明けない、夜の向こう(1)
香澄の姿を求めた響がスラムを目指したのは、本当に直感的な物だった。
伝えなければ成らない事があった。話したいことがあった。これから始めたい事が沢山あった。
偽りでも成り行きでも事情でも立場でもなく、正面から話したい事が山ほどあったのに。
雪景色の中を一人、香澄は立ち尽くしていた。かつて姉の命の火が消え去った場所で一人、打ちひしがれるように。
両肩と頭に雪を積もらせるその様子はとても寂しく、そして時が止まってしまったかのようでもある。全力でここまで走ってきた響はその場で呼吸を整えながらゆっくりと香澄の背中に向かって歩き出した。
「……香澄君、こんなところで一人で何やってるの?」
香澄は言葉もなく振り返る。その表情はこの寒空の下降り注ぐ結晶のように凍りついてしまったように見える。
そこには悲しみも喜びも何もかもの感情が感じ取れない。温もりの見えぬ姿に響はゆっくりと歩み寄り、肩に積もった雪を払う。
「風邪、引いちゃうよ? ほら、帰ろうよ。イゾルデもね、目を覚ましたから」
自らが首に巻いていたマフラーを香澄の首に巻き付け、優しく微笑む。普段の彼らならそれだけでも温もりを分かち合う事が出来たはずなのに、今はそれさえどこか空しい。
冷たく凍えきった香澄の手を握り締め、両手で暖める。暗闇の中、二人は静かに見詰め合う。香澄の読めない心に不安を覚えながらも響は挫けなかった。
本当は向き合うだけでも勇気を必要とするはずなのに、彼女はそれでも香澄と分かり合いたかった。香澄を許したかった。他の誰かの手ではなく、自分の手で彼に何かをしたいと願っていた。
言葉の無い時間が続き、ただ指先から伝わる凍えた感触だけが頼りだった。何故この場所に香澄が何時間も立っていたのか、その理由は響にも予想がつく。
「……冷たいね」
大切な物を失った時、どうしようもない絶望に包まれる。それは一生自らの心を抉る傷となり、穿たれた杭は抜け落ちる事がない。
抜ければ抜けたでそれは大量の出血を伴い、時にそれだけで死に至らしめるほど心を壊して行く。香澄がその辛すぎる記憶を取り戻したという事を知らない彼女はそれでもその痛みに想いを馳せていた。
「戻ろう、香澄君。皆待ってるから。心配してるから、だから――」
「俺は戻らない」
響の言葉を遮るように発せられた香澄の声に響の身体が強張る。
否定される事が恐ろしいのは誰だって同じ事。彼女とて否定――特に彼にだけはされたくない思いが強かった。
それでも踏みとどまり、彼女は香澄と向き合おうと努力した。その時すでに決まってしまっていた香澄の決意がほんの僅かでも揺らいだ物であったならば、彼女の言葉は彼に届いたかも知れない。
「――――それって、どういう事?」
揺れる響の瞳を見つめ、少年は弱弱しい力で彼女を否定する。
音も無く、小さな力で。突き放された少女が着いた背後への一歩が、二人の関係を絶対的に否定する。
そんなたった一つの所作が。冬風響の心をどん底へ突き落とすほどの、深い深い否定に感じられた。
少年はただ寂しげに、悲しげに。彼女を見下ろしそして……それ以上は語らなかった。
「ちゃんと言ってくれなきゃわかんないよ……? 香澄君、どうしちゃったの? 最近何か……変だよ?」
冗談で済めばいい。どんなに祈ったことだろうか。
「お前たちとはもう一緒に居られない」
夢や幻……いや、嘘でもいい。どれだけそう願っても。
「俺は、ミスリルだから」
決定的に突き放された現状は、決して覆らなかった。
⇒明けない、夜の向こう(1)
「ミスリルって……香澄君、何言ってるの? 全然わかんないよ、私……。何でそんな、怖い顔……」
「知ってたんだろ? 俺が姉貴を殺した事。姉貴がキルシュヴァッサーに乗ってた事……」
ずきりと胸が痛む。目の前の少年がそれを認知しているという、決してありえない事は無い現実に頭の中が真っ白になった。
心臓の鼓動だけが全身を支配していく。高鳴り早まるそれが口から飛び出るんじゃないかと思うほど、少女はうろたえていた。
それは勿論少年にも伝わってしまう。極度の動揺を少年は肯定と受け取った。僅かに警戒心が敵意と共に強まったのを、響もその場で感じていた。
「知って……っ! し……っ! その……っ! あ、う……っ」
言葉にならなかった。頭の中ではこの状況を何度もシミュレートしてきたはずなのに、ちっとも全く、ろくにそれは成果を現さない。
