽霊となんら変わることの無い不可視の無色の魂を利用しようなどと考えたのは、彼女の歴史の中でたった一人アダムだけだった。
アダムはアルベドに願いを託していた。それはアルベドにとって始めての事だった。彼の願いを受けることで彼女は人の意思を知る事になる。人の願いを、知る事になる。
彼女の役割は桐野秋名という存在の『護衛』であり、同時に『支配』でもあった。無色そのものである彼女は例え人間に憑依していたとしても、何一つ悪影響を与えることはないという非常に特殊な性質を持ち、考えられない事に秋名とアルベドは一つの肉体の中での共存という奇跡を成し遂げていたのである。
アルベドと秋名は生まれた瞬間から同じ肉体の中に存在する姉妹も同然の存在だった。いや、恐らくこの肉体の中に全く別の存在がしかし融和し成立しているという状況は、姉妹などという言葉では表現出来ないだろう。
二人はお互いの存在を知り、理解した上で生きていた。互いが互いに影響し合い、心の中で対話が可能なほど、彼女たちは身近な存在だった。
香澄を見た時、彼女たちは五歳だった。それから香澄が大きくなるまで、彼女たちはずっとアダムの支配の下で生きる事になる。それはアダムの計画通りであり、香澄と秋名が親しい間柄になることは計画にとって必須事項でもあった。
桐野秋名の人格が歳不相応な程に成熟していた理由に、彼女がもう一人の自分との対話を行っていた事があげられる。彼女はあらゆる意味で子供で在り続ける事を拒否されてきた。否応無く、成長する事を余儀なくされてきたのだ。
幼い少女であった二人がアダムに連れられて見せられたものは、如月重工の地下工場に眠る銀色の髪の女性の姿だった。それは無数の鋼鉄のワイヤーと鎖で宙に吊るされた銀色の十字架の表面、取り込まれるようにして目を閉じたまま項垂れている。
「秋名、良く見ておけ。あれがお前の成るべき存在だ」
アダムは口に咥えた煙草に火をつけ、煙を吐き出しながらそう呟いた。そうして少しだけ優しげに微笑み、秋名の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「彼女が銀翼のキルシュヴァッサー……。『はじまりのミスリル』にして俺の『主』であり『妻』であり『契約者』でもある。まあつまりなんだ……お前の元だ」
「……わたしの、元?」
「お前はミスリルという存在がどんなものであると考えている?」
少女は思案する。心の中でアルベドに問い掛けてみるものの、ミスリルである本人でさえそれは理解出来ない事。アダムは悩む秋名を見て低く笑い声を上げた。
「まあ、わからなくてもしょうがねえな。一つだけ言える事は、ミスリルは異形の化物でも異世界からの侵略者でも外宇宙からの使者でも無く。ただの普通のごく自然とどこにでも居る人間から生まれてくる物だってことだ。その意味がわかるか?」
秋名は首を横に振る。アダムは秋名を高く抱き抱え、優しく目を細めて笑う。
「ただの人間から生まれたミスリルは、人間の進化した姿なんじゃないかと俺は思っている」
「……進化した、姿?」
「ミスリルは人間より遥かに優れ、同時に人間としての性質を持ち合わせる存在だ。例えば俺達は巨大な議事堂を介する事も無く、この指先一つで他人と分かり合う事が出来る。地位や立場に惑わされる事も無く、名誉を受けて喜ぶ事も無い。俺たちにあるのは己の願いとソレを叶える手段、ただそれだけだ。世界中の人間がミスリルになったならば、この世界は新しい段階へ進化する事が出来る……俺はそう考えてんだ」
「それが、お父さんの願いなの?」
「あー……。まあ、ちょっと違う。俺は、キルシュヴァッサーを目覚めさせたいんだ。あいつの笑顔を……もう一度、見たいだけなんだ」
そう言って始まりの彼女を見上げる時だけ、まるでアダムは子供のような表情を浮かべていた。瞳は救いを求める少年のように淡く揺れ、その横顔は失意と絶望に呑まれている。
長い長い、とても長い年月を生きてきた男が見せる純粋な想い。秋名はいつしかそれを叶えてあげたいと考えるようになっていた。それは勿論アルベドにとっても同じ。二人にとって、血は繋がっていないとしても彼は本物の父親に他ならなかったから。
