それぞれの、想い(3)
息を切らして走る夕暮れの中、俺は何を目指していたのだろうか。
その闇と光の狭間の時の中、何かを求めて走り続ける。息を切らし、汗を流し、もつれる足で一生懸命に。
どこかを目指していたのだろうか。無性に走り出したくなる夕暮れの中、焦燥感だけが胸に積もっていく。
そこに意味や理由を求めなかったのはきっと『そういうものだ』と自分の中でケリをつけた気になっていたからなのかも知れない。
しかし実際はどうだろう? 俺は自分の中の大切な何かを失って、そこから逃げる為に息を切らしていたのではないだろうか。
どれだけ懸命に足を振り、手を振り、大地の上を疾走しても拭い去れない心の中の暗闇。振り返る事すら忘れた幻想の中、囚われ続けるというもう一つの幻想。
振り返ったその先に何があるのだろう。その向こう側に残してきたものは何なのだろう。
足を止め、ゆっくりと振り返る。流れる汗を拭い、白く立ち上る息の向こう側、霞んだ紅の景色の中に。俺はその姿を確かに見た。
瓦礫の向こう。灰色の王座。崩れる直前の紅。零れ落ちる朱色。流れ出し、朽ちて行く何かの音。
その向こう側。その手前側。その狭間の側で、彼女は倒れていた。
血を流し、涙を流し、力なく四肢を投げ出した瓦礫の上で。命を奪われ、事切れ、まるで最初からそうなる為に生きていたかの如く、当然の死を迎えていた。
何故俺はそれに背を向けていたのだろう。それは嘘か幻か。とにかくそういうものの中、俺はひたすらに走り続けていた。
目を反らしたかったのだろうか。それとも逃げ出したかったのだろうか。いや、恐らくは両方なのだろう。そうして俺は呆れるくらい冷静に自らの両手を眺める。
それは夕焼けを零したかのように赤く染め上げられ。転々と続く朱の跡は彼女へと続く道標のように、ただ延々と。延々と暗闇の中に続いていた。
⇒それぞれの、想い(3)
「は、あ……。はあ……。はあ、う……っく」
乱れる呼吸と馬鹿みたいに跳ね上がる心臓の悲鳴。それらを無視し、脳裏を過ぎった不思議な景色に想いを馳せていた。
「……お兄ちゃん。どこに行くの?」
背後からありすの声が聞こえた。それは当然の事だった。そして俺はその質問に答える術を持ち合わせていない。
彼女を背負い、気づけば俺は病室を抜け出していた。様々な静止を振り切って一歩も足を止めないまま、東京の端までやってきていた。
ありすを背負ったままモノレールに駆け込み、降りて、また走って。どれくらい走ったのかわからないまま、俺は一面瓦礫の景色の中に立っていた。
「ありす、降りるよ。一人でも、歩けるから」
そう言ってありすは自ら瓦礫の大地の上に足を下ろした。白い素足のまま荒廃した大地を進むありすに導かれるように俺もまた歩みを再開した。
華やかな東京の裏側に広がるスラムは果てしなく広大で、まだこの街があの悲惨な災害からの復興を遂げていない事を物語る。崩れ去ったかつての高層ビルたちが横たわる景色はまるで夢や幻想の景色のようで物悲しく哀愁を誘う。
何故ここに来たのだろうか。判らない。どうしてありすをつれてきたのだろうか。それも判らない。判らないこと、だらけだった。
ありすは何も言わずに奥へ奥へと進んで行く。果ての見えない残骸の森の中へ。暗い闇の中へ。そうして吸い込まれていきそうな小さな彼女の姿を追うのに必死で、俺は何も考えることが出来ないままただ呼吸を荒くしていた。
「ありすね……お姉ちゃんに会ったよ」
突然のありすの言葉に思わず息を呑む。そうして振り返った彼女は傾斜したビルの陰の中、顔を半分覆われていた。
「お姉ちゃんはね。キルシュヴァッサーのパイロットだったの。生徒会に所属していて、ミスリルと戦っていた」
「……ありす、どうしてそれを……」
「……気づかないと思った? ありす、お兄ちゃんたちのことずっと見てたんだよ? それに……これはありすにとっても他人事なんかじゃないから」
