その命、重さは如何に(3)
「お兄ちゃん、平気……? 響さんに何か言われなかった?」
帰宅した香澄をばたばたと出迎えてくれたありすは心配そうにそう訊ねた。
実際香澄の表情は優れない。 迷いを何一つ振り切れないままなのだからそれは当然だろう。 静かに微笑み、それからありすの頭を撫でるその姿はとても余裕がないように見えた。
「大丈夫だ。 それより……ごめんな。 最近素っ気無くて」
「え? あ、うん……いいよ。 お兄ちゃんが大変なの、ありすもわかってるから……」
香澄の心が大きく揺れたあの雨の日。 港にはありすの姿もあった。
軍の手によって封鎖されるよりも早く、誰よりも早く現場に駆けつけていたありす。 そこで彼女は一部始終を見てしまった。
空を舞う銀色のシルエット。 火を噴く倉庫。 人々の叫び。 戦闘行為という非現実的過ぎる人と人とのやり取り。
そして兄は叫び、涙を流し、そして友を拒絶した。 その一部始終を、ありすは目撃してしまった。 まさかそれほどまでの出来事だとは予想出来ずに。
雨の中、アレクサンドラを抱き涙を流す香澄の姿は今まで見ていたどんな兄の姿とも違っていた。 まるで別人のようなその打ちひしがれた小さな背中に、言葉に出来ない苦しさを覚えた。
それからずっと、ありすは香澄と距離を置いて過ごしてきた。 今までが近すぎただけなのかも知れない。 それでも今は、打ちひしがれる兄の心に容赦なく踏み入るような無粋な真似はしたくなかった。
自分の知らなかった沢山の事が、香澄を苦しめている。 それを理解する為に出来るどんな事が、今ありすにあるというのか。
初めて出会った日からずっと、香澄は壊れてしまいそうだった。 薇の外れたブリキの玩具のように。 コンセントが抜けてしまったゲーム機のように。 何かがすっぽりと抜けていて、当たり前なくらいそれが抜けていて。 だから、わからない。
何を見るにも悲しげな、そしてその悲しみをすでに受け入れてしまった眼差し。 それを見た時、ありすの心に沸きあがった思いは悲しみと怒りだった。
生きる幸せを投げ捨てているかのような香澄のその目は哀れであり、そして何より無責任だった。 だからこそ、それを認められなかった。
桐野ありすという十三歳の少女は、兄である香澄を取り巻く環境を理解していた。 自分たちのせいでそうしてしまったという事も、十分理解している。 だからこそ、家族として。 だからこそ、守りたかった。 救いたかった。 十三歳の少女の胸の内に芽生えたその感情は、しかし現実という重さの前に役立たずで。
途方もない悲しみや苦痛、思い出したくない過去。 そして今世界を取り巻く訳の判らない何か大きく渦巻く目には見えないそれに纏わり着かれ、疲れたように笑う香澄にしてあげられる事など何もなかった。
「ありがとう、ありす。 そういえば僕は……ありすを怒らせてしまったままだったね。 銀の面倒も押し付けたままで……。 本当に申し訳ない」
「あー。 あの子えらいおとなしいから全然オッケーだよ。 それにもう、怒ってないし……。 どんな事してても、何が秘密でも……ありす、お兄ちゃんの妹だよね。 お兄ちゃんを助けてあげるのは、当たり前だもんね」
「……どうして、そう言えるんだ? そんな当たり前みたいに……」
「だって、信じてるから。 お兄ちゃんの事……信じてるから」
それはせめてもの気持ちだった。
信じている……そう、信じていると。 何があっても受け入れると。 それは小さな少女なりに固めた決意の表れだった。
見上げる弱弱しい瞳はいくら強がっていても繊細な心の現れに過ぎない。 香澄という少年が沢山の悲しみを背負って正直に生きようとしている事を、ありすは十分理解していた。
