大嫌いな、お兄ちゃんへ(2)
超展開にもほどがある。
「香澄ちゃん。 話があるんだ」
格納庫内部、キルシュヴァッサーの前に座り込み俯く香澄の姿があった。
その背後に立ち、海斗は強い眼差しで香澄を見下ろす。 そうして隣に座り、キルシュヴァッサーを見上げた。
「ありすちゃんとは、ボクが戦う」
海斗の言葉に顔を上げる香澄。 海斗は迷いの無い瞳で微笑み、それから香澄の手を取った。
「また、ボクを殴ってもいい。 でも、誰かがやらなければならないのなら……。 せめて、香澄ちゃんではなく、ボクの手で終わらせる。 君の大切な人を、君自身の手で奪わせるわけにはいかないから」
香澄は何も言わなかった。 今ならば海斗の気持ちが理解できる。 何故香澄ではなく、海斗がキルシュヴァッサーに乗り戦ったのか。
それは、覚悟の違いだった。 香澄は自らの手でアレクサンドラを、そしてありすを止めることは出来ない。 そう出来ない事は海斗には判りきってた。
「君は優しくて、時々甘いから。 でも、君がやるくらいならボクが代わりにやる。 それで君が自分ではなくボクを憎むなら、それは君を救える事になるよね」
「……お前は。 何でそこまで……」
「君の事が大切だからだよ。 君に憎まれても、恨まれても……それでも君が傷つくよりはいい。 だからありすちゃんはボクが救って見せる。 絶対に」
拳を強く握り締める海斗。 その横顔は以前とはどこかが違っていた。 そう、ただ香澄を救う為だけに代わりになるのではない。 それだけではない覚悟がその目には宿っていた。
「今度こそ約束するよ。 君の代わりにありすちゃんを救うって。 だから――――戻ってきたら、大切な話をしたいんだ。 聞いてくれるかな」
「…………俺は」
「約束はしなくてもいい。 でも、今の香澄ちゃんに聞かせたい話があるんだ。 君の願いと、ボクの願い……そして、彼女の願いの為にも」
眉を潜める香澄。 海斗は立ち上がり、背を向ける。 その華奢な後姿は決して戦いなどには向いていない。 それは本人も、そして誰もが認める事で。
だからそれでも戦おうと、憎しみを背負おうとするその姿は痛々しいほどに何か犠牲にしていた。 それに香澄も気づいていたから。
「……頼む。 俺……ありすとは、戦えないから……。 俺じゃ、ありすを救えないから……。 だから、頼む……ありすを救ってやってくれ」
「――――うん。 そうしたらもう一度やり直そう。 ボクと君と……彼女とで」
海斗の微笑みは香澄の目には写らなかった。 膝を抱え、肩を落とす香澄。 その姿を見下ろしながらキルシュヴァッサーは動き出す。
桐野ありすは東京フロンティア東区、結晶塔周辺のスラム地帯へと輸送されていた。 誰も巻き込まずに戦うにはうってつけであり、そしてそこは全ての始まりでもある。
誰も、何も。 香澄にかける言葉を持たなかった。 そうして祈る事しか出来ない無力な彼を、誰が救えるというのか。
それは恐らく誰でもなく。 故に海斗という少年にもそれは不可能であり。 だからこそ彼はそれを願っていた。
願わくば、その悲しみを振り払えるようにと。 殴られ殴り、そうして気づいた事。 それを守れるようにと。
真夜中の東京の空を半透明なシルエットが舞う。 戦地へ向け、ただ真っ直ぐに飛翔する。
そのコックピットの中、写真を片手に目を細める海斗の姿があった。 それを握り潰し、正面を見据えた。
「過去ではなく、明日を……。 君の為に……!」
⇒大嫌いな、お兄ちゃんへ(2)
東京グランドスラム。
世界各地で勃発したグランドスラム現象。 それは、各国首都を丸ごと飲み込み消滅させる巨大な消滅波。
その代わりにと被害地の中心部には巨大な結晶塔が残される。 それは何者にも破壊できず、何者にも偽れず、ただ世界を見守るようにそこにある。
