白刃、霧を払いて(3)
八月五日、午後二時。 国連軍基地滑走路。
向かい合い並ぶ二機の結晶機。 それが映し出された大画面のモニターの前に関係者一同が顔をそろえていた。
司令部モニター前、二つの画面を挟むようにして覗き込むチームキルシュヴァッサーとチームエルブルスの関係者たち。 そこには海斗たちの姿は勿論、向かい側には白い研究服を装備した面々の姿もあった。
第一共同学園生徒会およびチームエルブルスは第三のそれとは異なり、より大人の介入率が高い。 第三よりも規律に五月蝿く、様々な厳しい条件付で結晶機のパイロットが選抜され、そのパイロットには様々な恩恵が与えられる。
それは例えば金であったり、地位であったり。 ロシア本国を離れ東京フロンティアで戦わねばならない彼らは、少なくともフェリックス機関にとっては英雄なのだ。
「…………んん〜。 どうも向こうさんは前回とまた面子が違っているようですねえ」
生徒会メンバーの後方で腕を組んだ日比野の言葉に一同がそれぞれ物思いに耽る。
海斗、イゾルデは以前にもエルブルスとの模擬戦の経験があった。 そしてその両方の戦闘で、キルシュヴァッサーは勝利している。
理由は単純明快だった。 『勝負にならない』のだ。 それは戦力差が圧倒的という意味ではなく、文字通り『試合にならない』のである。
一人は戦闘開始の合図を受けても動き出さず、何も行われないままフェリックス機関に回収された。
一人は戦闘中突然怯え、逃亡。 沈静部隊により機能停止された後、同様に回収された。
その両方のパイロットが、既にチームエルブルスの公開名簿に存在していないという事実。 そして、何人目かわからない適合者、アレクサンドラ。
フェリックス機関に纏わるよくない噂の一つに、パイロットの使い捨てがある。
第一生徒会のメンバーは入れ替わりが非常に激しい。 それは全部のチームと比べても異常なのは明白なほどに。 通常、適合者は複数人用意出来たら幸運と言われている。 三人もの適合者が存在する第三生徒会はその幸運なケースに該当するだろう。
そもそも桐野香澄が参加するまでは彼らもイゾルデと海斗、二人で何とかまわしてきたのだ。 基本的にパイロットは少なく、貴重な存在なのである。
それを容易に使い捨て、そして直ぐに替えが利くフェリックス機関は、パイロットを使い捨てているという悪評がついていた。 完全に肯定は出来ずとも、少なからず否定できない面はあるだろう。
結晶機の開発方法もパイロットの選出方法もそれぞれ生徒会によってやり方や放心は違っている。 第三生徒会の選抜方法と第一生徒会の選抜方法、それが大きく異なっていたとしても全くおかしなことではない。
「……香澄ちゃん」
だが、それが海斗は不安だった。 今までエルブルスは弱かったという評価が通説である。 そして彼らは結晶機開発において瀬戸際に立たされている。
今、この模擬戦で。 エルブルスが今まで通り勝手に自滅してくれるのであればそれでいい。 だが、仮に完成したエルブルスとの戦闘になったのであれば、結果は全く予想出来ない。
アレクンサンドラという新しいパイロット。 素性の知れない新顔は、しかし当たり前のようにこのぎりぎりの局面に打ち出されてきたエース。 香澄の勝因が無いと言うつもりはないが、この勝負、圧勝出来ると言い切れるほどの自身は海斗にはなかった。
「少々遅れたか。 申し訳ない」
その声と同時に司令部に入ってきたのは第二生徒会の面々であった。 アメリカ合衆国をバックにつけた結晶機開発チーム。 そのメンバーがこれから始まる戦闘を見学しに来ていた。
勿論それはルール違反ではない。 他にも関係者たちが続々と現れ、ずらりと列を成す。
「……東京フロンティア政府、それに如月重工……。 毎度の事ながら錚々たる面子だな」
「それでは、時間になります。 両チーム準備は宜しいですか?」
軍人の声は当然コックピット内部の二人にも届いていた。