だからこそ信じる。 その行動が仮に間違っていたとしても……それでも信じる。 無償の愛という物があるとしたら、それはきっと、香澄にとっては……。
「ありすしか、いないでしょ? だから、信じてる。 他の人が誰もお兄ちゃんを信じなくても……間違ってるって言っても。 ありすはお兄ちゃんの味方だよ」
人は善悪や主観的な感情により下される判断で、他人を傷つけ否定する事がある。
それは当然の事だ。 自らのアイデンティティを捩じ曲げるような行動を取ることは出来ない。 自分が是だと思うものを、わざわざ他人の為に否とは出来ない。 だからその他人を否定する。 それが他人同士の付き合いだ。
その感情を越えた先にある友情や愛情は、理由に属するものに過ぎない。 趣味趣向が同じ、己の是と相手の是が同じ――。 あるいは、己の何かを捩じ曲げるだけの価値が相手にあるかどうか。
だが、ありすの言うその愛は違っていた。 家族という超限定下における絶対的信頼。 絶対的愛情。 罪を犯したとて、はいそうですかと、それを認められない無償の思いが真っ直ぐに香澄を見上げていた。
「だからって、お兄ちゃんに信じてほしいなんて言わない。 でも、信じさせて見せるよ。 だって家族だもん。 たった一人のお兄ちゃんだもん。 その為に頑張る。 だからそんなに悲しい顔しないで」
「……そっか。 そう、だよな……」
穏やかに微笑み、ありすの頭を撫でる香澄。 ありすが香澄に向ける思いは。 香澄が秋名に向けていた思いと、何が違うというのか。
同じだ。 同じなのである。 香澄はその気持ちを知っている。 そして、何も言わず苦しみを抱える人を見ている事しか出来ない苦しみも……知っているのだ。
香澄が秋名を信じる理由はどこにあっただろう。 それは曖昧な部分、人と人との触れ合いの狭間を彷徨っていた。 触れることも理解する事も出来ない、根本的な信頼、そして愛情。
そこに理由はなかった。 間違いでもよかった。 それでも傍に居たかった。 救いたかった。 ただそれだけだった。 意味も理由も善悪も無く。
だからこそ、それを信じなければ何を信じると言うのだろう。 そっとその場に膝を着き、両手でありすを抱きしめた。
「ありがとな、ありす」
「…………少し、楽になった?」
「ああ。 大分マシになったよ。 ありすのお陰だな」
香澄の背中に腕を回し、目を閉じるありす。 香澄の脳裏を様々な思い出が通り過ぎていく。
涙を流し、信じると言った響の姿。 この都会の中、自分を暖かく迎えてくれた家族。
馬鹿馬鹿しいと思っていた日常の中、きらきら輝いて手放せない物。 皆で成功させた学園祭。 傷だらけの手を触れ合わせた記憶。 友達を殴りつけた拳の熱さ。
その現実を信じられるだろうか。 その世界と向き合えるだろうか。 傷つくことを承知で、裏切られる事を承知で、そしていずれは自分もそう、裏切り傷つける立場になるかも知れないという事を承知して。
「信じるよ、ありすの事……。 思い出したんだ。 僕が……そうやって何かを信じていた時の事」
「もし、それで……お兄ちゃんが失ってしまった物があって、まだそれに囚われているなら……。 同じ事を繰り返さないように、今度はお兄ちゃんもありすを信じていなくならなければいいんだよ。 新しい可能性はきっとすぐ近くにあるから。 お兄ちゃんなら大丈夫、それに気づいていけるよ」
「まるで考えている事がわかるみたいだな」
「当然でしょ? だってありすは、ありすなんだから」
にっこりと微笑み、それから腕を放す二人。 立ち上がった香澄の表情は先程よりも幾分か晴れているように見えた。
