コンビニ・ゾンビニ・血塗れランチ
一太郎ファイルをtxtファイルにそのまま変換しているので、字下げなどちょっと読みにくいところがあるかもしれません。ゾンビがゾンビになった由来の交通事故の場面があるので『微グロ注意』ですが、シリアスな描写ではないので大丈夫ですよね。
コンビニには時々変な客が現れる。雑誌を一時間立ち読みするのは驚くことではないし、かごが溢れるほど食料品を買ってくれる上客もいる。けれども真夜中に来る客を見れば、昼間の客がどれだけ分かりやすい人間なのか知る事になる。
若い女が一人で入ってきたとき、邦夫はいつも通り、
「いらっしゃいませ。」
と声を掛けたが、同時に面倒な客を抱え込んだのが分かった。
真夜中過ぎると、女の一人客は飲食関係だと一目で分かる、細い肩紐で吊ったラメのドレスを着ていたりするが、この女はかなり違っていた。
女はオリーブのワンピースを着ていたが、胸から腹にかけて黒い染みが付いていた。顔は血を抜いたように白く、ノースリーブで剥き出しの腕も同じような白さだった。
痴話喧嘩の果て、それとも通り魔か、邦夫は想像を巡らせたが、妙なことに女は焦っている様子が何もなかった。
女はまっすぐに店の奥の冷蔵庫へ向かった。いつもそれを買っているという感じで、ためらわずに《からだ巡茶》のペットボトルを手に取った。そのまま弁当コーナーに行き、《親子丼》と《さいころステーキ弁当》のどちらにするか迷っていたが、結局《さいころステーキ弁当》を手に取った。
女がレジに向かってくる姿を見て、邦夫は肝をつぶした。右の頬にぱっくりと傷が開いている。刃物ほど鋭くはない突起物が突き刺さった感じで、すでに血が乾いていた。女がレジに来るまで、邦夫は取り繕うこともできずに、まじまじと女の顔を見つめた。
女は弁当とペットボトルをカウンターに置いた。間近で見ると、腕から指先まで細く血が流れた跡があった。邦夫は思わず、
「弁当を温めますか。」
といつも通りの対応をした。それ以外の言葉が口に出てこなかった。絶対に面倒な方向に事態が進んでいるのに、魔法の言葉さえ唱えればごく当たり前にこの場面を切り抜けられると言うように。
女は意外なほど普通の声で、
「はい。」
とだけ言った。普段通りに違いない、若い女の声だ。とんでもない重症なのに、あまりにもひどいせいで、自分の状態に気づかないまま動いているようだ。邦夫の頭の片隅に、この女が生きている人間ではないという思いが浮かんだ。
邦夫は弁当とペットボトルにリーダーを当てた。今はただ早くこの場面を通り過ぎてしまいたかった。女は財布を手にしていて、金をカウンターに置いた。普段どおりの進み行きなのが奇妙でもあった。
「大丈夫ですか、救急車呼びましょうか。」
レンジがまだチンをしてくれなかった。黙っていることに耐えられない気持ちで邦夫は女に言ったが、本当は怪我をしている事態は通り越していることが分かっていた。
「救急車はもう乗ったわ。」
女は言った。
「救急車は速かったわ。間に合わなかったけど。」
「ほんとに大丈夫ですか。」
邦夫は意味がないと分かっていながら、女に念を押した。
「救急隊員はよくやってくれたわ。無理だと分かっていたみたいだけど。心臓マッサージをしながら、『お嬢さーん、住所どこですかー』って、住所なんか聞いている場合じゃないのにね。でも私は住所を言おうとしてたのよ。なんとかして口を動かそうと思ったの。返事しなきゃって。」
ようやくレンジがチンを言ってくれて、邦夫は女に温まった弁当と飲み物を手渡した。女が店を出ると、邦夫はレジの内側にへたり込んだ。
いったいどうしたら良いだろう。何かすべきだろうか。どうしておれ一人の時にあんなのが来るわけ?ちゃんと二人いる時に来てくれて、もう一人がこんな事態を半分引き受けてくれればいいのに。あいつタイミング良く休憩だなんて。
「杉本さん、杉本さん。」
「ん?何かあった?」
杉本はバックドアから半身だけ姿を見せた。ドアの向こうはフロアになっている。寝られるようにはなっていないが、横になるには折りたたみ椅子を四台ほど並べることになる。
「アーミーのワンピースで血だらけの女ってこの店来ます?」
「いや、聞いたことないな。で、来たの?それ。」
「弁当を手渡ししたんだけど、それって生きてるってことかな?幽霊でもそこまではできるとか?」
「塩ちん的にはどっちがいいわけ。」
「生きてる方だったら店長に携帯入れますかね?」
「店長関わりたくないだろうな。おれそんなの見なくて良かった。」
真夜中を過ぎたところだが、朝が早いので、もう寝ている時間だろう。店のオーナーだが、店と自宅が離れている。携帯を枕元に置いて寝ているはずだ。電話を取るまでの時間が、店長の頭の中に疑惑が浮かび上がってくる時間だ。
「店長、塩田です。こんな時間にすみません。」
「塩田君か、どうした。」
邦夫は、店長がどんな時でも感情を抑えて喋るということを尊敬していた。本当は機嫌を悪くしているはずだが、おそらく強盗に入られて今警察を呼んだところだ、とか、車が自動ドア目がけて突っ込んできて今警察を呼んだところだ、のどちらかだと告げられる心積もりをしているだろう。
「若い女が、大怪我をしてて、店に入ってきて・・・。」
「・・・怪我か。救急車を呼んでやったのか。」
「いいえ、もう救急車には乗ったって・・・。」
そう言いながら、こんなことは誰に伝えても分かってもらえないと思った。
「じゃあ、どうしたんだ。」
「・・・弁当を買っていきました。」
店長に電話したところでしょうがなかった。
「よかったじゃないか。もうそれでいいだろう。」
「警察を呼んだ方がいいですかね。」
結局、返事を聞くまでもなく、警察を呼ぶことにはならないだろう。
「怪我をした客が、弁当を買っていったと話すのか。」
「・・・もういいってことにします。」
自分にはどうにもならないことなのだろう。それに、女がここに来るときから終わっていたことだったのだろう。何があったのか知らないが、あの女は何かが済んだ後にここに来た。
早紀が交差点に入った時、信号は早紀の方が青だった。
「絶対あたしの方が青だったのよ。」
早紀は後でそう言った。そりゃ左手で《サマンサタバサ》のボストンを開けて中をチェックしていたけれども、あたしの前の車は普通に交差点に進入してたんだから。右側からまるであたしの車を目がけるようにミニバンが飛び込んできて、自分の方が正しいんだからぶつかっても自分の責任じゃないみたいに思いっきり・・・。
セレナはそれが目的であるかのようにスピードを保ったままムーヴの運転席側に激突して、二台の車は一瞬ひとつの塊りになった。早紀の視界が真っ白になり、一瞬後に赤く染まった。ハリウッド映画のクラッシュシーンが始まって、車体が早紀を目掛けてギュルギュルと圧縮されていった。粉々になったフロントウインドウが目の前にあり、ハンドルが腹にめり込んでいた。サイドミラーが飛び込んできて、早紀の顔に突き刺さっていた。
呼吸をする度に、身体の中で液体が噴き出しているようだった。車いっぱいに血の臭いが溜まっていた。救急隊員が
「お嬢さん、名前はなんと言いますか。」
と聞いてきた。あまりにも普通の聞き方だったので、腹が立ってきた。今は緊急事態なのに。それでも自分の名前を答えようとした。何度も聞き返してくるので、伝わってないみたいだ。自分の名前を何十回も口にした気がする。
救急隊員が乳房の間を肋骨が沈むほど押している。無遠慮に抑えられる度に身体の中から液体が噴出するようだ。人間の身体が水で出来ているというのはこのことだったんだ。こういうことがあると、身体の中に驚くほどいっぱい水分があることが分かる。でもゴボゴホ、ゴボゴボって、これじゃ水分が全部出てしまうじゃない。
目を覚ましたのは朝になってからだった。オリーブのワンピースに、黒い染みが拡がっている。安物だが、ミリタリー風で気に入っていたのに。服が汚れたままではおかしいのは分かったが、それではどうしたらいいのかは分からない。仕方なく染みの拡がった服を着たままにする。
ムーヴのボンネットが平たく潰れ、右の前輪が変な方向を向いていた。こんなのに乗っていけるんだろうか、と思ったが、エンジンが掛かり、ちゃんと前に走った。
車列に潜り込むと、後ろの車が何度もぶつかってくる。ミラーを覗くと、ぶつかる度に男が顔を歪めている。自分が何にぶつかっているのか分からないらしい。そのうち後ろの車はえらく車間を開けるようになる。
会社に着くと秀美と伽奈、それに男性社員の松本くん、在社組で自分以外の社員が揃っている。自分の机の上が、きれいに片付けられている。パソコンがない。居酒屋のチラシを仕上げてなかったのに、あたしの仕事、誰がやってるんだろう。伽奈が向かっているモニタに、見慣れたデザインがあった。
「伽奈、そのチラシ、あたしが作ってたのよ。」
伽奈が椅子半分ずっこけたところで、秀美は早紀がそこにいるのを見た。
「伽奈、見ちゃ駄目よ。振り返ったら駄目。」
秀美は伽奈にささやいた。
「見たくないわよ。あたしから早紀をどけて。早紀があたしに取り憑いちゃってるわ。」
伽奈は声を聞いただけで早紀がそこにいる事を理解したようだった。早紀の姿が絶対に視界に入らないように、前だけを見据えて答えた。若い男性社員が、目を離すことも出来ずにまじまじと早紀の姿を見つめていた。
「松本君、早紀が見えてない振りして。反対向いてて。」
秀美は男性社員にささやいた。あたしが早紀を送り返すわ。一番の友達だったから。
秀美は再び早紀と出会いそうな気がしていた。思い描いていたのは、早紀の写真をプリント出力してテープで繋げたと言ったペラペラな姿だった。はかなげな姿でお別れを言う早紀。ところが目の前にいるのは生きている時と変わらない立体の早紀だった。火葬場で遺体を焼くところまで付き添ったのに、今の早紀はどこで肉体を用立てたのか、これでは幽霊ではなくてまるでゾンビだった。触ったらゾンビなりの弾力がありそうな身体。触りたくはないけど。早紀はお別れを言うんじゃなくて仕事でもしそうなつもりで現れている。
「ねえ、それあたしが途中まで仕掛かってたの。」
声の調子が今までと同じだった。伽奈は椅子から転がり落ちて床を這うように逃れた。早紀は椅子に座ってモニターを見たが、チラシの画像である事が分かっただけで、それで何かが出来るわけではなかった。
「早紀、来ると思ってた。」
秀美は早紀の顔をのぞき込んで言った。早紀はざっくりと傷を受けた顔で、笑顔のようなものを浮かべたようだった。
「秀美、後でお昼食べに行こ。」
「早紀、何がしたいの。」
「あたし仕事をしに来たの。」
「ありがとう、早紀。でももういいのよ、この仕事は伽奈がやってくれるから。」
「このチラシはあたしがやるわ。途中まで仕上げてたし。」
この場合のゾンビ対策が何なのか分からない。グロッグ、無し。マチェット、無し。このゾンビは人を襲うというわけじゃない。会社にやって来て、やりかけていた仕事を終わらせようとしている。
「ねえ、早紀、わたしたちもう同じじゃないの。早紀はもうこの世界の人じゃないの。」
「あたしちゃんと出来るわ。そのために来たんだから。」
「早紀、あなたはもう死んでるのよ。」
「あたし大けがしてる。でも死んでないわ。」
突然現れたのだから早紀の姿を消すスイッチもあるはずだが、何がスイッチになっているのか分からない。
「秀美、お昼にしよう。」
早紀をこの世から送り出すスイッチがランチにあるのか、さっぱり分からなかったが、秀美はそれに賭けてみる事にした。昼食には時間が早かったが、どこに行くにしても客が少ない方がトラブルにならないだろう。
歩いて行けるファミレスにはテーブル席がまだ空いていた。席を案内する若いウェイトレスは秀美に笑顔を見せ、続いて早紀も笑顔で迎えた。あまり関わりのない人物にも早紀の姿は見えている訳だ。この若いウェイトレスは明らかに早紀の血塗れワンピースに気が付いていたが、驚いた事に秀美に見せたのと同じ笑みを浮かべたままだった。秀美は《ベジタブル塩タンメン》を注文し、早紀は《アボガドハンバーグ》を頼んだ。早紀が注文をする間、ウェイトレスは早紀の怪我を完璧に無視して、笑顔を浮かべたまま、ハンディー端末に入力していた。
