有限の、永遠の中で(1)
「予定通り、結晶塔へのアクセスは順調です。桐野香澄の協力があれば、恐らく近いうちに計画は実行に移せるでしょう」
ワイングラスを傾けながら足を組み、街を見下ろす如月朱雀。東京フロンティアを一望する如月重工本社ビル最上階社長室にて彼女は日比野からの報告に耳を傾けていた。
暗闇の中、日比野は腰に手を当て溜息を漏らす。どこか心此処にあらずな彼の雇用主は静かに顔を上げると唇を動かした。
「ミスリルを全て滅ぼさねば人類に明日は無い……そう信じて今まで私たちは行動してきた。その為の罪を子供たちに背負わせる事も厭わず、だ」
「仕方の無い事だったと僕は考えます。大人業なら子供が背負う物でしょう。彼らのそれを、大人が守るように」
「後悔しているわけではない。迷いも無い。そんなことが出来るような段階はとうに越えている。だが、この罪は恐らく一生消えないのだろうな」
朱雀の掌の中、揺れる真紅の液体は月明かりを吸い込んでは弾き、揺らめきながら輝きの軌跡を残す。
日比野は静かに顔を上げる。硝子張りの壁の向こう側、広がる夜の世界を見つめる。
「今まで我々人類はあらゆる手段を以ってしてもあの結晶塔を破壊出来ずに居ました。触れることすらままならないあれを封じる為に生み出された東京フロンティアという名の箱庭の中、我々は日々生贄を捧げて人類の歴史を守ってきたのです」
「ふん、当然だな。犠牲の無い守護など有り得ん」
「そうですね。そして我々の行いは教科書にはきっと載らないでしょう。糾弾されることはありませんが、褒められる事もない。もとよりそんな戦いでしょう」
ワイングラスを空にして立ち上がった朱雀は腕を組み街を見下ろす。
その瞳には迷いは宿らない。勿論悲しみや苦悩の色さえも見当たらないだろう。
それは彼女がそれら全てを押さえ込み、とうの昔に投げ捨ててきた事を意味している。他の誰でもない彼女だからこそ、それを捨てざるを得なかった。
「計画は実行に移されます。チームキルシュヴァッサーの手で、必ず」
⇒有限の、永遠の中で(1)
「香澄君? 香澄くーん? かーすーみーくーんー?」
「え?」
恐らく相当ぼうっとしていたのだろう。真横に立っていた響の言葉が頭に全く入って居なかったのだから。
揺れるバスの中、俺は最初は一人で座っていたはずだったが、気づけばいつの間にか響が隣に立っていた。バスも停車していて、どうやら目的地に到着したらしかった。
窓の向こうに広がる国連軍の演習場。以前俺がアレクサンドラと戦った時のものだ。響は俺の手を取り、強引に立ち上がらせると溜息を着いて俺の額に手を当てた。
「どうしたの、ぼうっとして。そんな状態で大丈夫なの?」
「ああ、問題ないさ」
そう。今日は俺の謹慎状態が解かれ、キルシュヴァッサーの凍結処分が解除される日だ。
そしてそれは同時にライバルであるチームステラデウスとの模擬戦をも意味している。バスを降りると他のメンバーは俺たちを待っていた。
「それじゃあ行くよ。予定通りに行動するからそのつもりでね」
俺たちは事前に今日の行動の予定を立てている。それはまあ当然の事なので、特に迷う事も無く一同で司令室を目指す事にした。
響が作ったらしい本日のスケジュール表も流石にやる事が少ないせいかシンプルだ。何せ模擬戦は直ぐに開始されるのだから。
あんな事があった昨日の今日だからか、勿論気分は浮かなかった。ありすが結晶機になると言い出した事も、そのありすの古い友人だと名乗ったコスプレ女の事も、死んでしまったという姉貴の事も、両足にまとわりついては歩く気力を俺から奪っていく。
それでもこうしてここまでやってきただけ自分でも成長したのだろうと思う。ちょっと前の俺だったらゴネてそうなものだ。うむ、こう冷静に思い返すと結構俺ってわがままなんだろうか。