それが何よりも嬉しい。 そう、自分が誰かに必要とされているという事……そしてその相手を救えるという事が。 小さな少女にとってこれ以上ない幸福だった。
⇒その命、重さは如何に(3)
「……うぅ、今冷静に考えるとかなーり恥ずかしいなぁ……」
生徒会室、一人でノートパソコンを操作する響の姿があった。
時刻は夕暮れ時。 あれから微妙に集まりの悪くなってしまった生徒会メンバーはまだやってこない。 これといった事件も起きておらず、響は心置きなく自分の時間を満喫する事が出来る。
頬杖をつき、画面を眺める響。 フェリックス機関の離反に纏わる一連の事件に納得が行っていないのは彼女も同じであった。
結論から言えば、フェリックス機関にはまんまと逃げ出されてしまったのである。 国外逃亡に成功した研究員は今も指名手配中ではあるものの、未だに捕まる気配は微塵も感じられない。
ロシア本国はフェリックス機関の解体を宣言したものの、肝心の研究員たちの行方が知れないのでは仕方がない。 チームエルブルスは解体され、大破したエルブルスは海中から引き上げられ、処分を待つ状態にある。
大まかな流れはシンプルだ。 研究員たちは軍艦一隻とエルブルスを囮に使い、港を艦隊が包囲している間に全く関係のない陸路から東京フロンティアを後にしたのである。 その後あらかじめ容易していたと思われる船で国外へと逃亡した。
研究成果そのものであるエルブルスを囮に使うとはその場の誰も想定していなかった、というのが大きな理由であろう。 わざわざ誘拐してまで連れ戻したエルブルスのパイロット。 当然それは彼らの財産のはずだったのだが。
結果、すっぱりと斬り捨てられたエルブルスとオートパイロットの軍艦一隻に完全に出し抜かれ、各関係者は派手に遅れを取る事になった。
被害と呼べる被害は殆ど無く、港が破壊された程度の犠牲で済んだとは言え、肝心のエルブルスは大破しパイロットも生死不明。 何よりもそうなった経緯というのが納得がいかない。
「……協力者が居た筈」
そう、研究者メンバーはとっくに東京フロンティアから逃げ出す準備を整えていた。 そもそも誰がアレクサンドラを誘拐し、何故それに気づけなかったのか。
いくらアレクサンドラの警戒が薄くなっているとは言え、元世界機密の中心に居たパイロットが容易に誘拐されるはずはない。 事実当日も病室の前には二名の武装兵が警護についていたのだが、その二名は無残に引き裂かれた状態で発見されることとなった。
ずたずたに切り裂かれた死体。 それを誰がどうやったのか、というのがまず疑問である。 研究者が、それも監視下にある彼らがそれを白昼堂々やってのけたのか。
そもそも監視下にあったはずの研究者がなぜすっぽりと逃亡できたのか。 判らない部分は非常に多い。 誰か協力者が居たと考えるのが一番手っ取り早いと響は考えていた。
だが、世界全てを敵に回すようなこの愚行にどんな意味があるのか。 それに早く気づけなければ、何か恐ろしい事になるような予感があった。 世界は蠢く無数の意思の上に成立する迷宮。 自分の知らない出入り口が存在し、知らないうちに参加者が増えていたとしてもおかしくはないのだから。
「…………国連は知っていたのかな。 エルブルスの危険性……フェリックス機関の行動を」
そう考えれば貴重な結晶機を取り壊す決断が早かったのも、即座にチーム解散が言い渡されたのも納得できる。
所詮響はチームリーダーとは言え末端。 たかが開発チームのうちの一つのリーダーに過ぎない。 訳の判らない沢山の思惑の前で、少女に出来る事等限られている。
「それはともかく……やっぱり待ち人は来ず、か……」
パソコンを閉じ、窓の向こうを眺める。 昨晩、勢いに任せて桐野家に突撃してしまったものの、その後の流れはとても思い返したくないものだった。