圧倒的な破壊と共に創造される銀色の輝きを持つ鉱石。 それはぎらぎらと輝き、月明かりを反射して夜の闇さえも切り裂き世界を照らし出す。
結晶塔の周辺は整備されているが、そこから少しでも外れればそこはグランドスラムの被害が生々しく残る残骸地帯。 中心部を重点的に修復、発展させてきた東京フロンティアという大都市の闇の一面が広がっている。
電気は通らず、死体さえ掘り返されず。 それがそこにあるのかどうかさえわからず、終わってしまった世界の記憶が残留する無人地帯。 その人の寄り付かない過去の空間にありすは立っていた。
周辺には照明にて少女を照らし出す軍隊の姿。 無数の光源の先、枝分かれした少女の影はゆらゆらと蠢いている。
「……ありすは、どうしてこんな所に……? うぅ……っ! 思い出せない……。 何も……っ」
頭を抱え、苦悶の表情を浮かべるありす。 その黒い影がまるで剥がされるように立ち上がり、ありすの周囲を取り巻いていく。
漆黒の光が渦巻く中、銃を構えた兵士たちがありすに迫る。 それは海斗も香澄も、チームキルシュヴァッサーは誰も知らない現実だった。
ミスリルに寄生された人間は救えない。 そうなってしまった以上処罰するしかない。 それ以外の方法が見つからない今の世界において、ミスリル寄生者は絶対的な恐怖の対象だった。
グランドスラムという多くの人々の心に傷を残した巨大な災害の末端であり、未だに人々を苦しめ続ける悪夢の手。 大人たちがそれを畏怖し、敵意を抱くのは決して不自然な事ではない。
その為に、人類の為にというのであれば年端もいかぬ少女に銃を向け、引き金を引くことさえ容易い。 数え切れぬ世界という形を成す人々を守る為ならば、一人二人の犠牲は止む無し――。 それが軍隊の考えだった。
「い、痛い……っ!! 何、この感じ……? 沢山の人の憎しみが……!」
頭を抱えるありすに向け同時に銃器が火を噴く。 その嵐のような死の弾幕の中、少女は空に叫んでいた。
それは人と人の間には伝わる事の無い悪意。 相手を憎み、殺したいという感情。 ミスリルに寄生され、周囲の感情を汲み取ったありすはその敵意に反応してしまった。
故にそれから逃れるために、身を守るために、結晶体を召喚したのはごく自然な流れだったと言える。 漆黒の結晶を身に纏い、夜の闇を照り返しては輝く黒いミスリル。 空からふわりを舞い降りて、巨大な鎌を振りかざす。
ありすという宿主を守るために、ミスリルは容赦をしない。 銃を構えていた兵士たちが一瞬で薙ぎ払われ、肉片と血が空に舞い散る。 頭を抱えて苦しむありすを取り込み、ミスリルは瞳を輝かせた。
『どうして貴方たちは人を憎むの……? どうして……嘘を付くの?』
雄叫びを上げるミスリル。 それは鎌を巨大化させ、同時に周囲に漆黒の結晶を生み出していく。
大地から次々と生える結晶は周囲の残骸全てを分解し、拡大していく。 当然展開していた部隊も次々に塵となり、直後結晶となり大地を彩った。
黒銀の嵐の中心地、両手を広げるミスリルは涙を流して月に吼えていた。 何処までも拡大する悲しみは人の心を吸い取り、それを糧に破壊を生み出す。
桐野ありすという感受性の強いデバイスを手に入れたミスリルは、周囲の感情全てを取り込み肥大化していく。 残骸も生き物も取り込み、全てを結晶にして。
その黒い剣山の中を駆け抜ける銀色の影があった。 その姿を認めるよりも早く、ミスリルはその手を振りかざす。
次々と大地から突起する結晶がキルシュヴァッサーを襲う。 それらの猛攻を二つの刀で切り開き、空へと飛び上がるシルエット。 銀と黒の影は月明かりの下、結晶の大地の上でぶつかり合った。
「キルシュヴァルト……ッ!! あの時と同じ――っ!!」
歯を食いしばる海斗は、その黒い機体に見覚えがあった。 いや、その白銀と黒銀の機体を並べて見比べれば誰もが気づくであろう。