キルシュヴァッサーのコックピット内部。 バイザーを装着し、深呼吸する香澄の姿があった。 操縦桿を握り締める手が滑らないよう、今はグローブを嵌めているのだが、逆にそれが妙に違和感のように思えてくる。
装備したバイザーも、フットペダルも、操縦桿も。 訓練機とは微妙に異なるその差異は香澄の神経を撫でていくようで。
「…………こちらキルシュヴァッサー、適合者桐野香澄。 準備は出来てる。 初めてくれ」
それでもやるしかない。 今信じなければいけないのは自分自身だと香澄はわかっている。
脳裏をアレクサンドラの姿がちらつき、それを振り払うように戦意を高揚させる。 集中し、研ぎ澄まし、敵を倒す事を考えねばならない。
だがいつまで経っても開始の合図は出されなかった。 エルブルスのコックピット、アレクサンドラからの応答が無いのである。
ざわつく会場。 しかし、香澄の耳にだけは届いていた。 彼女の囁く、小さな言葉たちの意味が。
「問題ありません。 初めてください」
司令部のフェリックス機関員の同意を得て、戦闘は開始された。
高らかに鳴り響くサイレン。 戦闘開始を告げる合図――と、同時にエルブルスは顔を上げていた。
「………………けない。 あたしは負けない。 あたしは負けない。 あたしは――負けないぃいいいいいいいっ!!!!」
「――――アレクサンドラッ!?」
「うわああああああああっ!!」
巨大な槍を両手で構え、雄たけびを上げながら突進するエルブルス。
気迫に押されたのか、それとも一瞬迷ってしまったのか。
弾き飛ばされたキルシュヴァッサーは、槍の攻撃を受け流しながら後方に弾かれていた。
⇒白刃、霧を払いて(3)
轟音と共に大気を切り裂き、繰り出された払い。 咄嗟に鞘に入れたままの刀で防いだキルシュヴァッサーではあったが、その出力は単純に違いすぎる。 技術的な問題でどうこうできるほど、エルブルスの突撃は容易くは無かったのだ。
「ぎ……っ!?」
歯を食いしばり、弾かれる衝撃に備える。 咄嗟に反応した香澄の意思を反映し、キルシュヴァッサーは足を踏ん張り転等を免れる。 だがしかし、直後正面から体当たりしてくるエルブルスの追撃に再び宙を舞う。
開始早々一方的な試合展開だった。 それは会場中を沸かせ、どよめきと歓喜の声が戦場を包み込んでいく。
「おいおい、香澄ちゃんやばくねえか……? 完全に手玉に取られてるぜ」
「エルブルスのパワーがこれほどだとは誰も想像していなかったんだろう……。 勿論、俺たちも……」
「香澄ちゃん……」
空中で回転し、姿勢を取り戻すキルシュヴァッサー。 マントを激しく靡かせながら着地すると同時に基地に振動が走った。
滑走路の上を火花とブレーキ痕を残しながらすべるキルシュヴァッサー。 威力を殺しきる事が出来ず、結果的に大きく距離を離されてしまった。
「っつう!? くそっ!!」
マントの影に隠れた結晶機用の大型拳銃を手に取り、フットバーを踏んで全力で加速する。
刹那、キルシュヴァッサーの背後に力場が発生し、はじかれるようにして空へと舞い上がるキルシュヴァッサー。 上空からエルブルスを捉え、放たれる弾丸。
「当たれっ!!」
「っく! くははっ!!」
乾いた笑いと同時にエルブルスは槍を振り回す。 ただ無意味に風を切り裂いているわけではない。 槍による物理的な衝撃で弾丸を弾いているのだ。
ミスリルの身体にでも風穴を開ける弾丸は弾かれ、アスファルトに亀裂を生んでいく。 キルシュヴァッサーの落下点目掛けて飛び出したエルブルス。 二機は地上と空中、同時に刃を交えて激突した。
「やっぱり射撃じゃ駄目か……! かといって、白兵じゃあっ!!」
刀と鞘、それぞれを左右の手で逆手に構え、振り上げるような槍の動きを受け止める。 その衝撃とパワーを受け流すようにそのまま縦に回転し、エルブルスの大振りな一撃をいなして背後に着地した。
背を向けあう二機。 振り返ると同時に槍と刀が激突し、火花と金属音が飛び交う。 パワーで押し合えばキルシュヴァッサーには分の悪い勝負。 打ち合いながらも回避し、距離を保ちながら戦おうとする香澄。
