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鹿と耳栓

作者: 宮ノ木 渡




ぼくが耳栓の有用性に初めて気が付いたのは、飛行機に乗っている時だった。ヨーロッパに行こうと思って移動している時、十数時間もの間飛行機に乗っている必要があった。機内では食事が出され、座席後部に設置されたモニターで映画なんかも見ることができたけど、さすがに長時間のフライトで疲れも出てきた。シートを傾け眠ろうと思ったが、どうにも騒音が耳について眠ることができない。騒音は機体が雲を抜け、乱気流を抜け、空気の層を切り裂いてゆく音だった。一度その音を明確に認識してしまうとどうにも気になってしまう。イヤホンで音楽のボリュームをこれでもかと上げて聴いていても、その隙間を縫うように騒音はぼくの耳に入り込んで来た。

 

ブランケットを借りて頭から被り目をつぶりながら、ごうごうと延々聞こえてくる騒音をなんとかしなければと思っていると、そこに耳栓があることに気が付いた。座席毎に置かれているアイマスクと簡易歯ブラシと小さなチューブの歯磨き粉、それと耳栓。ぼくはそのオレンジ色をした二つのスポンジの塊(弾丸のような形をしている)を手に取り一つづつ耳に押し込んだ。


実を言えばぼくの耳の穴の形は少しばかり奇形なようで、旧式のイヤホンが上手く入らなかったりする。見かけは入ったように見えても実際にはかろうじて耳にくっついているような状態になり、首を動かすとすぐに落ちてしまうのだ。だから一昔前は音楽を聴きながらのジョギングなんてぼくには夢のまた夢だった。最近は耳に押し込む形のイヤホンを重宝しているけど。


耳栓はそんなