邂逅、東京フロンティア(1)
世界は煩わしい物に満ちている。
様々な壁、感情、ルール、倫理……とりわけ俺が大嫌いなのは人間関係だ。
面倒くささの総合競技と言ってもいい。 ありとあらゆる面倒な事を全て詰め込み見事にシャッフルしたら出来上がるのが人間関係だ。
自分自身の事だけで手一杯だと言うのに、他人なんて一々構っていられるはずもない。 それは勿論実の妹であろうとも同じ事だ。
女は時々口から先に生まれてきたような奴が居る。 男もそうか。 まあとにかく、真横で人が聞いていないのも知らずにひたすら留まる事無く話し続けている桐野ありすは俺の妹である。
桐野香澄――というのが自分の名前。 桐野。 ああ、きりの。 わかっている、これが現実だ。 逃げようとしたって逃げられない。 このうざったい小娘が、俺の妹なのだ。
先ほどからずっと俺の片腕を取り、ずんずん歩いて行く。 ずれた眼鏡を直したいのだが、残りの手は荷物で塞がっていてどうにもならない。
何も考える間も感傷に浸る間も周囲を観察する間もない。 どこをどう歩いてきたのかもさっぱりわからないようでは、逆に明日からの生活に困るんじゃないだろうか。
なんて事をこのクソガキに言ったところでどうにもなるまい。 俺は静かに諦めと共に言葉を飲み込み、ひたすらに念仏のように続く妹の黄色い声を聞き流し続ける。
「でね――? お兄ちゃん、そういえば目、悪くなったの?」
「うん?」
「だってほら、昔はしてなかったじゃない。 眼鏡」
人の顔を指差してありすは首を傾げる。 確かに昔はしていなかったかも知れない。 とりあえず立ち止まり、荷物を置いて眼鏡を外す。
「ああ、目は悪くない。 これは……ファッションだよ」
苦しい言い訳だっただろうか。 ありすは興味深げに眼鏡を見つめている。 それを妹の顔にかけてやると、ありすは上機嫌に笑って見せた。
「この眼鏡、度が入ってないじゃん! 意味なーい!」
「言っただろ、アクセサリだって」
よって、このまま外して妹が掛けていても何の問題も無い。 再び歩き出すとありすは眼鏡を指先でつまんだままにこにこしながら歩いていた。
「お兄ちゃん、少し変わったね」
「……僕が?」
「うん。 変わったよ」
変わらない物なんてない。 そんな事は当然の事だ。 ありす本人が随分と変わっているのに、俺の変化をとやかく言われる筋合いはない。
血縁だからってずけずけ人のアイデンティティにまで踏み込むのはどうなんだ――という思いは勿論飲み込んでおく。 小さく息を付き、少女の後に続く。
そう、変わらない物なんてない。 永遠なんてない。 そんな事は当然の事だ。 俺自身が十分、それをわかっているから。
⇒邂逅、東京フロンティア(1)
何年ぶりかに見る家は、不思議と懐かしかった。
周囲の景色は随分と変わり、隣近所など既に何があったのかさえ思い起こせない程変化していたが、我が家だけはどうやら変わらないらしい。 あの頃のまま懐かしさを残していると言えば聞こえはいいかも知れないが、それは言い換えれば時の流れに取り残されている様でもある。
「おかえり、お兄ちゃん」
「……ああ。 ただいま、ありす」
一足先に門を潜り玄関に消えていくありすの姿。 再び足を止め、我が家となる場所を眺めてみる。
二階建てのよくある一戸建てだ。 狭くもないし広くも無い。 白い外装の、古い家。 築二十年と言った所か。 周囲の無機質な家々の中、この家だけは妙にアットホームな雰囲気だった。
軋む門を開く。 昔はその取っ手を捻るのさえ困難だったはずなのに、今は無意識の内に片手で開けてしまう。 目の前をかつての自分が走り去ったような気がして風と共に振り返った。
勿論そこには自分はいない。 彼女の姿もない。 それでもしばらく何も無い場所を風に吹かれて眺めていた。 感傷に浸っていた。
荷物を持ち直す。 静かに目を閉じ、深く息を吐き出す。 幻想が目の前から消えてくれるおまじない。 心を無にして全てを忘れる。
再び瞼を開いた時、俺はここに居た。 たった一人、十八歳になった自分が。 苦笑を浮かべ、門を潜り玄関の扉を開いた。
「おかえりなさい、香澄ちゃん」
玄関を潜るとなにやらいいにおいが広がっていた。 恐らくは料理のにおいだろう。 スリッパを穿き、エプロンをつけた母親が髪を掻き上げながら微笑んでいた。
「……お久しぶりです、綾乃さん。 これからまたこの家でお世話になります。 よろしく御願します」
