有限の、永遠の中で(3)
「………………?」
桐野香澄が意識を取り戻したのは事件から数日後の事だった。
病室の中、白い壁に囲まれ白いベッドの上で身体を起こした香澄はぼんやりとした頭のままで周囲を見渡す。
全身に異常はない。むしろ長い急速により彼の身体は健康そのものだった。ベッドから降り、窓辺に立つと過去の記憶が脳裏を通り過ぎて行く。
キルシュヴァッサーのパイロットであった姉と、それを自分が殺すという映像。それはただの夢や幻ではなく、過去に実在した現実を元にされている。
香澄はそれを信じたくなかった。勿論自分が姉を殺したという事実を認めたくはないし、姉が死んでしまったという事実も否定したくて仕方が無い。しかし香澄が何よりも否定したいことは、そんなことでは無かった。
窓の向こう側には雪が降り注いでいた。暖房の効いた病室内でさえ寒さを感じずには居られない十二月の空はうっすらと世界を闇で覆い、ロマンチックなはずの雪の結晶は悲しみの象徴のようでさえある。
ぼんやりとそれを眺める香澄の背後、扉が開いた。入ってきたのは佐崎で、彼は香澄の隣に立つと静かに語り始める。
「調子はどうだ?」
「……ああ。佐崎、あれからどれくらい時間が経ってる……?」
「六日と言ったところか。香澄、起きたばかりで悪いが話がある。着いてきてくれないか?」
「……分かった」
話があるのは香澄も同様である。二人は病室を後にすると、長い廊下を歩いて別の病室の扉を潜った。
そこには香澄の病室と同じ内装の部屋が広がっていた。そうして佐崎に道を譲られ前に出た香澄が見たのは、全身傷だらけで眠るイゾルデの姿だった。
「……イゾ、ルデ……?」
全身を血の滲んだ包帯で覆われ、今も眠り続けるイゾルデ。その傍らに腰を落とし、傷だらけの手を握り締める。
「どうしてこんな事に……」
「……命に別状はない。勿論無事とも言い難い状態だがな。不知火は大破、キルシュヴァッサーは凍結処分が決定した」
振り返り、立ち上がる香澄。佐崎は静かに、しかし誠実な瞳で香澄を見つめる。取り出した書類の束を香澄に手渡し、パイプ椅子の上に腰掛けた。
書類には演習場で手足を千切られ大破した不知火と、その傍らで無数の杭のような物を打ち込まれ、大地に縄で結ばれたまま停止しているキルシュヴァッサーの姿が記されていた。
破壊された演習場と、壊れた不知火。そして封印処理を施されたキルシュヴァッサーを見れば、大体何が起きたのかはもう香澄にも想像出来た。
「……また、暴走しちまったのか」
佐崎の無言の返答。香澄は拳を強く握り締めた。
しかも今度は戦うべき相手ですらない。ただ近くに居ただけの仲間を、正真正銘の仲間を、破壊してしまった。
「イゾルデ……。ごめん……。ごめん……っ」
手を握り締め、謝る事しか出来ない香澄。その後姿を見つめながら佐崎は小さく溜息を漏らした。
「香澄、あの時お前たちに何があったんだ?」
「……そうだ、アレクサンドラは!? あいつも確か俺と同じ攻撃を食らったはずだ!」
「アレクサンドラなら、目は覚ましたが……その、なんだ」
歯切れの悪い口調に苛立ちが募る。佐崎の両肩に掴みかかり、香澄はその目を覗き込んだ。
「……俺が、また……壊しちまったのか?」
「いや、そうではない。ただ、彼女も極度のパニック状態にあってな。今は別室に隔離している」
「会えるか?」
「お前はその前にまず社長と話す必要がある。今回の件は俺たち仲間でさえ判らない事が多いし、まずは報告だろう。それにアレクサンドラは……会っても直ぐに会話が出来る状態ではなからな」
その言葉から状況の深刻さを再認識する。片手を額に当て、香澄は深く溜息を零した。
ままならない事ばかりなのは、仲間のことだけではない。今の彼には恐らく、他人の心配をしている余裕などないのだから。
⇒有限の、永遠の中で(3)
「あ〜も〜っ!! 超痛いんですけどぉ〜!!」
誰にあてるわけでもない叫びと共に肌蹴た肌を指先でなぞっては貧乏ゆすりをするオラトリオ。その背後ではオラトリオの身体を診察するヴェラードと相変わらず無言でピアノを弾くバンディットの姿がある。
今や暗黙の了解で契約の騎士団のアジトとなったうち捨てられたダンスホールにオラトリオが帰還して数日。先日の戦闘での傷は未だにオラトリオの身体を蝕んでいた。
「ジェラ〜トぉ〜! キルシュヴァッサーにやられた傷、ぜんっぜん治らないのは何で? これくらいのダメージ、三日もあれば完全に修復出来るはずなのに……」
袖を捲くり、腕に生々しく刻まれた傷を露にする。腕に縦につけられた無数の爪痕は未だに血を滲ませ、鋭い痛みを伴っている。
ヴェラードはそれらの傷を興味深く観察していた。定期的に包帯を替えているのだが、相変わらず傷が塞がる様子はない。未だに微量であるが出血し続けているし、オラトリオの体力は回復しないままだった。
「まあ、ここに戻ってきた時よりは大分ましでしょう? バンディットが能力で貴方を助けなかったら、今頃ばらばらの死体が一つ転がっていた所です。ちゃんと『ありがとう』は言いましたか?」
「……ぶー。あたし悪くないもん」
「……やれやれ。まあ、収穫はあったのでしょう?」
「まぁね……。『ナイトメア』をかけたから、香澄の記憶のコピーは取れたよ」
「どうでしたか? 彼の記憶は」
「どうもこうも……ちょうカオス。実際見たほうが早いんじゃない?」
立ち上がったオラトリオは指先をヴェラードの額に当て、静かに目を閉じる。ミスリルからミスリルへ、受け流されていく記憶のイメージ。それはオラトリオの指先を通じ、一瞬でヴェラードの中へと染み渡っていく。
記憶の受け渡しが完了すると、ヴェラードは直ぐに額に手を当てた。様々な記憶を食らい、覗き込んで生きている彼らでさえその記憶は毒気を感じるほどのものだった。
「……滅茶苦茶ですね。改竄と嘘の繰り返しだ。本物の記憶が『どれ』なのか分からなくなるくらいに」
「まともじゃないよ、あいつ。頭の中こんなぐちゃぐちゃにされてまともなわけないし……。逆に普通にしてるのが在り得ないよ。どうなってるわけ?」
「…………非常に興味深い。ありがとうございます、オラトリオ。バンディットもお疲れ様」
二人はそれぞれの返事をヴェラードに返す。バンディットが奏でる旋律の中、ヴェラードはオラトリオの肌蹴た服を直して頭を優しく撫でた。
「どうやらキルシュヴァッサーにつけられた傷は修復がかなり遅れるようです。どういうわけかはわかりませんが、我々の身体を構成しているミスリルとしての部分を分解、修復を抑制する能力を持っているようですね」
「ミスリル殺しのミスリル、ってわけ? 冗談じゃないよ、もう」
「それと相対して無事に戻ってくるのですから、貴方も大した物ですよ。それで、あれと対峙した感想はいかがでしたか?」
ヴェラードの質問は恐らく白々しかったであろう。勿論それは本人も承知の事だ。
椅子に深く腰掛けたオラトリオはシルクハットを投げ出して前髪を掻き上げながらふてくされた様子で呟く。
「……『化物』よ」
小さな言葉は勿論聞こえていた。オラトリオにも、その向こうのバンディットにも。そして彼女自身にさえも。
キルシュヴァッサーの口から放たれた咆哮は大気を揺らし、箱庭の空間さえも歪めてしまう程の物だった。
恐ろしい物が目の前に居ると感じた時、本能的な生命の恐怖が誰もを襲う。それを覆いつくせるだけの心の準備を出来ていなかった彼らは当然、それに畏怖した。
白い結晶の煙を吐き出し、爪を立てた大地を砕きながら獣のように不知火に飛び掛るキルシュヴァッサー。繰り出されたその爪の一撃を防ぐ事が出来たのは、イゾルデの普段からの研鑽の賜物だったとしか言えない。
太刀にて初撃を受けた物の、直後に繰り出された蹴りが不知火の身体を吹き飛ばす。格納庫の壁をぶち破り、転倒するその姿を眺めながら銀色のミスリルはゆっくりと立ち上がる。
「おい、キルシュヴァッサーが……!?」
「香澄君っ!!」
響たちの声は届かなかった。その状態は暴走と判断するのに何の躊躇いも無く、そしてそれはかつての規模を遥かに凌いでいる。
輝く瞳の軌跡だけを残し、新たな得物を求めて駆け出したシルエットは真っ直ぐにオラトリオに向かっていく。反撃として繰り出した『音』の攻撃はしかし敵を迎撃することは叶わない。