「は、はずかし……。 でもなんか……ほっとけないんだよね……桐野君って」
「その気持ちは某も判るぞ」
「うん……うんっ!? イゾルデ、いつからそこに?」
「ふむ……。 恥じらいながら身悶えて顔を赤くする辺りからだが」
「そんな事してないもん!?」
「フフ、冗談だ。 それで、結局香澄は戻らず、か……」
腰に手を当て、壁を背にするイゾルデ。 窓の向こうでは部活動に勤しむ生徒たちの声が聞こえてくる。
机の上で触れ合わせる両手の指先。 絡み合っては離れるそれは響の不安と苛立ちを象徴するかのうだった。 やり場の無いその感情に、思わず小さく呟いた。
「……私は、間違っているのかな」
「成否を問うのは確かに簡単だが……しかし、良くない事もある。 何故ならそれは自分の行動の限界を決め付ける言葉だからだ。 成否よりも従うべきは感情だろう」
「でも、後悔する事になるならいっそ……」
「それは甘えだ。 後悔などしない人間は居ない。 どんな手段を取ったとしても何れは後悔という土の味を知る事になる。 ならばせめて思うままに生きるべきだ。 そこに成否という理屈を持ち込むだけ野暮というものだろう。 子供なのだ、某も貴様も。 ならば子供らしくすべきだろう」
「誰かに責任を押し付ける何て……」
「今現実に響はそうしているではないか。 どんな言葉を某に望んでいる? そしてそれをどうするつもりだ」
溜息混じりに笑ったイゾルデの言葉にはっとする。 額に手を当て、そっと視線をそらして響は口元をゆがめた。
「本当だね……。 嫌になるなぁ、もう。 ありがとうイゾルデ……少し吹っ切れた」
「ふむ。 どこへ行く?」
立ち上がった響は立ち止まり、胸に手を当て振り返る。 その表情はイゾルデが部屋に入ってくる前よりも随分と晴れたように見えた。
「もう一度、桐野君を説得に行こうと思って。 ここで私がこうしていても、事態は好転しない――そうでしょ?」
「……ああ。 どれ、今度は某も付き合おう。 香澄の家は――」
イゾルデの視線が入り口を捉える。 その扉を久しぶりに開け放ち、姿を現した桐野香澄を。
振り返った響の目の前に立ち止まり、胸ポケットから取り出した生徒会手帳。 眼鏡を中指で押し上げて、視線を反らして言う。
「……第三共同学園生徒会副会長、桐野香澄です。 生徒会長の要請により出勤致しました」
目を丸くする響。 その照れくさそうに呟く香澄の姿が無性に笑えるから。 にっこりと微笑んで、掌を額につけて。
「ご苦労様です、桐野香澄君。 おかえりなさい」
「……た、ただいま」
頬を赤く染めながら笑う香澄。 その姿に思わず涙腺を刺激され、嬉しいはずなのに目に涙を溜める響。 慌てる香澄の背中を強く叩き、イゾルデが肩を組む。
「全く、放っておけん男だな……桐野香澄」
「うるさいな……。 そういうお前はまるで心配していたようには見えないぞ」
「当然だ。 お前がその程度で挫折するなど某は全く考えていなかったからな」
当然のように語り、片目を閉じて笑うイゾルデ。 静かに息を吐き、言葉には出さずにありがとうと言った。 それは当然、イゾルデにも伝わっていた。
三人がそうして再会を喜んでいると、香澄に続き海斗、木田、佐崎が同時に姿を現した。 その真ん中に立っていた海斗は目を丸くし、それから真剣な様子で香澄を見つめる。
「うおーい! 香澄んひっさしぶ……おごぉっ!?」
「シリアスシーンに入るな馬鹿……」
香澄を見つけるなり飛びつこうとする木田を空中でイゾルデが叩き落す。 そして佐崎が屍をずるずると引きずっていくと、結果的に二人が見詰め合う形になる。