しかし相手は槍で香澄は刀。 近づけばパワーで弾かれ、距離を置けば槍のリーチで制圧される。 距離を置いても攻撃手段は存在せず、拳銃程度ではダメージを与えられない。
「どうしたのキルシュヴァッサー!? 手も足も出ないじゃないっ! やっぱりあたしが最強って事でいいのね? あたしは負けないって事でいいのね!?」
「アレクサンドラ……お前っ!?」
「人の名前を気安く呼ぶなあァ!!」
高く振り上げられた槍が一気に振り下ろされ、堪らず刃で受け止めるキルシュヴァッサー。 しかし破壊力をそれで停止できるはずも無く、刀は無残にも主の手を離れ空を舞う。
ガードを突き崩した一撃はそのままキルシュヴァッサーの肩口に突き刺さり、右腕を肩から深々と切り裂いていた。 同時に大量の血液が噴出し、キルシュヴァッサーの身体が震える。
「利き腕が……!?」
感覚の無くなった右腕の操作に慌てる香澄。 次の瞬間、エルブルスの繰り出す第二撃がキルシュヴァッサーに迫っていた。
槍を抜き、流れるような動作で柄をキルシュヴァッサーの胴に叩き付ける。 吹き飛ばされた機体は今度こそ転等し、滑走路の上で仰向けに倒れる。
「っくうっ!?」
「――――貰った! 死んでしまえ、銀翼――ッ!!」
倒れたキルシュヴァッサーの真上に構えられる槍。 それが振り下ろされるよりも早く、サイレンが鳴り響いた。
「そこまで! 決着はつきました。 これにて模擬戦を終了します」
落胆の声と同時に喝采の声が沸きあがる会場。 その中、二機は停止したままお互いを見詰め合っていた。
エルブルスの単眼とキルシュヴァッサーの両の眼。 その視線は交差したまま、ぴくりとも動かない。
無論振り上げられた槍も下ろされぬまま、時が停止したかのように全ては止まっていた。
「……まけ、た……?」
呼吸をする事を忘れていた。
桐野香澄は静かに息を吐き出す。 槍はカメラの目の前まで迫っている。 もしかしたら死んでいたかもしれない。 そう考えると全身から一気に冷や汗が噴出した。
負けてしまった、悔しい――。 そんな風に考えるよりも早く、『生きていてよかった』というシンプルな思考が心の中を駆け巡る。 その瞬間、香澄の心の中はその言葉に満ちていた。
そう、生きていてよかった。 死ななくてよかった。 負けてしまったことよりも、命があることの方が大事だった――。
「は……っはあ……っ。 は……う……ぐっ」
その自分の意識を段々と認識するにつれ、香澄は歯を食いしばり、きつく目を閉じて罪悪感に苛まれた。
仲間の責任を背負い、あれだけ大口を叩いて。 そのくせ何も出来なかった。 何も。 エルブルスはダメージさえ受けていないのだ。
傷一つ負わせることが出来なかった。 皆のキルシュヴァッサーを背負って。 代表として戦って。 それでも何も出来なかった。
確かに彼は始めての操縦にしてはよくやったと言える部類である。 むしろ天才的であると言ってもいい。 しかしそれでも全身全霊、あらゆるモノをかなぐり捨てて挑んできたエルブルスには遠く及ばなかったのである。
機体の力も、パイロットの熟練度も。 何もかも。 それはこの上ないほど明白で、当たり前すぎる悲しい現実。 圧倒的な惨敗だった。
「――――まだ終わってない」
全てが終わってしまった。 終わってくれた。 そう誰もが考えていた時だった。
エルブルスの吐き出す蒸気がゆっくりと空へ上って行く。 単眼がキルシュヴァッサーを捉えたまま、槍は勢い良く振り下ろされた。
それはキルシュヴァッサーの胴体部に突き刺さり、大地をも貫通する。 がくがくと細かく全身を震わせるキルシュヴァッサー。 誰もが思わずどよめいた。
「ろ、六号実験体! 作戦行動は終了している! 直ちに中断せよ!」
「まだ作戦は終わってない。 まだ戦いは終わってない。 あたしが生きていて敵が生きているなら、それはまだ戦っているっていう事でしょ」