誰もそれについていけなかったし、何が起きているのかも理解出来なかった。瞬時に居場所を変え、左右へ、上下へ、その居場所を変化させる瞬間移動能力。それは音どころか光よりも余程早く、全く予想出来ない方向からの攻撃へと変化する。
一瞬と呼べる刹那に四回以上の必殺を繰り出すその攻撃を受け、目での捕捉に頼っていた者にはキルシュヴァッサーの姿が四つは見えたであろう瞬間、オラトリオが未だに無事だったのは『音』の反響による位置把握に素早く判断方法を切り替えたからであった。
同時に周囲に放った音の反射を聞き捉え、方向と距離、タイミングその全てを把握する。並の攻撃ならばまず当たるはずのない絶対的な自信を持つ回避行動でさえ、追いつく事の叶わないその攻撃でオラトリオは大地に倒れる。
咆哮に世界が軋んだ。バンディットの力で生み出され、この場所を覆っていた結界でさえ音を立てて砕かれる叫び声は悲鳴のようにも聞こえたし、怒りのようにも聞こえた。
その化物を止めることが出来るのは今、唯一稼動している不知火しかなかった。背後から太刀を構えて切りかかるその一撃を回避し、目前に現れたキルシュヴァッサーの手が不知火の腕を引きちぎり、足を踏み砕く。
倒れたそのボディに打ち込まれた拳は腹部を貫通し、夥しい血液が噴出すと同時に不知火は機能停止に陥った。
「これが、先日のキルシュヴァッサーの行動だ」
病院の前につけられた外車の中、香澄は自らの行った映像を見せ付けられていた。
死刑を言い渡す判事のように朱雀の言葉はむなしく社内に響いた。葉巻に火をつけ咥えるその間にも香澄は震えながら映像を眺めていた。
佐崎は車外に待機しているため、その場には香澄と朱雀の二人しか居ない。やがて映像が終了すると同時に朱雀は腕を組み、語る。
「あの場は何らかのミスリル能力により隔離されていた。内側からキルシュヴァッサーがこじ開けてくれたおかげで結界は破壊出来たが、キルシュヴァッサーはそのまま外に出ても暴走を続けてな。演習場の周辺を破壊しながら移動。その後はステラデウス三機による封印作戦により、活動を停止。お前をコックピットから引っ張り出すだけで、丸一日かかった」
「……基地の人達は?」
「全員無事だ。何故だかはわからんが、基地内部の人間は全員外側に放り出して、基地の空間を隔離する……と、そんな能力だったらしい。響の報告によればミスリルは二体居たらしいから、一体の能力ではなく複数の能力を同時に使用したのかもしれんがな」
「俺はまた……仲間を傷つけたのか」
「そういうことだ。それで、あの時お前に何があった?」
記憶の欠片が脳裏を過ぎり、香澄はその手を強く握り締める。
顔を上げ、目の前の朱雀をじっと睨みつける。それから震える声でゆっくりと言葉を口にした。
「……どうして隠していたんだ」
「何をだ」
「姉貴がキルシュヴァッサーのパイロットだった事……! 俺が姉貴を殺した事だよっ!!」
朱雀の表情が変わったのは明らかだった。少しだけ悲しげに瞳を揺らし、それから直ぐに普段の威厳ある表情へと戻る。
「思い出したのか」
「……思い出したのか、じゃあねえだろ……!? 何であんな事になるんだよ……! あんたたちは姉貴に何をさせていたんだよ!? 親父は何か関係してるのか!? 何で生徒会のみんなは俺にその事を黙ってたんだよっ!!」
今、香澄がやるべきことは怒ることでは無かったはずだった。それは本人とて理解していることだ。しかし一度言葉にしてしまうと、それはもう止まりそうにもなかった。
胸の内側から溢れる様々な思い。友達だと本当に思える、仲間だと信じられる人たち。自分のやるべきことと戦うべき相手、そして手に入れた力の使い方。
それら全てが根本から揺らいでしまう気がした。自分の中の大切な部分を踏みにじられたような気がしてならなかった。
「あんたたちは皆知ってたんだろ……!? どうして俺がキルシュヴァッサーのパイロットなんだ!? 何で姉貴が! キルシュヴァッサーに乗ってたんだよっ!!」