自然と周囲の人間は背後に下がり、二人の空間を演出する。 にらみ合いにも等しい時間が流れ、沈黙を切り裂いたのは海斗の声だった。
「ごめん、香澄ちゃん……ボク――、」
「僕を殴れ、海斗」
海斗の言葉を遮り、眼鏡を外して鞄を投げる香澄。 完全に不意を疲れた海斗は目を丸くして首を傾げる。
「何ボサっとしてんだ。 僕の……いや、俺の命令が聞けないのかよ。 泣き虫海斗」
ネクタイを緩め、海斗の目の前に立つ香澄。 鋭い眼差しで見下ろすその姿は迫力満点であり――いつかのその姿によく似ていた。
「な、何でボクが香澄ちゃんを殴るの……? 全然意味がわかんないよ?」
「お前にいつ考える権利をくれてやった? 文句を言う権利をくれてやった? 俺は桐野香澄様だぞ! 泣き虫海斗がつべこべ言ってんじゃねえっ!! てめえは俺の言う事聞いてヘコヘコしてりゃいいんだよっ!」
「か、香澄ちゃん……」
「てめえに心配される? この俺がか? 守られる? 舐めんじゃねえよ。 俺を誰だと思ってやがる? 逆だろうが、逆っ!!」
海斗の胸倉を掴み上げ、昔通りの笑顔で。
「直ぐ追い抜いて、お前を守ってやるよ。 文句一つ言えないくらい完璧に負かせてやる。 だから今は俺を殴れ。 弱くて力のない俺を、殴れ」
小さな海斗を床の上に下ろし、香澄は構える。 動揺……当然の事だろう。 だがしかし、それだけで海斗に伝わった物もあった。
それは本当の二人を知る二人だからこそ伝わりあう物。 そう、その在り方は……奢りでも慈悲でも虚勢でもなく。 そう、在る様にと二人が願ったスタイルだった。
海斗は泣き虫なのであって弱虫ではない。 香澄は冷静なのであって冷たくはない。 本当は強い想いを秘める海斗と、だからこそそれを認める香澄。 ずっと昔から二人の間にあった無言の対等な関係。 それこそが二人の願いだった。
泣き虫が涙を流すのは、友達が傷つくから。 ガキ大将が拳を振るうのは、友達が傷つくから。 その本質は何も変わらない。 だからこそ対等で、それは一見歪んでいるようにさえ見える。
だがそこにあるものが真実であり絶対なのだと信じている二人が居る限りそれは揺るがない。 無用な気遣いや距離の取り方、遠回りな言葉など必要ない。
「――――うん。 判ってると思うけど、香澄ちゃん」
小さく微笑み、それから拳を握り締める。
「ボクはね。 傷つけあうのが嫌いなだけで――――。 君に負けないくらい、強いんだよ」
拳を振るう海斗も、それを受ける香澄も笑っていた。
衝撃は強く、背後に吹き飛ばされそうになる。 それでも香澄は足を踏ん張り、打たれた頬を押えもせず、血を吐き出して余裕の表情を見せた。
「まるで効かないな」
「……馬鹿だな香澄ちゃん。 下手すぎるウソだよ。 だって殴ったボクの手がこんなに痛いのに……君が痛くないわけないじゃないか」
「勝手に決めつけんじゃねえ。 とにかく借りは返した。 後は俺の勝手だ」
「うん。 勝手だね」
互いに笑いあう無邪気な姿にその場に居た誰もが首をかしげた。 特に響はそれが全く理解できず、おろおろとうろたえていた。
「ね、ねえ……あれ、何? 何で殴ってにこにこなの?」
「時には言葉より態度の方が想いを伝える事もある……そういうことさ」
「イゾルデ曰く、大和魂ってやつ? まー俺もそういうの嫌いってわけじゃねえよ。 むしろわりかし好きかも」
「う、うー……? 何だか良くわかんないけど、喧嘩じゃないよね? 喧嘩してるんじゃないんだよね?」
「響さん」 「冬風」
「は、はいいっ!?」
振り返ると二人は同時に響の肩を叩き、お互いの声が聞こえないくらい小さな声で、そしてそれが響に聞こえるくらい耳元で囁いた。
「ありがとね」 「サンキュー」