「俺はその為にこの世界の全てを犠牲に出来る。勿論お前の命もだ。お前には彼女の器になってもらう。その為にお前を選んだんだからな」
秋名の中にインストールされている意識はアルベドだけではない。アダムが再会を願って止まない彼女の心もまた、一つの形として彼女の中に封印されていた。
やがて目覚め開花するその意思はいつしか秋名の意識をも蝕み作り変え、その時本当にこの世界にアダムの願いは成就する。その為に探し続けた『彼女』の器こそ、桐野秋名その人だったのだから。
アルベドはその意識を成長させ、開花させるのを見守る為の監視者であり、桐野秋名が逃げ出した時その行動を束縛する為の鎖でもあった。呪いにように付加されたその存在も己の死を意味する未来さえ、秋名は既に受け入れていたのだ。
いつか自分はこの世界から消えてなくなってしまうということ。それが絶対に避けられない運命ならば、それ以上のことは願わない。その行いが誰かの願いを叶えてくれるというのであれば。愛した父の願いを叶えてくれるというのであれば。それ以上に望むものなんて何もなかった。
何も、なかったはずなのに――。
「ど、どこにいくつもりだよ!? 逃げ出すっていったって、どっからどうやって!? この船……空飛んでるんだろうがっ!」
「なんとかするから……! なんとか香澄だけでも逃がすから……! だからお願い、少しだけでいいからわたしを信じて……!」
いつから願いは摩り替わってしまったのだろうか。
献身だけが存在意義であったはずなのに、いつしか己の願いの為に行動を開始してしまっていた。
アルベドは秋名と長い間身体を共有した事により、桐野秋名の意思の影響を強く受けすぎた。結果、限りなく彼女の想いに近いそれを抱く事になった彼女にとって、香澄は本当に大切な存在だった。
香澄を守る事は秋名の役目でもあり、香澄を自分の傍から離れられないように『教育』するのもまた秋名の役目だった。アルベドはただその彼女の役割を忠実に再現し続けたに過ぎない。ただそれだけの為に、傍に居ただけに過ぎなかったのだ。
ジルニトラの通路を二人は手を繋いで走っていた。前を走るアルベドは未だかつて無いほどの焦りと迷いに苛まれていた。自分が一体何をしでかしているのかさっぱりわからなかったのだ。
判らないという事が半端ではない無限の不安を生み出すという事を彼女は理解していなかった。故に今、香澄に拒絶されて始めて彼女は彼女として考える事を始めたのだとも言える。
香澄の手だけは絶対に放さない。放してはならない。きつく握り締めたそれは少しだけ不安を解消してくれる。大丈夫だと自分に言い聞かせた。今までだって上手くやってきた。
どんな時だって冷静で居られた。何も考えないでいられた。願いだけを見つめていられた。役割だけを果たしてこられた。大丈夫、まだ足は動くし夜は続くだろう。何よりも桐野秋名の名を継ぐ存在として……香澄の姉として。こんなところで彼を失うわけにはいかなかった。
「――――どうしてなんだ? どうして急に、僕を逃がすつもりになった……?」
「わからない……。わからないけど……でも、香澄はやっと……香澄になれたんでしょ?」
キルシュヴァッサーの放ったミスリル殺しのナイフが貫いたものは、一体なんだったのか。しかし結果として香澄の中にあった『アダム』としての日々は一撃で砕け散ったのだ。
今ここにある香澄の意識こそ、本当の彼の……本来在るべきはずだった桐野香澄の意識に他ならない。彼が彼としての人生を歩み始めたのならば。このままこんな薄暗い運命を背負わせてしまってなるものか――。
息を切らして走るその姿は決して華麗ではなかった。どんな時も月明かりと共に在り、美しく可憐だった彼女らしくはない。だがそれは、確かに今までの足取りとは違う一歩だった。
偽りの永遠でも、真実の今でもなく。だから恐らくそれは、純粋な想いだった。桐野香澄を助けたい――。それ以外にどんな言葉があるというのか。
いつだってそうだった。彼女がそれを忘れていただけで。いつだって、そうだったのだ――――。
「――アルベドはさ。何か、他にやりたい事とかないの?」