くだらない思考の合間に漏れる溜息。今の俺に出来る事も、俺の役割もキルシュヴァッサーに乗る事だ。そうやって皆を守るのだと決めたのだ。一々ヘコんでいる暇なんてないっていうのに、どうしてこう俺は……。
「香澄! しっかりしろー!」
「のわっ!?」
横からアレクサンドラの体当たりを受け、思わず転びそうになる。それくらい足に力が入って居なかったのだろう。アレクサンドラはそのまま腕にしがみ付くと、いつも通りの笑顔で俺を見上げた。
「元気ないね? どうかしたの?」
「ちょっとな……」
「大丈夫? 今日、戦えそう?」
「役目は果たすさ。それとこれとは別問題だからな」
強がって微笑んで見せると、アレクサンドラは不満そうに目を反らした。
「香澄、また無理してる? どうして香澄ってそう、無理ばっかりするのかな」
「無理はしてないさ。ただちょっと……自分の中で割り切れないっていうか」
姉貴がもう死んでしまっているという事実。そして何よりもそれを忘れていたという俺の余りにも馬鹿な事実が未だにふっきれなかった。
信じたくない。信じたくはないさ。そりゃ当然だろ? 三年間も探したんだ……。生きてると信じていたんだ。なのに、死んでいる。
何が一番辛いって、それがどうしようもないくらい鮮明に自分の頭の中に記憶されているという事だ。目を反らせない、どうしようもない決定的な事実として彼女の死はそこにあった。
深く溜息を漏らすとアレクサンドラは俺の手を引き、正面に立ってみせる。
「覚えてる? ここであたしたち、一度は殺しあったんだよ」
「……忘れるわけないだろ? あれが無かったら、多分俺たちこうして無かったよな」
俺の言葉に彼女はにっこりと微笑む。俺にとってはまだ胸の痛みを伴うあの夏の日の雨の記憶も彼女にとっては笑顔を彷彿とさせるものでしかないのだろうか。
そういう、痛みを乗り越える力はきっとアレクサンドラのほうがずっと強いんだと思う。俺はいつまでたっても痛みを乗り越えられず、ウダウダと迷走を繰り返す。
「ねえ、これが終ったらデートしない?」
「はっ?」
「だからデート。デート……知らないの?」
「いや知ってるけど……なんでまた急に?」
「香澄の元気が無い時はあたしたちが元気付けてあげるの。仲間ってそういう事でしょ? 一人で悩んだりしないで、相談してよ。傍に居るのだって辛いんだよ、そういうの」
アレクサンドラの真っ直ぐな瞳はいつもどこか俺の心をざわつかせる。
分かっている。自分一人の問題なんかじゃないんだって事。みんなと乗り越えていかなきゃいけないんだって事。
そうするように誓った。そうできればいいと思った。それさえこなせば上手くやれると。
でも、結局俺は彼らの仲間に成れたのだろうか? そうそう直ぐには人間は変われないのではないか?
「……いや」
首を横に振る。そう、直ぐには変わらないさ。
この後ろ向きな性格も、明日の見えないこの感情も。でも、皆に打ち明けよう。少しずつ分かってもらおう。このわけのわからない、恥ずかしい気持ちを。
「ありがとな、アレクサンドラ」
アレクサンドラは何も言わずに微笑んだ。眼帯を指先で軽く叩いて、それから俺に背を向け走っていく。
「痛み、か」
痛みがあるほうが分かり合える。痛みがあるほうが伝わりあえる。理解しあえる。そんな事も在るのかも知れない。
少しずつ分かっていこう。分かってもらっていこう。そうやっていけば、いつかこの苦しみを乗り越えられる日が来るかも知れないから。
顔を上げると皆は先に行ってしまっていた。俺はその背中を追いかけて施設の中に足を踏み入れた。
二度目の軍基地の空気に思わず息を呑む。流石に一度や二度で慣れるようなものではないと思う。
軽く深呼吸をしていると響が足を止めた。どうにも表情が優れないようなので隣に立つと、彼女は口元に手を当てて眉を潜めた。
「……おかしい」
「何がだ?」
「静か過ぎるよ。演習前なのに人が一人も居ないなんて」
言われるまで気づかなかったのは恐らく俺がぼうっとしていたからだろう。
