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誰かのために君がいる ~とあるファミレスの優しい奇蹟~

作者: スズキ



 店の扉を開けて小さな細長い個室に入り、その先にあるもう一つの扉を開けて店内に入る。


 そこから店の中を見ると、入り口から右側にある禁煙席の四人掛けテーブルに四人の男子高校生が座席に座っていた。


 彼らの居るテーブルにはドリンクバーで混ぜて出来たのであろう奇怪な色のジュースが置いてあり、その前の座席に座る男子高校生たちが騒いでいた。


 そんな彼らの姿を見て真一は今日、彼らはいつまでここに居座るつもりなのだろうか、と思った。


 このレストラン、『フルートプレート 三ツ谷みつたに駅前店』で週四日、一日五時間のアルバイトとして働いている九田楽くだらく真一しんいちは、学校帰りに寄ってきているのであろう男子高校生たちに視線を向けた。


 四人の男子高校生の内、一番目につきやすい背が高くてひょうひょうとしている高校生を佐倉さくら青年、丸坊主で出っ歯の高校生は江島えじま青年、二枚目風のプレイボーイな雰囲気を感じさせる高校生は林葉はやしば青年、そしてメガネを掛けていて少し太っているオタクのような感じの高校生は滝野たきの青年という。


 真一はよく来店する彼らの会話を仕事中に聞いている内にいつの間にか無意識に彼らの名前を把握してしまっていた。


「……で、天照あまてらすの制服着た女子が道に迷っていたもんだから、声を掛けた訳なんだけどさ」


 プレイボーイ風の林葉青年が、自らの女性との体験談を他の三人に自慢げに話している。


「おい、天照って、天照女学院のことかよ」


「うへえ、よくエリートのお嬢様に声を掛けたりなんて出来るよなあ」


「俺達には真似できん。流石プレイボーイの林葉だ」


 彼らの会話の中にある天照女学院とは、このファミレスのある地域に属する名門女子高校である。毎年難関大学へ多くの進学者を出していることで、全国にその名を轟かせている。


「おいおい……皆よせよ。誰だってやろうと思えばできるさ」


 他の三人からの称賛を受けた林葉青年は、そう答えながらもまんざらでもない表情を浮かべていた。


「で、それからどうなったんだよ」


 江島青年が林葉青年に話の先を聞こうと迫った。


「ああ、で、その天照の女子の事なんだけどさ、声掛けて目的地までの道のり教えてくれたらえらく感謝されて、目的地まで行って彼女が用事を済ませた後、一緒に街を散策したわけよ」


「おいおい、急速に仲が深まっているぞ」


「こら、話の流れを止めるな」


 佐倉青年が滝野青年の頭を叩いた。


「続けてくれ」と、佐倉青年。


「ん、それで街を散策していると『エフォール』なんて店があって……あ、『エフォール』って、知ってるか?」


「いや」


「知らん」


「聞いたこともない」


 林葉青年の話をこっそりと聞いていた真一も彼らに同意した。どういう店なのだろう。


「巷の女子の間では人気のケーキ屋だよ。いつもは行列が出来ていたりするんだけど、この日は平日だったんでそんなに混んでいなかったんだ。そしてくだんの女子が店の外から、ショーウインドウにあるケーキを目を輝かせて見つめていたもんだから、一言、おごろうか、と言ったんだよ」


「おい、待てよ。まさか最初からそのケーキ屋へ女子を導いて奢らせるために街を散策していたんじゃないだろうな」


「当然だろ。女子を落とすのに重要なのは親切心と、少し多めの金だぜ」


 佐倉青年の問いに、林葉青年は胸を張って答えた。


「ううん、この場合、重要なのはお前のようなルックスもだと思うけどな」


「同感だよ」


 顔に大量のにきびがある江島青年と、軽肥満の滝野青年という身体的コンプレックスを抱えている二人が、二枚目の林葉青年をうらやんだ。


「男に褒められても、あまり嬉しくないなあ。まあ、話を戻そうか。最初はおれがケーキを奢るのを女子は遠慮したんだけど、遠慮するな、って一言言ったらすぐに店の中へおれを引っ張って入っていったんだ」


「ふうん、お嬢様学校の女子でも、そこらの女子とは本質的に変わりは無いんだなあ」


「そうさ、そしてその後の流れも同じ。ケーキを食べながら向こうからラインのIDを渡してきて連絡先を交換、次の週にデートの約束」


「ほほう。して、お前としてはあとどれ位でその女子とやれると思う?」


 佐倉青年がファミレスという場に相応しくない下品な質問をする。


「そうだな、あと二回……いや、彼女の家に行くことが出来たなら、次回のデートで十分可能だな」


 その言葉を聞いて他の三人は大きなショックを受けていた。この林葉という男は、自分たちとは違う世界に生きているのだと感じたのだろう。ついでに言うと、ここまでずっとキッチンに行かずにレジの近くでじっと林葉青年の話を聞いていた真一も、大いなるカルチャーショックを受けていた。オレと一、二歳しか年が違わないのに、生意気なヤツだ。


「いつまで立ち聞きなんかしているんですか」


 真一が林葉青年に劣等感を感じた時、真一は後ろから柔らかい板状の物で叩かれた。真一が振り返ると、ウエイターの制服を着た二十代後半の若さにも関わらず、真面目そうで慇懃な口調で話す男、真一のこのレストランでの先輩的存在である飯島いいじまたけしが天井に向かってメニュー表を高く持ち上げていた。


「来たらすぐに早くロッカーで着替えてきなさい」


「だからってメニュー表で叩くこと無いじゃないすか」


「わざわざシフトじゃない日に来ておいて遅刻しているんです。ほら、早く準備をして」


「はーい。すいませーん。着替えてきまーす」


 真一はへらへら笑いながらキッチンへ駆け込んだ。キッチンへ入ると、厨房から離れて井戸端いどばた会議をしている中年の男女二人が椅子に座っていた。


 右の椅子に座っている、髪に白髪の混じっている、荘厳そうげんな顔つきだが、年を取ったことで出てきた老練ろうれんさでどこか優しさを感じさせる中年の男は沼池ぬまいけ隆二りゅうじといい、もう一方の左側の椅子に座っている時代遅れのおかっぱ頭の、隆二とは正反対な人を寄せ付けないような狐のような鋭い目つきの中年女性の名は浅見あさみカオルという。


「おはよーございます」


 真一は高校生時代の部活で何度もした挨拶の癖で、夕方のこの時間帯に朝の挨拶をしてしまった。しかし、隆二やカオルもその挨拶に慣れたのか、彼らも真一と同じような挨拶をした。


「やあやあ、おはようございます。九田楽さん」


 隆二から優しい挨拶。


「あれ、確か今日は来ない日だったんじゃないですか?」


「ああ、暇だったんで店長に電話して来ることになったんです。そういえば、店長は?」


「ああ、店長は午後から出張みたいです。しかし、九田楽くんが来てくれるとは。それは大助かりです」


「ふーん。じゃ、早くロッカールームで着替えなさいよ」


 隆二の感謝のあとに、カオルから冷淡な反応。


「はいはい」


 真一は遥かに年下の自分に対しても優しい挨拶をしてくれる隆二と、自分を見下しているような節を感じさせるカオルの性格の違いにおかしさを感じながらキッチンの奥にあるロッカールームに入り、勤務用の制服をバックから取り出した。


 ──あんなに性格が違う人間が同じ職場に居るのだから、不思議だなあ。


 素早く着替えをこなし、鞄からミントタブレットの容器を出してミントタブレットを二錠口に放り込んで口の中に含み、荷物をロッカーの中に押し込んだ真一はロッカールームから制服の襟元についている蝶ネクタイを整えながらキッチンに出た。


「……言っておくけど、今日はみなみさん、来てないわよ」


 カオルからの突然の言葉に、真一はどてん、と足を滑らせ、その場に転んだ。


「え、来ていないんですか」


 真一は床から立ち上がりながら、カオルに目線を向ける。


「南さん、今日はどうも、家の用事で来れないみたいです」


「残念ね、わざわざ彼女に会うために休日出勤したって言うのに」


 真一の口から「う」と声が漏れ出した。


「ざ、残念って、どういう意味ですか」


「そのまんまの意味よ。あんたが南さんに熱上げているなんて、この職場の人間がみんな知っているんだから」


「え、という事は、沼池さんも」


「ええ、まあ」


 真一は赤面した。自分の職場仲間、みなみ美加みかへの恋心が他の人間に知られてしまっていたとは。と、いう事は、


「もしかして、南さんも知っているんですか。この事」


「いや、彼女自身は気付いていないみたいです」


「ああ、それなら良かった」


 真一はホッ、と溜息を吐いた。


「さあ、どうかしら。気付いていないふりして本当はあんたをいたぶっているんじゃないの?」


 カオルが不吉な言葉を吐く。


「まさか、南さんはそんな事をするような人じゃないっ」


「どうしてそうだと言い切れるのよ」


「だって彼女、女子大に通っている箱入り娘の清楚なお嬢様なんですよ! そんな酷い性格な訳、無いじゃないですかっ」


「さあ、どうかしらね。腹黒な性格なのかもしれない」


「何てことを言う人だ。沼池さんは浅見の言う事なんて、違うって思いますよね」


「え、ええ……まあ」


「そんな、沼池さんは浅見さんの言う事、信じているんですか」


「いや、そうだとは言いません。ですが、何が本当で、何が嘘なのかが判らないこの世の中、一応頭の片隅で覚えておいた方がいいとは、私は思います」


「……もう! 良いですよ! オレはそんな事、信じませんからね!」


 真一は二人にそう宣言してキッチンから出た。キッチンのすぐ横のレジには、真一と同じホール担当(注文やレジ打ちなどの接客の役割)の武が待機していた。


「ちょっと、聞いてくださいよ。飯島さん!」


「声が大きすぎますよ、九田楽くん。お客様の迷惑にならないように、静かな声で」


「そんな、お客様って言ったって、居るのは馬鹿っぽい高校生だけじゃないですか」


「その馬鹿っぽい高校生の会話に真剣に耳を傾けていたのはどこの誰ですか」


「そ、それは別として……とにかく、浅見さんと沼池さん、酷いんですよ! 南さんの事を腹黒だなんて言うんです」


「ほう、腹黒と」


「全く、あんな素敵な女性の事をそう言うなんて、残酷すぎますよ」


「へえ、残酷ですか。ふふふ……」


「ちょっと、何笑っているんですか」


「ふふふ……九田楽くん。君は南さんの事をどんな女性だと認識していますか?」


「どんな女性って、名門の女子大に通っている、清楚な感じの優しいお嬢様だと思っていますよ」


「そう、お嬢様ですか」


 そう言って、武はまた笑った。


「それのどこがおかしいんですか。確かに今時珍しいかもしれないけど、現実に居たって何もおかしく無いじゃないですか」


 真一の言葉を受けて、武が溜息を吐いた。


「……九田楽くん、考えてみてください。名門の女子大に通っているようなお嬢様が、こんなファミレスでアルバイトをすると思いますか?」


「自分の職場を“こんなファミレス”呼ばわりしますか」


「おっと、今のワードは店長にはオフレコでお願いしますよ」


「判りましたよ……だけど、皆がどう言おうとオレは南さんを信じますからね」


「君が彼女の何を信じようが僕はそれで全くもって構いません。しかし、仮に南さんが君の言うような清楚な女子大生だったとしたら、果たして君のような髪の毛を栗色に染めて呑気に日々を過ごしているようなちんぴら浪人生を彼女が人生のパートナーに選ぶのか、甚だ疑問に思うのですが」


「う、うるさいなあ。この髪色、結構気に入っているんですよ。それに、今度の大学の試験、受かる自信あるんですから」


「君のように真面目に勉強をせず、好きな人に会いたいがためにバイトをしに来る人が受かったら、世の受験生が泣きますよ」


「大丈夫ですよ。なってったって、オレには二年分の経験があるんですから。年季ですよ、年季」


「要は君は二度落ちた、と。不名誉極まりないですね」


「もう、今度の今度は本当に自信があるんですから……あっ、飯島さん、お客様が来店しましたよ」


 真一と武が雑談をしていると、店の入り口のドアに白いコートを着て、縁の太いメガネを掛けた女性が居た。年齢は二十代前半、と言ったところだろうか。しかし、小柄な体型で童顔でもあるので、それより下の年齢である様にも見える。


「オレが案内してきます」


 真一は入店してきた女性の方へ向かった。


「いらっしゃいませ。禁煙席と喫煙席、どちらにお座りになりますか」


「禁煙席の方で」


「禁煙席ですね。ではご案内します」


 真一は壁にかかっているメニュー表入れからレギュラーメニューと季節限定のメニュー表を1セット取り、禁煙席の方へ女性を案内した。


 女性を席へ案内している途中、先程の高校生四人組が彼女を熱い視線で見ているのを感じた真一は思春期の高校生たちの視線の餌食にされる女性を哀れに思い、彼らの居る席からできるだけ離れた席へと女性を案内した。


 女性を席に座らせると、真一はテーブルの上にメニュー表を出した。


「お水はセルフサービスとなっております。あちらのドリンクバーからご自由にお取りください。注文が決まりましたら、そこのボタンを押してお呼びください。では、ごゆっくり」