「あら、やだ。 香澄ちゃんったらそんな他人行儀な事言わなくてもいいのよ? 私もありすもこの日を楽しみにしてたんだから。 ほらほら、早く上がって」
「ですが……。 いえ、判りました……」
手を引き微笑む母親は、正直なところ親だとは思えない。
物心付いた時から傍に居たとは言え、本当の母親ではない。 血のつながりのない彼女は、親父が再婚した相手に過ぎなかった。
親父がそうして彼女、綾乃さんと暮らすようになり、俺もそうなったのが今から十年前。 当時の綾乃さんは二十二歳だったから、今は三十二歳と言う事になる。
随分と若い母親だ。 親と呼ぶには少々年が近すぎるのかも知れない。 何より結婚後しばらく同居していなかった事もあり、その後彼女と生活を共にしたのは僅かな期間の思い出は余り残っていない。 殆ど覚えていないと言っても過言ではないだろう。 結局俺は子供の頃彼女に心を開くよりも先に、この家を出てしまったから。
親父の居ない、ただ綾乃さんだけが居る家。 自分の家のように感じろと言うほうが無理な相談だ。 だから俺は、直ぐに上がりこむのを躊躇した。
他人行儀な態度は俺の最後の抵抗だったと言ってもいい。 だが、綾乃さんはそんな俺の嫌味に気づきもせず笑顔で腕を取る。 この母にしてあの娘ありという事か。
古いが綺麗な家だった。 まめに手入れがされているのだろう。 心地よい木の香りを感じながら居間に入ると、何故かこの季節なのにコタツが置いてあった。
テーブルの上にはずらりと並んだ家庭料理の数々。 その中に時々外見的に怪しい物が混じっているのは何故なのだろうか……。
「おかえり、お兄ちゃん」
「おかえりなさい、香澄ちゃん」
「…………ただいま」
心の底からではない、作り物の笑顔。 そうしてありすから眼鏡を奪い返し、俺はコタツの傍に座った。
畳の上に敷かれた座布団。 しかし何故コタツ……? 今も気温は暑いくらいなのだが、ありすは寒がりなのだろうか? コタツにもぐりこんでは気持ち良さそうにごろごろしていた。
「こら、ありす! せっかく香澄ちゃんが帰って来たんだから、お行儀良くしなさい!」
「だってありす疲れちゃったんだもん……。 ママは何もしてないからいいだろうけどさー」
「ま、まあ……大丈夫ですから。 ありすはわざわざ迎えに来てくれたんです。 感謝はしても怒りはしませんよ」
「そう……? ありがとう香澄ちゃん、いいお兄ちゃんね」
「いえ、そんな……。 家族じゃないですか」
ずきりと、胸が痛んだ気がした。 表情には間違いなく出ていない。 いつもどおり、当たり障りの無い笑顔がそこにはあるはずだ。
家族? ふざけた事を言ったものだ。 そう言っておくのが一番当たり障りのない答えだと判っていても、嫌気が差す。
家族? 家族? 家族? 冗談じゃない。 なんだこいつらは。 出来れば未来永劫ここには戻りたくなかった。 ここには俺の、思い出だけが在れば良かったのに。
「そうだ、香澄ちゃん……。 その、秋名ちゃんの事だけど……」
「――――ああ。 姉さんの事なら気にしないでください」
声を被せるようにして拒絶する。 出来る限りの笑顔で。
「昔からそうだったんです。 居なくなってはひょっこりと帰ってくる。 そんな人でしたから」
内心穏やかではなかった。 その話は出来れば聞きたくなかったからだ。
桐野家には親父、俺、それからここに居る血のつながらない家族二人の他に実の姉が一人居る。 それが桐野秋名――。 厳密には『居た』のだが。
忘れもしない三年前、あの人は夕焼けに溶けるようにしていなくなってしまった。 失踪である。 痕跡も無い、全てが夢に溶けたような失踪だった。
消滅と呼んでもいいのかもしれない。 一人取り残された俺はその後、あの人の姿を見てはいなかった。
今回こうして俺がこの家の世話になる事になった理由の一つに、姉貴の失踪は確かに含まれている。 綾乃さんにしても俺が一人で別の街で暮らしているのは不安だったのだろう。 姉さんが居た頃はまだ二人で何とかやっていけたが、今はもう俺を支えてくれる人はいない。
もちろん、誰かが傍にいてくれなければ生きていけないなんて甘ったれた事を言うつもりはない。 だが、綾乃さんからの執拗な留守電を一々無視するのも疲れたのかも知れない。