瓦礫の上に腰掛けるありす。俺は近づく事も出来ず、仕方なく近くにあった残骸の上に腰を下ろした。
彼女は俺の方を見て居なかった。何故なのかはわからない。推測は出来ても。だから俺はやはり視線を合わせず、静かに息を呑んだ。
夜の闇がスラムを包み込む。月明かりは闇を照らすようで居て、本当は闇をより浮き彫りにするだけで。だから俺たちは沈んで行くようにその悲しい空間の中、互いに孤独だった。
「……姉貴は三年前、この街に来ていたのか」
「うん。お兄ちゃんと同じように、昔の自分の部屋で暮らしてた。そうしてありすたちは一年間一緒の家で暮らしたの。丁度今の、お兄ちゃんみたいに」
「だったらどうして……。何で最初からそれを俺に言わなかったんだ……?」
「知っていて当然だと思ったから。それに悲しい事だから……わざわざぶりかえしたくなかったんだよ。ありすも、お母さんも」
思い返す。初めてこの街に来た俺を迎えてくれた家族の事を。
彼女たちはどうだっただろう。俺はその時恐らく気づいていたのにそれが当たり前だと思って、面倒くさがって避けてしまった。
避けてはならなかったのだ。きっとあの時、俺たちは決定的に擦れ違った。久しぶりに再会した瞬間、悲しいくらい、するりと。
「おかしいと思ったんだよね。お兄ちゃん、どうしてあんなに平気な顔してるのかわからなかったの。でも、今ならわかる……。お兄ちゃんは、何もわかってないんだよ」
「……何も、わかっていない?」
「居たんだよ、あの時。お兄ちゃんも……あそこに」
心臓が高鳴った。
ありすの言葉は俺の心の内側をざわつかせた。『これ以上聞いてはならない』と全身が悲鳴を上げている。
ああ、きっと最初からそうだった。俺はあの日から。ありすと久しぶりに出会った日から。いや、多分もっと前から。知っていたんだ。
「お姉ちゃんが死んじゃった時。お兄ちゃんはそこに居たんだよ」
当たり前のように告げられた事実。
当たり前のように受け入れている自分がいた。
言われてしまえば。認めてしまえば。それは今まで何故忘れていたのかわからないくらい当たり前のように思い出せる。
見つめた自分の両手は血で赤く染まっていた。顔を上げると眩い夕暮れがそこにはあって、ありすの代わりにそこには姉貴が据わって居た。
そんなはずはないから、もちろんそれは幻覚か何かなのだろう。思わず息を呑む。頭がどうにかなりそうだった。
血を流し、死んでいる姉貴。その目の前に座る俺。あの時も丁度そう、きっとこんな風に……馬鹿みたいに座っているだけだった。
深く息を吐き出し、目を閉じる。再び瞼を開いた時には幻想は消え去っていた。ありすは静かに目を細め、それから首を横に振る。
「ありすはね……結局お姉ちゃんを守ってあげる事が出来なかったの。あんなに大好きだったのに……今はもう、顔だってろくに思い出せないのに。でもね、守りたかったの。家族だったんだよ、本当に。だから本当に……嘘なんかじゃない。ありすは秋名お姉ちゃんの事が大好きだった。なのに……。ううん、だからこそ、お兄ちゃんの傍に居たかった。守ってあげたかった」
脳裏を過ぎるありすの笑顔。最初から決まっていた俺たちの関係性。触れ合っているようでそれはとても遠かった。
近くに居るのにお互いに気を使い、お互いに嘘を付き、お互いに忘れようとしていた。それはきっと、俺だけではなくて。
そこにあった思い出や本物の心だって少しずつ消えて行く。忘れ去られていく。薄れてしまう。
壁の染みとか家の空気とか、駆け抜けた夕暮れとか触れ合った指先とか。道端の花や空の色、公園のブランコとか、桜の木の花びらとか。
良かった事さえ嘘にして、永遠をそれでも欲しがったんだ。俺もありすも綾乃さんも、本当の事を隠して。悲しまないようにって。ずっと、平和が続くようにって。
でもそれじゃきっとダメだったんだ。それが今の俺たちの結末を形作る最初の原因だったんだ。俺たちはあの日、出会ったあの日にもう、さんざん言い合って散々悲しむべきだったんだ。