ほかならぬ彼女本人がその状況に最も困惑を示していた。自分でも信じられないほど、彼女は自分の言葉を伝えられないから。
「知ってた……知ってたけど、それは……っ! だって、香澄君は……っ」
「……知ってたんだな、やっぱり。皆も……そうなんだな」
「…………それは。それは、その……だから……」
胸に手をあて、響は顔を上げる。香澄は見たことがないほど悲しげな瞳で響を見つめている。
嘘は絶対につけない。ついてはいけない。それでも本当の事はとても残酷で逃げ出したくなる。
恐ろしかった。これほどまでに恐ろしいとは思って居なかった。正面から誰かと向き合い、そしてその人に本当の事を語らねばならず、その内容がその人を傷つける事になる。
絶対的に避ける事の出来ない悪夢が実現していた。真冬だというのに汗が滲み、雪の向こう側に立つ香澄の姿がどこか遠くへ行ってしまいそうで怖かった。
「……これから自分の事を確かめに行く。そうなったらもう、多分皆と会う事は無いと思う」
「……えっ?」
「姉貴の死に如月が……。この世界が関与しているのだとしたら。多分俺は、そういうのを許せないから」
それは宣戦布告だった。
紛れも無く、宣戦布告。それ以上でも以下でもなく。だから目の前に立つリーダーという立場の少女は、それを受けるしかなかった。
「ちょ……っと、待ってよ……。わかんないよ……。香澄君、どうして……? 気に入らない事があるなら、あやま……っ! 謝るからっ!」
最早論理的な思考は出来ていなかった。叫び声は空しく廃墟にこだましては悲しみを駆り立てる。
「私の事が気に入らないんなら、謝るよ……! 嘘ついてたのが信じられないなら……これから信じてもらえるようにがんばるよ……っ!! だから、そんなこといわないでよ! そんな……居なくなっちゃうような事、言わないでよっ!!」
震える身体の意味も、溢れる涙の理由も彼女はわからなかった。軽いパニック状態にある彼女の言動が効果的であるとはお世辞にも言えない。
香澄はただその言葉を聞き流し、瞳を閉じた。自らの言葉が通じていない事を響が一番良く感じている。無力さに拳を強く握り締め、次の言葉を捜した。
しかし香澄はその時間を与えなかった。その場で踵を返し、歩き始める。余りにも唐突に訪れた終わりの瞬間に息が乱れる。
どうすればいいのか考えたいのに何も考えられない。何もかもが溶けて消えて行く思考の中、少女は歩く少年の前に先回りし、強く首を横に振った。
「……行かせない」
「……退け」
「嫌だっ!! 絶対に行かせないっ!! 仲間だもん、友達だもんっ!! 私リーダーだもん……君を連れ帰る責任があるんだよっ!!」
響の叫び声を聞き、香澄はその胸倉を掴み上げる。小柄な響が宙に持ち上げられ、香澄は至近距離で響をにらみつけた。
そのまま片手で雪の中に放り投げると歩みを再会する。雪の上を転がり、響はそれでも立ち上がる。雪塗れになり、尚香澄の背中にしがみ付いた。
「行かないで……。行っちゃやだよ……っ」
「離せ」
「離さない……! 香澄君が帰るって言うまで離さないっ!!」
香澄の表情が変わった。ほの暗く瞳の向こうに揺れる憎しみを隠そうともせず、少年は冷めた表情のまま響の手を捻り上げ、脇腹を蹴り飛ばす。
思い切り吹き飛ばされた少女は雪の上を転がりまわり動かなくなった。激しい痛みに胃液を吐き出しながら雪に爪を立て、顔を上げる。
「…………俺が、どんな気持ちで今まで皆と一緒に居たと思う?」
答えられなかった。香澄は涙を流しながら拳を握り締めていた。
「皆と一緒なら、過去だって乗り越えていけると思ってた……。皆のことが好きだったんだ……。初めて本当に分かり合えると思えた友達、仲間だったんだ。分かるか冬風響……? え? 分かるのかよお前に俺の気持ちがっ!?」
「……かすみ、くん……」
「なんなんだよ、どいつもこいつもっ!? 自分勝手にも程があるだろがっ!! 勝手に死んで! 勝手に居なくなって!! それで今度は俺かよ!? 俺はキルシュヴァッサーを動かすのに必要なだけなんだろ……? その為にわざわざ友情ゴッコに付き合ってくれてたんだろ、お前ら……!? いい加減にしろよ……。ふざけんなよっ!!」
響が首に巻いたマフラーを投げ捨て、香澄は背を向ける。その背中も拳も、声も震えていた。
「信じらんねーよ……! どう信じろっていうんだよ!? キルシュヴァッサーも……お前たちもっ!! こんな嘘だらけの世界の中で! 何を信じろっていうんだよ、あぁっ!?」