《アボガドハンバーグ》が運ばれてくると、早紀は上に乗っているアボガドをずり落とし、フォークでハンバーグを刻んでこねくり回していたが、口に持ってくるとただ取りこぼすだけだった。そのうちフォークを伝わって、ハンバーグソースに血が混じってくる。テーブルの上にも擦ったような血の跡が付いている。秀美はタンメンをすすりながら、皿の上でハンバーグがぐちゃぐちゃにされるのを見つめていた。ソースの赤みが段々と増していき、トマトソースのように見えてくる。
「早紀、あんまりテーブルを汚さないで。さっきのウェイトレスに文句言われそうだから。」
「秀美、あたし大怪我してるの。」
「分かるよ、早紀。あたしあなたを助けることは出来ないの。あなたはここには居られないのよ。」
意外な事に《ベジタブル塩タンメン》の味を楽しむ事が出来る。ひどく怪我をしている連れを目の前にして、周りの席がちらちらと視線を送ってくるのにも耐えられている。
家族連れが入ってきて、年配の女、若い母親、保育園位の女の子の順番で早紀の姿に気が付くと、
「あの人怪我しているよ。」
と口々に言い合っていた。ウェイトレスは遮るように早紀と新しい客の間に割って入った。
「ご注文は。」
「ねえ、あの人、怪我しているみたいよ。」
注文をするより先に、年配の客がウェイトレスに言った。
「そうみたいですね、でも大丈夫みたいですよ、さっきからいらっしゃいますけど。」
「大丈夫って、服が血塗れなんだけど、救急車呼ばなくていいの。」
「普通に食事をなさってますよ。」
ウェイトレスはハンディー端末で注文を取り終わってから、早紀たちのテーブルに近づいた。彼女は片膝を床についた姿勢で、やはり笑顔を浮かべて、早紀に話しかけた。
「わたしはもうあなたを庇いきれないわ。あなたはこの世にいる人じゃないの。」
このウェイトレスは何もかもお見通しみたいな顔で、あたしの味方をしているつもりなんだろうか、と早紀は思った。
「あたしは怪我しているけど、死んでいるわけじゃないわ。」
「あなたは死んでいないのかも知れないけれど、この世では生きていないわ。」
ウェイトレスはこれだけの事を笑顔のままでしゃべった。客が食事をする時間を見計らって、『コーヒーはいかがですか。』と勧める時の笑顔と、同じ笑顔をつくっているのだろう。食事をするために来ている客と、どうしてかこの世に彷徨い込んでしまった化け物の両方に、同じような笑顔を見せている。
自分と変わらないくらい若いこのウェイトレスは、自分に道案内をしてくれているのだろうか、と早紀は思った。少し取り違えているような気がするこの場所から、自分を連れ出してくれるのだろうか。あたしが行きたい次の場所を教えてくれるのなら、この若い女を頼りたいと思う。
早紀はソースが血塗れになったハンバーグを更にぐちゃぐちゃに捏ねてから、立ち上がった。ふっと姿が消えるわけではなく、しっかりした足取りでドアから出ていった。後ろ姿を見送ってから、秀美はウェイトレスに言った。
「ありがとう。わたしだけじゃあの子を送り出す事はできなかったわ。」
「あなたが取り憑かれているのかどうか迷ったんですよ。でもあなたも、あの人を送り出そうとしていたんですね。」
秀美は、どうやらゾンビを見分ける能力を持っているらしいこのウェイトレスに、早紀を託したいと思った。
「あの子がちゃんと辿り着ければいいんだけど。」
「それは無理です。まだ彷徨ったままですよ。ここから出ていっただけで。」
わたしのゾンビ退治は半分終わった、と秀美はほっとした。同僚がゾンビになるのはよくある展開だし、途中から現れたウェイトレスに任せっきりだから、解決したのかどうかも分からないけれど。
自分が行きたい次の場所、を誰かに教えてほしかったわ、と早紀は思った。ファミリーレストランを出てからずいぶん時間がたった気がする。ファミレスの若いウェイトレスは、中途半端に希望を持たせてくれただけて、そのまま放り出されてしまった。秀美とひと言もお別れをせずに別れた事に腹立たしい思いがする。
とにかくご飯を食べなきゃ、と早紀は本当に食べたいのかどうか分からないまま思った。変なウェイトレスのせいで、おいしそうな《アボガドハンバーグ》を食べ損ねた。何か食べなきゃ、いつもそうしてるから。今までいつもしていたことをしたい。今までを続けたい。だってあたし生きてるんだから、たぶん。
外はいつからか雨が降っていた。街中なのにすっかり暗くなった通りに、コンビニがそこだけ明るい光で誘っていた。コンビニが行きたい次の場所なのかどうか、そこに行く途中に寄る場所ではあるようだった。いつも通りに《からだ巡り茶》を冷蔵庫から見つけたが、弁当を選ぶ時に少し迷った。《さいころステーキ弁当》。丼物みたいにご飯の上に肉が載っていた。
レジで若い店員がまじまじと早紀の顔を見ていた。
「弁当を温めますか。」
あんたのお陰で俺は面倒に巻き込まれかかってるよ、という言葉を苦労して『弁当を温めますか。』に置き換えたみたいだった。
誰か代わりにこんなことを終わらせてくれよ、が『救急車呼びましょうか。』なのだろう。
「救急車はもう乗ったわ。」
すでに遠い思い出のように早紀は言った。
「救急車は速かったわ。間に合わなかったけど。」
「ほんとに大丈夫ですか。」
若い店員は少しも思っていない言葉で話をつなげた。
「救急隊員はよくやってくれたわ。無理だと分かっていたみたいだけど。心臓マッサージをしながら、『お嬢さーん、住所どこですかー』って、住所なんか聞いている場合じゃないのにね。でも私は住所を言おうとしてたのよ。なんとかして口を動かそうと思ったの。返事しなきゃって。」
名前で五十回、住所で五十回、返事をした気がする。これだけ言っているのにどうして聞き取ってくれないのかと、腹立たしい気がしたのを思い出す。
レンジがチンを言うと、若い店員は大急ぎで弁当と飲み物をコンビニ袋に入れて、早紀に手渡した。
弁当を買った後、秀美たちとよく行く公園に行った。家から持ってきた弁当の時も、コンビニで弁当を買ったときもそこで一緒に食べた。今は外灯が点いているが、ベンチから離れているせいでひどく暗い。それに雨が降り続けていた。ベンチが濡れていたが、構わずに座った。弁当を開けると、その中に雨が降り込んできた。ご飯を口に入れるが、そのままぽろぽろこぼれ落ちてしまう。自分がやっていることに何の意味があるのか分からない。ただ今までいつもやっていたことをしたいと思う。プラスチックの弁当ケースに水が溜まり続ける。ご飯が水っぽくなり、だんだん冷えてくる。でもどうすればいいのかは分からない。雨に濡れたご飯を口に運び、ぽろぽろとこぼれ落とすことを繰り返す。