キルシュヴァッサーという名を持つ結晶機と、キルシュヴァルトと呼ばれたミスリル。 その二つの形状は異様なほどに似ている。 似すぎていると言えるだろう。
打ち合い、距離を開く二つの機体。 鎌を大地に突き刺し、キルシュヴァルトは蒼い瞳を輝かせる。
『海斗君……? どうしてありすを攻撃するの……? ありすは戦いたくないのに……』
「ありすちゃん! 君が今抱いている憎しみと悲しみは君の物なんかじゃないっ!! ミスリルは人を敏感にしすぎる! それはただ、『世界の悪意』だ!」
『でも、その悪意は……世界は。 ありすも海斗君も、含んでの全てでしょ……?』
「軍はありすちゃんに何をしたんだ……! 憎しみばかり子供に見せるなんて!」
キルシュヴァルトの鎌が襲い掛かる。 二つの刃でそれを受け止め、海斗は結晶の上必死に立ちはだかっていた。
『シュヴァルトが言ってる……。 人間は嘘つきだって……。 本当の事が知りたいって……。 ただ、真実が知りたいだけだって』
「……ミスリルの意思……!? そこまで深く繋がってしまったのか、君はっ!!」
火花を散らす刃。 しかし、海斗は戸惑っていた。 あえて明言するならば、海斗は勝利するつもりが全くなかった。
何らかの方法でありすの心を呼び覚まし、そして香澄の元に返してあげたい。 今の少年の願いはただそれだけだった。
如何に強力なミスリルと言えども海斗とキルシュヴァッサーの前では敗北の色は濃い。 覚醒したばかりの少女のミスリルがそれと対抗できているのは、海斗の手加減のせいである。
キルシュヴァルトを通して伝わってくる悪意と疑念、孤独と苦痛。 それは確かに周囲からの敵意、そしてこの地に眠る何らかの意思の所為でもあるあろう。 しかし、それを体現し力と成しているのはありすに他ならない。
コックピットに居て尚、寒気のようなプレッシャーを感じさせるそのどす黒い存在感は闇のカリスマ。 恐怖と悪意を纏う黒いシルエットは陽炎を帯び、ゆっくりと歩き出す。
その姿が一瞬にして消え去った時、海斗は咄嗟に背後に刀を向けていた。 直後衝撃が襲い、何も無い空間から現れた鎌がぎりぎりと刀を蝕んでいく。
空間跳躍。 闇の中から現れたシルエットは鎌をキルシュヴァッサーに叩き付け、その直後にまた消える。
『シュヴァルトが言ってる……。 その銀色のミスリルは、この世界に居ちゃいけないんだって……。 だから、ありすが壊してあげる』
「連続転送――!? 早……っ!?」
現れては鎌を叩き付け、消える。 そして現れてはまた鎌を叩き付け、消える。
削り、消える、 削り、消える。 削り、消える。 四方八方から繰り出される全く予測不可能な攻撃の嵐に防御する事もままならず、キルシュヴァッサーは翻弄されていく。
『お兄ちゃんを迎えに行かなくちゃ……。 あなたももう、思い出にしてあげる……』
円を描き、キルシュヴァッサーを取り囲むように突起する結晶。 その中心部に封鎖されたキルシュヴァッサーに直上から闇の閃光が降り注ぐ。
鎌を結晶で巨大化させ、大地ごと叩き割る一閃。 それはキルシュヴァッサーに直撃し、結晶の大地を真っ二つにしたように――見えた。
しかし、手ごたえはない。 キルシュヴァッサーはキルシュヴァルトの遥か後方に立っていた。 風に靡くマントを掴み、夜空に投げ捨てて。
対となる刀を投げ捨て、装甲から光を発するキルシュヴァッサー。 それは周囲の黒い結晶を分解し、銀色の風と共に空に舞い上がっていく。
「思い出すんだ、ありすちゃん!! 君は――君はボクみたいになっちゃいけないっ!! 本当に大切な物は、自分の心で判断するんだ!」
マントで覆われていた背中から光が放たれ、夜空を切り裂いていく。 それは大空に結晶の天井を生み出し、銀色のオーロラを夜空に浮かび上がらせる。