東京フロンティアでの日々は、香澄との日々に他ならなかった。
瓦礫の山で遊ぶ海斗と香澄の姿を眺めながら、秋名は小さな声でもう一人の自分に問い掛ける。アルベドは少しだけ思案し、首を横に振った。
「わたしはほら、お父さんの願いを叶えてあげなきゃいけないけど。アルベドはアルベドで、自由に生きていったっていいじゃない? わたしがいなくなったら、貴方はどうするの?」
『…………考えた事も、無かった。どうしたら、いい……?』
「もー……。香澄もそうだけど、すぐそうやって他人の意見を求めるの、良くないよ? 自分の気持ちは自分しかわかってあげられない。自分の意思は自分でしか決めてあげられない。誰かの言葉に従うのは楽だけど、それじゃいけないと思う」
『秋名はどうして、アダムに従うの?』
「それは自分で決めた事だから。わたしはほら……お父さんのこと、好きだから」
少しだけ顔を赤らめながら苦笑する秋名。アルベドはその横顔を隣で眺めていた。
誰の目にも映らないもう一人の自分。虚ろな友人。肉体の同居者。二人は限りなく零に近い関係でありながら、しかし想いは遠いままだった。
アルベドにとって秋名の思考は難しすぎた。懸命に理解しようと努めてみるものの、アルベドが感情豊かな状態になるにはまだまだ遠かった。
「アルベドは、好きな人とか居ないの?」
『…………好き?』
「んー、まあいないよね。わたしたち、香澄とずっと一緒だし。他の男の子となんて関わってる暇もないし」
『香澄の事、邪魔に思ってる……?』
「あはは、思ってる思ってる。香澄が居なかったらもっともっと、色々な事出来たんだろうなあ……。ほら、わたしって大人になったら死んじゃうじゃない? だから何でも出来る事はやっておきたかったけど……香澄、わたしが居ないと駄目だから」
『……駄目?』
「人間にはそういう事があるのよ、アルベド。お互いの絆が深ければ深いほど……自分ではどうしようもないくらい、絡まって。解くつもりも解く方法も忘れてしまうくらい、近すぎる想いっていうものがね」
遠く、夕焼けの空を見上げる秋名。結晶塔に入り込んだその光は無数の輝きを街に降り注がせ、秋名は静かに息を付く。その景色は二人にとってお気に入りのものだった。
『秋名は……死ぬの、怖くない?』
「どうしちゃったの? 最近ちょっと人間っぽい質問してくれるようになったよね。何気に嬉しいかも」
『…………怖くない?』
「怖くないわけ、ないでしょ?」
指先でシャツを握り締め、視線を伏せる。
「自分の中に自分じゃない誰かが入ってきて、何もわかんなくなって……もう目覚められなくなる。想像しただけでも怖くて怖くて……ううん、わたしのその気持ち、アルベドが一番良くわかってるでしょ?」
『でも、秋名はそれでいいと思っている。それは矛盾……』
「それはそうだよ。愛は常に矛盾するから」
『愛……?』
「そ、愛。アダムの事、好きだから。アダムの願いを叶えてあげたいし……それに、中身が違ってもアダムがわたしを愛してくれるんなら……それも悪くないかな、って」
『………………やっぱり、難しい』
「でしょうね……。あ、そうだ」
突然何かを思いついたかのように立ち上がる秋名。彼女はアルベドの傍に立ち、夕焼けを眺めながら突然の提案を繰り出した。
「他の世界を見てみたくない? 東京フロンティアじゃない……瓦礫の山と研究施設だけじゃない街とか。普通の男の子とか、学校とか……あとはバイトとか! きっと楽しいよ、アルベド。二人一緒だったら、きっと違う何かが見えてくるよ」
そう言って無邪気に微笑んだ彼女の願いは、恐らく何かをもう一人の自分に伝えたいということだった。
そしていつか傍に居られなくなってしまう最愛の弟の為に、何かを残したいという願いそのものだった。
桐野秋名が見ていたものは己の死の向こう側……。それさえも越えた先に見える未来だった。その世界で香澄を守ってくれる事を、恐らくはアルベドに求めていたはずだから――。
「ここまで来れば……」
アルベドと香澄がたどり着いたのは格納庫だった。キルシュヴァッサーの前に立ち、銀は振り返って香澄を見つめる。
「香澄……! キルシュヴァッサーを使って!