 マニュアル通りに女性への説明を終えると、真一はレジに戻って、そこで待機している武に話しかけた。


「中々のメガネ美人でしたよ。高校生たちが注目していました」


「ふうん。君としては、南さんと彼女、どちらがいいと思います?」


「そりゃあ南さんですよ。オレ、こう見えて結構一途な性格ですから」


「まあ、女性関係で一途な事は人としていい事です」


 武がそう言うと、客の注文を知らせるアラームが鳴った。壁にかかっている電光板の表示を確認すると、注文は今さっき真一が案内した女性からの様だった。


「今度は僕が行ってきますよ」


 そう言って武は注文をした女性の席へハンディ(注文を受ける時に使用する端末)を持って向かった。話し相手が居なくなって暇になった真一は店内をぼんやりと見渡し、男子高校生の会話にまた耳を傾けた。彼らは武に注文をしている女性を見ながら、こそこそと話をしていた。


「なあ、ああいった感じの女はどう口説けばいいんだ。教えてくれよ」


 佐倉青年が林葉青年に質問をしていた。


「お前、メガネかけている女の人が好きなのか」


「おれは知的な感じがする女の人が好きなんだよ」


「そうか、人間は自分とは正反対の性格の異性に惹かれるって言うからな。確かに、お前は知的な感じが全然しない」


「うるさいよ」


 佐倉青年が茶々を入れた江島青年の頭を軽く叩いた。


「とにかく、試しにあの人を口説いて手本を教えてくれよ。日本社会の少子化対策のためだと思ってさ、な?」


 佐倉青年の頼みに、林葉青年は一瞬、「うーん」と唸って顔を曇らせた。


「……判ったよ。だけど、授業料として唐揚げ奢れよ」


「ケチな奴だな」


「いや、林葉の恋愛テクニックを伝授してもらえるんだから、十分安いと思うぞ」


 文句を言う佐倉青年に、滝野青年がフォローを入れた。


「俺としても是非、林葉の恋愛テクニックを聞きたい。一緒に唐揚げ奢ってやるよ」


「あ、おれもおれも」


 滝野青年と江島青年が佐倉青年の唐揚げ代の肩代わりをしたようだ。


「よし、唐揚げ食べたら教えてやる」


 林葉青年がそう言ってテーブルにある注文ボタンを押した。そのアラームの音を聞いて、女性からの注文を聞き終えた武が彼らのテーブルへ向かった。


「すいません、唐揚げをください」


「唐揚げ、一つですね」


「あ、その一つって言うのは、唐揚げが単品で一つとかじゃないですよね」


「はい。一つのセットで五個となってます」


「じゃあ一つで」


「かしこまりました。少々お待ちください」


 武がハンディに注文内容を入力して、レジにいる真一の横を通り、キッチンへ入った。


「注文入りました。サバ塩定食一つと唐揚げ一つです」


 武の声を聞いて、キッチン担当の隆二とカオルが返事をして井戸端会議を止め、調理に取り掛かった。


「あれ、あの高校生、サバ塩定食なんて注文しましたっけ」


「サバ塩定食はメガネを掛けた女性からです」


「納得です」


 真一はそう言って女性の方へ視線を傾けた。水を一杯飲むと、女性は持っていった鞄から、何やら箱を取り出したようだった。


「……彼女が出した箱、アレ、何でしょうか」


「よく判りませんけど、中々に大きいですね」


「黒っぽい箱だ……あ、何かイラストがあります」


「いや、イラストじゃないですね、あれは写真です」


「何の写真だろう……あ、ロボットの写真ですね、青いロボットです、あの写真」


「あ、判りました。あれ、プラモデルですよ」


「そうか、プラモか。写真からしてガンプラですよね、アレ」


 女性は手にしているプラモデルの箱に向かって、笑みを浮かべていた。


「意外だなあ。女の人がプラモデルをするなんて」


「いや、そんなこと無いと思いますよ。僕の妹、ポケモンのピカチュウのプラモデルとか好きですから」


「ガンダムとピカチュウじゃ違いが大きすぎますよ」


 二人がそんな会話をしていると、女性はプラモデルの箱を開けて、プラモデルのパーツの枠組みを箱から出し、鞄から取り出したニッパーでパーツを枠から切り始めた。


「あっ、あの人。ここでプラモ作り始めましたよ」


「まあ、他のお客様の迷惑になっていないのなら、良いんじゃないでしょうか」


「うーん。だけど、他の人の迷惑になっていないとはいえ、ファミレスでプラモ作り、ってのは非常識なんじゃないのかなあ」


 真一がそうぼやいていると、高校生四人組のうちの一人、滝野青年が女性に向かって目を光らせていた。彼の異様な様子を見て、他の三人がどよめいた。


「おい、どうしたんだよ」


「……おれ、あの女の人と話してくる」


「ちょっと待て、どういう事だ」


 林葉青年が動揺する。


「おれなら、あの人とうまく会話が出来そうだ」


「待て、早まるな。趣味がお前と似ているからって、必ず上手く行くと決まったわけじゃないぞ」


「大丈夫だ。ガンダム好きの女に悪い人は居ないっ」


 滝野青年が他の三人に向かって、きっぱりと言った。


「……ガンダム好きの男は、どうなんでしょうか」


 話を聞いていた真一が武に話しかける。


「さあ、彼のような人なんじゃないでしょうか」


「つまり良い人でも、悪い人でもない、と」


「普通の人ですねえ」


 二人が会話していると、滝野青年は席を離れて、パーツをニッパーで切り取っている女性の席に向かっていた。


「飯島さん、彼、止めに行った方がいいんじゃないですか。揉め事になったら、えらいことになります」


「いや、大丈夫でしょう。止めに行くほどの事じゃありませんよ」


「良いのかなあ、それで」


「まあ、あの二人を見ててください」


 真一は武に言われた通りに、大人しく滝野青年と女性を見た。


 滝野青年は女性に向かって、何やら話しかけているようだ。しかし、女性は滝野青年の言葉に一切耳を貸さず、パーツを切り取る手を止めずに作業をしていた。


 その後滝野青年は何とか女性と会話をしようと食い下がったようだが、三十秒ほど経つと顔面に諦めの表情が浮かんで、とぼとぼと自分が元居た席へと戻っていった。しょんぼりしている滝野青年に、仲間から「だから言わんこっちゃない」などと文句が出た。


「いいか、林葉に唐揚げ奢ったんだ、それ見て研究しようや。な?」


 佐倉青年が林葉青年に向かって言った。その言葉を聞いて、林葉青年が「あ、ああ」とぎごちない返事をし、撃沈した滝野青年をなぐさめた。


 真一と武はその様子を静かに眺めていた。


「今、一人の男の恋が静かに敗れましたね」


「ええ、かなりあっさり」


「飯島さん。最初からこうなることを判って止めなかったんですか」


 武が真一の言葉を聞いて、ふふっと笑った。


「……あの女性はファミレスでプラモデルを作ってしまうような人です。それだけ熱中してしまっているという事は、きっと周りの事など作業時の集中力でシャットアウトされているのでしょう。だから自分に話しかけてくる高校生の事など気付きもしない……そう思ったのです」


 真一は武の説明を聞いて、ただただ感心するほか無かった。


「ははあ。しかしまあ、よくそんな事予想できますね」


「何年ここで働いていると思っているんですか。年季ですよ、年季」


 武が少し得意げに言った。


「あ、それ、さっきのオレの言葉じゃないですか」


 真一が武に文句を言っていると、店の入り口にまた新しい客が入っているのに気が付いた。三十代半ばの男女と小さい男の子、この三人は家族だろうか。しかし、その三人とは別に、スーツを着た二十代後半の男が家族と一緒に立っていた。


 彼らを見て、変な構成の客だな、と思いながら真一は入店してきたこの四人組の客の方へ歩いた。


「いらっしゃいませ。四名様、でよろしいですか」


「ええ」


 四人組の中で、一家の父親だと思わしき男が返事をした。


「禁煙席と喫煙席、どちらにお座りになりますか」


「五歳児の子どもが居るのよ、禁煙席に決まっているじゃない」


 一家の母親らしき人物の上から目線の言葉に真一は少し腹を立てた。しかし従業員の立場として、その感情を顔に出してはいけないという事を心得ている真一は、怒りをぐっと堪えた。


「禁煙席ですね。ではご案内します」


「……孝之たかゆき、行くわよ」


 母親はレジの横にある安っぽいおもちゃの棚に目を奪われている、孝之と呼ばれた子どもの手を引っ張って、真一の後ろについて歩き、案内された席に座った。


「お水はセルフサービスとなっております。ドリンクバーからお取りください。ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンを押してお呼びください。では、ごゆっくり」


 席にメニュー表を置いて、真一はレジに戻り、武に話しかけた。


「何ですかあの女の人、こっちがサービス業だからってオレを舐めていますよ」


「恐らくストレスか何かで機嫌が悪くなっているのでしょう。あんまり恨んじゃいけません」


「しかし、どういうお客さんなんだろう。父親と母親とその子供、というのは判るんですけど、あのスーツの男の人はどういう存在なんだろう。あの一家の親戚か何かな」


「親戚にしてはあまり彼らと顔が似ていませんね」


「飯島さんは彼、どんな人物だと思います?」


「うーん、あの男の子の家庭教師とかでしょうか。判断材料が少ないので確信は持てないのですが」


「家庭教師って、あの男の子、まだ小学校にも入っていないくらいの年だと思いますよ」


「今時、幼稚園児でも小学校受験の為に塾で猛勉強する時代です。家庭教師が居たって何もおかしくなんかありません」


「ふうん。オレなんか、“こどもちゃれんじ”ですらやってなかったのになあ」


「まあ、只の推測です。もしかしたら違うかもしれません」


 会話をしていると、キッチンからカオルの声が聞こえた。


「唐揚げ一丁上がり、持って行って」


「はあい」


 真一はキッチンに入り、五個の唐揚げが入っている陶器の器を持って、注文をした高校生たちの席に向かった。


「お待たせしました。ご注文の唐揚げです」


 真一が林葉青年の前に唐揚げの器を置いた。


「よおし、じゃあ女の口説き方を教えてくれよ」


「待て、唐揚げを食べるのが先だ」


 江島青年は林葉青年を急かしたが、林葉青年は箸を取って唐揚げを食べ始めた。


「では、ごゆっくり」


 唐揚げを渡し終えた時、注文のアラームが店内に響いた。電光板の表示によると、先程の一家からの注文の様だ。その表示を見た武がハンディを持って注文を取りに行った。


 レジに戻った真一は、ポケットに入っているミントタブレットを容器から出して、三錠ほど口に含み、武が向かった席に座る一家を観察した。父親の顔色は何だか青白く、母親の表情は苛立っているようだった。武の言う通り、ストレスが溜まっているのかもしれない。一方、子どもの表情は何の屈託もない笑顔に満ち溢れていた。美味しい料理が食べられると思い、料理が来るのを楽しみにしているのだろう。因みにスーツ姿の男は一家に対して、冷めた目線で見つめていた。


 彼らを見て、こりゃオレにはスーツ姿の男の正体は判らないなあ、と思った真一は、彼らから視線を離して、他の客を見た。


 プラモデルを作っている女性は、パーツを切り取り終えて、パーツの組み立てをし始めた。流石に店内で接着剤を使わせるのはマズいか、と思った真一は女性の席へと向かい、女性に注意を促し始めた。


「お客様、申し訳ありませんが……」


 そこまで言った瞬間、あ、いけね、と真一は思った。この人、集中して周りの声に気付かない状況だったんだっけ。そう思った真一は少し大きめの声で女性に声を掛けた。


「お客様」


「……」


「お客様!」


「! あ、すいません、何ですか」


 二度声を掛けて、女性はようやく真一の声に気が付いた。


「申し訳ありませんが、店内でプラモデルの組み立ては、ちょっと」


「え、駄目、ですか」


「接着剤のシンナーの匂いが、他のお客様のご迷惑となりますので……」


「あ、大丈夫です。このプラモ、接着剤が必要ありませんから」


 そう言って女性はプラモデルの二つのパーツを、パチンと音を鳴らして組み合わせた。組み合わさった二つのパーツは右肩の一つのパーツとなった。


「ほら、こんな感じに」


「ああ、接着剤、必要無いんですか。これは失礼しました」


「いいえ、誤解される私が悪いんです。すいません」


「いえいえ。では、ごゆっくり」


 真一はレジの方へ行き、そのままキッチンの方に入った。中では武が調理している隆二とカオルに注文内容を伝えていた。


「ボロネーゼのBセット一つ、お子様セットハンバーグプレート一つ、エビフライプレートBセット一つ、あと豚カツ御膳一つです、お願いします」


 ハンディに記録した注文内容を読み上げながら武はメモ用紙に注文内容を書き取り、それをキッチンの壁に貼り付けた。


「では、お願いします」


「判りました」


「了解です」


 隆二が焼きあがったサバを皿に載せ、味噌汁をお椀に入れたカオルが白米の入ったお茶碗とお新香が乗っている小皿を乗せたお盆にお椀と、サバの乗っている皿を乗せた。


「はい、塩サバ定食あがり、持って行って」


「どうも」


 武がサバ塩定食を乗せたお盆を持って、キッチンを出ていった。


「あの、オレ、何か手伝う事ありませんか」


 真一は次の注文に取り掛かった隆二とカオルに話しかけた。


「ああ、コーンスープを二杯お皿によそって持って行ってください」


「判りました」


 隆二からの指示通り、真一はスープ皿を出して、コーンスープを巨大な窯から皿へお玉を使ってよそいながら、隆二とカオルに話しかけた。


「知ってます? 今のサバ塩定食頼んだお客さん、ご飯が来るのを待ちながらプラモデル作っていたんですよ」


「嘘、そんな事していたの」


 カオルが驚いた口調で言った。


「プラモデルですか。接着剤のシンナーの匂い、あれ結構きついんですよね。止めた方がいいんじゃないですか?」


「いや、そのプラモデル、接着剤を使わなくていいらしいんです」


「接着剤を使わない? なら、どうやってパーツをくっつけるんでしょうか」


「スティックのりとかじゃない?」


「ははは、面白い冗談を言いますね」


 コーンスープをよそい終えた真一が、カオルに向かって笑った。


「……わたし、割と真面目に答えたんだけど」


 カオルが真一に向かって睨んだ。


「……それはすいません」


 カオルの鋭い視線を受けて、真一は少しひるんだ。


「それで、どういう方法でそのプラモデルはパーツを付けるんですか」


「ああ、そのプラモデルなんですけど、何もパーツに付けずにパチンとパーツ同士を組み合わせるみたいなんです」


「組み合わせる? パズルみたいにくっつけるんですか?」


「ええ、そうです。パズルみたいな感じでくっつけるんです」


「ははあ、私がやっていた頃とは全然変わっているんですね、プラモデルというのは」


「沼池さん、昔プラモデルが好きだったんですか?」


「ガンダムが大好きだったんですよ」


「へえ、意外ですね」


「当時は世の男はみんなガンダムが好きでしたからね」


「沼池さん、当時何歳でした?」


「何歳でしたかね……確か高校を出て、自動車会社の寮で生活していた頃ですから、十八歳くらいでしたか」


「十八歳でガンプラしていたんですか」


「今思えば、年甲斐もなく恥ずかしいばかりで」


「ははは。ところで浅見さんは十八の頃熱中していたものって、何だったんですか」


「歳がばれるから言わないわよ」


「おっと、それは失礼」


「もう、無駄話なんかしてないで、早くスープを持っていっちゃいなさいよ。冷めちゃうわよ」


「あ、いけね」


 真一はコーンスープの入ったスープ皿、二皿をトレーに乗せ、それを持ってキッチンを出た。一家の座っているテーブルへトレーを持っていった真一は、


「Bセットのコーンスープです」


 と言ってテーブルにスープ皿を置いた。父親と母親と思われる男女が置かれたスープ皿を「どうも」と言って自分の近くへとよそった。


「ねえ、ぼくのハンバーグはまだ?」


 夫婦の子どもと思われる孝之少年がはしゃぎながら真一に訊いた。


「今、大急ぎで作っているから、もう少し待ってね」


「はーい」


 そう言って孝之少年はお子様セットのおまけでもらった安っぽいおもちゃで遊び始めた。


「では、ごゆっくり」


 真一はそう言ってレジへ戻った。レジに戻ると、近くにあるマガジンラックから林葉青年が、漫画雑誌を一冊取って席へもっていったのを見た。


「見ろよ、今週のジャンプだぜ」


「それより先に口説き方を見せてくれよ」


「まあまあ、慌てるなって。リラックスしてからやらせてくれよ」


 そう言って林葉青年は漫画雑誌を開いて読み始めた。林葉青年の隣の席に座っている江島青年が漫画雑誌を横から覗く。


「おい、今週のゆらぎ荘、凄いことになってるぞ」


「俺にも見せろよ」


「おれにも」


 向かいの席に座っている佐倉青年と滝野青年が椅子から身を乗り出して雑誌を覗いた。


 彼らの様子を見て、何が凄いのだろう、後でオレも見てみようかしらん、と真一は思った。その時、キッチンから隆二の声が聞こえた。


「豚カツ御膳とボロネーゼ、出来ましたよ!」


「はあい」


 真一はキッチンに入って、出来上がった豚カツ御膳とボロネーゼを受け取り、一家の居るテーブルへと運びに行った。テーブルでは、スーツ姿の男を中心に、何やら話し合いが行われていた。


「……奥様は慰謝料として二百五十万円、そして息子の孝之君の親権を請求されています。今回のケースでいきますと裁判で争った場合、旦那様の証言が通るのは極めて難しいと思われます。ですので、無理に裁判をして費用を使うより、当事者同士で全てを終わらせるのが宜しいと思われますが……」


 スーツ姿の男がそこまで言うと、真一の存在に気が付いたのか、一旦話を止めた。


「お待たせしました。豚カツ御膳とボロネーゼです」


 その二つをテーブルに置くと、奥様と呼ばれた女性がボロネーゼを取り、喋っていたスーツ姿の男が豚カツ御膳を取った。


「ねえ、ぼくのハンバーグは?」


 孝之少年が真一の服を引っ張った。


「ごめんね、もうちょっと待ってね」


「待ちきれないよ。だって、パパとママとオジサンの話、聞いてて全然面白くないもん」


「孝之っ、大人しく待ちなさい」


 母親に叱られた孝之少年は、しょんぼりして黙ってしまった。父親の方は黙ってはいたものの、苛々した態度で孝之少年を見ていた。


「で、ではごゆっくり」


 気まずくなった場から逃げるように、真一はレジへ戻って、待機している武に話しかけた。


「飯島さん、あの空間、物凄く嫌な感じです。あんなドロドロした空気、オレ、大嫌い」


「どうも、見る限りあの家族の家庭環境は最低みたいですね」


「それにしても、あのスーツを着た人、誰なんでしょう。裁判とか言っていたけど」


「弁護士なんじゃないでしょうか。恐らく、あの夫婦から離婚についての相談役として頼まれたのでしょう」


「ふうん、離婚の原因は奥さんと旦那さん、どっちなんだろ」


「……九田楽君、これ以上考えるのは止めておきましょう。他人の込み入ったプライバシーを探るのは、あまり褒められたもんじゃありません」


「そうだろうけど……あの孝之っていう男の子、可哀想ですよね。一家が散り散りになってしまうとも知らずに、無邪気にハンバーグを楽しみにしている」


「確かに可哀想な話です。しかし、僕たちが止められることではありません」


「……何も、自分の子どもの前で離婚の話をすることなんて無いと思うけどなあ」


 真一は、はあ、と溜息を吐いた。


「エビフライプレート、出来ましたよ!」


 キッチンから隆二の声が聞こえた。真一はキッチンへ入ってエビフライ、その他色々の具材が乗ったプレートを取り、再び一家の居るテーブルへ運んだ。運び終わると、別のテーブルのメガネを掛けた女性が、定食を全て食べ終えて、再びプラモデルの制作に取り掛かっていた。真一は彼女のテーブルへ、空になった容器の乗っているお盆を取りに行った。


「お盆をお下げします」


 女性は真一の声に気付きもせずに、プラモデルを作る手を止めずに集中していた。真一はそんな彼女の姿を見て、やれやれ、と思いながらお盆をキッチンへ持っていき、武の居るレジに戻った。


「飯島さん、流石にあの女の人、帰らさせた方がいいんじゃないですか? いつまでもあのテーブルを占拠してプラモ作らせる、っていうのはマズいと思いますし」


「そうですね、上手く彼女を説得して帰らせ……」


 武はそこまで言うと、急に口を閉じて黙り始めた。武の異様な様子を見て、真一は不審に思った。


「どうしたんです、飯島さん? 急に黙ったりなんかして」


 真一の言葉に反応せず、数秒間黙っていた武は、何やら思い付いた顔をすると、キッチンへ入って、中の隆二とカオルに声を掛けた。


「すいません! お子様セットのハンバーグプレート、あとどれ位で出来ますか!」


「あ、今出来上がったところです」


「判りました。そのお皿、そのままにしておいてください!」


「わ、判りましたが……どうしたんですか、急に」


「詳しい事は後で話します!」


 キッチンから出た武は、真一に「あの皿を運ばないように」とだけ言って、プラモデルを作っている女性の居るテーブルへと向かった。遠くから真一が見ると、武は女性に向かって、何やら頼みごとをしているようだった。最初はプラモデルにしか意識の無かった女性だったが、武が何度も話しかけたのか、武の存在に気が付いて、彼の話を聞いたようだった。


「飯島さん、何してんの」


 キッチンから出てきたカオルが、真一に声を掛けた。


「さあ、何が何だか」


 女性と話を終えると、女性は荷物を持って立ち上がり、武の後ろを歩き始めた。その後、一家と弁護士の座っているテーブルへ行き、そこでつまらなそうな顔をしている孝之少年に話し掛けた。あの人は一体、何を考えているのだろう?


 武と孝之少年の会話の途中、母親が席を立ちあがって話に割り込んだようだったが、武が何か二、三言話すと、すぐに黙り、椅子に座った。


 話が終わると、武は後ろに女性と孝之少年を連れて、真一たちの方へ歩いてきた。


「少し、通してくださいね」


 そう言って武は女性と孝之少年を連れて、キッチンの中へ入っていった。


「ちょっと、飯島さん。何考えているんですか」


 真一が武に問い詰めた。


「なに、大したことじゃありません。事が済んだら説明しますから」


 そう言って武はハンバーグや色々なおかずの乗った皿を持って、女性や孝之少年と一緒にキッチンの奥の方へと入っていった。


「……あの人、何考えているんだろ」


 真一がそう呟くと、武はキッチンの奥にある、店の事務所の扉を開けて、事務所の中へ女性と孝之少年を連れて入っていった。真一は彼らのあとを追いかけて、事務所の中へ一緒に入った。事務所の中には誰もおらず、照明が点いていなかったので真っ暗だった。


「九田楽くん。部屋の照明を点けてください」


 皿を持って手が塞がっている武は、事務所に真一が入ってきたことに気が付いて、真一に指示をした。真一が事務所の照明を点けると、部屋に明かりが灯った。武は来客用のテーブルにハンバーグの皿を置いて、孝之少年と女性をソファに座らせた。高価でゆったりとしたソファに座った孝之少年は、ソファに座りながらはしゃぎ始めた。


「わあ、ふかふかのソファだ! ねえ、お兄さん。ここでハンバーグ食べていいの?」


「ええ、お父さんとお母さんの話が終わるまで、ここでゆっくりしていて下さい」


 武が孝之少年に向かってそう言うと、女性の方に視線を移した。


「孝之くんがご飯を食べ終わったら、さっき頼んだようにプラモデルの話をして孝之くんに付き合ってあげて下さい。それまではプラモデルを作って暇をつぶしていて下さい」


「判りました」


 武と女性がこの会話している間に、孝之少年はいつの間にかハンバーグを食べ始めていた。


「では、お願いします」


 そう言って武は女性と孝之少年に微笑み、事務所を後にした。真一も彼に続いて事務所から出る。


「なるほど、これで判りましたよ。今やったことの目的は、孝之くんを両親の離婚話から遠ざけて、それと同時にあの女の人を席から外させて孝之くんの相手をさせるためだったんですね」


 真一が納得した口調で武に話をする。


「何? あの男の子、何があったの?」


 真一の横から、カオルが口を挟んだ。


「あの男の子の両親、今、弁護士さんと一緒に離婚協議の話をしているんですよ」


「え、この店でそんな話しているの?」


「横から話を聞く限りでは」


「そんな、ファミレスに来て子どもの前でする話じゃないと思うのですが……」


 カオルと一緒に話を聞いていた隆二が、哀し気な口調で呟いた。そこに武が、


「まあ、だから離婚の話なんかを聞かせないようにする為に、彼を事務所へ連れて行ったんですがね」


 と、隆二に言った。


「そういえば、男の子と一緒に入った女性は?」


 女性の事を知らないカオルが質問をした。


「彼女はさっきオレが話した、プラモを作っていたお客さんです」


 武の代わりに、真一がカオルの質問に答えた。


「ああ、例のプラモの」


「いつまでもテーブルを独占してプラモを作られても困るので、孝之くんのお世話をしてもらう事になりました」


「成程、一石二鳥と言う訳ですか」


 隆二が感心した口調でそう言った。


「さて皆さん。事が片付いた所で、仕事に戻りましょう」


 武はそう言ってキッチンから出て行った。


「流石、この中で一番この店の勤務歴が長い飯島さんです。私も彼を見習わなければいけませんね」


「あれ、池沼さんって、まだここで働き始めてから、そんなに長くなかったんですか」


 真一が驚いた口調で隆二に訊いた。


「ええ、定年で会社を退職して、それから働き始めたので今年で二年目でしょうか」


「ふうん、浅見さんはここで働き始めてどれ位なんですか」


「さあ、どうだったかしらね? わたしが来た時には、もう飯島さんはここで働いていたと思うけど」


「そうなんですか……あの人、普通の会社でもうまくやっていけそうなのに、どうしてファミレスで働いているのかなあ?」


 真一が首をかしげながら呟いた。


「飯島さんだからこそ、じゃないでしょうか。この店での立ち回り方を把握しきっているからこそ、この職場に生きがいを感じているのだと思います」


 隆二が武への敬意を込めながら、真一に話をした。


「確かに、そうかもしれませんね」


 真一はそう言ってキッチンを出て、レジの前で武の隣に立った。そこから店内を見回すと、男子高校生四人組が、何やら揉めている様だった。


「おい、林葉がもたもたしているから、あの女、店の奥へ行っちまったんだぞ」


 滝野青年が、林葉青年に詰め寄っていた。


「知らないよ、急に店の人に連れていかれたんだからさ。おれにどうしろって言うんだよ」


「だけど授業料出したんだぞ、このままお前に唐揚げ食わせただけで返させるなんて、俺は納得できないからな」


 滝野青年が文句を言うのと同時に、佐倉青年と江島青年も「そうだそうだ」と一緒に文句を言った。林葉青年もその文句に耐えかねたのか、三人に説得をした。


「判った、判ったから! あの女の人が店の奥から出てきたタイミングで話しかけるからさ、な?」


 林葉青年の説得で、他の三人は納得し、テーブルにあるジュースを飲んだ。ドリンクバーで色々なジュースを混ぜ合わせた飲み物だったので、ジュースを飲んだ三人は顔をしかめた。佐倉青年がジュースを口に含んで、「混ぜなきゃよかった」と呟いた。


「……ちょっと悪い、おれ、トイレに行ってくる」


 そう言って、林葉青年が席を立ちあがり、レジの前の真一と武の前を通ってトイレの扉を開けて、中に入った。


「……真一くん、彼、追った方がいいかもしれません」


「……は?」


 真一は隣にいる武の呟きに困惑した。


「彼、林葉青年がどうしたんですか」


「トイレに行けば判ります。急ぎましょう」


「は、はい」


 真一は武の後ろについて、一緒にトイレの中へ入った。


「あ、飯島さん!」


 真一と武がトイレに入ると、中では林葉青年が天戸へよじ登り、店から脱出しようとしていた。


「君、なにやっているんだっ」


「うげ、やばいっ」


 真一たちに気が付いた林葉青年は急いで店から脱出しようと窓を超えようと、壁のタイルにかかった足をじたばたさせた。


「おい、待てっ」


 真一と武が林葉青年の所へ走っていき、逃げようとする林葉青年の足を掴み、彼を下ろそうとする。


「おい、何するんだっ。おれの足を離してくれっ」


 窓枠にしがみついて抵抗する林葉青年だったが、二対一のパワーバランスに勝てるはずもなく、すぐに引きずり降ろされ、落ちた時に床に尻餅をついてしまった。


「くそう、二対一なんて卑怯だぞ」


 林葉青年が真一に向かって悪態をついた。


「目的は何だ、食い逃げか?」


 真一が厳しい口調で林葉青年を問い詰める。


「ち、違えよ」


「じゃあ何で逃げようとしたの」


「あ、あんたらには関係ないだろっ」


 真一に林葉青年は反抗的な態度をとる。そんな彼の前に武が出た。


「九田楽くん、ここは僕から説明しましょう」


「飯島さん、彼が逃げようとした理由、判るんですか」


「おおよそは」


 武のその言葉を聞いた林葉青年は、激しく動揺した。


「嘘だ、おれの悩みなんか判るわけ無いっ」


「いいえ、君と君のお友達の会話を聞いていれば、君が店から逃げようとした理由が判るんです」


「まさか、そんなことできる訳ないだろ」


「まあまあ、落ち着いて」


 動揺し続ける林葉青年を真一がなだめる。


「飯島さん、教えてください。どうして彼は逃げようとしたんですか」


「ええ、それを話す前に……君、林葉さんといいましたね?」


「……そうだけど」


「これからこのアルバイトの九田楽くんに説明することは、割と君のプライベートに関わる事だと思うので、あなたにあらかじめ話していいかどうか了承を取っておこうと思うのですが……」


「……好き勝手話していいよ。どうせ、外れるだろうし」


「では、まず一つ目……」


 武は本題に入る前に一度、ゴホン、と咳払いをした。


「まず、君は一緒に来店したあの友達三人に嘘をついている」


 それを聞いて、林葉青年は声には出さなかったものの、明らかな動揺を表情に出した。


「二つ目、君は女性に声を掛けるつもりなど一切無い」


「うっ」


「三つ目、一つ目で言った君が友達についている嘘とは、自分がプレイボーイであるという事」


「うげっ」


「そして最後に……君は友達に女性を誘うテクニックを伝授するのを安請け合いしてしまい、自分にはそんな事出来ないと思い時間稼ぎをして悪あがきをした。しかしこれ以上逃げようがないと思ったので、ここから逃げようとした」


「ど、どうしてそこまで」


「その反応……正解ですね?」


 林葉青年は武の問いに、顔を縦に何度も振って返事をした。


「……飯島さん、どうしてそこまで言い当てることが出来たんですか?」


 真一が林葉青年の秘密を全て暴いた武に訊いた。


「まずおかしいと思ったのは、この林葉さんが天照女学院の生徒と一緒にケーキ屋に行ったというくだりです」


「……? それのどこがおかしいんですか? 確かに天照女学院はお嬢様学校とは聞きますけど、生徒は思春期の高校生なんだから、普通に恋愛もするんじゃないですか?」


「確かにそうかもしれません。しかし、僕が女性の知り合いから聞いた話によると、あの学校では“男女交際禁止”なる校則があるそうです」


「だからって、絶対に異性とのお付き合いが無いとは言い切れないでしょう。平気で校則を破るやんちゃな生徒だって居るかもしれないじゃないですか」


「ええ。ですが最近、天照女学院で生徒会のメンバーの知り合いの生徒が“男女交際禁止”の校則に反して、それをきっかけに大騒動が起こった、という噂を聞いたことを思い出したんです。果たしてそのような噂の流れる状況で進んで異性と接触する生徒がいるものだろうか、と疑問に思ったんですよ」


「だけどあのケーキ屋の話は? そんなすらすらと出せる話じゃないと思いますよ。第一、嘘だった場合、調べればすぐに嘘だって判っちゃいますよ」


「そんな事は駅などに置かれている近辺のガイドブックなどを見れば判る事です。『エフォール』と言えば、この辺りでは結構有名なケーキ屋です。きっと将来彼女が出来た時のシミュレーションの為に調べていたのだと思いますよ」


 武の今の発言を聞いて、林葉青年がトイレの隅でうずくまった。シミュレーション、の辺りが彼の心の触れてはいけない部分を刺激してしまったらしい。武が恥ずかしがる林葉青年に気付いた。


「なに、気にすることありませんよ。思春期の男子なら誰しもやってしまう事です。ね? 九田楽くん」


「うっ」


 真一は自分がかつて、近所に住んでいた幼馴染でデートの妄想をしていた事を思い出してしまった。因みに彼女は今は上京して、東京で大学の先輩とアパートで同棲しているらしい。


「うへえ。嫌な思い出、思い出しちゃったなあ」


 真一は赤面して頭を掻いた。


「……だけど、それだけじゃ決め手にならなかっただろ」


 林葉青年はうずくまりながら、ぼそりと呟いた。


「ええ、あくまで天照女学院での騒動は噂ですからね。しかし、その後、女性を口説くという件が出てからというものの、あなたの発言はどうも歯切れが悪くなりました。そして女性に話そうとしまいと、明らかな時間稼ぎをし始めた。この辺りで君が友達に嘘をついて、約束を守るつもりが無いという事を確信しました。そしてここへ入ったあなたがもしかしたら店から逃げるかもしれないと思って、ここに来た訳です」


 武の話を聞き終わった林葉青年は、はあ、と溜息をついた。


「……で、これからおれをどうするつもりなのさ。このまま席に戻してくれるのか、それとも食い逃げのような真似をしたからって、家や学校に連絡に連絡を?」


「まあ、店からこそこそと逃げようとした場合、普通は警察に連絡を入れますね。ですが、今回はちょっと食い逃げとは違うので、取り敢えず特別にお咎めなしという事で。当然、褒められた真似じゃありませんがね」


「だけど、どうしたもんかなあ。赤の他人の従業員さんらにばれちゃったという事は、近いうちに皆にばれちゃうんだよなあ」


「まあ、だろうね。赤の他人のオレたちが突き止めちゃったんだから」


「九田楽くんはただ立って話を聞いていただけでしょう」


 武が真一にぼやいた。


「……これが年貢の納め時、って奴かな。嫌だけど、このまま全部本当の事を話した方が良いのかなあ」


「林葉さんは、どうしたいんです?」


「出来ればこのまま嘘をつき通したい。本当の事を話して今後仲間外れにされるなら、罪悪感はあるけど、嘘をつきまくるほうがいいに決まっている」


「……そうですか」


「って、おれ、なんでこんな事を赤の他人に話しているんだろ。助けてくれるわけでもあるまいし」


 そう言って、林葉青年は武から目線を外し、俯いてしまった。


「……九田楽くん、君、先にフロアへ戻っていて下さい。いつまでもあそこを開けておくわけにはいきません」


「先に? 飯島さんは?」


「僕も少ししたらすぐに行きます」


「判りました」


 真一は武と林葉青年を残してトイレから出た。真一がトイレから出ると、彼の耳に中年と思わしき女性の大きな怒鳴り声が聞こえた。


「だから! 慰謝料を減らしてほしいんだったら、先にその相手の女を呼べと言っているでしょう!」


 その怒鳴り声を発しているのは、席から立ち上がって向かいの席に座っている夫を見下している孝之少年の母親だった。真一たちがトイレに行っている間に、フロアの状況は酷いものになっているようだった。


 真一は彼女の居るテーブルへ向かい、この怒鳴り声を鎮めようとした。


「お客様、他のお客様のご迷惑となりますので、静かにしていただかないと」


「うるさいっ、あんたのようなペーペーには関係無いのよ!」


「ぺ、ペーペー……」


 ペーペーの一言に浪人生、九田楽真一は傷ついた。


「とにかく、今すぐ浮気相手の女をここへ呼びつけなさいっ。そっちの誠意を見せてくれない限り、慰謝料は一銭たりとも減らさないわよっ」


 彼女の怒鳴り声を受けて、彼女の夫の顔は青ざめていた。


「だ、だから何度も言ったろう! 彼女は今日は忙しくて来れないんだって!」


「そっちの都合なんか関係無いわよ! 今、連絡する位できるでしょう! だから今すぐ電話するのよっ」


 彼女の迫力に、夫、一緒に座っている弁護士、そして真一は震えあがるしかなかった。


 どうしたものか、とパニックになった真一はキッチンへ逃げ込んだ。逃げる際中、高校生たちが「何だ何だ」と、怒鳴り声を発する夫人を見ていた。


 キッチンに入った真一は、そのままぐったりと厨房に倒れこんだ。


「ちょっと何、何が起こっているの」


「今、女性の怒鳴り声が聞こえてきましたが……」


 ホールから逃げてきた真一に、カオルと隆二が訊いた。


「た、大変です。孝之くんのお母さんが怒鳴りだして、収拾がつかない状況です」


「孝之くんって、今事務所に居る子?」


「ええ。どうも孝之くんのお母さん、旦那さんと離婚の慰謝料の件で揉めているみたいです」


「飯島さんは今どうしています? 彼ならどうにかできるとおもうのですが……」


「飯島さんは今、トイレから店の外へ逃げようとした高校生と話をしている所です」


「え? どういう事です、それは」


「その件は後で追々話します。今は、あの夫人を何とかしないと」


 真一が溜息をつき、場が沈黙した。


「情けないわね。分かったわ、ここはわたしが何とかします」


 カオルが静寂を破って、真一にぴしゃりと言った。


「同じ女として、彼女と話してくる」


「そんな、浅見さん、大丈夫なんですか」


 真一のその言葉を背に受けて、カオルはキッチンから出ていった。


「安心してください。浅見さんならきっと、何とかしてくれるはずです」


 心配する真一を、隆二がなだめる。


「何とかって、何をするんだろうなあ」


 真一はキッチンから出て、ホールの様子を見に行った。未だ怒鳴り続ける夫人のもとへ、カオルが向かっている。


「いい! 今すぐここへ来させるのよ!」


 夫人は携帯で電話をする夫に、怒鳴りながら指示をしていた。夫はそれに従いながら電話相手に話している。


「そんな、ここには来れないって……頼む、何とかして来てくれ……え? サングラスを着けて行く? いいよ、この際どうでも……判った、頼んだよ」


 夫はそう言って、電話を切った。


「これで満足だろ。だから減額の話を……」


「減額? 調子に乗るんじゃないわよ! よくもまあ、浮気しておいてそんな事をいけしゃしゃあと言えるわね!」


 夫の電話が終わると、夫人はまた怒鳴り始めた。それを見かねたカオルが夫人の前に出た。


「……何よ、あんた」


 カオルに気が付いた夫人が荒々しい声で言う。


「ここの店の料理人です。さっきからあなたがここで怒鳴っているとの話を聞いて、ここに来たんですけど」


「何、そんなのアンタたちに関係無いでしょ」


「確かに関係ないかもしれないけど、わたしたちは大迷惑してるのよ。すこしは静かにしてもらえないかしら」


「ふん、悪いのはこの男よ」


 夫人は震える夫を指差した。


「この男が私を怒らせたから、わたしは怒鳴っているのよ。文句を言いたければ、この男に言いなさいよ」


「みっともない女ね」


「何ですって……」


 そう言って夫人は歯を食いしばった。


「いい? これ以上こんなこと続けていたら、この店から追い出すことだってできるんだから。それだけは覚悟しておきなさいね」


「そんな事、出来ない癖に」


 余裕の表情を浮かべる夫人、しかしカオルは彼女にぴしゃりと言い放つ。


「出来るわよ。わたしは長い間ここで働いてきて、そんな目に遭ったお客さん、たくさん見てきているんだから。判ったらこれ以上騒ぎを起こさない事ね、いい?」


「……ちっ」


 夫人はカオルに向かって舌打ちをし、席に座った。カオルは夫人の舌打ちを無視して、真一と隆二の居るキッチンの入り口に戻った。


「浅見さん、今の凄かったです。オレには浅見さんとあの人との目と目の間に電流がバチバチっと走っているのが見えました」


「別にそんな大したことでもないわよ。人生の先輩として少しだけアドバイスをしただけなんだから。ほら、仕事に戻るわよ」


 そう言ってカオルはすたすたとキッチンの中へと入っていった。


「……いや、だけど、圧倒されたんだけどなあ、オレは」


「君にもいつか、ああいったことが出来るようになるかもしれませんよ。九田楽さん」


 隆二は真一にそう残して、カオルと一緒にキッチンに戻った。


 そんなこと言われても、オレにはそんなことできないよなあ。と真一が思っていると、武と林葉青年がトイレから出てきたのが見えた。林葉青年は元居たテーブルに戻り、長い間トイレに籠ってどうしたんだよ、など友達から質問攻めを受けていた。


 武はレジにいる真一の隣に立った。


「飯島さん、トイレで林葉青年と何を話していたんですか?」


「今後の事について、少し」


「今後の事? 彼の相談でも聞いていたんですか」


「まあ、そんなものです。さて、九田楽くん」


「どうしたんですか」


「この後、軽い騒ぎが起きますが、きみは大人しく僕の指示に従って、余計な手出しはしないように」


「は?」


 真一が武に向かって、ぽかんと口を開いていると、武は高校生四人組に視線を向けていた。

真一も彼らに目を向けると、林葉青年が先程マガジンラックから持ってきた雑誌をテーブルの下へ隠すように持って、ページをめくっていた。


「……飯島さん。彼、何しているんでしょう」


「シッ、黙って」


 やれやれ、また何かするつもりなのだろう。少しぐらい自分にこれから何をするのか説明してくれたって良いじゃないか、と真一は武に対して思った。


 真一が呆れながらしばらく林葉青年の様子を見ていると、彼は信じられない光景に我が目を疑った。林葉青年がテーブルの下に持って、読んでいる雑誌のページを、破り取り始めたのだった。


 まさか、と思って何度か瞬きをした真一だったが、林葉青年は間違い無く雑誌から十数ページ分の紙を破り取ろうとしていたのだった。


「飯島さん、あれ……」


 真一がそこまで言った時、武は既に林葉青年の居るテーブルに向かっていた。


「君、何をしているんですかっ」


 武が大袈裟な芝居じみた声を上げて、林葉青年の腕を掴んだ。掴まれた林葉青年の手から雑誌と、破られたページがパラパラと舞い落ちた。


「この雑誌は、この店にあったものですね?」


 林葉青年は武から目を逸らし、沈黙する。


「どうなんですかっ」


「そ、そうだよ! そこのマガジンラックにあったやつだよ!」


「それは聞き捨てなりませんね、ちょっとついてきてください」


 武はそう言って林葉青年の腕を引っ張って、テーブルの外へ林葉青年を引きずり出した。


「九田楽くん! この人を引っ張るのを手伝って!」


「え、あ、はい!」


 真一は武の所へ行き、武と一緒に林葉青年の腕を掴んだ。


「このまま事務所まで引っ張りましょう」


「事務所? 事務所には孝之くんたちが……」


「それはいいから、引っ張って!」


「は、はい」


 真一と武に捕えられた林葉青年は二人に抵抗するものの、その努力も虚しく、ずるずるとキッチンへと引きずられていったのだった。そんな林葉青年に友人から「何やっているんだ」「だから言わんこっちゃない」などの言葉が吐かれた。


「ちょっと、待ってくれっ。腕を放してくれよっ」


「あなたが悪いんです、雑誌を破り取ったりするからっ」


「おれは悪くないんだっ。今週のゆらぎ荘がエッチ過ぎたのが悪いんだああっ」


 林葉青年はそう叫んで真一と武によってキッチンの奥へと連行されていった。


「ちょっと、ちょっと、今度は何よ」


 引きずられる林葉青年を見て、キッチンの隅にある椅子で休んでいたカオルと隆二が立ち上がった。


「何か、この高校生がマガジンラックにあったジャンプからエッチな漫画を破り取ったみたいですよ」


 真一がそう言うと、林葉青年が顔を赤くして首を横に激しく降った。


「違う! おれはこの店員さんの指示通りやっただけなんだっ」


 林葉青年は武に目線を向けながらキッチンに居る店員全員に叫んだ。


「飯島さんが!? 一旦何の為に!?」


「まずは事務所へ行ってからです。さあ、引っ張って」


 真一は武に言われるがままに林葉青年をキッチンの奥にある事務所へと引っ張っていった。


「沼池さん、手が塞いでいるので事務所のドアを代わりに開けてください」


「わ、判りました」


 隆二は武に頼まれて、事務所のドアのドアノブを回し、ドアを開いた。


「さ、運びますよ」


 真一と武は林葉青年を事務所の中へと引きずり込んだ。それを見た事務所の中に居る孝之少年と女性が林葉青年の所へ近寄った。


「わあ、何? この変なお兄ちゃん」


「へ、変な、って……」


 孝之少年の言葉に、林葉青年はショックを受けた。


「あの、何者なんですか、この男の子は」


 女性が武に問いかける。


「ちょっと、あなたにもう一つ、頼みたいことがあるんです」


「あの、あたしに何か?」


 女性が武に疑問の表情を向けた。


「お願いがあるんです。暫くこの高校生、林葉さんと恋人のふりをしてやってはくれないでしょうか」


「えっ」


 林葉青年が二人の会話を聞いて動揺した。


「そんな、そこまでおれは望んでなんか」


 女性にそう言いながら、林葉青年が赤面する。


「あの、一体どういう事なんですか、これって」


 女性はきょとん、とした目で赤面する林葉青年を見る。


「ええと、それは、あの」


「ここは僕から」


 しどろもどろになる林葉青年の代わりに、武が説明を始めた。


「この林葉さんは友達三人と一緒にこの店へ来店したのですが、そこでこの林葉さんは自分のプレイボーイとしての武勇伝を語りまして」


「プレイボーイ? どうしてそんな子があたしなんかと恋人のふりをする必要があるんですか?」


「実は林葉さん、プレイボーイじゃないんです」


「え?」


「友達に自分はモテているとこれまでずっと嘘をついていたんです」


「ええっ」


「それでその嘘を信じていた友達から、ちょうど店に来ていたあなたを口説いて、それを見せてくれと頼まれたんです」


「あたしを口説く? そんな、どうしてあたしなんか……」


 女性の問いに、林葉青年はこれまで以上に顔を赤くさせて口を開いた。


「だってあなた、美人だものっ」


「え、あたし、美人なの?」


「そうだよっ。あなたがこの店に来た時、おれたちがあなたを見つめていた事に、気付かなかったのかっ」


「ええっ。嘘よっ」


「嘘なんかじゃないっ」


 林葉青年の叫びを聞いた女性は頬を赤くして、自分の隣にいる孝之少年を見た。


「ねえ、孝之くん。お姉さんの事、美人だと思う?」


「うん、ゆづきお姉さん、可愛いと思う」


 孝之少年は何の恥じらいもなく、女性に向かって笑顔で言った。「そ、そうだったんだ」と女性は呟く。


「話を戻しましょうか」


 武は咳払いをして話の筋を元に戻そうとする。


「さてと、林葉さんは友達に頼まれてあなたを口説くことになったのですが、何せこれまで女性との交流が無いものですからあなたを口説くことなんて自分には無理だ、そう思った林葉さんはトイレからの逃走を試みました。

 しかし、林葉さんの言動を不審に思った僕と、今僕と一緒に林葉さんを掴んでいる九田楽くんが逃走を図った林葉さんを捕え、事情を聴き、あなたに直接協力をしてもらおうとここへ来た訳なのです」


 これまでの事情を武が説明し終えると、林葉青年が声を出した。


「あのさ……ちょっと言いたいことがあるんだけど」


「何です?」


「もうそろそろおれの腕、放してくれないかなあ」


 林葉青年はホールでとらえられた時から、今の今までずっと真一と武に両腕を掴まれて引きずられている体勢にいたのだった。


「いつまでもこの体勢でいるの、かなり体が痛いんだけども……」


「あ、これは失礼」


 真一と武は同時に林葉青年の腕を放した。そのせいで彼は床に強く尻餅をついた。


「いてて……また尻餅かよお」


 林葉青年は立ち上がりながら痛めた尻をさすった。そして頬を染めたまま女性に目線を向けて、彼女に話しかけた。


「……あの、一つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな」


「……ええ」


「名前、教えてくれないですか?」


「……あたしの名前は、新倉にいくらです。下の名前は夕月ゆづき


「……新倉さん」


「夕月、って呼んで」


「夕月さん、お願いがあります」


 林葉青年がごくり、と唾を飲んで覚悟を決めた。


「友達の前で、おれの彼女のふりをしてください」


 彼はそう言って夕月に頭を下げた。頭を下げた林葉青年のもとへ、夕月がゆっくりと歩み寄った。


「……いいよ、あたしで良ければ」


 夕月が顔を上げた林葉青年に向かって微笑んだ。


「! いいんですか!」


「だって恋人のふりといえばアニメの定番じゃない! あたし、昔から憧れていたのよ」


 そう言って夕月は子どもの様にはしゃぎだした。


「……普通、逆だと思いますけどね、飯島さん」


「……九田楽くんは黙っていなさい」


 真一と武が横からそんな会話をしていると、夕月は林葉青年の手を取った。


「それじゃ、その友達の所へ行こうか」


「……ごめんなさい、こんな事に巻き込んじゃって」


「いいの、こんな経験、滅多にあるもんじゃないし。で、どんな設定で行く?」


「ええと……悪そうな高校生に魅了されてしまった女、はどうですか」


「うん、いい設定ね!」


 そう言って夕月は林葉青年の手を引っ張って事務所の扉を開けた。そんな彼女のもとに孝之少年が駆け寄って、夕月の服にしがみついた。


「ゆづきお姉さん、どこに行くの?」


「……ちょっと、このお兄さんと向こうの方にね」


「……すぐに戻って来てくれるよね」


「ええ、必ずここに戻って来るから」


 夕月は林葉青年の手を一旦放して、孝之少年の方を見て、その場にしゃがんで、彼と目線を合わせた。


「戻ってきたら、またガンダムの話をしてあげる。だからそれまでここで待っててね」


「うん!」


「よし、いい返事、えらいえらい」


 夕月は孝之少年の頭を、髪がくしゃくしゃになるほど撫でて、その後立ち上がって林葉青年と共に事務所から出ていった。


「……なんだか、中々のドラマが展開されましたね。この数分で」


「ええ。それでは問題が片付いた所で、仕事に戻りましょうか」


「はい」


 真一と武は夕月から渡されたプラモデルで遊ぶ孝之少年を残して、事務所を後にした。キッチンに出ると、隆二とカオルが二人の所へ駆け寄った。


「ねえ、今こっそり聞いていたけど、何だか凄いことになってるわね」


「ええ、こんなドラマティックな光景を見たのは、生まれて初めてです」


 この二人、のぞき見してたのか、と真一は呆れた。


「とにかく、今のところはあの二人がうまく連携をとって嘘をつき通してもらえるのを祈るばかりです」


 そう言って武はキッチンからホールへ出た。真一も彼に続く。


 ホールでは林葉青年が友人の前に立って、隣にいる夕月を彼らに紹介していた。


「紹介するよ、この人が例の女の人、新倉さんだ」


「新倉夕月です」


 夕月はそう挨拶をして、林葉青年の友人に礼をした。


「おいおい、どういう事だよ。俺たちの知らない所で仲良くなったりしちゃってさあ」


「そうだぞ、口説いてくれるところを見せてくれるって約束だっただろう」


「そうだそうだ」


 佐倉青年、江島青年、滝野青年が林葉青年に文句を言っている。しかしそう言ってはいるものの、彼らの目には出会ってすぐの夕月とすっかり仲が深まってしまった林葉青年への尊敬のまなざしがあった。


「で、お姉さん、何て名前でしたっけ」


「新倉夕月です」


 質問をした佐倉青年に、夕月が微笑む。


「この林葉のどんなところに惹かれたんですか」


「あ、俺からも。林葉からはどんな風に口説かれたんですか」


「さっき見た所、ガンダムが好きなようでしたけど、普段は何を」


「そんな、落ち着けよ。そんな一遍に質問したら、夕月さんだって困るだろう。ね?」


 林葉青年が夕月を見て、同意を求めた。夕月が林葉青年を見て苦笑いをして頷いた。


「そういうことだから。じゃあ最初は佐倉から」


「おっ、おれか。それじゃ質問しますけど、新倉さんは林葉のどこに惹かれたんですか」


「……うーん、言葉にはしにくいけど、若い男の子特有の、ワルな感じにときめいちゃって」


「ワルな感じ? 林葉のどんなところにワルな感じを?」


「だってさっきお店の人に何か悪い事して捕まっていたみたいじゃない? その時の店員さんへの反抗的な目にキュン、ときちゃって」


「ああ、林葉が連れてかれた原因なんですけど、こいつ、ジャンプのエッチな漫画を破り取ろうとした所を店員さんに見つかって連行されちゃったんですよ」


「おい、余計な事を言うなよ」


 林葉青年が笑う佐倉青年の頭を軽く叩いた。


「だけど新倉さん、大丈夫すか? こんな事をするスケベ高校生に夢中になっちゃったりして」


「良いと思うわよ、そういうの。逆にそんな事に関心持たない男子の方が心配だと思う」


「へえ、女の人って、俺たちが思っている以上にそういう事に理解があるんだなあ」


 江島青年が感嘆の声を上げた。


「あ、じゃあ、次は俺。林葉からはどうやって口説かれたんですか?」


「うーん、口説かれた、というより、あたしの場合は一方的に林葉くんにアプローチを掛けたから、口説かれたという感じは無かったかな」


 それを聞いて江島青年たちは驚きの声を上げ「このプレイボーイめが」「羨ましすぎるぞ、おい」などの言葉を林葉青年に投げていた。


「あの二人、上手く行っているみたいですね。飯島さん」


「ええ、今の所、特に問題は無さそうです」


 真一と武が話していると、店の玄関に客が入ってきたことに気が付いた。その客は長身の女で、目に大きなサングラスをかけていた。久しぶりの客だな、と思いながら彼女のもとへ真一が向かった。


「いらっしゃいませ、禁煙席と喫煙席、どちらに……」


 真一がサングラスをかけた女性にそこまで言った時、女性は呟くような小さい声で真一に話し掛けた。


「……連れが先に座ってます」


 連れ? 誰だろうと思った時、真一は孝之少年の両親が先程起こした騒ぎを思い出した。そうだ、旦那さんが浮気相手を読んで、その人はサングラスをかけて来るんだったな。


「ああ! お連れ様は向こうの禁煙席に座ってらっしゃいます。ご案内しましょうか?」


「……いい、自分で行くから」


 そう言って女性は不倫相手がいるテーブルへすたすたと一人で歩いて行ってしまった。


「……行っちゃった」


 そう呟いて真一はレジに戻った。


「それにしても今のお客さん、何だか引っかかるところがあるんだよなあ」


 真一が武に話しかける。


「引っかかるところ?」


「何だか、あのお客さん、前にもこの店に来たような気がするんだよなあ。常連さんかな」


「さあ、サングラスをかけているからよく分かりませんが、ああいった感じのお客様が来店した、というのは覚えがありませんね」


「ふうん、飯島さんが覚えていないんだったら、気のせいか」


 そう言って、真一は女性が向かったテーブルを見た。彼女は不倫相手の妻に向かって、お辞儀をしていた。そして、夫人が立ち上がり、女性の方に歩み寄って彼女が顔を上げた時、夫人は彼女に鋭いビンタを放った。


「この泥棒猫っ」


 ビンタをした夫人の鋭い怒鳴り声が店中に響き渡った。その一言に騒然となる店内、女性に向かって更に攻撃しようとする夫人を、隣に座っていたスーツを着た弁護士が抑えようとする。


「奥様っ、奥様、落ち着いてください。一旦冷静になって」


 真一と武も彼らのもとへ駆けつけ、夫人を弁護士と一緒に抑える。


「お客様、一旦落ち着いてくださいっ、他のお客様のご迷惑になりますからっ」


「せめて怒るのはその女性と話をして、店を出てからにしてくださいっ、それなら怒りませんからっ」


 彼らに止められて、夫人はようやく気持ちが収まり、ぜえぜえと乱れた呼吸をした。そして真一たちから離された夫人は、テーブルにある水をコップ一杯、ぐびりと一気飲みをして席に座り冷静になった。真一たちはその様子を見て、ほっ、と息を吐いた。


 席に座って女性を再び睨み始めた夫人。そんな彼女に武が言葉を投げかけた。


「……お客様、ここは公共の場です。他のお客様のご迷惑となる行為、ましてや、人に暴力を振るうなど、問題外です。慎みある行動を、お願いします」


 そう言って武はレジへと静かに戻っていった。彼と一緒に戻った真一の耳には、「何よ、あの店員」と悪態をつく夫人の声が聞こえた。


「……やっぱり正解でしたね。孝之くんをあそこから遠ざけたのは」


「ええ、まだ純粋な子どもには決して耐えられる状況じゃなかったでしょう」


「彼、今、退屈してないかなあ」


「どうでしょう。僕はここで留守番してますから、見てきたらどうですか」


「そうですね。今なら飯島さん一人でも大丈夫そうだし、そうします」


 そう言って真一はキッチンに入った。キッチンにはカオルしかおらず、隆二の姿は無かった。


「あれ、沼池さんはどこに?」


 真一は一人で週刊誌を読んでいるカオルに話しかけた。


「沼池さんは事務所の方に居るわ」


「事務所? という事は、孝之くんと一緒に?」


「ええ、その子のお相手をしてるみたいだけど」


「へえ、沼池さんが」


 そう言って真一は事務所のドアを開いて、中に入った。


「それでね、アムロが乗っていたガンダムがあーるえっくす、78って言うんだって」


 事務所の中に入ると、孝之少年はソファに座って、夕月から渡されたガンダムを振り回しながら、向かいのソファに座っている隆二に話しかけていた。


「うん、そうだね、そしてアムロは他にも色々なガンダムにも乗ったという事は知っているかな」


 隆二がそこまで孝之少年と話すと、部屋に入ってきた真一に気が付いた。


「ああ、九田楽さん。今の話、聞いていましたか」


「ええ。しかし沼池さんがそこまでガンダムについて語れる程、ガンダムが好きだと思いもしませんでしたよ」


「いえいえ、この孝之くんに比べたら、私の知識なんか、大したものじゃありませんよ」


 そう言って隆二は真一と孝之少年に笑顔を向けた。


「しかし、私に男の子の孫がいれば、こうやって色々とガンダムの話が出来るのに」


「あれ、沼池さんって、お孫さん、居ませんでしたっけ」


「いや、孫娘はいるのですが、どうもガンダムの話には興味が無いみたいで」


「そりゃそうでしょう。女の子なんですよ。新倉さんなんて、イレギュラー中のイレギュラーなんだから」


「私に懐いてくれる、とても可愛い孫なんですがね。そこだけが少し、残念です」


 そう言って隆二は、肩を落として少し落ち込んだ。


「ねえ、ゆづきお姉さんは今どこに居るの?」


 孝之少年が真一の方を見て訊いてきた。


「ああ、今、お客さんがご飯を食べている所にいるよ」


「へえ、会いに行ってきていい?」


 孝之少年がソファから立ちあがって事務所の外へ出ようとした。


「あ、それは駄目」


 真一は事務所から走って出て行こうとする孝之少年を止めた。


「? 何で?」


「そ、それは……」


 まずい、このまま孝之くんにフロアへ今の両親状態を見せる訳にはいかない。もし、それを目撃してしまったら、彼は計り知れないショックを受けてしまうだろう。とはいえ、どう止めればいいものか。


 孝之少年の純粋でまっすぐな視線が、真一にはとても痛かった。


「ぼく、向こうに行っていいよね?」


 そう言って孝之少年は事務所の外へ走って出て行ってしまった。


「しまった!」


 真一は叫んで孝之少年を追いかけてキッチンへ出た。


「浅見さん! 孝之くんを捕まえてっ」


 真一は孝之少年を追いかけながら、椅子に座って週刊誌を読んでいるカオルに向かって叫んだ。


「え、なに、捕まえるって」


「いいから、早くっ」


 その言葉を聞いて、カオルは椅子から立ち上がり、孝之少年の前へ仁王立ちをして立ち塞がった。しかし、カオルの仁王立ちをして開いた股の間を通って孝之少年はするりと抜けて出てしまった。


「あ、逃げちゃった」


「マズいっ。待って、出ちゃ駄目だっ」


 真一がカオルを押しのけてキッチンから飛び出した。孝之少年は林葉青年と一緒に座席に座っている夕月のもとへ走っていった。


「九田楽くん! どうしてここに孝之くんを出しちゃったんですかっ」


 キッチンから出てきた真一に武が静かに、しかし激しい口調で訊いた。


「こ、これは事故で……」


「ゆづきお姉さん!」


 自分の所へ来た孝之少年を見て、夕月は目を丸くした。


「孝之くん、どうしてここに」


「あの、夕月さん、その子は」


 急に現れた子供を見て、高校生たちも困惑した。


「ええと、この子は孝之くんって言ってね、訳あってさっきまで暫くあたしが面倒を見ていた子で……」


 どう説明したものか、と夕月は困惑しているのが見て取れた。


「夕月お姉さん、あとどれ位で戻って来てくれる?」


「ど、どうかな、結構、時間はかかるんじゃないかなあ」


 そう言って夕月は隣に座っている林葉青年の顔を見た。彼の顔には、冷や汗を流しながら、“もう少しだけ”と無言の訴えが浮かんでいた。


「も、もう少しだけ、待ってね」


「うん、それじゃそれまでパパとママの所にいる!」


「そ、そうだね……あっ」


 夕月はそう言った時、焦りながら“それだけは駄目だっ”と苦悶の表情を浮かべる真一たちの姿に気が付いた。


 先程の孝之少年の両親が起こした騒動を思い出し、真一たちの表情の意味するところを理解した夕月は、孝之少年を事務所へと返そうとする。


「い、いや、さっきの部屋へ行って待ってて。出来る限り早く戻るから」


 夕月は孝之少年の両親のいるテーブルの方を見た。決してさっきの様に騒々しい状態ではないが、どう考えたって子どもを放り込んではいけないレベルの険悪な空気が流れていた。


「戻ったらまたガンダムの話をしてあげるから、ね?」


 必死の説得に冷や汗を流す夕月。幸運にも孝之少年は夕月のその焦りに気付くことは無かった。


「……うん、よくわからないけど、ぼく、さっきの部屋に戻るよ」


「そ、そう。それでいいの」


 そして孝之少年はキッチンへと足を向けて戻り始めた。その様子を見て、夕月、そして真一たちは深い息を吐いた。


「これで、何とかなりましたね」


「ええ、何とか……あれ?」


 キッチンに向かっている孝之少年、しかし、数歩歩くと、急にその場で立ち止まった。


「……どうしたんだ? 急に」


 すると少年は「ママーっ」と大きな声を上げながら両親のいるテーブルへと走っていった。


「ああっ。もう、どうして真っすぐキッチンへ戻ってくれないのかなあ!」


 真一は走って孝之少年の元へ向かった。しかし、追いついた時には既に孝之少年は両親のいるテーブルに着いたのだった。


「ママ! パパ! 何してるの?」


「た、孝之くんっ」


「ねえ、このお姉さんは誰?」


 孝之少年は、サングラスをかけた女を指差して言った。


「こ、こらこら、人に指差しちゃ駄目でしょ。君のパパとママは今大事な話をしているから、戻ろう。ね?」


 そう言って真一は孝之少年の手を引っ張って、にこやかな顔で「失礼しましたあ」と言いながら孝之少年をキッチンへ連れて行った。その時、真一の耳に、


「何やっているんだか……」


 という声が聞こえた。真一がその声の主を見ると、発言したのはサングラスをかけた女だった。


 その声を聞きつつも、真一は孝之少年を無事、事務所の方へと連れ戻した。


「お願いだから孝之くん、ここで沼池おじちゃんと一緒に居てね、頼むから」


「お、おじちゃん、ですか……」


 隆二がそう呟く横で、孝之少年はしょんぼりした顔で頷いた。


「それじゃ沼池さん。後は頼みました」


「ええ、何とかここから抜け出せないようにします」


「お願いしますよ」


 隆二の言葉を聞いた真一は事務所から出て、キッチンを通じてホールへ向かった。


「飯島さん、どうしましょう。新倉さんが戻ってくるまでに孝之くんが逃げ出さないかどうか……」


 真一がそう言って武の顔を見ると、武の顔も青ざめていた。


「九田楽くん、こっちもとんでもない事態が起こりました」


「な、何です。これ以上何のトラブルが」


「林葉さんたちの方を見てください」


 真一は林葉青年たちのいるテーブルに目を向けた。


「新倉さん。何もこいつにいつまでも付き合ってやる暇なんてないって」


「そうだよ、隠している事があったら、全部話した方が……」


 その光景を見て、真一は隣に立つ武と同じように青ざめた。まさか、これは。


「林葉さんの友達が彼と新倉さんの関係を疑い始めています」


「そんな、全部上手く行っているはずだったのに」


「……きっかけは孝之くんがこちらへ乱入したことでした。そこから新倉さんは何者だ、という話に発展して……」


 普段は冷静沈着な武が動揺している姿を見て、真一は更に顔が青ざめた。これは非常事態だ。


「どうします」


「……方法は一つ、林葉さんが本当のプレイボーイであることを証明することです」


「だけど、どうやって。店の外で歩いている女性に頼み込む訳にもいかないし……」


 武は数秒程黙り込んで、やがて何かを決意をした表情を浮かべ、林葉青年たちのもとへ向かった。


「……あの、一つ、宜しいでしょうか」


 林葉青年たちの会話に、武がかなり強引に割り込んだ。


「……どうしたの、店員さん」


「この方、林葉さんといいましたね?」


「……それがどうしたの」


 武が急に何を言い出したのか、意味が一切判らない林葉青年たちは困惑した。


「……妹がいつもお世話になっております」


 そう言って武は林葉青年に向かってお辞儀をした。それを聞いて林葉青年は更に困惑した。


「え、何、なに、妹って」


「僕の妹、真美まみ、というのですが、知りませんか? あなたの事を素敵な彼氏だといつも聞かせてくれるのですが」


 どうやら、武は自分の妹を林葉青年の彼女として仕立てあげている様だ。その意図を理解した林葉青年は、余裕の表情を浮かべて、武に合わせようとした。


「あ、うん、真美ね、うん、思い出した。そうか、店員さん、真美のお兄さんだったんですか」


「そうとも知らず、先程は無理やりキッチンへ連れて行って申し訳ありませんでした」


「いや、いいんです。あれはおれが悪いんだから。はははは……」


 二人のぎごちないやり取りに怪訝な表情を浮かべる林葉青年の友人たち。そこで林葉青年の隣に座る夕月が渾身の演技を始めた。


「そ、そんな、林葉君! あたしとの付き合いは遊びだったって訳!?」


 額に汗を浮かべる夕月、しかし、それを見ている林葉青年の友人からその演技を疑う者は居なかった。


「さ、最低!」


 夕月はそう言ってテーブルの上にある色々なジュースが混ざったカップを持ち、その中身を林葉青年にかけた。


「うげ、マズい!」


 呻く林葉青年を背に、夕月はテーブルを立ってキッチンへと入っていった。そして彼女の後を真一が追った。


「こ、こんな事しちゃって、良かったのかな……」


「全くもってOKです。むしろこれで孝之くんの所へ戻れるのだから一石二鳥です」


「そう……だけど林葉くんには、悪い事、したかな」


「……別にいいんじゃないですか? 元々は彼のついた嘘が原因なんだし」


「まあ、それもそうなんだけど……」


 夕月は俯き、小さい溜息を吐いた。


「……それじゃああたし、孝之くんの所へ行ってきます」


「お願いします」


 真一は事務所に向かう夕月の姿を見て、ホールへ出た。そこでは武が高校生たちに座らされて話を聞かされていた。


「林葉と付き合っているって事は、店員さんの妹さん、結構年下なんですね」


「ええ、だいぶ」


「んで、妹さんの林葉の評価はどうなの」


「……そ、そうですね。結構悪いやつだけど、決める時は決める男だと」


「ねえ、妹さん、こいつとやっちゃったのかなあ」


「ちょっと、滝野っ、そんな事お兄さんに訊くなよっ」


「……そういえば最近、生理で騒ぐことが無いような……」


 その言葉でどよめく高校生たち。二人はどこまで嘘をつき続けるつもりなのだろうか、と真一は不安に思った。


 頭を抱える真一、その時、彼の前に誰かが通ったのに気がついた。孝之少年の両親の弁護士だ、彼は暗い顔をして真一の前を歩いていた。


 トイレに行くのかな、と思った真一だが、弁護士はトイレの方にではなく、禁煙席の方へ向かった。そして弁護士はポケットから煙草とライターを取り出し、煙草に火を点けてタバコを吸い始めた。


「あの……お客様」


 真一が弁護士に恐る恐る歩み寄る。彼の声を聞いた弁護士は真一に気がついた。


「あ、ごめんなさい。勝手にこっちに来ちゃ駄目でしたか」


「いえ、大丈夫です。今は誰もこっちでは座っていませんから」


「それは良かった」


 そう言って弁護士は再び煙草を吸い始めた。


「あの……弁護士さんですよね」


「ええ、そうですが……それが何か」


「いえ、さっきから色々と大変そうだなあと」


「何とも思いませんよ、慣れっこですから」


 タバコを吸う弁護士の顔には、その外面の若さに似合わない哀愁が漂っていた。


「だけど辛くありませんか。あんな離婚話を横から聞いてて、神経をやられちゃったりとか……」


「……あんな離婚話って?」


「そりゃ、旦那さんが浮気しちゃって、奥さんにろくに謝りもせずにお金のことで揉めたりとか、奥さんも公共の場だってのに、がみがみと周りに怒鳴り散らかしちゃったりして……」


「へえ、聞いたんですか、会話の内容を」


「ええ、ちょっと。盗み聞きを」


 その言葉を聞いて弁護士はにやりと笑った。


「店員さん。盗み聞きとは、褒められたものじゃありませんね」


「……あ」


「こういう家庭内の問題を赤の他人が盗み聞きして介入するというのは、下手したら訴えられるケースもありますよ」


「うわあ、流石弁護士さんだ。誘導尋問が上手いなあ」


「なに、大した事じゃありませんよ」


 そう言って弁護士はテーブルにある灰皿に煙草を押し付けて、煙草の火を消した。


「どうしようかなあ、オレ。これで犯罪者になっちゃったら」


「いやいや、心配することはありませんよ。プライバシーの件に関しては訴訟されない限り騒ぎになる事はありませんし、今の日本には盗み聞き……盗聴をした人物を取り締まる法律もありませんから」


「へえ、盗聴って犯罪にならないんですね。全然知らなかった」


「だって、盗み聞きが犯罪になったら、刑事や探偵、それに僕たち弁護士が証拠を手に入れにくくなりますからね。違法になったら物凄く困ります」


 そう言って弁護士はポケットから名刺入れを出し、そこから出した名刺を真一に渡した。


「困った時は、どうぞご相談に」


「……ええと、早田山弁護士事務所所属……大和武人……ヤマトタケヒト?」


「おおわって読むんです。大和って書いて」


「ああ、そうなんですか。しかし、ヤマトさんって、やっぱり事務所の期待のポープだったりするんですか? 若いし」


「……おおわ、です。ヤマトじゃなくて」


「あ、ごめんなさい。で、質問なんですけど……」


「……全然ですよ。僕と同じ年代の弁護士なんて、ごまんといます」


「え、確か弁護士になるための司法試験って、あまりにも難しくて全然受からないって聞きますけど」


「確かに、司法試験の合格の倍率は四、五倍あります。現に僕だって六回落ちて漸く受かったんです」


「ろ、六回! オレだってまだ二回しか落ちてないのに」


「へえ、あなたも弁護士志望ですか」


「いえ、大学の浪人生です」


「どこの? 東大とか京大とか?」


「近所の私立大学です」


「……合格を祈っています」


「えへへ、どうも」


 能天気に笑う真一を、哀れみのまなざしで大和が見ている事に、真一は気付かなかった。


「で、これまでどんな事件を担当してきたんですか? 殺人犯の冤罪を掛けられた容疑者とか」


「僕にはそんな事、出来ませんよ」


「そんな、謙遜しなくても」


「僕が言っているのは、システム上無理だという事なんです」


「システム? どういう事ですか?」


「僕が担当するのは家庭内の問題などを取り扱う民事裁判、対して今あなたが言った殺人などの裁判は刑事裁判と言うんです。これは知ってますね?」


「まあ、学校で習いましたけど」


「それなら良かった。話を戻すと、各弁護士には民事専門の弁護士と、刑事専門の弁護士がいるんです。それで僕は前者の民事の方。基本的に自分の専門外の裁判が事務所から担当されることは無いんです。理解できましたか?」


「はい、大体は。だけどたまには刑事裁判をやってみたいなあ、なんて思いません?」


「……そりゃ、やってみたいですよ。元々僕はドラマで検事に『異議あり!』と叫ぶ弁護士に憧れて弁護士になったんですから。ま、現実はそうそう上手く行かないみたいなんですけど」


「まあ、そのうちヤマトさんの才能を認めてくれる人が出てきてくれますって」


「……おおわです。ヤマトじゃなくて」


「あ、ごめんなさい。間違えました」


「いえ、では失礼します」


 大和はそう言って微笑み、喫煙席から出ていった。


 何か、格好いい大人だったなあ、と思いながら真一はレジに戻った。


 真一がレジに戻ると、武はまだ高校生から話を聞かれていた。タイミングを見計らって、逃げればいいのに。


「な、妹さんの写真を見せてくださいよ」


「そ、それはちょっと。妹の写真、携帯に入れてませんし」


「いいから、ラインで送ってもらってくださいよ」


「いや、妹は携帯持っていないんです」


「まさか、現代っ子が携帯持っていない訳無いでしょ」


「いや、本当なんです」


 しどろもどろになる武。その時、急に音楽が鳴りだした。ピコピコした電子音だった。


「何だ、急にスーパーマリオのテーマが流れ出したけど……」


 高校生たちは困惑した。


「あ……僕の携帯の着メロです」


 武がポケットから携帯を取り出た。


「マリオのテーマを着メロに使っている人、俺、初めて見た」


 ゲームやアニメ好きである滝野青年でさえ、武の着メロには困惑した。


「じゃ、ご迷惑になるといけないので、僕は離れます」


「いや、俺たちは大丈夫です。気にしませんから」


 佐倉青年が離れようとする武を引き留めた。流石の武も、もううんざりという顔をした。


「ほら、早く出て、切れちゃうから」


 そして着メロが最後のそれまでと全く異なるメロディーが流れて着メロが終わりそうな時、武はタイミング良く電話に出た。


「あ、マリオが死んだ」


 江島青年が呟いた。


「ええと、もしもし……ああ、母さんか」


『武、今日はいつになったら帰れそうかい』


「いつって、別にいつも通りだけど」


『ちょっと、忘れたの? 今日は写真屋さんいかないといけないから早く帰って来いって言ったじゃない』


「あ、ああ、そう言えばそんなこと言っていたような……」


『忘れてたね。ホント、頼むよ、今日は真美の七五三祝いなんだから』


「判った、出来る限り早く帰れるようにするから。じゃあ切るよ」


 そう言って武は母親からの電話を切った。


「ええと、何の話でしたっけ……」


 そう言った時、武は自分が周りの高校生たちから冷たい視線で見つめられているのを感じた。


「ど、どうしたんですか、皆さん。そんな顔をして」


「あのさ……店員さん、妹さんの名前、何て言いましたっけ」


 江島青年が鋭い目を向けながら武に訊いた。


「え、僕の妹は真美と……あっ」


 武はそこまで言うと、顔色が急速に青ざめていった。


「妹さんの年齢、おいくつ?」


「……先週、七歳になりました」


「……随分歳が離れているんですね」


「……親の子を産むインターバルが長かったもので」


 気まずそうな顔をする武、そして林葉青年は冷や汗を流す。


「という事は」


「林葉は」


「ロリコン」


「もしくは」


「大嘘つきだと」


「そうなるな」


 佐倉青年、江島青年、滝野青年が武と林葉青年を睨みつけた。


「待ってください、これは……」


「いや、店員さん、もういいんだ」


 林葉青年が立ち上がって、武の方を見た。


「そんな、林葉さん」


「これ以上嘘に嘘を重ねるなんて……おれには耐えられない」


「いいんですか……これで」


「もう、いいんだ……ごめんなさい。助けてくれたのに」


「いえ、いいんです。僕も……」


 そう言って、二人は黙りこくってしまった。


「……林葉、あのなあ……」


 そう佐倉青年が口を開いた時だった。


「待ってっ」


 キッチンから女の声が聞こえた。声の主は夕月だった。


「夕月さん。どうして」


 林葉青年が夕月に向かって呟いた。


「林葉くんは、女にモテない男なんかじゃないっ」


「えっ」


 夕月の言葉に一番驚いたのは林葉青年だった。


「新倉さん、それはどういう意味ですか」


 真一が隣に立つ夕月に訊く。


「だって……林葉くんは今、一人の女に惚れられているもの!」


「そ、それってまさか……」


「……林葉くん、あたし、君に惚れてるの!」


 夕月が顔を赤く染めながら林葉青年に向かって叫んだ。


「そんな、嘘なんかつかなくたっていいんだ!」


「嘘なんかじゃない! あたしは本心でそう言っているの!……あたし、嬉しかったの。これまで自分が美人とか、そういうのに無縁な女だと思ってた。だけど、林葉くんはあたしのことを美人だって言ってくれた……それも顔を真っ赤にして! あたしその姿を見て、物凄く嬉しかったの!」


「や、止めて。おれ、あれ言った時、結構恥ずかしかったんだから!」


「とにかく……あたしが言いたいのは林葉くんが女の人を魅了させる男の子だってことなの!」


 夕月はそこまで言うと、林葉青年のもとへ、ゆっくりと歩み寄った。


「林葉くん、あたしから、君にお願いしたいことがあるの」


「……何ですか」


「あたしのこと……好きになってくれるかな」


 夕月はそう言って、ぎゅっと強く目をつぶった。そして、彼女の手を林葉青年が握った。


「……もちろんです。おれ、夕月さんが大好きです」


 そして二人の間の距離が縮まってゆく、そして、その二人を佐倉青年、江島青年、滝野青年の高校生三人組、キッチンからこの光景をひっそりと見ている隆二、カオル、二人の間近にいる武、そして真一が暖かい目で見つめる。そして夕月と林葉青年は―――



「ちょっと! なんでわたしがうるさくすると怒られて今の騒音は皆黙って見ているのよ!」


 静まっていた店内に突然、女の怒鳴り声が響いた。店内の全員がその声の発生源を見た。


 怒鳴ったのは孝之少年の母親だった。


「……なによ、その目は」


 店内の人間全員の冷たい視線を受けた夫人は、急に声が小さくなった。彼女のもとへ、林葉青年が静かに歩み寄った。


「な、なによ、私に言いたいことがあるの?」


「あんたな……」


 林葉青年がすうっと、深呼吸をして口を開いた。


「……こんな時位は空気を読めーッ!」


 林葉青年の叫び声が店内から漏れ出さんばかりに響いた。


「あんたさ、さっきから旦那の浮気でがみがみ怒鳴っていたけど、原因はそうやって空気を読まないあんたの方にもあったんじゃないのか」


「なに!? あたしが全部悪いっていうの!?」


「全部とは言わない。だけど、そういう言動が旦那さんから愛想をつかされる原因にもなったんじゃないのかっ」


「あなた……子供の癖に偉そうなことをべらべらと……」


 そう言って夫人は自らの弁護士、大和に目線を向けた。


「弁護士さん、この離婚の件が終わったら、この学生を訴えるわ。侮辱罪、って法律、あるでしょう!」


「……確かに、刑法二百三十一条に侮辱罪という法律はありますが……」


「そうよ、それで裁判を……」


 興奮する夫人。しかし、大和は冷たい言葉を放った。


「話は最後まで聞いてください。もし裁判へ持ち込めば、まず事件の発端となったあなたの怒鳴り声について審議されます。その時点で、裁判官のあなたへの心証は最悪の物となるでしょう。あなたは必ず裁判に負ける。それでもあなたは裁判をするつもりですか?」


「……うっ、それは……」


「できますか?」


「……ぐっ」


 夫人は強烈な目線を放つ大和から目を逸らした。その時、キッチンから孝之少年が出てきた。


「ママーっ」


 孝之少年が母親のもとへ駆け寄った。


「た、孝之くんっ」


「しまった、私が事務所に居なかったばかりにっ」


 真一と隆二が声を上げた。


「ママっ」


 孝之少年が母親にしがみついた。


「ねえ、ママ、聞いてほしいことがあるの」


 孝之少年に、夫人は何も言葉を発せず、静かに目を向けた。


「向こうの部屋で、ぼく、優しいお姉さんやおじちゃんからたくさんガンダムの話をきいたの。ぼく、とても楽しかった。ママもガンダムの話を聞いてほしいの、ね! パパも聞いてよ! 皆にガンダムの話をしてあげる! ぜったい楽しいから!」


 屈託の無い、純粋な少年の笑顔を浮かべる孝之少年。そんな彼を見て、夫人は彼の前で力なくぐったりと立ち崩れ、孝之少年を抱いて、うおおんと声をあげて泣き出した。席に座っている父親も、静かに、声を出さずに涙を流した。そんな彼らに、武が席から立ち上がって歩み寄った。


「お二人とも……やり直すことは出来ないんですか? 今、林葉さんが言った通り、あなたたち二人には性質こそ違えど、お互いへの罪があるんです。それはこれからゆっくり償っていけばいいじゃないですか。

 それより一番大事なのは……孝之くんの為にあなたたちがいる……そうなんじゃないですか?」


 哀しく、そしてささやかな希望を含んだ口調で武は彼らに語りかけた。


 そして「ごめんね、ごめんね」と泣きながら狼狽する女の声が店内に響いたのだった。




「本日はご来店、ありがとうございました」


 夫人から代金を受け取り、それをレジに入れて計算をしてお釣りを夫人に渡した真一は、店から出ていく孝之少年と、その両親を見送った。孝之少年は店にいる夕月に手を振って、満面の笑顔と、別れの寂しさを顔に浮かばせていた。そして夕月も、林葉青年の手を握りながら、もう片方の手で孝之少年に手を振った。


「あの子と家族、大丈夫かな」


 心配そうな表情を浮かべ、呟く夕月。林葉青年がそんな彼女の顔を見る。


「それはおれ達には判らないよ。だけど、きっと上手く行くはずだ。おれはそう信じるよ」


「……うん! あ、店員さん、お会計」


 夕月が自分のサバ塩定食の金額の書かれている伝票を差し出し、真一に金額を払った。


 その後ろで、林葉青年が友人たちの顔を気まずそうに見ていた。


「……軽蔑したか? これまで嘘をつき続けていたおれの事を……」


 林葉青年の問いに、彼らは首を横に振った。


「全然」


 一番最初に声を発したのは江島青年だった。


「……それは本当なのか」


「むしろ安心したよ、俺とお前はまだ同じスタートラインに立っていたという事が判って」


「今は先越されたけど、な」


「……ありがとう」


 林葉青年はかけがえのない友人に向かって微笑んだ。


「今日はお祝いだ、唐揚げとドリンクバー代、全部おれが払ってやる」


 林葉青年はそう言って、自分の財布をポケットから出した。


「悪いね」


「良いって事よ。店員さん、支払いです」


 夕月に続いて、林葉青年がレジの前に立ち、支払いをする。


「これで足りるかな」


「……お客さん、これ、三百円足りませんよ」


「え、足りない?」


「足りません」


「……どうしよう。おれ、もう金が財布に無いんだけど」


 そして友人たちの顔を見る。


「……何だ、その目は」


「すまん、金が足りない。貸してくれ」


「……一割増しで返せよ」


 滝野青年が財布を出して、三百円をレジに出した。


「ああ、何だか締まらないなあ」


 そう呟く林葉青年の横で夕月がくすくすと笑い、友人たちが大笑いした。


「もう、笑うなよなあ、恥ずかしいから……あ、ごちそうさまでした」


 林葉青年が真一たち従業員に向かって言い、彼らは笑い合いながら店から出ていった。


 支払い客が居なくなったレジを離れて、真一は喫煙席へ向かった。そこのテーブルには、仕事を終えて、どこか満足げの表情を浮かべている大和が煙草を吸っていた。


「……どうも、お疲れさまでした、ヤマトさん」


「おおわ、です」


「ごめんなさい、また間違えちゃいましたね」


「いいですよ、自分のあだ名にします」


 大和が笑いながら煙草の煙を吐いた。


「今日は何だかいい日だった。この先、どんな裁判を経験しようと、僕は今日を一生忘れられないんじゃないかな。そんな気がします」


「……そうですね。オレもそんな気がしますよ」


 会話を終えて、レジへ戻る真一、そこでは孝之少年の父親が呼んだ、浮気相手のサングラスをかけた女性が店から出ようとしていた。


 そういえば、彼女に感じていた引っ掛かりって、何だったんだろう。そう思っていると、武がキッチンから出てきて、彼女に声をかけて引き留めた。


「ああ、ちょっと。せっかく来てくれたのだから、もう少しここに居てくれたっていいんじゃないですか。

 ……みなみさん」


 その名前を聞いて、真一は南さん、と呼ばれた女性を見た。まさか、そんな事がある訳が無い。


 女性は溜息をつくと、それまで付けていたサングラスをしぶしぶ外した。


「もう! せっかく変装して来たのに、こんなにあっさりばれちゃうなんてなあ」


「み……南さん!」


 間違いない、今サングラスを外した女性は真一の想い人、みなみ美加みかだったのだ。


「この店に来い、ってあのオヤジに言われた時から嫌な予感はしていたんだけどなあ」


 美加の口ぶりはいつも真一が勤務中に訊いている清楚なものではなく、砕けていて、下品なものだった。


「そんな、南さん。どうしてあの男と不倫なんか……」


 愕然とする真一、美加はそんな真一を冷たい目で見る。


「援助交際よ、俗にいう援交ってやつ。大学生の女子が遊ぶには、親から貰える小遣いとバイト代じゃ全然足らなくてね……」


「援助交際!」


 そう叫んで真一はその場に倒れてしまった。


「ちょっと、九田楽くん! しっかりしなさい!」


 武が何度か真一の肩を揺すった。しかし、彼は何も反応しなかった。


「駄目だ、暫くこのままかもしれない」


「な、なんて心の神経が弱い男」


 美加は真一に向かって、心の底から呆れた。


「こうなったら仕方が無い。美加さん、九田楽くんの代わりに暫くここで働いてくれませんか」


「な、何であたしが」


「お願いです。これから大量にお客様が来る時間帯です。僕一人じゃ対処しきれない」


「だ、だけど……」


「お願いしますっ」


「……うう、判ったわよ! 手伝えばいいんでしょう! もう!」


「では、頼みましたよ」


 そう言って武は倒れた真一の腕を引っ張って、彼をキッチンの中へと引きずり込んでいった。


 もう、あたしのお人よし、と美加は思った。このレストランの従業員全員が持っている“お人よし”のウイルスのような物が自分にも感染してしまったのだろうか。


「あの、ちょっといいですか」


 考え事をしている美加に、大和が話しかけてきた。


「……誰?」


「ああ、僕、こういった者です」


 大和は美加に自分の名刺を差し出した。美加がそれを読む。


「……ええと、早田山弁護士事務所所属、ヤマトタケヒト……」


「おおわです、大和と書いて」


「そう。で、あたしに何の用?」


「一つ、あなたに忠告しておきたいことがありまして」


「忠告? 何を」


「お節介を承知で言います……今あなた方の会話で出てきた援助交際は、立派な法律違反です。未成年に限らず、売春は犯罪です。だからもう、こんな事は止めておいた方が良いかと……」


「よ、余計なお世話よ!」


「しかし、自分の身体はきちんと守った方が……」


「良いのよ! これがあたしの生き方なんだから!」


「そうですか……だけど、あなたがそれを続けることで、悲しむ人が居るんじゃないですか?」


「ふん、あたしには居ないわ、そんな人」


 そう言って美加はキッチンへと入っていった。キッチンへ入ると、武、隆二、カオルが美加の方を見ていた。


「……なに? あたしの顔に何か付いてるの?」


 美加がそう言うと、武は溜息を吐いた。


「……南さん、今、あなたは自分が援助交際を続けても悲しむ人なんて居ないと言っていましたね」


「ええ、聞いていたの?」


 武は美加の言葉に頷いた。


「南さん、僕たちはあなたがそんなことを続けることを、決して望んでなんかいません。今すぐ止めるべきです」


「……あたしがどうなろうと、自分の勝手でしょ」


「いえ、あなたがその道を歩き続けていくことで、深い悲しみを抱える人が居ます」


 そして武は真一に目線を向けた。


「真一くんは……あなたの事をとても大切に想っています。勝手に話してしまって、彼には悪いですが、彼はあなたに、単なる職場仲間以上の感情を抱いています。そんな彼があなたがこの先汚れ続けていくことを知ったら、彼はどう思いますか……?」


 美加は気絶して壁にもたれかかっている真一の顔を見た。彼は捨てられた子犬のような、どこか哀しい表情を浮かべていた。それを見て、何かが心の大切な部分に突き刺さった気分を感じた美加は、溜息を吐いた。


「……あたし、彼の為に、少しは真面目に頑張ってみようかな」


「お願いします。誰かのためにあなたがいるのですから」


 そう言って、武はキッチンから出ていった。外から武のいらっしゃいませ、という声が聞こえた。客が来店してきたのだろうか。


「あのさ、カオルさん、隆二さん。あたし、聞きたいことがあるんだけど」


 美加がカオルと隆二に話しかけた。


「今みたいな、誰々のために君がいるって言い回し、あの人の口癖なの?」


「……”誰かのために君がいる”……彼のモットーみたいですよ。飯島さんがかつてこのレストランで働いていた先輩から教えられた言葉だそうです」


 美加の問いに隆二が答えた。


「ふうん、そうなの……」


 誰かのために君がいる……いい響きじゃない。美加はそんな事を考えて微笑みながら、ロッカールームへ向かった。


 ロッカールームに入り、そこで着替えを終えた美加はロッカールームから出て、壁にもたれて気絶している真一に向かってウインクをした。


「では、行ってきます」


 美加はそう言ってキッチンを出て、店の扉から入ってきた客を出迎えた。


「いらっしゃいませ! 禁煙席と喫煙席、どちらにお座りになりますか」



 『誰かのために君がいる ~とあるファミレスの優しい奇蹟~』 完

この小説はフィクションです。実在の人物名、団体名とは一切関係ありません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても読み応えのあるストーリーで、最後まで楽しませていただきました!特に夕月さんの優しさにほっこりして、林葉青年には羨ましいぞこの野郎!という気持ちを抱かされました笑 そしてまさか、サング…
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