振り上げられた槍は再びキルシュヴァッサーへ。 何度も何度も装甲へと突き刺さってはキルシュヴァッサーを痛めつけるエルブルスの一撃。
うなり声と共に槍を振り下ろしては歓喜に打ち震えるエルブルス。 そのコックピットでアレクサンドラは笑いながらキルシュヴァッサーを見下ろしていた。
「桐野君っ!? チームキルシュヴァッサー代表として戦闘の中断を命じます! エルブルスに停止命令を!!」
「今やっている! だが、エルブルスがコントロールできない……」
「馬鹿な……ここに来てエルブルスの暴走!? 香澄! 何でもいい、そこから離れろ!! このままでは殺されるぞッ!!」
イゾルデの叫び声が場に新たな緊張感を生み出した。 そうだ、このままではキルシュヴァッサーは完全に破壊され、香澄も命を奪われる。
当然それはフェリックス機関も望んではいない。 必死に遠隔操作でコントロールを奪い返そうとするものの、エルブルスは全ての信号を受け付けない。
「何の為に準備期間を短くしてまでこの場を設定したんですか!? 貴方たちはっ!!」
響の叫び声もイゾルデの叫び声も、共に香澄には届いていなかった。
コックピットの中、逃れようと必死に足掻く香澄。 しかし攻撃の嵐で次々とキルシュヴァッサーの操作系統が死んで行き、動く事もままならない。
危険信号のアラートの嵐の中、香澄は汗だくになりながら操縦桿を滅茶苦茶に動かした。 目前に迫ったリアルすぎる死が彼から正気を奪っていた。
「アハハハハハッ!! 怖い? 怖いでしょ? 死ぬのって怖いよね! あたしも怖い……。 だからさあ!! あんたにも教えてあげるのっ!! あっはははははははっ!!」
エルブルスの攻撃の雨にキルシュヴァッサーは無残な姿に破壊されていく。
その絶え間ない轟音と衝撃の中、香澄は息を荒らげて呆然と目を見開いていた。
操縦も出来ない。 脱出も出来ない。 何も出来ない。 あとは迫る結果を待つしかなかった。
「――――は? 死ぬ、のか……? 俺、死ぬの?」
震える声がしぼりだされ、コックピットの中暗闇に静かに響く。 寒く、音さえも遠くなっていく。 何もかも感覚が鈍り、ただ神経が焼き切れそうなくらいに感じているのは、身近な死という現実。
「――――いやだ」
強がる事も、考える事も、何も出来なかった。
「死にたくない……。 こんなところで……死にたくない――ッ!!」
衝撃がコックピットを襲う。 思わず両手で頭を抱え、香澄は涙を零していた。
恐怖に全身が震え、それはどうにも拭えない。 冷静な思考は既に不能であり、あとはただ命乞いをする事しか出来なかった。
「いやだ、死にたくない! 死にたくないぃいいっ!! 姉さんっ!! ねえさああああんっ!!!!」
槍が圧し折れ、血まみれの手が天に伸ばされる。
潰れた顔半分から覗く血走った眼がエルブルスを捉え、目には見えない衝撃がエルブルスを貫いていた。
「えぁ?」
エルブルスの右腕は綺麗に円形に削り取られ、遥か後方に吹き飛ばされていた。
何が起こったのか誰にも理解出来ない。 ただ、腕が後方に綺麗に吹き飛ばされていたのである。 槍は中央部を大きく穿たれ、棒切れになって大地に落ちた。
「えっ? なっ!?」
アレクサンドラが驚くと同時に遅れて切断面から血が噴出し、直後その足は腕どうように遥か彼方に転がっていた。
体制を崩し、倒れるエルブルス。 それとは対照的に血まみれの姿で起き上がったキルシュヴァッサーは、いつの間にかどこかへ飛ばされてしまったはずの刀をその手に納めていた。
「うそ――」
低く唸る獣染みた声。 キルシュヴァッサーは大きく牙を向き、倒れたエルブルスに刃を突き立てた。
先程とは正反対の状況。 既に機能停止し、動けるはずも無いキルシュヴァッサーが振り下ろし続ける刃。 装甲を何度も貫き、その強い力に耐え切れず白刃はぼろりと欠ける。 それを握り締めたまま、マウントポジションから拳を何度も繰り出した。