だってそれが自然だったのだから。それが人として当たり前なのだから。そうしなかったのならば、歪んでしまう。当たり前を壊してしまう。作ったその日常は、やっぱり嘘以外の何者でもないのだから。
「今度こそ上手くやれると思ったんだ。何も知らないまま、純粋にお兄ちゃんの心だけ守れると思ってた。でもやっぱりそれは出来なかったんだよ。傷つけあう事もしないくせに、守るなんて……矛盾もいい所だよね」
ありすは立ち上がる。影から出た彼女の姿は月の光を浴びて輝いていた。
眩しいそれに手を伸ばすと、彼女はそっと俺の手を取る。きっと元の彼女ならそこで微笑んでくれたろうけど、今の彼女はぴくりとも笑わなかった。
「逃げちゃダメだったんだよ、やっぱり……。すごく当たり前だけど。すごく悲しいけど……そうだったんだ」
ありすはそう言って座ったままの俺を抱きしめた。俺は黙ってそれを受け入れていた。
自然と頬を涙が伝い、零れて砂に吸い込まれていった。冷たい風が吹いて、どうしようもないカラッポな胸の穴さえ吹き抜けて、身体の熱を奪っていく。
姉貴は死んだ。姉貴は死んだ。姉貴は死んだ。
姉さんはもういない。秋名はもういない。探しても見つからない。どこを、どんなに、どうやって探しても――――もう、見つからない。
会えない。触れられない。話せない。笑ってくれないし慰めてもくれないし、おどけてもくれない。もういないのだ。もう見つからないのだ。もう生きていないのだ。
わかっていた。わかっていた。勿論わかっていた。そんなの当たり前みたいにわかっていた。でも心のどこかでそれを信じたくなかった自分が居たのだと思う。
当たり前のように居なくなった彼女を、当たり前のように受け入れられなかった自分。時々自分でもどうしようもないくらいに感情が高ぶり、彼女の件になると我を忘れてしまうのはきっとそのためだ。
俺はそれを受け入れたくなかった。当たり前になってほしくなかった。本当は違うんだって、どこかで続いているんだって。有限なんかじゃないんだって。信じて居たかったんだ。
でもそれはとても幼稚なことで。迷子になった子供が母親を求めて泣き叫ぶようなもので。だから俺はきっと、ちっとも利口でも大人でもなんでもなかった。
「……死んだ、のか……。秋名……」
呟いた声は震えていた。それがどうしようもなく全身を振るわせる。喚くのではなく、まるで凍りついたかのように心は静かに涙を流し続けた。
「お兄ちゃんは……もう、あの日からおかしかったよね。あの日何かがもう、壊れてしまっていたんだよね。ありすも多分、そうだったんだと思う」
彼女は泣いていなかった。淡々とただ事実だけを伝えるその姿は人形のようであり、そして亡霊のようでもある。
それはきっと俺もそうだったのだろう。頬を伝う涙に触れ、俺は初めて自覚した。自分がずっと嘘を付いていたことを。
「死んだ……。死んだ……んだ。姉貴は……あの人はもう居ないんだ……。居ない……。居ない、のか……?」
「うん。もう、いないんだよ」
「…………俺は……。俺は…………っ」
全身を包み込む想像を絶する虚無感。魂を抜かれたかのように身体がとても重く、まるでいう事を聞こうとしない。
苦しみの中、両手を組んで祈るように俯く俺の隣に座り、ありすはそっと肩を寄せた。
「知ってた? ありすね、もう殆どミスリルなんだって。ミスリルに身体を奪われたらもう、その性質は人間とは異なって、元に戻る方法はない。たとえ何らかの方法で意思が戻っても……何も」
ありすがそっと両手を広げると、風が吹きぬけた。直後、鮮やかな漆黒の結晶が俺たちを囲むように乱立する。吹き抜ける風は黒い結晶の破片を掬い取り、月明かりを反射して鮮やかに輝く。