表に車が止まる音がしても、邦夫はまだカウンターの内側にへたり込んでいた。ドアが開かれると、邦夫はカウンターから首だけ覗かせながら、次に来る怪物に立ち向かう準備をした。
夜中の十二時過ぎ、パジャマでコンビニにやって来る子供というのは怪物なのだろうか。後ろに揃いのパジャマを着た若い夫婦が続いて、普段どおりの馬鹿げた光景に戻ったことに、邦夫はほっとした。
子供はアイスクリームのボックスまで走り寄って、中を掻き回し始めた。背が届かないので、冷蔵ケースの縁に上半身を乗り上げている。どうしてコンビニの客というのは、自分の家か何かのように無遠慮に振舞えるのか、それも幼稚園の子供の頃から。面倒くさいので、邦夫は何を見ても注意をすることはなかった。
「ママー、アイスアイス。」
子供は昼も夜も関係ない元気さで母親を呼んだ。若い母親はパジャマに《ルイ・ヴィトン》のトートバッグというスタイルだった。自分の家の居間から、コンビニ、そして再び自宅の居間へと移動していくことに、心持ちの変化が何もないのだろう。
夫婦はかごの中に、ビールと唐揚げ、おにぎりを入れた。子供がアイスクリームを加え、家の冷蔵庫を浚うような買物が終了した。
二人目の死体が来たのは、パジャマの親子連れが帰ったすぐ後だった。グレーのスーツを着た中年の男。ちょっと見では傷が見当たらなくて、最初見たとき普通の客だと思った。しかし服全体が湿っているようで、歩いた後に黒い水滴が点々と付いていた。最初の女よりも、もっと始末が悪かった。死体に成り立てなのかも知れない。内臓を損傷して、血が足を伝わって滴り落ちているようだ。
男はかごを提げてお菓子の棚へ歩いていった。邦夫はモップを持って男が歩いた跡を拭いて回った。黒い水滴は間違いなく血液だ。邦夫はただこの時間が早く過ぎることを願った。誰も助けてくれたりはしない。ただこのゾンビだか幽霊だかは奇妙なほど当たり前に買物をして、邦夫に降りかかった災難に幕を引いてくれる。
男はしばらくチョコレートを物色してから、《グリコ・ギャバ》をかごに放り込んだ。棚に並んでいる《明治カカオ72%》のボトルに、擦ったような血の跡がある。肩か、それとも腕を傷つけていて、手まで血が流れ落ちているようだ。
「お客さん、商品に触らないでくださいよ。」
邦夫は泣きそうになりながら、男に声をかけた。男は振り返り、邦夫の顔とお菓子の棚を交互に眺めた。男の顔は白というより灰色だ。顔には傷がないが、血の気がすっかり抜け落ちている。
「買うよ。」
男はチョコレートの棚に戻って、汚れたボトルをかごに入れた。最初に現れた女と同じように、不釣合いなほど自然な声だ。
男は奥に進んで、冷蔵庫から《ジョージア》を取り出した。弁当コーナーに回って、弁当を選び始めた。もうすぐ出て行ってくれる。邦夫は床に点々と残っている黒い汚れをふき取るのを止めて、レジに戻った。
その時新しい客が入ってきた。化け物なのか、普通の人間なのか、このタイミングだと、どちらも変わらないくらい厄介だ。ジャージを着た若い男で、邦夫に目もくれずに冷蔵庫へ進んでいった。
「わっ」という声がして、邦夫はミラーでジャージの姿を探した。ジャージが床に残った染みを避けている。ジャージは人間ということだ。冷蔵庫のドアを開ける音がして、床に物が落ちる音がして、今度は「うわあっ」という長い叫び声が聞こえた。ジャージは床の染みを辿ってスーツ・ゾンビの脇まで来ると、血の付いた掌をゾンビに見せた。
「おっさん、おっさん、あんた怪我してるぜ。」
ゾンビはジャージの方をちらりと見た後、《豚焼肉弁当》をかごに放り込んでレジに向かった。
杉本は隣のレジに入ったままで、始終固まっていた。ゾンビが杉本の方に行くとまずいな、進行が長くなる、と邦夫は考えた。ゾンビも同じように考えたようで、邦夫のレジを選んだ。ゾンビは弁当と缶コーヒーと料金をカウンターに置いた。ジャージ男がレジまで後をついてきていた。
「弁当を温めますか。」
邦夫はできるだけ普段通りに聞こえるように、ゾンビに言った。ほっといてやれよ。早く終わらせてくれ。邦夫はジャージに、これはなんでもないことなんだと伝えたかった。俺たち人間がどうにかできることじゃないんだ。
「うん、温めて。」
ゾンビが平然として答えると、ジャージは二人が共謀しているとでも言うように、邦夫とゾンビを見つめた。
「あんたえらく怪我してるぜ。血が出てるよ。」
「知ってる。」
ゾンビはそっけなく答えた。スーツのズボンが濡れたように見える。足を覆う位たっぷりと血が流れているのだろう。
「事故ったのか。腹を打ってるだろ。」
「正面衝突した。車の前半分が潰れたよ。」
弁当が温まるのを待つ間、ゾンビはこの場を逃れられなくて戸惑っているように見えた。
「よく死ななかったな。エアバッグで助かったんだろ。救急車呼ばなくていいのかい。」
「もう乗ってきた帰りだ。」
邦夫がコンビニ袋を渡すと、ゾンビは会話を打ち切って出て行った。床に染みが点々と残っていた。ジャージは後姿を見送ると、邦夫に言った。
「あんた見ただろ、今の奴・・・。」
「いろんなお客がいますからね。」
邦夫はティッシュをジャージに渡した後、紙タオルを持って冷蔵庫に向かった。コカコーラのペットボトルが床に転がっている。冷蔵庫のノブに血が付いている。邦夫はジャージが掴み損ねたコカコーラを拾い、紙タオルで冷蔵庫のノブを拭った。ジャージが別のボトルを取り出すと、二人は再びレジに向かった。
「いろんな客って、あんなのがしょっちゅう来るのかい。」
「いや、あんな人は初めてですよ。」
今日は二人目だと言うのがいいんだろうか。最初来たのが若い女で、今ので二人目。こっちだって慣れてるわけじゃない。少し慣れたけど。化け物が二人も来たのは、きっと天気のせいだろう。このしとしと雨。だいたい化け物が揃って弁当を買っていくって言うのは、そうしないではいられないからだろう。この世に未練がある時、したい事の第何位目かに《コンビニに寄って弁当を買うこと》というのがランクインしているのだろう。