考え事に囚われていた浮ついた思考を現実に手繰り寄せるとそこは静寂の空間だった。不自然な無音の世界は明らかに前回の演習とは異なる。
演習前の基地はこう、もっとバタバタしているものだ。戦車やヘリ、戦闘機までもが行き交い、兵士たちは誰もが自らの仕事の為に走り回っている。
静か過ぎる。そこは無音、誰一人として姿の見えない世界に成り果てていた。先程俺を置いてみんなが急いで走っていってしまったのも恐らくこのためだろう。
「日程を間違えたわけじゃねえんだろ?」
「そんなヘマしないよ。それに、日程間違えていたとしてもここは国連軍の駐屯地だよ? 無人なんてことあっていいはずないし」
響の言う通りである。ここが無人であるという事は相当の異常事態だ。浮ついた気分が吹き飛ぶと同時に俺たちは周囲を眺めた。
「……ふむ。司令部まで行ってみるか?」
「それしかないかな。先に送っておいた不知火とエルブルスが気になるけど……香澄君、キルシュヴァッサーは?」
「ああ。あれはもう俺が呼んだ方が早いから、学園の地下に置きっぱなしだ。呼ぶか?」
「待って。それじゃあ……あんまりよくないけど、二手に分かれよう。私と佐崎君、木田君は司令部に。パイロットの皆は格納庫に行って結晶機のチェックをお願い」
「……って、そっちに何かあったらどうするんだよ? 俺もイゾルデもこっちじゃ、そっちに戦闘能力が……」
俺の言葉を遮り木田が前に出る。いつの間にか拳銃を手にしていた木田は慣れた手つきでそれを携え微笑んだ。
「伊達に佐崎の護衛やってないんでな。こっちは任せときんしゃい」
「木田君はちゃんと戦闘訓練を積んでるから大丈夫。私たちも必要最低限の自衛くらいは出来るから」
なるほど、冷静に考えれば当然の事か。俺が来るまでは恐らく木田はバイクで市街地での戦闘をサポート&市民の救出を生身で行っていた立場なのだろう。
ポジション的にも生身での戦闘をフォローする位置ということか。それにそもそもあいつは先輩だ。俺よりも頼りになるだろう。
「わかった。それじゃあちょっと格納庫を見てくる」
「ケータイは通じるから何かあったら連絡してね。それじゃ行動開始」
響の合図で駆け出した俺たちはそのままの足で格納庫に向かった。
その最中も完全に無人の基地内で自然と俺たちは無言になる。ただ黙々と不安を振り切るかのように格納庫を目指す。
扉を開け放ち見つめた先、結晶機は確かにそこにあった。しかし広い格納庫に慌しく行き交っていた整備員の声は無く、代わりに格納庫の中心には結晶機を見上げる人影があった。
黒いフリルのついた傘をくるりと回し、それはこちらへと振り返る。タキシードを着た女は傘を閉じると恭しく礼をした。
「来るのが遅かったね〜。他の人間は大体みんな始末しちゃったよ」
「……始末した、だと……?」
「そ。あたしの名前はオラトリオ――。契約の騎士団の騎士、祈祷の騎士」
少女の姿をした敵は薄っすらと口元に笑みを浮かべ、紫色の髪の合間から覗く鋭い不気味な光を宿した瞳で俺たちを捉える。
思わず息を呑む刹那、刀を抜いて前に出たのはイゾルデだった。俺はパニクって気圧されてしまったというのに、彼女の瞳は敵だけをシンプルに捉えていた。
遅れてアレクサンドラと俺が気を取り直す。イゾルデが居てくれて良かった。もし彼女が居なかったら行き成りパニックになっていたかもしれない。
「契約の騎士団……? そんな物聞いた事もないな。貴様は何者だ」
「だっからぁ、ナイトオブオラトリオだってばあ。それ以上でも以下でもないし……。つーか、あんたに用は無いのね、あたし」
「某の質問に答えろ小娘。ここに居た人たちをどうした」
「それもやっぱりもう答えた事じゃない。『大体みんな始末しちゃった』わよ? 残っているのは、貴方たちだ・け・よ」