「つ、使えって……出来るわけないだろ!? ロボットなんか動かせるわけあるか!」
「出来るから! 香澄なら、それが出来る! 大丈夫……信じて!」
「信じろって、あんたの何を信じろって言うんだよ!? ここから逃げ出すっていったって……それで海斗たちが襲われたらどうするんだ!?」
「香澄……」
「傷付けたくないんだよ、もう! 大事な仲間なんだ! 勝手なわがままで……皆が傷つく事が、何よりも僕は嫌なんだ!」
香澄に言い返す言葉をアルベドは持たなかった。拳を握り締めても、言葉は出てこない。今までずっと誰かの言葉に従ってきた彼女に、今の香澄に言えることなど何もない。
確かに今更信じろなどと都合がいいにも程があるだろう、それは勿論彼女とて判っている。だがそれでも香澄を逃がしたいという気持ちに偽りはなかった。
「――――永遠が、欲しかった」
その想いが彼女を掻き立てる。まるでずっと前から心の中にあったような言葉が――桐野秋名と繋がって心が。彼女の唇を動かしていた。
「今がずっと続けばいいって、本気で思ってた……」
いつか、消えてしまう事を知っていたから。
誰かの傍に居られて。愛されて。偽者でもいい、その存在を求められたなら。誰かに愛され愛する事が出来たのならば。その刹那、自分の存在は偽りなどではなかったから。
本当は強く在りたかった。迷う事も疑う事も無く愛を貫く事が出来たらどれだけ幸せだろうか。それを出来ないのが人が人故の宿命……。だから、永遠が欲しかった。
「時が止まってしまえばいいと、願ってた……」
彼女は無力だった。香澄を想う千の言葉を持たず、説得出来るに値する理論を構築する事も出来ない。
ただ出来ることは、自分の中にある消えてしまいそうな彼女の想いを彼に伝えることだけ。
「その時あった気持ちだけは……嘘なんかじゃない」
戸惑う香澄の手を取り、哀願するように視線を伏せる。信じてもらうために何が出来るのか。そもそもこんな事をして意味などあるのか。
いや、意味や理由などどうでもいいのだ。自分んが香澄の傍にいて彼にしてあげたいと願った百万の奇跡を今、彼に伝える事が出来るのならば。
「わたしを殺していいから……。だから、香澄は生きて! 生きて……それで、この世界で……。永遠じゃなくて、いいから……だから……」
「…………」
香澄は戸惑いながらもその手を握り返していた。ずっとずっと傍に居たのに決して交じり合う事の無かった嘘で固められた二人の想いと言葉が、ようやく今交差する。
偽りの永遠が音を立てて崩れ去る時、香澄は戸惑いながらも小さく微笑み、頷いた。その少年の笑顔に心が振るえ、アルベドは今まで見せた事がないような、純粋な子供のような笑顔を浮かべた。
それが永遠に続かないという事を、勿論二人は理解していたけれど――――。
「――――――かすみっ!!」
「――――いつかわたしは、キルシュヴァッサーになるから……。だから、香澄とは永遠に一緒には居られないから……」
香澄と共に東京を出た彼女は夕暮れの景色を眺める度、自らに課せられたタイムリミットが刻一刻と迫っている事を告げられる。
冬の茜空の下、丘の上から世界を見下ろす秋名。あれからもう何年もの時が過ぎ去り、約束の日は近づいている。
アダムが彼女に与えた猶予はそう長くはなかった。たかが数年間……それだけである。アダムと秋名は香澄に隠れて連絡を取り合っていたし、アルベドの存在を探知できるアダムにとって秋名はどこに居ても見つける事が出来る存在だった。
解き放たれた自由の中、しかし見せかけである世界の中で彼女は精一杯自由に生きようと努力していた。永遠にそれが続けばいいと願っていた。複雑すぎるその矛盾だらけの感情の螺旋は、アルベドにはやはり難解そのものだった。
「わたしが居なくなったら、香澄はきっと泣いちゃうだろうな……」
丘の上、高いフェンスに指を絡ませて秋名は呟いていた。
やがて彼女の瞳から涙が零れ、頬を伝っていくのをアルベドは確かに見ていた。震える指先はフェンスを鳴らし、そしてその悲しみをとめてあげる手段をアルベドは持っていなかった。
「…………自分勝手だよね。自分で選んだ道なのに……怖くて仕方ないんだ。怖くて怖くて……しょうがないんだよ、わたし……」
『……秋名』
「ほんとはやだよ……。消えたくないよ……。だって、わたしが居なくなったら香澄は誰が面倒見るのよ……。いっぱいいっぱい、遣り残したことがあるよ……。どうして時は止まらないのかな……! どうして永遠は存在しないのかなぁっ!」
フェンスに縋りつき、歯を食いしばって涙を流す秋名。アルベドは触れる事の出来ないその指先で彼女の涙を拭っては小さく微笑んでみせる。
『最後まで、一緒に居るから……』
それは、与えられた執行猶予の中で、彼女が秋名から学んだ笑顔。
『貴方が消えてしまっても、その想いはわたしが継いで行くから……』
それは、二人の少女が選んで手にした、一つの永遠の可能性。