背筋を震わせる冬風を置き去りに二人は通り過ぎる。 それからまるで何事も無かったかのようにテーブルに着き、海斗はコーヒーを淹れ、香澄は打たれた頬を撫でていた。
へなへなとその場に膝を着き、顔を赤くしながら首を傾げる響。 わけがわからなくなり救いを求めるようにイゾルデを見上げると、イゾルデは無造作にぐりぐりと響の頭を撫でた。
「まあ、めでたしという事ではないか?」
「……そう、なの? そうなの、かなぁ……。 はああぁぁ……。 男の子の友情ってわかんないなぁぁぁぁ……」
「とりあえず、手当てしてやったらどうだ? 思いっきり打たれていたからな……」
「え? あ、そっか! 桐野君! ちょっとっ!!」
慌てて駆けて行く響を見送り、イゾルデは小さく溜息を着いた。
「不器用な面子だな、全く」
「ちょっと、銀ーっ!! どこ行ったのよ、もうーっ!!」
第三共同学園生徒会が団結を深めている頃。 夕暮れの日差しの中、モノレールのターミナル前で声をあげるありすの姿があった。
香澄が生徒会に復帰する事は既にわかっていたありすは、今日は何か豪勢な夕飯にしようとこれから買い物に行く途中なのだが、一緒に連れてきたはずの銀が見当たらない。
「もー……。 すーぐ居なくなるんだから。 テレポーテーションでも出来るんじゃないの、あの子……」
当たらずとも遠からずな愚痴を吐きながら携帯電話のディスプレイを確認する。 既に十分程こうして探している。 頬を掻き、それから再び歩き出した。
「お兄ちゃんも何で今日に限って銀を連れ帰れとか言うかなぁ……。 まあ、けじめをつけるのに一人が良かったんだろうけど……。 って、居たあっ!!」
ありすが銀の姿を認めた瞬間、同時にありすは気づいた。 銀は一人ではなかった。 傍らに立つライダースーツの男に何やら一方的に話しかけられていたのだ。
真紅の髪を靡かせるその男は一言三言銀に語りかけ、それから踵を返して立ち去った。 怪訝に思いながら駆け寄り、銀の手を取るありす。
「もう、勝手に居なくなっちゃだめでしょ? 何か変なことされなかった? 平気?」
屈んで銀の頬た頭などに触れ異常がないか確認するありす。 その時めったに動く事が無い――ありすに至っては動いているのを一度も見た事が無い唇が静かに言葉を紡いだ。
「…………あ……る……べ……ど……」
「うわ、喋った!? え、何々? もっかいいってよ〜」
「……アルベドが……呼んでる」
今度ははっきりと聞こえた。 その意味不明な言葉に首を傾げるありす。 そんなありすの上に影が差したのは、その背後に誰かが立っていたから。
怪訝な表情のまま振り返るありす。 そこに居たのは見覚えのない少年だった。 どこにでもいそうな、ごく普通の。
「……見つけたと思ったら、妹さんの方だったか。 はじめまして、桐野ありすさん」
あんた誰? そう言葉を口にするよりも早く、伸ばされた少年の手がありすの頭を掴み上げる。 ありすの手にしていた携帯電話がアスファルトの上に音を立てて落ち、少年の口元が歪む。
片手で、ありすと変わらないような小さな体躯で、常人離れした少年。 その背後、うっすらと浮かび上がる異形の影に目を見開くありす。
だが、悲鳴を上げる事は出来なかった。 恐怖と驚きに駆られながら、それでもありすが口にした言葉は。
「……銀に、この子に手を出さないで……っ!」
自分を守る言葉ではなく、兄が大切にした少女を守るためのものだった。
「……当然です。 彼女を傷つけるなど、万死に値する――。 大丈夫、すぐに終わるから」
心の中で呟く兄の名前。 アスファルトの上、着信音の変わりに揺れる携帯電話に、その名前が映し出されていた事を少女は知らないままで――。