その命、重さは如何に(1)
「お兄ちゃんのバカ……! いつまで経ってもあんなんなんだから……」
蹴り飛ばした小石は音を立てて小さく弧を描き道端に転がっていく。
追いかけてくるだろうと思っていた兄が慌てて家を飛び出し、事情を飲み込めていない母が目を丸くしながらビールを飲んでいる姿になんともいえない苛立ちを覚えたありすは、結局兄同様家を飛び出していた。
スカートをひらひらと揺らしながら小石をけり始めたのが家を出て直ぐの場所。 それからずっと歩きながら小石を蹴っていた。
どれくらい長い間そうして町を歩き回ったのか判らなくなる頃、ふと足を止めて溜息をついた。
「放課後にたびたび出かけて傷だらけで帰って来る……。 最初は全然乗り気じゃなかった生徒会に今は毎日のように顔を出してる。 それって何か変なことがあったってことなんじゃないの……? 状況が変わっちゃったんでしょ、お兄ちゃん……。 そうでなかったら、お兄ちゃんがあんなに簡単に人に心を開くわけないんだし……」
ありすと行動を共にしていた合宿期間中、さらに学園祭の出撃を含め、生徒会の不審な点はありすの目についていた。
どんなに隠そうとしたところでありすとて子供ではない。 小さな身体で年端も行かぬ少女だとしても、真実を見抜く力には関係の無いことだった。
誰よりも兄を心配し、兄を思う余り彼女は気づいてしまった。 生徒会という異質な繋がりの向こう側に見え隠れする、兄が必死で隠し通したいと願う何かに。
それが危険な事であり、兄にとって大切な事であると判ってしまった。 勿論子供心にやきもちで銀を認められないという事もある。 だが、ありすは本能的に銀から何かを感じ取っていた。
銀だけではない。 生徒会にこのまま兄が関わり続ければ、何か良くないことになる――。 そんな予感があった。 確実な胸騒ぎはありすを苛立たせ、それに応えてくれない兄の態度にやきもきするのは仕方の無い事だったとも言えるだろう。
理解を示すつもりはある。 兄が本当にやりたいと思う事ならば、それは大切な事なのだから。
「でもね、お兄ちゃん……。 お兄ちゃんは、知ってるの……? 秋名お姉ちゃんが、消えてしまった訳を――」
呟いた言葉は誰の耳にも届かない。 人通りの多いその世界の中に居るというのに、何故か恐ろしく一人ぼっち。
そんな世界の中、思う事はいつも決まっている。 どうか願わくば、彼を世界の闇が飲み込んでしまわぬようにと。
「どうして頼ってくれないのかな……。 信じてくれないのかな。 ありす、どうしたら良いのかな……お姉ちゃん」
空はいつの間にか曇っていた。 いずれは雨を降らし、町を静寂の音で染め上げるだろう。
そんな時、遠くから爆発音が聞こえた。 誰もが驚き振り返る視線の先、炊き上がる黒煙を見上げありすは頭を振って走り出す。
知らないままで居るわけにはいかないのだ。 それが仮にどんなに危険な事だったとしても、それでも救い出したい人がいるから。
「守ってあげなきゃ……! ありすが、お姉ちゃんの変わりに……お兄ちゃんを!」
爆炎の吹き上がる方へ。 走り出した小さな身体は止まる事を知らず、戦渦の中に飛び込んでいく。
それが大きく世界の運命をゆがめる原因になるとも知らずに。
⇒その命、重さは如何に(1)
「で、結局またここか……!」
新東京港を望む対岸に停車したバイクから飛び降り、香澄は港を睨む。
既に戦闘は始まっているのが、轟音と地響きが鳴り響いている。 慌てて駆け出し、モノレールの昇降口に駆け込む香澄の脳裏、つい先程のやり取りが未だに木霊していた。
キルシュヴァッサーを使って出撃するのは当然の事、香澄には明確な目的があった。 突然国連組織から齎されたフェリックス機関の居場所と目的を聞けば、それは当然の流れだったと言える。
フェリックス機関は港から軍艦を使い出航し、エルブルスを本国まで持ち帰ろうとしたのである。 当然エルブルス単体で持ち帰っても意味はなく、そこにはアレクサンドラの存在が必要とされる。
それはつまり、再びアレクサンドラがエルブルスに乗るという事――それも、本人が望まずしてという最悪の事態を意味していた。 様々な問題は兎も角、香澄にはそれが我慢ならなかった。
結晶機という最重要機密が取った逸脱した行為にそれぞれの組織も当然動く。 その結果、アレクサンドラも何らかの処罰を受けるのでは無いかというのが香澄の心配事だった。 それ以前にアレクサンドラがまたエルブルスに乗せられるのであれば、安否さえも保障出来ない。
何しろ既に廃棄が決定している結晶機なのだ。 機密保持のためにも破壊してしまえば一石二鳥となる。 その時パイロットの生死を保障してくれるのかどうかは怪しいところである。
それを阻止する為には香澄がキルシュヴァッサーで自らこの事態を鎮圧するしかない。 そう考えていただけに、チームの下した決断には納得の行かないものがあった。
「俺をキルシュヴァッサーに乗せないっていうのはどういうことだ!?」
キルシュヴァッサー並びに不知火は既に出撃準備に取り掛かっていた。 だがその装備やセッティングは海斗用の物であり、香澄が乗る様子は微塵もない。
本当はわかっている。 香澄とて自分が謹慎状態にあることは自覚している。 それでもこの非常事態に自分が手を出したいというのは当然の要望だった。
「桐野君は今回もバックアップ担当です。 エルブルスは海斗とイゾルデに任せましょう」
「何でだ!? アレクサンドラが殺されちまったらどうするつもりなんだよ!」
「だからこそだよ、香澄ちゃん……」
制服の上着を脱ぎながら振り返る海斗は悲しげに香澄を見つめる。
「香澄ちゃんの言いたい事、判るよ……。 でも、エルブルスをどうしても止めなきゃならないっていうのもわかるよね? だけど今の香澄ちゃんは……エルブルスを止められるの?」
「……それはっ」
そう、香澄は以前模擬戦でエルブルスとぶつかった時、一度敗北しかけているのだ。
その後自らの手でエルブルスを破壊し、アレクサンドラの命さえ奪いかけた。 またそうした事態に陥らない保障は全くないのである。
それにアレクサンドラの身体の自由が利かなかったのも、病室に納められていたのも元を正せば香澄に原因がある。 同じ組み合わせを容易に許可できないのは当然の流れである。
「エルブルスを制圧するだけの力を香澄ちゃんはまだ持ってないでしょ? 残念だけどそれが事実なんだ。 相手を殺さないようにしとめるって本当はすごく難しいんだ。 相手と同じ実力じゃ無理だよ。 それよりも何枚も上手を行かなきゃならない。 それに香澄ちゃんは、いざエルブルスがまた暴走した時……それを止める覚悟がある?」
「……止める覚悟って……」
「うん。 アレクサンドラを殺す事になるかもしれないって覚悟」
直接言い渡されたその言葉は罪人に下された判決のようにストンと香澄の胸に飛び込んでは音を立てる。
そう、何度も後悔した。 自らの所為で彼女を殺しかけてしまった事を。 そして今真実はどうあれ彼女は国際的な人類に対する反逆者の片棒を担がされている。 場合によってはその命を奪わねばならない可能性も十分に在り得るのだ。
その事実に香澄は何も言い返すことが出来なくなる。 冷や汗が頬を伝い落ち、床の上にぽたりと落ちた。
「出来るだけの事はやるよ。 だから香澄ちゃんは見守ってて。 大丈夫、きっと助けるから」
ふっと、やさしく微笑む海斗。 しかし香澄は拳を握りしめ震えていた。
力が無いという決定的な事実。 経験不足、覚悟の甘さ、敵への入れ込み……。 自分はそんなことはないと、そうならないと思っていた事実に次々と打ちのめされる。
その展開の連続に言葉を忘れてしまったかのように、香澄はただ立ち尽くす事しか出来なかった。 その手を取り海斗は何も言わずにそっと握り締める。
「……響さん、行って来るね」
「……はい。 気をつけて」
「香澄ちゃんをお願い」
香澄の手を放し、キルシュヴァッサーに向かって歩いていく海斗。
その傍らに立ち、ちらりと香澄を振り返る銀。 しかし直ぐに視線を逸らし、海斗の後を追っていく。
力が無いという事実。 力があれば出来るはずのことが今何一つ香澄には出来ない。
世界の中から見捨てられたかのような拙い悲しみを堪えきれず、壁に拳を叩き付ける。 その肩を叩き、響は首を横に振った。
「大丈夫、今回は第二生徒会も出撃してるから……」
「その他人が信用できないんだろ……。 判ってねェ。 判ってねェよ……」
首を横に振り額に手を当てる香澄。 そう、判っていないのは自分の方だと知っていながら、そんな事しか口に出来ない自分がもどかしかった。
それでもみんな、判っていないのだ。 誰も本当のアレクサンドラを知らない。 誰一人その素顔を知らない。
乱暴な口調で敵を叩き潰そうとするその姿さえ、必死すぎて助けを求める悲鳴そのものなのだと、誰が気づいているというのか。
桐野香澄という、その素顔に自ら触れようとした少年以外に――誰がそれを理解できるというのか。
フェリックス機関の迎えによる軍艦が港に停泊する頃、その場に近づく三つの影があった。 甲板に立ち、マントをはためかせるエルブルスを捉え、影は加速する。
「目標視認した! 既に起動しているか……!」
「第三生徒会の連中の管轄なのにまだ到着してねーのかよ。 ったく、このままターゲットをぶっ潰してやろうぜ!」
「人類の希望を持ち逃げしようなんて……酷く自己中心的ですわ。 破壊による粛清がお似合いよ!」
「ハリー! エルザ! 一気に突撃して船を沈める! 足を落とせば脱出も不可能になる!」
「「 Aye, aye, sir! 」」
中央を進む隊長機が急停止し、折りたたまれた巨大な迫撃砲を組み立て設置すると同時に左右を抜けた二機がそれぞれ武装を構えエルブルス目掛けて突撃する。
「腹いっぱい劣化ウラン弾をご馳走してやるぜ! 遠慮せず食らって行きなァ!!」
「ステラ3突撃します! 目標、敵結晶機!」
ハリーの駆るステラデウス二号機が両脇に抱えたガトリング砲が一斉に火を噴き、周辺の施設を破壊しながらエルブルスを乗せた軍艦に迫る。
だがしかし攻撃は直前で防がれていた。 可視の障壁によってあっさりと弾丸は捻じ伏せられていたのである。
それの発生源がエルブルスであることを見抜いたエルザの三番機が巨大なチェーンソーを振り上げ飛び掛るが、その攻撃もやはり防がれてしまう。
防がれる、というよりは命中するよりも早く刃が甲板に減り込んでしまうのだ。 不意を衝かれた三番機が槍で薙ぎ払われて海中に転落するとステラデウス隊は動きを止めた。
「おいおい、バリアーかよ!? そんなのエルブルスについてたか!?」
「何らかの能力だろう。 慌てる事は無い、一定の距離を置いて射撃攻撃に切り替えろ。 奴の能力を見抜くのが先だ」
「おいエルザァッ! いつまで海水浴してるつもりだ!? やるならビキニでやりやがれっ!!」
「…………っ! 油断が過ぎた……!」
海中から飛び出した三番機が港に着地した直後、軍艦の砲身がステラデウスに向けられた。
咄嗟に回避行動を取った直後、港の倉庫が一つ吹き飛んだ。 巻き上がる炎と疾風の中、着地したステラデウスの装甲が悲鳴を上げる。
「こんな場所で艦砲射撃なんて……! 誇りを忘れたの!?」
「向こうは完全にやる気だな……。 このまま逃げられると手が無くなる」
「いくら結晶機でもあの砲撃はまずいぜリーダー……! まさかの最新鋭だ! 無駄に威力満点だぞ!」
「……まあ、なんとかなるだろう。 増援も到着した」
空を裂く音と共に飛来した砲弾はロシア艦の傍に着弾し水柱をたたき上げる。
水平線の向こうから接近する三つの軍艦。 それは国連軍駐屯基地から派遣されてきた増援だった。 甲板から次々と飛び立つ戦闘機の向こう側、キルシュヴァッサーの姿がある。
「包囲が上手く行ったらしい。 逃げ道は塞いだが、さて……」
銃器を構えたまま残骸から身を乗り出し射撃を繰り出す三機。 しかし攻撃はエルブルスの翳した掌の前に無力化されてしまう。
「能力だとしても、そう長時間は持たないはずだ。 持久戦に持ち込めば勝利は固い」
「だけどよ、このままじゃキルシュヴァッサーにいいとこ持ってかれちまうんじゃねえか!?」
「……いくらバリアがあったとしても、直接斬りつければっ!」
チェーンソーの刃を激しく回転させ、唸りを上げながら飛び出す三号機。 それをフォローする形で残りの二機も射撃を開始する。
残骸から残骸へ飛び移り、倉庫の上から跳躍したステラデウス。 振り下ろすその一撃はエルブルスに確かに届いていた。
槍を両手に構えたエルブルスは攻撃を防ぎ、しかし確かに刃は届いていた。 雄たけびを上げ出力を上げるステラデウス。 しかし直後、エルブルスの膝がステラの胴体部を打ち抜いていた。
「ぐっ!?」
鈍重に見える重装甲のエルブルス。 その足が軽々と舞い上がり、ステラデウスを蹴り飛ばすという事態を彼女たちは想定していなかった。 エルブルスがスピートにも長けた完成度の高い機体であるという事は、先の模擬戦で判っていたはずなのに。
繰り出される追撃の槍は当然のようにステラデウスのコックピットへと伸ばされる。 エルザが息を呑み、死を連想した瞬間、空よりそれは舞い降りた。
真紅のマントを靡かせ、舞い降りた銀色の影。 両手に構えた刀でエルブルスを襲撃し、刃を交えて宙を舞う。
揺れるロシア艦の甲板に舞い降りたキルシュヴァッサーがマントを広げ二刀の刃を構える。 遥か彼方より一息に跳躍してきたその姿に驚きつつ、エルザは後退する。
「あんな遠くから跳んできたの……? どういう跳躍力が……っ! デタラメウサギ!」
繰り出すエルブルスの槍を十字に構えた刀で受け流し、槍そのものを二つの刃で挟み込むように切断する。 両断された槍は音を立てて甲板に転がり、キルシュヴァッサーはゆっくりと立ち上がる。
「エルブルスのパイロットに告げる! 戦闘行為を中断し、規約に従い機体を明け渡してください! 身の安全は保障します!」
向けられた左右の砲台を同時に切り払い、爆炎と水飛沫の中瞳を輝かせるキルシュヴァッサー。 槍を失ったエルブルスは一歩二歩と後退する。
「アレクサンドラ! 戦闘行動を望まないのであれば、機体を降りてください! 勧告に従わない場合、武力による機体の排除を行いますっ!!」
海斗の呼びかけにもアレクサンドラは答えない。 いや、既に答えられるような状態に無かった。
フェリックス機関の精神操作による強化行動は以前から続けられていた。 エルブルスに乗った時点で彼女は既に正気ではない。 それに付け加え、エルブルスそのものによる精神支配を受けている今、海斗が何か行ったところでその言葉は届いてはいなかった。
舌打ちし、眉を潜める海斗。 逃げ出そうとするエルブルスの背後から切りかかり、一息で両腕を殺ぎ落とした。
血を流しながら海へ落ちていく二つの太い腕。 それが赤く海を染める中、返り血を浴びながらキルシュヴァッサーはじろりとエルブルスを見つめる。
エルブルスの瞳が確かな恐怖に支配されていると誰もが判断出来る瞬間、キルシュヴァッサーに重圧が襲い掛かった。 銀色の装甲を押しつぶそうと降りかかる謎の力の中、海斗は歯を食いしばり声を上げる。
「キルシュヴァッサーッ!!」
エルブルスの能力に完全に捉えられた銀色の姿は一瞬その世界から姿を消し、次の瞬間には灰色の機体の背後に浮かび上がっていた。
まるで陽炎から繰り出されたような刀身は揺れるような独特の動きでエルブルスの首を跳ね飛ばし、二つの刃を両足に突き刺し、看板に串刺しにする。
今だ揺れるようなキルシュヴァッサーの姿は幻影のよう。 それはキルシュヴァッサーが空間を跳躍した名残である事に、その場の何人かは気づいていた。
「……よく見ておけ。 あれが現時点で最強の強さを持つといわれる結晶機と――そのパイロット、進藤海斗だ」
勝敗は決していた。 炎と血飛沫と水飛沫の中、キルシュヴァッサーの姿が揺れる。 既に反撃する事も逃げ出す事も出来なくなった機体を見下ろし、キルシュヴァッサーは一歩前に踏み出した。 その時――。
「アレクサンドラ――ッ!!」
残骸の山を越え、生身の人間が戦場に姿を現していた。
ステラデウスのを駆け抜け、港から甲板のエルブルス目掛けて声を張り上げる香澄。 汗だくになり、肩で息をしながらもその名前を呼び続ける。
「アレクサンドラ! 自分から投降するんだ! でなきゃお前まで処罰されちまう!! お前は悪くないんだ! 俺の声を聞いてくれっ!!」
「香澄ちゃん……!? どうして前線に……」
「待ってくれ海斗! 誤解なんだっ! アレクサンドラはそんなやつじゃない! 何か理由があって利用されているだけなんだ!」
「香澄ちゃん……でも、彼女は応えない。 それが現実だよ」
そう、海斗は知らないのだ。 いや、海斗だけではない。 誰もが知らないのだ。 香澄以外誰一人知らない。 香澄も実際に触れ合う事が無ければ知らなかっただろう。
そのコックピットに座る少女がごく普通の少女で、だから今は普通の少女で。 傷つける為や利害の為に乗っているのではなく、ただ居場所を守りたくて必死だっただけだという事を。
小さな命にさえ愛を与え、自らの存在に疑問を抱え、それでもエルブルスを大切だといった少女。 その笑顔や悲しみ、傷や触れた温かさ全て、香澄しかそれを知らないのだ。
「あんまりじゃねえか! 誰にもわかってもらえないまま……誤解されたまま処罰されるなんてっ!! 止めてくれ海斗! 頼む! アレクサンドラと話をさせてくれっ!!」
「でも、彼女は……」
「――――か、すみ……?」
アレクサンドラの小さな声だった。 首も腕も落とされ、身動きをとれなくなった機体が確かに香澄を見ていた。
胸を撫で下ろし、涙を目に浮かべながら笑う香澄。 アレクサンドラの言葉が香澄を求め、今はないその腕が香澄に向けられて伸ばされようとした刹那――。
「――――香澄ちゃんッ!!」
それは、悲劇だったのかもしれない。
エルブルスの持つ能力は『重力』。 一定範囲内、限定的なエリアに下方向への力を発生させる。 それは結晶機さえも押しつぶす事の出来る力だった。
それを発動するために腕も槍も首も必要ない。 ただパイロットが健在ならば、そしてエルブルスがまだ健在ならば、発動は可能だった。
能力の発動条件、そしてその範囲。 エルブルスのパイロットは危険であるという誤認。 その全てが無ければ、そんな事にはならなかったであろう。
コックピットの中、虚ろな瞳に光が戻り、香澄に向かって伸ばされた腕。 二人の間に鋭く切り込まれた刃が、その想いを両断する。
目の前に差し込まれた銀色の刀身に映し出された自らの姿を見つめ、瞳をゆっくりと閉じるアレクサンドラ。 キルシュヴァッサーの刃が、深々とエルブルスの胸に突き刺さっていた。
言葉を失い、立ち尽くす香澄。 海斗はそんな香澄の姿を目に映すことも無く、雄叫びと共に刃を深く握り締める。
「――――止めろぉおおおおおおっっ!!!!」
香澄の声が空に響き渡ると同時に、内側から肩口に切り上げられたエルブルスの肩から大量の血飛沫が空に舞い上がる。
開かれた口と伸ばされた腕はアレクサンドラには届かない。 上半身を真っ二つにされたエルブルスの身体はぐらりと揺らめき、海中へと落ちていく。
その亀裂の向こう側、目を閉じた傷だらけの少女の姿が垣間見えた時、香澄は走り出していた。
「アレクサンドラァアアアアアアッ!!!!」
水飛沫が舞い上がり、同時に香澄もまた海に飛び込んでいた。
曇った空の下、刃を収めるキルシュヴァッサー。 あの日の模擬戦と同じように降り始めた雨は、銀色の装甲を汚す紅の色をゆっくりと落としていた――。