『香澄の傍には…………わたしがいるから』
それが、偽りの存在だとしても。
嘘が永遠を作るのならば。二人にとってそれで充分すぎる結果だった。
悲しみや苦しみを二人は分かち合ってきた。嘘や永遠を心から信じたかった。
涙を拭い、微笑む秋名の横顔。アルベドはそれが何よりも大好きだった。胸が温かくなり、ほっとする。
その願いを叶えてあげたかった。それがいつから……自分の願いとして成立するようになっていたというのか――。
宙に舞う鮮血は少女の身体を深々と切り裂いた刃から放たれた。
「え?」
何が起きたのかさっぱり理解出来ず、倒れたままの香澄の上。彼を突き飛ばした少女が覆いかぶさり、背中から血を流していた。
袈裟にばっさりと切りつけられたアルベドの表情は青い。しかし、香澄を無事救う事が出来た喜びから、彼女は笑顔を浮かべていた。
アルベドの影の向こう側。巨大な太刀を片手にしたマグナスが刃についた血を振るい落としている。理解出来ないまま起きたその事実が、香澄に激しい動揺を齎した。
「どう、して……? あんた――」
「良かった……。香澄が……無事で……。本当に……良かった――――」
安堵した様子で朗らかに笑うアルベド。気づけば香澄はその身体を強く抱きしめていた。
「裏切り者が二人でどこに行くつもりだったのか知らないけど……君がそう出るとはね、銀。今なら遅くない……戻ってくるつもりはないか?」
「…………い、や……だ……っ」
それは、誰かに言われたからではない。
「わたしは……香澄を守りたい……」
長い間、時間という名の決して留まることの無い、誰一人例外なく明日へと歩ませる強制が生み出した、彼女の中の想い。
「香澄は……自由になってほしいから。だか、ら……」
苦痛に耐えながら、アルベドは歯を食いしばって身体を起こす。目の前にある香澄の頬に触れると、血に染まった指は彼の頬に赤い痕を残して行く。
「香澄の、思い出を……かえして、あげる……」
「え……? いや、あんたそれどころじゃないだろ……。血、が……」
「いい思い出ばかりじゃない……むしろ、悪い事ばかりだけど……それでも、貴方はそれを思い出さなきゃいけないから……。だから――」
香澄の頬を両手で押さえたまま、アルベドは香澄と口付けを交わした。
その刹那、香澄は全てを理解した。アルベドの中にあった十八年間分の香澄との記憶と、秋名の想い。それら全てが同時に香澄の頭の中へ怒涛の勢いで流れ込んで行く。
それは香澄そのものの人格ではない。けれども彼が彼女と歩んできた時間の全てだった。急速にそれを理解し、香澄の瞳は揺れた。
長い口付けが終わり、アルベドの唇から血が伝い落ちる。香澄は両目からぼろぼろと涙を零しながら、声もなく口をあけたままアルベド見つめていた。
急速に理解した。彼女が悪意を持って香澄の傍にいたわけではないということ。しかし彼女が響を殺したということ。罪は決して消えないということ。
沢山の真実が香澄の中で渦巻いていた。どうしようもなかったその悲しみは留まる事もなく、香澄は結局彼女にどんな言葉もかける事が出来なかった。
「ごめんね、香澄……。それから――――ありがとう」
アルベドが優しく微笑んだ瞬間、その首は背後からの一撃で絶たれ、空を舞っていた。
振り下ろされた素早いマグナスの太刀の一撃が香澄に血を浴びさせる。首から上を失った銀の身体が膝を着き、背後に倒れこんだ。まるで命を持たない人形であるかのように。
どくどくと流れ続ける首の無い身体に香澄は全身の震えが止まらなかった。飛んでいってしまったアルベドの首を目で追いながら、呆然と事実に立ち尽くす。
「……ねえさん」
ぽつりと呟いて、首の無い死体を抱きかかえる。それはもう二度と動くことの無い、最早失ってしまった温もり。
傍に居てくれたのは嘘なんかじゃなかった。偽りなんかじゃなかった。そして彼女が伝えてくれたものは、永遠と呼ぶになんら相違ない鮮明な愛情だった。
抱きしめるその身体はもう彼女ではなく。彼女だった何かに成り下がった。香澄は血だらけの姿のまま、震える声で叫んだ。
「ねぇえええさあああああんんんっっ!!」
それは、香澄にとって桐野秋名と同じく、姉に違いはなかった。
たとえ血縁はなくとも。触れ合う事はなくとも。語り合う事はなくとも。
傍にいて、見守って、守って愛してくれていた。それがどんな結果を生んだかは関係ない。その事実だけは、真実なのだ。
有限の未来が齎した永遠が、香澄の叫びの中で解き放たれる。光の粒となって消え去ったアルベドの銀色は、香澄のその身に宿っていく。
そこに立っていたのは最早今までの彼ではなく。人ではなくミスリルでもなく。銀色の髪と真紅の瞳を持つ、人とミスリルを調和した存在だった。
涙を流したまま少年は立ち上がり、腕を振るう。声もなく動き出したキルシュヴァッサーは彼の感情に応えるように、紅き龍の船の中で雄叫びを上げた――。