何も言い返すことが出来なかった。利用していたのは事実であり、そしてそれを知っていながら響は放置していたのだから。
裏切ってしまったのは自分たちの方なのだ。自分では散々信じるだの仲間だの言葉を口にしておきながら、結局は全てを裏切ってしまった。
桐野香澄という少年が苦心し、何とかやっていこうと必死で折り合いを付け、ようやく心を交わしてくれたというのに。その譲歩の全てを彼女は踏んで砕いて蹴ってしまったのだ。
その圧倒的な事実は絶対的に拭い去ることが出来ない。たった一つの、ただそれだけの嘘が全てをおかしくする。全てを壊してしまう。
脆いものだった。そこにあった青春の日々や友達との思い出も。皆で一緒に戦った日々も、全てが脆く、儚く崩れ去る。
だからようやく気づいた。自分たちが続くと思っていた永遠が、どれだけの奇跡の上に成り立っていたのか。誰かがそれを知れば崩れる危ういバランスの上、皆でそれでも笑っていた。
指でつつけば崩れてしまうような優しさの中、それでいいと思い込んでいた。愚かしい自分の所業に響は心底後悔していた。
「――でも。それでも……行かせない」
ゆっくりと立ち上がり、響は首を横に振る。
「そんなに私たちが信じられないなら……。憎しみが消せないなら……。私を殺していいよ、香澄君」
諸手を広げ、無防備に。少女は少年の前に身体を晒す。
「謝ろうとは思わない。謝って済むとも思わないから。だからもう……君の好きにして。私を壊していいから――。だから、君は壊れてしまわないで……!」
香澄の手は直ぐに響の首に伸びた。強く握り締めれば折れてしまいそうな細い首を握り締め、香澄は怒りを露にする。
彼にとって彼女の行いは侮辱以外の何者でもなかった。自分ひとりで責任を背負えると、彼女がそういっている気がしてならなかった。
その程度の悲しみではないし、それで済む絶望ならば話はここまでややこしくはならなかった。今の響に出来る事は恐らく彼の前から居なくなる事だけで、残る全ての選択肢は蛇足に過ぎないだろう。
それでも少女は彼の前に立ち塞がる。決意を以って、懸命に。そうまでして無様に足掻いてでも、取り留めたい物があった。
「舐められたもんだな……。お前を殺した程度で俺が世界を許すと思ってるのか?」
「思わないよ……。でも、他に思いつかないから……。私、他に君にして上げられる事が……何も思いつかないからっ」
虚勢を張りながら、しかし響は泣いていた。ぼろぼろと大粒の涙を両目から零し、それでも強がっていた。
「私、香澄君になんにもしてあげられなかったね……。なんにも……なんにも。君のために出来る事……何があるのか教えてよ。私もう、逃げないから」
「………………」
首を掴む手に力が篭る。息苦しさが増して行く中、響はそっと目を閉じた。
死んでしまっても構わない。死は恐ろしい。それでも死よりも恐ろしい物を回避できるのならば、それは手段として成立する。
目を閉じた暗闇の中、次々と思い出が過ぎっていく。何もかもが懐かしく、暖かく、手放しがたい、本当に大切な、一つ一つが宝物だった。
「…………き……っ」
公園で香澄と向き合った事。海斗が居なくなり、香澄を罵倒した事。香澄の危うさに罪の意識を覚えた事。一緒にトランプをした事。触れ合った事。
交わした言葉、触れた温もり。誓った思いや胸のうちに閉じ込めた憎しみさえ、今は全てが懐かしく……そして神々しかった。
「……す……、き……」
首を絞める香澄の手を両手で掴み、響は泣きながら訴えた。
「大好き……だよ。かす、み……くん」
苦しげな、懸命に作った笑顔だった。
香澄の指先から力が抜け、響の身体が雪の上に崩れ落ちる。その小さな身体は香澄の腕で抱き抱えられていた。
酸素が足らず、朦朧とする意識のまま響はしっかりと香澄を抱きしめていた。一生懸命に、離してしまわないように。どうしても、絶対に行かせたくなかったから。その思いだけは、香澄にも痛いほど伝わっていた。
「どうしてお前、そんな……」
「……行っちゃやだよ。離れたくないんだよ。分かってよ……。君のことが、好きなんだよ……。どこにも行って欲しくないんだよ……っ」
ぼろぼろと涙を零しながら、響は呟いていた。香澄はその言葉を耳にして、歯を食いしばり目を閉じた。
「ごめん……っ。ごめんねえ……っ! 辛かったよねぇ……。悲しかったよね……。寂しかったよね……。分かってたのに、私……私はぁああ……っ!!!!」