それは先程メイド服の女が見せたものと同じ。ミスリルとなった以上、その身体は生身でも既に人間とは違いすぎる。ミスリルの力を持ち、人間らしさを失い、けれどもそのどちらでもないありすは、俺の隣でどこか遠くを眺めていた。
「ミスリルを放っておくわけにはいかないでしょ? だから、ありすは結晶機になるんだって。結晶機のね、コアっていうのになって、誰かの思い出の中で生きるんだって。ミスリルはね。人間の思い出を食べないと、生きていけないからって」
「結晶機はじゃあ、人間が……」
「うん。半分ミスリルになった人が、人間と一緒に生きて行くために必要なんだって。そうしなきゃ、生きられないから……」
「……なんだよそれ。ありすには関係ないだろ? ありすが戦う必要なんてないだろ!」
その叫びがどれだけ無意味な物なのか、俺は良くわかっていた。
この世界においてミスリルがどれだけ人にとって有害な存在なのか。どれだけ危険な存在なのか。ありすだけは違うなんてもう言えない。俺は彼女たちが生み出す悲劇を知ってしまった。そしてそれを憎んでしまった。
消し指したいと、この世界から一つ残らず滅ぼしたいと願ってしまった。そうしてしまった以上、それはもうどうにもならない。
結晶機というミスリルと同じ力を持つ存在。そしてそれが人間の手の中にある理由。結晶機が、東京フロンティアを始めとするグランドスラム被害地でしか生み出せない理由……。
少し考えればわかることだった。そうだったらいやだと思って俺は結局それが出来なかった。自分で後回しにしてきた結果がこれだった。
黒いキルシュヴァッサーの影はありすを多い尽くし、月明かりの下に跪くそれはあの時と変わらぬ猛々しい姿のまま、静かに俺を見下ろしていた。
伸ばされた巨大な掌の上に乗ると、ありすは立ち上がった。倒れたビルの中、彼女は月を見上げて翼を広げる。
『こんな姿になって、こんな力を持って……。もう、普通には生きられないよ。それはお兄ちゃんにだってわかるでしょ?』
「……」
『でも、ありすは強制されて結晶機になるんじゃないよ。自分の意思でそうしたいから、そう成るの。お兄ちゃんの事を、守る事にもつながると思うから』
「ありす……」
『せっかく手に入れた力なら、有効に活用したいの。だからお兄ちゃん、泣かなくていいんだよ。お兄ちゃんが悲しんで、悔しがらなくてもいいの』
「馬鹿言うなよ……」
お前はもう悲しむ事も悔しがる事も出来ないじゃないか。涙を流せない妹の為に俺が涙を流す事のどこがいけないっていうんだ。
ありすは掌の上の俺を見下ろしていた。瞳から零れ落ちた黒い雫が涙のように零れ落ちて、俺は歯を食いしばった。
何も出来ないのは俺のほうだ。守れなかったのは俺のほうだ。忘れていたのは俺のほうだ。
「……守るよ、俺。ありすを守るから」
涙を拭い、思い切り笑う。
もう笑えない彼女の代わりに、思い切り笑う。
「お前がどんな姿になっても、どんな風になっても……俺、見捨てないから。忘れないから。だからありす……俺、お前の事守るから」
『……お兄ちゃん』
「関係ねえよ。むしろ守りやすくなったくらいだ。お前が結晶機なら、俺は結晶機乗りだ。関係ねえんだよありす。俺がお前を、守るからさ」
廃墟の中、ありすは小さく『ありがとう』と呟いた。
そうだ。どこにも逃げ場なんてないってわかってた。
だから彼女を背負って走っても、結局は振り返ってしまうから。
もう戻れない事も、後悔しないことも決めていた。俺はもう、決めていたのだから。
仲間を守ると。彼女を守ると。今の自分に出来る精一杯で……守るのだと。
だというのに何故だろう。こんなに悲しいのは。どうしようもなくやりきれない気持ちになるのは。
俺たちは擦れ違ってしまった。あの日あの時あの場所で。どうしようもないその事実だけが、悲しいくらい当たり前に俺たちの前に横たわっていた。
「――――銀」
すっかり夜の闇に包まれた生徒会室の中、足を投げ出してぼんやりと月を眺める銀の姿があった。