オラトリオの投げつけたシルクハットが信じられない速さでこちらに向かって飛んで来る。一瞬の迷いも無くそれを切り払ったイゾルデの後方、シルクハットは黒い鳥になって空中へ舞い上がっていく。
「……ミスリル!?」
「正解正解〜! 桐野香澄、だっけ? 用件はあんたにあるの。一緒に来てくれる?」
この違和感……。相手のわけのわからない格好もそうだが、どうにも感じるこの重苦しい雰囲気。
心のどこかで『違い』を感じ取る本能が叫んでいる。『それは人間じゃないのだ』と。あの時のメイドが俺の目の前で齎した奇跡のように、彼女たちは容易に人には起こせぬ不思議を顕現するのだから。
「一緒に行くわけがねえだろ……! 俺はミスリルが大嫌いなんだよ! どんなに頼まれたってお断りだ!」
「あら、何でか知らないけど最初っからすっごい嫌われモード? う〜ん、でもいいのかなぁ? 『始末しちゃった人たち』ね、まだ一応生きてるんだけど……。あんまりわがまま言うと、皆殺しちゃうよ?」
「人質ってわけか……」
「そうそう。だからこれはお願いじゃなくて命令なの。いいからとっととついて来なさいよ人間。いつまでもあたしが下手に出てると思ったら大間違いなわけよ」
傘をこちらに向け、オラトリオが笑う。その冷たい笑顔は底が知れない。俺が断れば本当に人質になっている人たちは殺される……そんな情景が容易に想像出来た。
しかし一体大量の人間を何処にやってしまったというのだろうか。この基地のどこにならばそれだけの人数を隠す事が出来るというのか。
「……香澄」
「……ああ」
分かっている。そんなことが出来るような場所はない。
だからきっと今ここに人っ子一人居ないのも、それだというのに外部に全く異常事態が伝わっていないというのも、あのオラトリオというミスリルの能力によるものだろう。
ミスリルが個体ごとに持つそれぞれの能力……。何かをどこかへ隠すような能力を持つのだとしたら、本当にオラトリオにしか隠された人々の事はわからないだろう。
いや、こうなってしまった以上救えるのかどうかもわからない。俺たちに救出の手立てが全く無い以上、俺がついていったところでどうなるのかはわからないじゃないか。
「香澄が行く必要はないよ」
迷う俺の思考を遮ったのはアレクサンドラの一言だった。
前に出た彼女は俺の道を閉ざすように手を翳し、片方しかない瞳でオラトリオを見つめていた。
「香澄は行かなくても良い。香澄が行きたくないのに行く必要なんか無い」
「でも、この基地の人たちが……」
「そんなの関係ないでしょ」
冷たく響いたアレクサンドラの言葉。彼女は薄っすらと悲しみを帯びた瞳で俺を見つめた。
「周りの人の事何て関係ないよ。香澄が無事ならそれでいい。香澄が無事じゃなきゃ、あたしにとっては意味なんてないんだから」
「あ、アレクサンドラ……」
そういえばこいつはそういうヤツだった。俺やイゾルデ相手ならば人質は有効かも知れない……というか俺は今思いっきり揺さぶられていた。
しかしこいつは違う。こいつは何と言うか……滅茶苦茶なのだ。シンプルすぎてその行動はどこかぶっ飛んでいて……だから彼女の次の行動も容易に俺には想像出来た。
「アレクサンドラ、あのな……」
「エルブルスッ!!」
アレクサンドラが叫ぶと同時にオラトリオの傍らに立っていたエルブルスの瞳に輝きが灯り、その太い足の爪先から繰り出された一撃がオラトリオの小さな身体を蹴り飛ばした。
思い切り吹き飛んで反対側の壁に減り込み、血飛沫を噴出すオラトリオ。俺もイゾルデも唖然としてそれを眺めていた。
アレクサンドラは走り出し、エルブルスのコックピットへと乗り込んで行く。だがしかし、それでいいわけがない。オラトリオがさらっていった人質は、オラトリオにしか解放できないのだから――。
エルブルスが手にした巨大なバズーカが巨大な弾丸を吐き出し、格納庫の壁が一撃で吹っ飛ばされる。飛び交う残骸を切り払うイゾルデの背後、俺は両手を翳して爆風の向こうを見つめていた。