道路脇の巨大な杭打ち機がとうせんぼをするように倒れた、まさにその下を通りかかって押し潰される、あるいは、トラックの荷台から鋼材の束がするりと抜け落ち、後ろを走っていた車のドライバーが身体を刺し貫かれた・・・。自分に落ち度がないのに自分の方が死ぬなんて運が悪い、それで済むだろうか。谷中は自分がそんな目にあったら、とても死に切れない気がした。死んだと分からないまま自分の魂が道路を走り回るんだろうか。仕事時間のほとんどを車に乗っているので、死ぬとしたらそんな魂の彷徨い方になる気がした。
実際は似ていたが少し違った。魂は目的地を持っていた。谷中がゆるい右カーブに入りかかった時、ドライバーの眠気が乗り移ったようにネムイ軌跡を描いて、ハイエースが谷中を目掛けて走ってきた。意思というものがないので、ためらいがない。そのまま車線を突っ切って電柱にぶつかったかも知れないのだ。そうはならずに、ハイエースの軌跡の中に谷中が乗ったADバンが入り込んでしまった。
ボンネットから運転席まで、ADバンの右半分がドライバーもろとも圧縮された。エアバッグで目の前が真っ白になった後、ダッシュボードとハンドル、自分の身体、シートがひとかたまりに畳まれていた。床に血が溜まっていて、どんどん量が増えているのが見えた。目をつぶった。
再び目を開けた時、右半分、見事に圧縮されたボンネットが目に入ったが、車そのものは道路を走っているところだった。妙な潰れ方をした室内の形に合わせて、身体が変形していた。胸の曲がらないはずの部分が後ろに反っていた。左手は使えて、サイドシートや床に散らばっているタイルや壁材のカット見本帳を、手が届くだけ整えた。
自分の車と身の回りはちゃんと見えている。ところが外の視界はピクセルが欠けていた。今までこんな見え方をしたことがあったか? 自分自身の能力が不足しているのだろうか。しかも車は動いているのに、周りの景色はピクセルが欠落したまま静止していた。何秒かに一回しか視界が更新されない。古いパソコンを無理やり使い続けるように、自分の中のグラフィックチップが能力不足になっているらしい。
取引先に行かなきゃならないのに、自分の車が前の車に食い込んだり、後ろの車が、視界の中にいきなり侵入してきたりする。車がぶつかる時の衝撃ではなく、粘土を押し潰すように、ムリムリとした感触が伝わってくる。そのうちパワーアップすることが出来たらしくて、ピクセル欠けしながらも、視界が静止画ではなく動画になった。周囲からもこちらが見えるようで、すれ違う車から送られる視線が、『信じられない!』になっている。
不動産会社の駐車場に車を入れると、幾重にも折り曲がったドアを折り曲がったまま開いた。一体になったダッシュボードと自分の身体、さらにシートと、ぴったり重なり合った中から、身体を外に押し出す。
自分は約束の時間に遅れたんだろうか。よく分からない。受付の若い娘が「いらっしゃいませ。」を言いかけた後、ぎょっとして立ち上がった。
「お客様、お怪我をなさっていますよ。大丈夫ですか。」
大丈夫じゃないが、人に何かをしてもらえる訳じゃない。娘の視線を辿って、後ろを振り返ると、ロビーに点々と血が滴っていた。痛みは感じないが、まだ血が流れている。谷中は受付を通り越して廊下へ進んだ。
「お客様、ちょっとお待ちください。大丈夫ですか。」
受付の娘はテーブルを廻り込んで谷中の側まで来ていたが、手を触れたりは絶対に嫌だという距離を取っていた。娘は厄介なお客を自分のテリトリーから外に出そうとした。
「うちの者をお探しですか。誰か呼んできましょうか。」
「松田さんを。」
谷中は久しぶりに喋った気がした。普段通りの声なのが、意外なようにも、当たり前なようにも思えた。
谷中はカウンターで仕切ってあるオフィスの中から約束の相手を探した。何人かがこちらを振り返り、その内の一人が立ち上がった。それが約束の相手だった。松田は客の顔を訝しげに見つめながら近づいてきたが、廊下まで出たところでようやく状況が分かった顔をした。同時に、『ありえない!』の顔になった。
谷中は見本帳の束を松田にかざして見せた。
「なんだかすごく遅くなったみたいで、申し訳ないです。」
谷中はまだ自分が約束の時間に遅れたのかどうか分からなかった。
「谷中さん、谷中さんでしょ。俺あんたの葬式に出たんだよ。」
松田は壁に身を退きながら言った。
葬式?自分の葬式だって?・・・じゃあやっぱりすごく遅れたわけだ。
「サンプル持ってきてくれたんだ、ありがとう。でも替わりの人が持ってきてくれたよ。」
松田の顔は『ありえない!』のままだったが、谷中が何者に変貌したのかちゃんと理解している口振りだった。
「谷中さん、あんたがうちに来る途中で事故にあったと聞いて、なんだか悪い事したなあって思ってたんだよ。だからといって俺の前に出てくることないだろ。俺なんてただの取引相手なんだから。奥さんの所にでも出てやればいいだろ。なあ、もう帰ってくれよ。」
突然、松田の姿が四角いピクセルで埋まり出した。視界がだんだんピクセルで隠れていく。モチベーションが下がると、彼の中にあるグラフィックチップの働きが鈍ってくるようだ。
自分がどうやってその場から立ち去ったのか分からない。同時に彼の姿を見た人たちも、彼がどうやって視界から消えたのか分からなかった。まるでオフィス地帯向けの迷彩をまとって、壁やテーブルに身体の一部分ずつを紛れ込ませていったかのように、気がついたら彼の姿が消えていた。
「松田さん、今の人すごい怪我をしてましたよ。」
二人の後ろから一部始終を見守っていた娘が、松田に言った。
「いいんだ。いいんだ。もう終わったから、気にしなくていいんだ。」
松田は男が幕引きをしてくれたことにほっとしながら言った。自分だってこんなことは絶対に慣れている訳じゃないが、心のどこかで予想していたような気がした。親しさの順番で言うと、自分の前にその男が現れる可能性は低いつもりだったが。