一瞬で広がった銀色の波動は周囲の黒い大地を一瞬で白く染め替え、甲高い歌のような音と共にキルシュヴァルトを弾き飛ばす。
「――キルシュヴァッサー! 力を解放するッ!!」
真紅の瞳が輝き、その背中に二つの刃が生まれ出ずる。 それは翼のように闇のに広がり、風の中、周囲から集う結晶を一つに纏め上げていく。
キルシュヴァッサーの前に構築されたのは結晶の剣だった。 長大で美しく、繊細な装飾細工を施されたかのようなその銀の翼を握り締め、夜の闇を駆け抜ける。
『キルシュヴァルトが脅えてる……? 身体が、動かない……』
「君の心を解放する……! 出来るかどうかじゃない! やるんだっ!! ボクがやらなければ……香澄ちゃんが悲しむ事になる!」
銀色の剣を正面に構え、羽ばたく翼。 それは空間転移による残像を無数に生み出しながら、一直線にキルシュヴァルトへ突き進む。
その絶対的な一撃を前に成す術も無く倒れるはずであったキルシュヴァッサー。 その正面に突如現れた何かがその刃を阻んでいた。
空中に浮かび上がった蒼いシルエットの結晶機。 細く、蒼く、そしてスカートのような布を靡かせながら空に舞う機体は片手で結晶剣を受け止めていた。
「桐野君!」
結晶の森の中、ゆっくりと歩く香澄の姿があった。 それを背後から呼び止める響の背後、生徒会の面子が勢ぞろいしている。
銀色の風は吹き荒れ、全ての命と形ある物を砕いていく。 その嵐の中、ゆっくりと振り返り、香澄は目を細めていた。
「それ以上進むのは危険です! 早くこっちに!」
「……でも俺、行かなくちゃ。 今行ってもあの時と同じで俺は何の役にも立たない。 邪魔になるだけだって言うのもわかってる。 それでも行かなくちゃならないんだ」
「その、理由とは何だ?」
「わからない」
迷いを秘めたままの瞳。 そうして眉を潜め、香澄は呟いた。
「それでも行かなくちゃ。 俺は……そうでなきゃ俺は。 今度こそ、自分で責任を取らなくちゃならない。 結末を見届けなくちゃならない。 だから、行くんだ……。 それでどんなに受け入れられない現実が待っていたとしても、それでも俺は……!」
それが、桐野香澄の考えた結論だった。
それが間違いでも。 たとえ無意味でも。 それでも今、やらなければならないこと。
せめて誰かに責任を押し付けるだけではなく、それを見届けるという罪を背負う事。 そうする以外に、この後の未来を見る資格は与えられないから。
他の誰でもなく自分のことなら。 それから目をそらしてはいけないのだと。 誰かに押し付けてはいけないのだと。 そう、わかったから。
「それでも俺はありすを信じてる。 ありすは俺が――。 兄である俺が止めるんだ!! その覚悟なら――もう決めてきた」
背を向け、何も言わずに目を閉じ心の中で小さく呟く『ごめん』という言葉。 たとえそれが仲間に迷惑をかける事になったとしても。 それでも、香澄は立ち止まれなかった。
その選択が果たして正解だったのか不正解だったのか、それは誰にもわからない。 たとえ未来が訪れたとしても、桐野香澄自身にさえ……。
走り去っていくその背中を見送り、仲間たちは黙り込んでいた。 風の中、今はもう見えない嵐の中心を望み、唇を噛み締める。
「……某も行こう。 既にここまでの戦いになると、一騎打ちという話ではあるまい」
「……私……。 私、何も出来ない……。 リーダーなのに……。 私……」
「落ち込むのはまだ早い。 やれることは全てやりつくしてから嘆こう。 そうでなければ言葉は意味をもたないのだから」
響の肩を叩き、後方で待機する不知火に向かって駆けて行く。 そのイゾルデと擦れ違い、小さな影が一つ、嵐の中に駆け込んでいった。
それは一息に跳躍し、遥か彼方へ跳んでいく。 その横顔を確かに確認した佐崎は、口をあんぐりとあけたまま呟いた。
「あれは……銀、なのか?」
「違うな。 俺はただの正義の味方だ」