エルブルスの頭部は次々と破壊され、既に元の面影さえない。 突然逆転した状況――しかも余りにも明確な『やりすぎ』に、誰もが言葉を失っていた。
「や、やだ……! こんなのいやぁっ!! 死にたくない……殺さないでえっ!!」
恐怖に怯え、命乞いするのは今度はアレクサンドラの版だった。 しかしもう、先程のような奇跡は起こらなかった。
悲鳴をあげ絶叫し、泣き喚くアレクサンドラの声が基地中に響き渡る中、キルシュヴァッサーは虐殺の手を止めなかった。 反撃も出来ず一方的に蹂躙されたエルブルスはあっという間に大破し、それでも尚攻撃は止まなかった。
「う……っ」
誰もがその光景に吐き気を催す。 それは残酷なだけではなく、ぎらぎらと輝く血しぶきと装甲の銀色でとても美しく見えたから。
美しい物が残虐な行いにその手を染めるという状況。 エルブルスの四肢はとっくにつぶれ、頭もつぶれ、残っているのはコックピットだけだった。
助けを求めるアレクサンドラの声が響き渡る。 しかし誰も動く事が出来ない中、叫び声をあげたのは海斗だった。
「香澄ちゃん!! もういいっ!! 君の勝ちだっ!! 戦いは終わったんだよ、香澄ちゃんっ!!!!」
ぴたりと、キルシュヴァッサーの腕が止まる。
あとわずか声が遅かったのならば、白刃はきっとアレクサンドラの命を奪っていた。
いつの間にか振り出した雨が段々と勢力を増し、町全体を包み込んでいく中、キルシュヴァッサーもエルブルスも、ただその場に立ち尽くしていた。
「気がついた?」
「……ここは?」
ゆっくりと身体を起こした香澄。 そこはキルシュヴァッサーのコックピットだった。
激しい衝撃に全身を打ちつけ、頭から血を流しながら気絶していた香澄の目に写ったのはコックピットの向こうに立つ雨に打たれた海斗の姿。
差し伸べられた手を取り、ぼんやりとした意識のままコックピットの外に立つと、そこは無残に破壊された二つの結晶機の間だった。
降り注ぐ雨は傷だらけの身体を容赦なく濡らし、そして見下ろす先、エルブルスのコックピットでアレクサンドラも同様に雨に打たれていた。
歪んで開かなくなったコックピットハッチがチェーソーで強制解放された瞬間、香澄は思わず額に手を当てた。
アレクサンドラは口からは涎、瞳からは涙を流しながら無残な姿でシートから崩れ落ちていた。 空虚な瞳で何も無い場所を映してはぶつぶつと命乞いの言葉を今も繰り返している。
「あ、アレクサンドラ……」
よろけながらキルシュヴァッサーを降り、担架に乗せられたアレクサンドラに駆け寄る香澄。 その傷だらけの無残な姿を見下ろし、思わず吐き気を催した。
少女の心は完全に壊れてしまっているように見えた。 頭を抱え、うわ言のように助けてと繰り返すその唇は、戦闘前に見せた優しい言葉など今はどうしても紡げそうにはない。
むしろ、あの姿は全て幻で――今その幻を壊してしまった目の前の姿が現実なのだと、否応無く香澄に認識させる。
運ばれて遠ざかっていく雨の景色。 香澄はその場に膝を着き、力なく空を見上げた。
「俺は……俺は、何をしたんだ……。 一体、何を……っ!!」
「香澄ちゃん……」
その背後、同じく雨に打たれた海斗はかける言葉が見つからず立ちすくんでいた。
それがこの世界の現実で、自分たちが耐えねばならない物の正体であり、そして結晶機もまたミスリルに他ならないという事実の証。
結果だけが残す現実の色合い。 雨に打たれ、しかしそれでも尚流せぬ感情に香澄は拳を振り上げた。
「俺は……ッ! 俺はぁぁぁあああああっ!!!!」
犠牲も、傷も、悲しみも。 あって当たり前。 それでも姉の影を追いたいと覚悟したつもりだった。
その余りにもちっぽけで余りにも現実を知らず、無知ゆえに高らかに振り上げられた理想。
悲しく振り下ろされた拳のように、アスファルトにたたきつけられては無残に砕け散っていた。
その時胸の中に生まれたどうしようもなくやりきれない感情の処理方法を、香澄はまだ知らなかった。
キルシュヴァッサーはただ、雨の中全てを見下ろしていた。