香澄の腕の中、泣きじゃくる彼女のその理由は、彼女自身にはなかった。今正に目の前で苦しんでいる少年のために涙を流し、狂おしい程に胸を痛めていた。
ずっとずっと謝りたかった。本当は全て曝け出してしまいたかった。それが出来ない立場にあり、そしてそれを誰もが望んでいなかったから。彼女は少年の気持ちを理解する事すら封じられていた。
今この瞬間、全てが失われる直前になって。輝いていた楽しかった日々の中、香澄の苦悩や涙の意味を思い、少女は涙を止めることが出来なかった。
子供のように泣きじゃくり続け、大声で叫ぶ響。それに釣られるように、香澄もまた涙を流していた。
雪の上で二人は抱き合い、涙を流す。それはとても滑稽であり、しかし彼女たちが成すべきだった本当の形だった。
「私、憎んでないから……。香澄君のこと、嫌いじゃないから……っ! 嫌いにならないで……! 好きなの! 嫌わないでっ!! 愛してよっ!! 愛したいんだよぉっ!! 信じてよおおおおおっ!!!!」
響の願いを込めた叫び声は確かに届いていた。それは利害も無ければ計略もない。無様で素直な本音だった。
香澄は流していた涙を拭い、ゆっくりと立ち上がる。そうして響の頭を撫で、静かに呟いた。
「……今更になって、何言ってんだ、馬鹿」
「……だって……」
「…………それでも俺は行くよ。お前には悪いけど、これは変わらない」
「香澄……」
「俺はお前たちが相手でも、もう躊躇しない。全部壊して無かったことにする。姉貴の想いを継がなきゃ。だからもう……追ってくるな」
その場を立ち去ろうとする香澄を追う事はもう響には出来なかった。
ただ泣きながら、遠ざかっていく足音に耳を澄ませ、静かに肩を抱きしめる。
「……うそつきだよ、香澄君……。香澄君が……。そんなことできるわけ、ないじゃない……っ」
香澄がやろうとしていることは、きっととても大変な事だった。
彼が彼女を蹴り飛ばしたのも、罵倒したのも、全ては彼自身のためではなかった。
彼女を巻き込むまいとする微かな優しさを、確かに受け取っていた。だからこそ辛い胸の内はもう、誰にも吐き出す事は出来ない。
冷たく降り積もる雪の中、香澄は廃ビルの前に立っていた。まるで事前に香澄が訪れる事を知っていたかのように、その場所には海斗が立っていた。
「やっぱり生きてたんだな」
「……うん。香澄ちゃんも元気そうで何よりだよ」
「ああ」
二人はそれで沈黙した。
穏やかな空気はそこまでだった。香澄から発せられるおぞましい程強烈な悪意に海斗は息を呑む。
鋭い眼差しの向こう側にあるものは最早ただの人間の放つ殺気などではなく。親友に向けられたその憎悪は空を焦がして溶かす程、強く強く。
「教えろ海斗。秋名が死ななければならなかった理由を。秋名を追い詰めたのは誰なのかを」
「それを知って、君はどうするつもりなの?」
香澄は笑っていた。
頬を吊り上げるように、不気味な笑顔を浮かべる。それは恐らく彼が意図したものではなく。堪え切れなかった感情がそうさせたのであろう。
「壊す」
伸ばした指先を天に向け、首を傾げて。
「秋名を苦しめたように、秋名を苦しめた全てを壊してやる」
「じゃあ君は、ミスリルにつくって事?」
「何言ってるんだ、お前?」
至極当然といった様子で香澄は親友の言葉を鼻で笑う。
「そんなわけないだろ? ミスリルは殺すよ。全部殺す。一つ残らず殺す。その上で俺は秋名を傷付けた物全てを壊して潰す」
「――――全部、か」
「ああ。だから安心しろ。その中には――ちゃんとお前の名前だってあるからさ」
海斗は理解した。
今、香澄の頭の中に渦巻いている激しい憎しみはきっと香澄本人のものだけではないのだと。
全てのミスリルと全ての人間を憎み、何もかもを破壊して滅ぼしたがって止まない何か巨大な意思が今、香澄の中に目覚め始めているのだと。
悲しみにくれ、絶望の中に居る少年の背後に海斗が見たものは、銀色の翼を持つ悪魔だった。
「さあ、聞かせてもらおうか。俺が殺さなきゃいけない世界の話を」
避けては通れない戦いが目の前にあった。
風が吹き、海斗は目を閉じる。次に瞳を開いた時には、最早覚悟を決めて居た。
「教えてあげるよ。僕を君が、倒せたならね――」
どちらからとでもなく、同時に駆け出して。
その二人の拳が交差する背後、巨大な二つのシルエットが激突した。