蒼穹を切り取ったような機体だった。
今まで見たどんな結晶機とも違う。 否――。 結晶機とは、キルシュヴァッサー、エルブルス、ステラデウスのみ開発が許可されている存在。 そのどれにも該当しない存在が在ってはならないのだ。
しかし、今確かに目の前にそれは存在している。 蒼穹の機体から距離を離し、キルシュヴァッサーは結晶剣を向ける。
「貴方は……!? どうして今頃……!?」
「久しぶりだな、海斗。 三年ぶりか?」
「――――今更になって! どうして貴方が此処に居るんだ――ッ!!」
結晶剣を振り下ろすキルシュヴァッサー。 それを片腕で発生させた蒼いフィールドで防ぎ、蒼い機体はキルシュヴァルトを庇うように前に出る。
「彼女を殺すつもりか、海斗! 結晶剣で両断されたミスリルは分解され、キルシュヴァッサーの肉体の一部となる! 思い出を奪い去るつもりか!?」
「なら! 他にありすちゃんを救える方法があるんですか!? 傷つけないで! 今のボクなら結晶剣を使いこなせるっ!! 昔の貴方とは違うんだ!!」
「ミスリルならば浄化するのか! その考え方が人間の勝手なエゴだって何故わからねえ!?」
「貴方の語る夢物語のせいで、秋名ちゃんがどうなったのか……っ!! 貴方はもう忘れたのか!? 人の命を犠牲にしてまで見る夢がそれか!?」
その叫びと同時にその場の全員が気づいた。 三つの結晶機の間、そこに立つ桐野香澄の姿に。
予想だにしていなかった状況に戸惑い、目を見開く香澄。 それを見下ろし停止する時間。 海斗の指も、ありすの瞳も、全てが揺れていた。
「……何の話だよ? 海斗……こいつなのか? こいつが、姉貴を奪ったのか……?」
激しい怒りと憎しみに支配された香澄の心はダイレクトにありすに伝わり、激しい痛みとなって少女を傷つける。 大声で喚きながら頭を抱えるキルシュヴァルトを意に介せず、香澄は拳を握り締める。
「何なンだよ、この世界は……ッ! こんな――ッ!! こんな世界ィッ!! 絶対に間違ってる!!」
頬を伝い結晶の上に零れる涙。 悲しみと怒りと戸惑いと憎悪、およそ人が抱える様々な感情をごちゃ混ぜにしてぶちまけたような声で、大空に叫んだ。
「キルシュヴァッサァァアアアアッ!!」
直後、キルシュヴァッサーは香澄の背後に舞い降りていた。 空間を跳躍し、結晶を砕き、きらきらと輝く光の中、空に舞う涙の中、主の前に跪く。
勝手に開いたコックピット。 海斗の操作を一切無視し伸ばされる掌。 そこに飛び乗り、香澄はコックピットへと乗り込む。
海斗と香澄、二人の視線が交差する。 しかし香澄は既に海斗を見て居なかった。 海斗は無言でコックピットを譲り、大地の上に降り立つ。
そのキルシュヴァッサーの肩の上に立つ銀の姿があった。 その姿は空に浮かび上がると同時に光の粒となって消え去り、コックピットの香澄に降り注ぐ。
全てを銀色に染め上げるその光の粒は香澄の髪と瞳を銀色に変貌させ、コックピットに火を点す。 同時に今までの何倍もの力を解放するキルシュヴァッサーは、周囲の町全てを飲み込むほどの光の風を巻き起こす。
「答えろ……! テメエは姉貴のなんだ!? 秋名の何なんだっ!?」
「……アルベドの弟か! 成る程、キルシュヴァッサーはお前を選んだんだな……!」
「テメエェエエエッ!! シカトしてんじゃねえぞ、馬鹿野郎があっ!!」
何も武器を手にしない特攻。 蒼い障壁でそれを阻むものの、拳はそれを貫通し蒼い機体を殴り飛ばす。
その衝撃は一撃で機体を遥か彼方まで弾き飛ばし、残骸も結晶も砕き、一本の道を生み出した。 敵を叩きのめす強すぎる力――。 しかしそれでも香澄は――キルシュヴァッサーは満足していなかった。
あえて言おう。 それは暴走であったと。 既に香澄は正常な思考が不可能な状態にあった。 高ぶり暴走するその感情は唯一無二の目的――姉の敵討ちという言葉の前に全てを無意味にする。