「それをお前が知る必要はない」
ぴしゃりと言い放った言葉が香澄の胸を穿つ。
「お前は黙ってキルシュヴァッサーに乗って私たちが定めた敵と戦っていればいいんだよ。余計な事を考えるんじゃない」
「…………なんだ、そりゃ……」
「お前の姉を殺したのも、お前の妹を結晶機にしたのも、ほかならぬお前だろうが。そんなお前が我々に対して何かを言える立場だと本気で思っているのか? 図に乗るなよ小僧。身の程を弁えろ!」
沸騰しきった香澄の脳はしかし直後に急激なクールダウンを見せる。怒りや悲しみが限界を振り切った時、全てがどうにも馬鹿馬鹿しく思えた。
乗り出していた身体を収め、うなだれて首を横に振る。強く強く握り締めた拳に血を滲ませ、少年は歯を食いしばった。
「あんたたちにとって、俺はただのパイロットで……。キルシュヴァッサーを動かせるだけの、都合のいい人間に過ぎないんだな……」
朱雀は答えなかった。香澄はそれっきり黙りこみ、しばらくすると扉を開けて車外に出た。
待機していた佐崎と目が合ったが、香澄は何も言わずに視線を反らした。立ち尽くす香澄にどう声をかけたものかと悩む佐崎に窓越しに朱雀が声をかける。
「あいつを見張っておけ劉生。いつ逃げ出すか分からんからな」
「……お言葉ですが朱雀。それもまた、彼の選択ではないでしょうか」
「甘ったれた事を言うな。お前も如月の血を継いでいるのならば非道になれ。使えるものは使えなくなるまで使い倒せ。それが人間でも、だ。報告はお前が聞き出してまとめて後で寄越せ。今のそいつは話にならんからな」
車は二人を残してその場を離れて行く。立ち尽くす香澄が開いた手、その指先から血の雫が白いアスファルトの上に零れ落ちる。
その隣に立ち、肩を叩く佐崎。声も無く触れた肩先から伝わる孤独な気持ちに佐崎は目を細める。
「何があった」
「……佐崎は、知ってたのか?」
ゆっくりと顔を上げた香澄は今にも泣き出しそうな顔で、小さく問い掛ける。
「……俺の姉貴がキルシュヴァッサーに乗ってた事を。その姉貴を……俺が殺した事を」
「……お前」
結論から言えば、佐崎はそれを知っていた。そしてだからこそキルシュヴァッサーという結晶機を恐れ、そしてその結晶機を見守らなければならないと感じていた。
如月の人間としてキルシュヴァッサーを扱うチームに所属していたのも、全てはキルシュヴァッサー及びパイロットの監視の為。定期的に報告書を纏め上げては朱雀にそれを送りつけていた。
それは佐崎の仕事であったし、佐崎自身も必要だと感じている事だった。その行いに迷いはないし、後悔も存在しない。
だがしかし、目の前の少年を……仲間だと認めた彼を今まで欺き続けてきたのは事実だった。他のメンバーがどうかは勿論佐崎にも分かることではなかったが、少なくとも佐崎は最初から香澄の事情を知った上で今まで接してきていた。
それは勿論、香澄に対する裏切りであると彼も認識している。香澄を心のどこかで信じ切れず、キルシュヴァッサーを任せるべきかどうか決めあぐねていたのもつい最近までの事だった。
しかし今は仲間として、友として。一緒にミスリルと戦っていこうと決意を決めている。もし今まで香澄に同じ質問を投げかけられたのならば、佐崎はきっと適当に嘘をついて誤魔化していただろう。
「……ああ、そうだ」
だが、今は違った。
仲間には嘘をつけない。嘘をつきたくない。完璧を求めるべき如月の人間としてはあってはならない、そんな気持ちが佐崎に嘘を許さなかった。
欺く事で、嘘を付く事で傷つかない事もある。だがそれを佐崎は真摯な行いだとは思わない。真面目な少年は、真面目な表情で。友の問い掛けに正面から答えた。
「桐野秋名はお前が殺したんだ。桐野香澄」
「……」
香澄は視線を反らし、それからその場に力なく膝を着く。
振り続ける雪はきっと積もる事になるだろう。そうして明日には街の景色を塗り替えて、全てを白く染め上げて行く。
二人の間に言葉は無かった。かけるべき言葉も、返すべき言葉も見つからなかった。ただただ雪が降り続け、二人の間には沈黙だけが正解のように思えていた。