「そう……そうよね。 暗くなってもしょうがないわよね。 うん! この話はおしまい! さあ、歓迎会なんだからどんどん食べてね!」
「は、はあ……。 それじゃあ戴きます……」
とりあえず手を合わせ頭を下げる。 とりあえず摘んだのはから揚げだった。 刹那、コタツからありすが顔を出し何故かじっと俺を見ている。
非常に食べづらいわけだが、とりあえず一口。 俺を待っていて冷めてしまったからあげはしかし何ともすっきりとした味わいと旨みが口の中に広がった。
全く脂っこくなく、これならいくらでも食えそうだ――と、なにやら料理マンガのような感想を脳内で述べているとありすが起き上がり、何か言葉を期待するように俺を見ている。
「……え、ええと……。 冷めてしまったからあげはしかし何ともすっきりとした味わいと旨みが……」
「おいしい?」
「あ、ああ。 美味しいよ。 びっくりした」
長々とした説明はお好みではないらしい。
俺の言葉を聞くと頬を赤らめ、何を言うでもなく視線を逸らし、そのままもぞもぞとコタツにもぐっていく。 なんだったのか判らず首をかしげていると、綾乃さんは主賓の俺を差し置いて凄まじい勢いで料理を口に突っ込んでいた。
「もぐもぐ……。 ん〜! 今日もありすちゃんのお料理はとっても美味しいわぁ!」
「これ、ありすが作ったんですか……?」
「そうよ? 家事は全部ありすちゃんの担当なの。 もういつどこにお嫁に出しても恥ずかしくない、とっても手間のかからない子なのよ〜」
それはそれでどうなんだ? あんた何してんだよ……と考え、それから彼女が東京グランドスラムについて研究している科学者である事を思い出す。
昔から彼女も親父も殆ど家には寄り付かなかった。 当時幼かったありすは母親である綾乃さんについてまわっていたようだから、当時のありすの記憶がないのも頷ける。
ありすは親父と綾乃さんの間に生まれた子供だ。 見たところ中学生くらいだろうか? 綾乃さんが何歳でありすを生んだのかあまり考えたくなかった。
「ありすが料理ですか……。 そんな風にはみえな……いてえっ!?」
「余計なお世話だよ!」
コタツの反対側から俺の足元まで移動してきたらしいありすの頭が飛び出し、顎を強打する。 舌を噛まなかったのが不幸中の幸いか。
「ママはな〜んにも出来ない駄目人間だから仕方なくありすがやってるのよ。 もうずーっとそうなんだから」
「うんうん、ありすちゃんはいい子なのよ」
いやあんた、今さっき娘に駄目人間って言われてたけど、ナチュラルにスルーなんですか?
顎を押さえて涙目になる俺の膝の上にちょこんと座り、ありすは満足そうに微笑んでいる。 その様子は確かに愛らしいのだが、何故俺の膝?
「からあげ」
「は?」
「だから、からあげ。 からあげありすも食べるの」
「ああ。 食べればいいじゃないか」
「……そうじゃなくてっ!! あーん!」
親鳥が持ってきた虫の死骸か何かを待ち望み、口をぱくぱくあけて鳴きまくるうざったい小鳥の映像を見た事がある。
あの時は即座にチャンネルを変えたものだが、今はそうは行かない。 それがまるで当然といわんばかりに口をあけて待っているこの小娘はどう考えても今後俺のストレスの原因となることだろう。
「仕方の無い奴だな……。 ほら、あーん」
「あーん」
何だこの絵は……。 気持ち悪いぞ……。 今の自分を客観的に捕らえたら最後、気恥ずかしさで死にそうだ。
その後もありすに指定されるがままに料理を運ぶ時間が続いた。 綾乃さんは止めもせず自分でガンガン食ってガンガン缶ビール飲んでるし、どうにもなんね。
つーか、主賓の俺が一向に食えないんだがそれはどうなんだ……とか考えているうちに殆どの料理は二人の胃袋に消えてしまった。
「あー、おいしかったー」
女を殴りたいと思ったのは久しぶりだ。
「ありすちゃん……。 香澄ちゃんを部屋まで案内してあげて。 母さんもうだめ〜」
そして俺はコタツがまだ出ている我が家の事情を理解した。 綾乃さんはコタツにもぐって眠ってしまい、出てくる気配がなかった。
なんてだらしが無い女なんだろうか。 親父の趣味をとやかく言うつもりはないが、なんというか……。
「それじゃ、ありすが部屋に連れてって上げる! 荷物もね、午前中に届いたから運んであるよ」
「ありがとう、ありす。 でも大丈夫だ、自分の部屋くらいは覚えてる」
それにこの食うだけ食って飲むだけ飲んで散らかりきった空間を何とかせねば。 このまま放っておいたら洗うのが面倒になる。 と、考えて袖を捲くる俺の腕を取り、ありすは強引に歩き出す。