業務を終えて最後に帰ろうとする響の呼びかけに銀は視線だけで彼女を捕らえる。ノートパソコンを入れた鞄を片手に響は銀が眺める月を隣で見上げた。
「すごい銀色」
太陽の光を反射して輝く銀色の月。二人の瞳に映りこむその月はいつ如何なる時もそこにある不変の存在。
銀は小さく息を吸い込み微笑む。その柔らかな笑顔に響は目を丸くして、それから真剣な表情で呟いた。
「あのさ、銀ちゃん」
椅子を引き寄せ、銀の隣に腰掛ける響。銀は何も答えないまま、小さく首をかしげた。
「いつか貴方に訊かなきゃいけないと思っていたんだけどね。貴方が何者なのかって事」
「……どういう意味?」
「そのままの意味。キルシュヴァッサーのコアで、香澄君のお姉さんの姿をしてる貴方は当然……そうでしょう? だって結晶機は、ミスリルでも人間でもなく……」
「半分正解、半分不正解かな」
銀の言葉に今度は響が首を傾げる番だった。肩膝を抱えた銀はうっすらと微笑を浮かべ、月の明かりを瞳に宿して語る。
「確かにそう、わたしは桐野秋名と呼ばれる人間を素体にした結晶機。でも、桐野秋名とは全く異なる物だから」
「……全く異なる? じゃあ秋名さんではないということ?」
「そうでもあるし、そうじゃないとも言えるわ」
「最強の結晶機キルシュヴァッサー。その名前を最強知らしめたのは桐野秋名だった。そして彼女は三年前に死に、今同じ姿の貴方がここに居る。出来すぎていると言えば出来すぎているし、不自然だといえば不自然。貴方は一体何を願っているの? 香澄君を、どうするつもりなの?」
当然のような質問に銀は目を丸くした。しばらくそうして驚いた後、彼女は笑った。
「ふふっ」
それは小さな微笑では飽き足らず、肩を震わせ、口元を押える彼女の口から絶えず零れ落ちる。
「ふふふ、ふふふふふ……っ! あははははははっ!!」
奇妙な光景だった。思わず寒気を覚えるようなその冷たい笑顔に響の中にあった懸念は確信へと変わる。
「ええ、そうよ。響の考えている通り。わたしは香澄の願いを体現する存在であると同時に、香澄もわたしの願いを顕現する存在なの。だからわたしたちは一心同体で、永遠なの」
「何を……」
「愛しているの」
胸に手を当て、銀は笑う。身を乗り出し、響の瞳を覗き込み、全てを犯すような暗い金色の瞳で笑う。
それは今まで響が見てきたあらゆる人間とも、ミスリルとも違う。そのどちらでもないような、感じ取る事の出来ない強烈な悪意と善意に思わず息を呑む。
「彼と永遠に一緒に居たい。そして彼もわたしと永遠に一緒に居たい。一緒に居たいだけよ、ただそれだけ。だから私たちはお互いの願いを叶える存在なの。お互いの心を満たす為に存在するの。お互いを愛して、愛されて、愛し愛され続ける為にね」
「……貴方は」
「銀でもなければ桐野秋名でもないわ。私はただの幻想だから。他の何者でもなく、そして何処にも居ない。ただ思う場所に在って、そして無いものだから」
にっこりと微笑み、消えるその姿に響は目を細め風の中に立ち尽くしていた。
勿論、それは分かっていた。銀という存在の不自然さには当然気づいていた。ずっとずっと前から。
それでもそれに手を出さなかった事。そしてそれに触れなかった事。後悔はしていない、きっと彼女はその言葉の通り、誰でもあり誰でもないのだから。
「……どうしたいのかな、私は。判らないな、本当に」
窓辺に立ち、月を見上げる響。その瞳に映りこむ銀色の光は過去の郷愁を誘う。
誰もが同じ月を見上げるそんな夜は、沢山の思い出が同じ過去を振り返り願う。
それぞれの思いが交わる中、世界はゆっくりとその闇を露にするかのように変わっていく。
誰にも気づかれない場所で。誰にも判らない速さで。誰にも届かない言葉で。
その夜が明けた先で、彼らはまた擦れ違う。たとえそう分かっていたとしても、同じ事を繰り返すのだから。
銀色の月の下、銀色の髪の少女は闇に沈む街を一人見下ろしていた。