「やっぱりこうなるのかよっ!?」
「香澄! アレクサンドラを止めないと、人質が!」
「あ、ああ……! かといって他に上手い手も思いつかねぇ……! やっぱぶった押してふん縛って吐かせた方が手っ取り早いんじゃねえか!?」
体当たりで壁をぶち抜き、格納庫の外へと飛び出して行くエルブルス。考えている時間はもうなかった。
「全く……問題児だらけだな、うちのチームは!」
ぼやきながらイゾルデが不知火に向かっていく。それを見届け、俺は天井に向かって手を伸ばした。
「来てくれ銀! キルシュヴァッサーッ!!」
天井を突き破り降りてくるキルシュヴァッサーの姿を視界に捉え、俺はその場所に向かって駆け出した。
「オラトリオが香澄にちょっかいを出しに行ったのか?」
スラム街のとある場所、横倒しになったビルの残骸の上にヴェラードとジャスティスの姿があった。
ジャスティスは煙草をふかし、片手には酒瓶を握り締めている。ヴェラードはその隣で腕を組み、遠くオラトリオが向かった空を眺めていた。
「ぶっ殺されんじゃねえのか? 『身内』なんで甘く言うわけじゃねえが、あいつ最近べらぼうに強いぜ? 演習に割り込むって事はステラデウス三機に加えキルシュヴァッサーシリーズ三機相手にしなきゃならねえんだろ? 契約の騎士だってそりゃいくらなんでも無理だろ」
ジャスティスの疑問は尤もな事だった。しかしヴェラードは暫く思案した後、小首を傾げながら言った。
「彼女に関して言えばそれは関係ないのかもしれません。彼女は対集団戦闘のプロフェッショナルですから」
「相手の人数を関係なく攻撃できる能力ってことか?」
「それもありますが、そもそも彼女はレベルが高いんです。暴飲暴食が彼女の生き方ですから。人間に馴染んで生活しようって気が皆無な分レベルアップの速度と錬度は相当な物ですよ」
「戦闘特化のミスリルって事か。だがキルシュヴァッサーは桐野秋名の力を継いでいる。レベルはともかく、スペックじゃおっつくのは難しいぜ?」
「それも賞味問題ないでしょう。ある意味彼女は最も穏便に、非暴力的に桐野香澄を捕獲する事が可能な人材ですから」
キルシュヴァッサーに乗り込み格納庫の外に飛び出した香澄が見たのは意外な光景だった。
大地に倒れる――しかし無傷のエルブルス。その傍らに立つ巨大な黒と金のカラーリングのミスリルがゆっくりと振り返り、背後に展開する無数の金属管を広げ、アンブレラをキルシュヴァサーに向けた。
「って、アレクサンドラ!? 何そんなところで倒れてるんだよ!?」
『それがあたしの能力だからだよ、桐野香澄』
警戒はしていた。勿論無謀に飛び込んだつもりはなかった。
しかし構えた刃は意味を成さない。それらをすり抜け彼女の攻撃は確実に香澄へと届いていたのだから。
背後に携えたオルガンのような巨大な楽器から奏でられる音がガードを掻い潜り、コックピットの中の桐野香澄の耳へと吸い込まれていく。
音は早い。音よりも早いものは光だけ。その速さで即座に動くことが出来ない以上、桐野香澄にそれを防ぐ手段は存在しなかった。
直後、香澄は目前の景色に我が目を疑った。キルシュヴァッサーの中に座っていたはずの香澄は燃え盛る炎の中、何故か一人で立っていた。
「……な、にが!?」
困惑し周囲を眺める香澄の視界に飛び込んできたのは炎の中に立つキルシュヴァッサー。
「…………どうして?」
そしてその足元に座り、血を流している桐野秋名だった。
失ったはずの人が、失われたはずの時と場所の中、桐野香澄を見つめている。
理解出来ないその状況に香澄が絶叫する中、オラトリオは闇の向こうで静かに微笑んでいた。
『お祈りの時間だよ、桐野香澄。いい夢を見てね』
それは勿論幻。しかし決して逃れることの出来ない夢。
オラトリオの足元に何も出来ずに這い蹲る二つの結晶機を見下ろす黒い姿の背後、太刀を振りかざした不知火が迫っていた。