「いいから、行くの! ほら、こっち!」
「いや、ありす? 洗い物がだな……」
「そんなのはありすがやるからいいの! お兄ちゃんは部屋で休んでて!」
「いやしかし、僕はこの家の居候なわけで……。 家事くらいしないと……」
「居候っ!? 今なんて言ったの!?」
足を止め、ありすは凄まじい形相を浮かべていた。 思わず冷や汗と乾いた笑いが零れる。
「いそ……か、家族……」
「そう、それでいいの。 わかればいいのよ、お兄ちゃん」
何なんだこの家は……。 誰か助けてくれ。 いや、助けてください。
結局ありすにつれられ二階の自室に向かう。 そこには既に『香澄おにいちゃんの部屋』という木製のプレートがぶら下がっていた。
「お部屋もありすが掃除しといたんだよ」
「そうか」
「…………」
「……えらいなあ。 ありすはえらいなあ」
多分、これが目当てだったのだろう。 頭を執拗に撫で回すとありすは満足げに背を向け、階段を下っていく。
そうして段差を折りきったところで振り返り、ブロンドのツインテールを揺らして無邪気に微笑んだ。
「これから宜しくね、お兄ちゃん」
「…………ああ。 こちらこそ宜しくな、ありす」
かわいらしい仕草で手を振り消えていくありすの影を見送り、俺は自室の扉を開いた。
開いた瞬間、過去にタイムスリップしたような錯覚に陥った。 あの頃と変わらない、小さな部屋だった。
あの頃は広くて仕方がないと思っていた部屋が今はとても狭く感じる。 ベッドの上に身体を投げ出し、詰まれたダンボールの山の向こうに見える結晶塔を眺める。
姉貴はあの結晶塔が好きだった。 だが俺はあの容赦なく輝き続けるその様子が余り好きではなかった。
結晶塔に吸い込まれた光は不思議と増幅され、街中を照らし出す。 それはどんなに逃げようとしても見つけようとするサーチライトを彷彿とさせ、灯台のようなそれを苦手に感じていた。
夜になると月の光を吸い込んで淡く輝くあの塔のお陰で夜の景色はとても幻想的だ。 だが発展した今の街ではその幻想さえ現実の光が砕いて散らす事だろう。
あの頃とは違う景色。 違う家。 違う部屋。 それでも構わない。 目を閉じて耳を済ませば風の音に混じり姉貴と俺の笑い声が聞こえる気がした。
しばらくそうして浸ってから天井を見上げる。 低い天井だった。 大の字に寝転びながら胸元のポケットに手を伸ばす。
一冊の封筒の中には銀色のカードキーと、俺がこの場所に来る事になった最大の理由となる書類が折りたたまれていた。
この街には東京グランドスラムの関係者と政府に許可された一部の商社のみが居を構える事を許される閉鎖的な街だ。 観光地としての意味合いならば外部からも多くの人が集まるが、住み着くのはごく一部だけ。
そうした人間たち――日本特区東京フロンティアに住まう人間は、政府が選出した人間に限られ、それを拒否する事は法律的に禁止されている。
まるで赤紙だ。 何はともあれ俺はそのお達しを受け、住民票の意味を持つカードキーと共にこの街に帰って来た。
そうでなければこんな家には帰らない。 帰る……なんて風には思わないが。
決められた学校に通い、決められた生活を送る。 退屈極まりない。 その上長年あっていなかった血のつながりの無い家族と暮らさねばならない。
「…………最悪だな」
静かに息をついた。
あまり深く考えたらドツボにはまりそうな気がして俺は思考を中断する。
どうせ失うものは何も無い。 嘘で塗り固めた自分。 誤魔化しだけを繰り返す世界。 うまくやっていけるさ、間違いの無い事実。 自分でも判っている。
「面倒くせえ」
それはきっと本音だった。 睨み付けて閉ざすカーテン。 この小さな部屋だけが、今の自分に許された世界のような気がしていた。
〜あいさつ〜
というわけで、またロボット物です。
今回は霹靂のレーヴァテインとは違った世界観、人間模様でやってみたいと思っています。
霹靂シリーズよりは短く纏めたいと考えていますので、それほど長い連載にはならないかもしれませんがどうぞ宜しく御願します。
でまあ、たぶんあとがきはまた設定資料とか載せるスペースになるかと思います。見たい人だけ見てもらう方向で。
それでは、初めてお目にかかる方も他の作品からのお付き合いの方も、『銀翼』を宜しくお願いいたします。