倒れるキルシュヴァルトを見下ろす真紅の瞳。 そのコックピットの向こう側、ありすは感じていた。 自分の兄が冷たい笑顔を浮かべているという悲しい現実を――。
「ミスリルは殺す……。 結晶機は全部壊す……。 結晶塔は砕いて散らすッ!! この世界に居ちゃいけねえんだよ、お前たちみたいな化け物はあ――ッ!!」
『お、お兄ちゃん……』
「全部壊す……ふ、ふはははっ!! 皆殺しにしてやるっ!! 一匹残らずこの地球から浄化してやるんだよォッ!! この俺があ――――ッ!!!!」
その瞳にありすは既に映っていなかった。 そして悲しくも矛盾した事実――。 心を失いかけ、壊れそうになる兄の姿を目にし、ありすは両目からぼろぼろと涙を零していた。
取り戻したのだ。 自分の為ではなく、世界の為ではなく。 目の前の兄のために、本当の自分を。
ミスリルの呪縛から解き放たれ、手を伸ばすありす。 黒い指先はしかし届かない。 キルシュヴァッサーは翼を広げ、銀色の手をキルシュヴァルトに伸ばす。
「……いけない! 香澄ちゃん、それは――! それはやっちゃいけないっ!!」
キルシュヴァッサーの掌に浮かび上がる真紅の紋様はぎらぎらと輝き、周囲の結晶を吸い込んでいく。 それは様々な人々の思いの欠片。 今はこの世界に存在しない命の記憶。
そして目の前のミスリルに取り込まれた少女の。 桐野ありすという少女の記憶と心に他ならなかった。 ミスリルは、結晶機は、他人の過去と想いを食らい、成長の糧とする。
それは、強くなるために。 他人を理解するために。 傷つけるために。 ありすの思いは光と共にキルシュヴァッサーに奪われ、全ての記憶が白紙になっていく。
何もかも判らなくなる光の中、ありすはただ目を見開き、涙を流して思い返していた。 悲鳴はあがらない。 痛みは無い。 ただ全てが失われていく悲しい感覚の中、目を細め、ふと微笑む。
――献身。 それ以外の言葉は見当たらなかった。 ただ、自分の思いを全てそこに込め、兄を救おうとしていたのだ。 自らの優しさと愛情の全てを奪わせ、そしてそれをキルシュヴァッサーの餌とすることで。 その怒りと絶望の渦の中に飲み込まれ我を見失った兄、香澄を救い出す為に。
脳裏を駆け巡る沢山の思い出。 一日一日を一生懸命に生きて、一生懸命に誰かを愛した記憶たち。 それは少女の心の中を埋め尽くし、そして白く溶けていく。
夕暮れの中、照れくさそうに笑っていた兄の姿。 そして寂しげに笑っていた姉の姿。 何よりも、自分に微笑みかけていた父親の姿。
それら全て、大切な物がカラッポになって。 キルシュヴァルトは消えていった。 その心の全てを食らい尽くされ、キルシュヴァッサーの前に敗北したのである。
「ありす?」
正気に戻った香澄が感じたのは、自分自身が奪ってしまった妹の記憶。
暖かい思い。 必要とされていた。 愛されていた。 守られていた。
それを奪い去り、全て食らいつくしてしまってようやく気づいたその幸福。 それを齎してくれた少女は瓦礫の上で涙を流したまま安らかな表情で眠っていた。
「……ありす?」
震える声でその名前を呼んでも少女は目覚めない。 全てを奪いつくした感触だけが、ただ心の中に輝いている。
そう、奪ってしまった。 目の前で、自らの手で。 もう取り返しのつかない愛情を。 自分に向けられていた救いたいという願いを。
自らの身を犠牲にして、ありすは心を失った。 その事実は余りにも重く、容易に受け止めることは出来なかった。
両手で頭を抱え、膝を着くキルシュヴァッサー。 そのコックピットの中、香澄はただその名前を呟く。
「ありす――――?」
壊れてしまった、蓄音機のように。
言葉にならない思いと後悔が瞳から雫となって零れ落ちた時、桐野香澄の物語が始まりを告げた。