谷中は潰れた車の隙間に合わせて、自分の身体を変形させた。身体がパズルのピースになっている。胸を考えられない方向に折り曲げると、ダッシュボードとシートの間にするりと嵌まり込む。会社に戻ろう。俺の葬式に行ってきただと。だとすると俺が会社に出るのは数日振りということになる。俺の葬式だと?俺はまだ生きてる、たぶん。車の床におびただしい血溜まりができて、半分乾いている上に新しい血が溜まってきている。それにさっきの若い娘が血の滴りを見てぎょっとしていた。俺は生きていると思っていいんじゃないかな。
いまだに『WindowsXP』が入っている会社のパソコンと同じように、頭の中に嵌め込まれているグラフィックチップの能力がまったく足りていなかった。会社に戻るということでは、自分の中のモチベーションを高めることにはならないらしい。視界がぽろぽろとこぼれ落ちるようにピクセル欠けをして、画像が動かない。知らない間に渋滞の車列にめり込んでしまう。そのうち会社に戻るということが自分にとって何の動機にもならないことが分かってきた。
帰るのは自分のマンションだ。これが何か賭けのような気がしてきた。いつものように『ただいま』を言いながら部屋のドアを開けよう。でも妻がぎょっとした顔で俺を見るのか。困惑しきった顔になって、『あなたの葬式まで終わったのよ』みたいになるのか。それでいい。それがこういう時の決まり切った成り行きらしい。
自分のマンションまでADバンを走らせ、いつものように車を駐める。部屋のドアを開くと、妻がこちらを見ていた。何も困惑の気配がない。何をするべきなのか分かっている顔がある。妻は一直線に向かって来て、谷中を押し出そうとした。後ろから幼稚園の娘が出てきた。
「お父さんよ。これお父さんよ。」
娘は泣き顔だった。
「入れちゃだめ。あんたも押すのよ。」
妻はためらいがなかった。娘も加わってきて、妻と娘、二人で谷中を押し出そうとする。
「ただいま、結花ちゃん、ご飯出来てるよね。」
谷中は娘に付け入ろうとした。結構普通に話せている。
「しゃべっちゃだめよ。返事をしたらだめ。」
妻は谷中の作戦を封じた。ドアから半身が押し出されたところで谷中は自分の姿を見失った。
小さなスーパーマーケットの駐車場に車を停める。何にモチベーションを見出すべきなのか分からない。夜になる。会社に行き、それから自分のマンションに帰って、妻や子供に会うことの他に何かルーチンを飛ばしているような気がする。そうだコンビニに行こう。まだ生きてるんだから。
心を決めると奇妙なほど視界が晴れた。コンビニに弁当を買いに行くということが生きる証しになってしまうのか。会社の中で結婚していながら弁当を持ってこないのは彼だけだった。妻は自分も仕事をして子供を幼稚園に送り迎えまでして弁当は作れないと言っていたが、なんだか自分に関することで手を抜かれている気がしていた。でも今となってはコンビニ弁当が生きている証明になりそうだった。
こんな遅い時間ではコンビニに寄った事がなかった。雨がしとしと降っているせいもあって、店の照明がむやみに明るく見える。中に入り、商品を物色していると店の床に点々と血が滴った。これも生きている証しだった。自分が歩いた軌跡として残しておきたいほどだ。店員がモップで床を拭き取っている。こいつ妙に淡々としていやがる。まるでこんなことは時々どうしてもあることで、コンビニ店員の一番嫌な仕事のひとつだとでも言うように。もしかして他にも俺みたいな奴が来るのか。
コンビニに来て思い出したことがある。最近チョコレートに凝っている。『機能性』何とかという言葉が心の一部分を刺激した。《グリコ・ギャバ》を一個。ところが店員が
「商品に触らないでくださいよ。」
なんて言ってきた。《明治カカオ72%》も買えばいい。ところでこの店員、不機嫌なのがそのまま顔に出ているが、俺が怪我をしているのをまったく意外な事と思っていない。金を払って出て行くまで、我慢するしかないと思っているようだ。俺はよくある嫌な客なのか、それともそれほど多くはない嫌な客にランクされているのか?
若い男の客が入ってきて、大騒ぎした挙句に俺のそばまでやってきて、
「おっさん、あんた怪我してるぜ。」
などと言ってきた。さっき受付の娘も同じ事を言っていた。余計な世話だ。言われなくとも分かっている事を、しかも言ったからといって何かしてくれるつもりもない事を口に出しているだけだ。しかたがないので弁当をろくろく選ばずに、目の前にあった《豚焼肉弁当》を取った。
ジャージを着た若い男は、レジまでついてきた。店員は弁当を受け取ると
「弁当を温めますか。」
とごく自然な調子で聞いてきた。俺を早く厄介払いしようと、死ぬほど当たり前なルーチンに持ち込みたがっている。ジャージを着た男はホラー映画にでも紛れ込んだという顔をして、俺と店員を見ている。
「事故ったのか。腹を打ってるだろ。」
「正面衝突した。車の前半分が潰れたよ。」
「よく死ななかったな。エアバッグで助かったんだろ。救急車呼ばなくていいのかい。」
「もう乗ってきた帰りだ。」
本当はどうだったのか分からない。白いハイエースが俺の営業車に激突してから、ここに来るまでに、自分としては時間の断絶はなかった。松田さんは葬式があったと言っていた。それが本当だとすると、救急車に重体のまま乗せられ、病院で死亡したか、それともすでに息がないのを分かっていながら、救急隊員が果てしない蘇生の試みを病院に着くまで続けたかだろう。
どっちでもいい。血をたらたら滴らせながら、コンビニに来て、弁当を買った。いつもやっていた事を、また今日も続けられた。それが出来ればいい。
邦夫がようやく床の染みを拭き取り終えた頃、新しい客が入ってきた。雑誌コーナーに張り付いたので、人間なのか、それとも化け物なのか分からない。邦夫はモップを持ったまま、ウインドウ側を覗いた。
上下ともユニクロで固めた、三十歳位の男が、車雑誌を漁っていた。顔は見覚えのある男だ。夜中にやってきては車の雑誌を立ち読みしていた。いつも一時間近くそうしているが、邦夫は面倒くさがって注意したりはしなかった。今日も《ベストカー》を頭から読み始めている。
ユニクロが三十分も《ベストカー》を読んでいる頃、カップルが入ってきた。グレーのパーカーを着た男と、キャミソールの上に背中がY字になったタンクトップを重ねている女、お互いの身体に手を回して、ぴったりとくっついたまま歩いている。二人は冷蔵庫のドアを開けたまま、いつまでも品物を選んでいたが、パーカー男が《ペプシストロングゼロ》、キャミ女が《カルピスウォーター》を取った。
カップルが入ってきてからほとんど間を空けずに、新しい客が入ってきた。こんな夜中に客が三組も重なるのは、珍しいことだ。そして邦夫は、この日いちばん面倒な客が来たことを知った。Tシャツの胸元が隠しようもなく血で染まっている。顔と胴体の遠近感が微妙に違う。ほんのわずかだが距離感が違っている。男が横向きになった時に理由が分かった。首が後ろにずれている。脊椎の首から上がスライドしたように、頭の軸が後方に来ている。邦夫は「マジかよ、マジかよ、マジかよ」と心の中で繰り返した。足取りがしっかりしているので、買物に来たゾンビ・コスプレのように見える。
首男は店に入ってすぐ、ウインドウ側の通路を通って奥に向かったものだから、雑誌コーナーでユニクロとまともに向き合ってしまう。ユニクロは首男と擦れ違うまで、呆気に取られていたが、《ベストカー》を棚に戻すと大急ぎで外に出て行った。
雑誌コーナーの向かい側が日用品の棚で、首男は包帯と絆創膏を手に取った。とてもそれで間に合うとは思えないが、コンビニで用立てるとしたらそれぐらいか、と邦夫は淡々と考えた。
首男が奥壁の飲料コーナーに曲がってまもなく、杉本が滑るようにレジに戻った。
「塩ちん、新しいのが来てるよ。塩ちんに任せるよ。慣れてるだろ。」
杉本はひそひそ声で邦夫に言った。慣れてるよ。あんたが全部俺任せにするせいで、ゾンビには二体分慣れてるよ。邦夫は杉本が放り出した商品コンテナの方へ向かった。飲料ケースの前で、思った通りに、カップルと首男が面と向かっていた。
「ちょっと、あたしたちピンチになってると思わない?」
キャミ女が連れにささやいていた。
「コスプレイヤーか何かかな?一番幸運だったとして。」
「一番運が悪いとやばい人かも。」
首男は何の反応も見せなかったが、飲料を取るのにキャミ女が邪魔になっていた。首男が飲料ドアに近づくとキャミ女は一人分だけ横にずれた。
「あたし襲われかけたかも。」
キャミ女はそう言いながら、首男から遠ざかろうとはしなかった。
パーカー男が邦夫に話しかけた。
「ちょっと、変な人いますよ。」
他の客はどうしていつもこの化け物たちに興味を示すんだろうと、邦夫は思った。
「飲み物取らせてあげてください。」
邦夫は首男の方を庇った。
「うわ、常連なんだ。あいつの方を庇うんだ。」
二人はまたひそひそ声で自分たちの会話をした。
そうじゃなくて、進行させてくれ。と邦夫は思った。邪魔が入らなきゃその内終わるのに。
首男は《午後の紅茶ストレート》を手に取った。首男は冷蔵庫から離れると、邦夫の方に近づいてきた。
「すみません迷惑かけたみたいで。」
この男は時々来ている客だった。人間だった頃は。
「お客さんの顔は覚えてますよ。時々来ていたでしょう。」
「この店にはよく来ていた。でも前の自分とは違うんですよ。」
「分かっています。」
「これで何とかなるか分からないんだけど。」
首男は包帯と絆創膏を邦夫に見せた。ズレてしまった首筋に絆創膏を貼ったところで何にもならないが、それで気が済むならそうすればいいよ、と邦夫は思った。
「絆創膏じゃ無理でしょうね。」
邦夫は正直な感想を言った。
「どうしたらいいのか分からないんですよ。コンビニに寄りたい気がしたんだけど。」
あんたたちがしたいことは弁当を買っていくことだよ。なぜだか理由は分からないけれど。
「みんな弁当を買っていきますよ。」
「みんなってそんなに来るんですか?」
「お客さんで三人目ですよ。前の二人とも弁当を買っていきましたよ。」
「じゃあ、ぼくもそうします。」
首男は《デミグラスソースのオムライス》を選んだ。それに《午後の紅茶ストレート》を合わせるとぴったりな気がする。
邦夫は閉じていた方のレジに入った。杉本はもう一方のレジから『おれは絶対に関わらないからね』の意思を示して、目をそらしている。
「弁当は温めますか。」
「はい、温めてください。」
温めた弁当があんたの身体にいいのかさっぱり分からないけれども、あんたがそうしたいなら温めてやるよ。
「ありがとうございました。」
邦夫は笑顔を浮かべて弁当を手渡した。首男は何の表情も浮かべなかったけれど。
どうして前の車が止まったのに気づかないことがあるのか、と言う人がいるが、慎治は気づかなかった。4トントラックのリアパネルが避けようもない位置に来るまで。ブレーキを思い切り踏みつけると、プリウスはトラックの下にダイブした。
エアバッグが開くのとプリウスのルーフが削り取られるのが同時だった。トラックのバンパーはルーフの半分を削り取ったところで止まった。外観からはドライバーの損傷が意外なほど分からない。けれども潰されたルーフは慎治の脊椎と神経をずらすように切断していた。
ショックから立ち直ると、慎治は外界との関係を回復しようと試みた。視界が全くない。頭部がずれていることがなんとなく分かる。前後ろを確かめて元在った位置に置いてみる。嵌まったという感触はなかったものの、視界は突然に開けた。そしてだましようもなく、自分が死んでいることを知った。
突然に人波の中にいる。自分の周りだけが空間が開き、驚きの顔で見つめられている。自分の状態を知ると、そうされることに納得がいく。
時間と、場所が突然切り替わる。あまり当てにならないが、ちょっとだけ意思が関わっている気もする。今度はそれまで自分が住んでいたアパートの前にいた。よくある二階建てのアパート。二階の角が自分の部屋。外からベランダを見上げてみる。カーテンが取り払われていて、まだ誰も入居していないようだった。皆実が何度か訪れてくれた。思い出の場所というわけだ。
見知った顔が挨拶をしてくれて、それからぎょっとした顔に変わった。何年か住んでいる間、挨拶だけはして、お互い顔は知っているという人たち。意図せずに誰かを不安にさせる、ということをしてしまっている。不用意に顔を見せない方がいい。
皆実にだけは会いたいと思う。それとも、驚かせてしまうなら、顔を見るだけにしようと思う。彼女は毎日同じ時間に駅から出てくる。今度は場所が切り替わることもなく、あまり距離がない駅まで、歩いて移動する。
皆実は毎日正確に、同じ時間で駅舎から出てくる。毎日ここに佇んで、皆実の姿を眺めたいと思う。自分が毎日何かを出来る能力があるのかどうか分からない。ただ今日はここに来ることが出来た。
駅舎から人の流れが出来、慎治はその中から皆実の姿を見分けた。ブラウスにロングめのシフォン・スカート、いつものようにほっとする服。驚いたことに、皆実の方も慎治に気づいた。皆実は僅かの間足を留め、慎治を見つめた後、何の意外感も無しに近づいてきた。
「慎治くん。来てくれたのね。分かってたよ、いつか来るって。」
皆実は僕がどんな存在に変わってしまったか分かっているんだろうか。もう同じ人間じゃないと言うことを話すべきなんだろうか。
「慎治くんのお葬式の時、あたしわんわん泣いちゃって、誰も知ってる人がいないもんだから、この女誰みたいになっちゃって。」
皆実は笑い話としてしゃべったが、笑顔を作っていたのが泣き顔が被っていった。
じゃあ皆実は僕の状態を知っているんだ。ぜんぶ承知した上で今話してるんだ。
「お別れ言いに来たんでしょ。さよなら言えてなかったから。さよなら。慎治くん、さよなら。」
えっ、あっ、さよなら?そんなつもりじゃない。これから毎日君の姿を見ようと思って・・・。
皆実は慎治の手を取った。手を握ることが可能なんだ。どこまでが出来ることなのか分からないが、皆実の目を見つめたまま、手を取り合うことが出来ている。もうこれでいいんだろうか。毎日ここで待ち構えていたら、今度は面倒がられるだろうか。これで終わりにすべきだろうか。
そこで皆実の姿が消えた。場所も駅前ではない。自分の気持ちがコントロール出来ていない。飲み込みがいい人間だから、かえって皆実の方が、唐突な転換にも納得していそうだ。最後のお別れをするために現れて、今度こそ永遠に消えていった恋人。信じられないことを、彼女は自然な成り行きとして受け取ったのだろう。それに比べて自分の方は、未練に捕まって時間と場所を選び違えている。もう深夜という時間になっている。場所も街寄りのコンビニが見えるところにいる。何をしたいと言うことでもないが、コンビニの方へ足を向ける。そこに行くのに理由は必要なさそうだが、理由は『コントロールを失った心を鎮める』にしよう。
慎治が店に入ってすぐ、雑誌を立ち読みしていた男が視線をこちらに移して、男は慎治から目を離せなくなってしまっていた。明らかに動揺している。この男に対して、顔を合わせた相手を不安にさせる、ということをしてしまっている。
右手側が日用品の棚で、慎治は何か役に立てられそうな物を物色した。包帯と絆創膏、気休めでしかないが、これがコンビニに来た理由になると思った。
突き当たると冷蔵庫、何か飲み物を買っていきたい。パーカーを着た男と、タンクトップの女、若いカップルがなぜか、慎治の通り道を塞いだまま動こうとしない。
「ちょっと、あたしたちピンチになってると思わない?」
タンクトップの女がひそひそ声で連れに話しかけていた。この二人は自分が不安を与えたと言うよりも自分の姿を楽しんでいるようだ。
「コスプレイヤーか何かかな?一番幸運だったとして。」
「一番運が悪いとやばい人かも。」
慎治が飲料ドアに近づくとタンク女はようやく人が通れる分だけのスペースを空けた。慎治は《午後の紅茶ストレート》を選んだ。
「あたし襲われかけたかも。」
タンク女は慎治を目の前にしながらパーカーを着た男にささやいた。なんだか楽しそうだ。自分の事を飼い慣らされた危険なペットみたいな物と見なしているんだろうと慎治は思った。
パーカー男が近くにいた店員に話しかけた。
「ちょっと、変な人いますよ。」
少しだけ驚いた事に店員は慎治の方を庇った。
「飲み物取らせてあげてください。」
「うわ、常連なんだ。あいつの方を庇うんだ。」
冷蔵庫を離れて、距離が近くなった時に、慎治は店員に話しかけた。
「すみません迷惑かけたみたいで。」
「お客さんの顔は覚えてますよ。時々来ていたでしょう。」
「この店にはよく来ていた。でも前の自分とは違うんですよ。」
「分かっています。」
何が分かっているんだろうか。自分が明らかに通常の外見ではないのに、この店員は何の動揺も見せていない。
「これで何とかなるか分からないんだけど。」
慎治は包帯と絆創膏を邦夫に見せた。自分は少しだけ誰かに気を許したいようだ。
「絆創膏じゃ無理でしょうね。」
店員はあっさりと返した。自分の状態を見れば当たり前だ。それなのにこの店員は自分の顔を平然と見ている。まるで週に一回はシャツを血で染めた人間が店に入ってくるというように。
「どうしたらいいのか分からないんですよ。コンビニに寄りたい気がしたんだけど。」
コンビニに行けば血まみれになって動転している人間にも適切なアドバイスをしてくれる店員がいるかも知れない、というのが自分のような者がコンビニに寄りたくなる理由だろうか。実際にこの店員は状況によく慣れている。
「みんな弁当を買っていきますよ。」
「みんなってそんなに来るんですか?」
「お客さんで三人目ですよ。前の二人とも弁当を買っていきましたよ。」
そして弁当を買えというのがこの場合の適切なアドバイスなのだろう。本当は温ケースの《スパイシー唐揚げチキン》でも同じだし、おでんでも同じなのだが、弁当を買うというのが最も正しい対処法なのだろう。どうしてかこの世からうまく離れる事が出来なかった自分のような者たちが、自分をこの世に繋ぎ止める手がかりがコンビニ弁当ということだろうか。
「じゃあ、ぼくもそうします。」
慎治は《デミグラスソースのオムライス》を選んだ。
「弁当は温めますか。」
「はい、温めてください。」
弁当を温めるというのが対処法のオプションなのか。少しだけこの世での滞在時間が増えるというような。
「ありがとうございました。」
弁当を渡す時に、店員は笑顔を浮かべていた。妙に物わかりのいい店員。彼にとっては、自分も金を払って出ていく客の一人というだけかもしれない。自分の顔からは何の感情も読み取れないようだが、ちょっとだけ感謝している気持ちを、受け取ってほしいと思う。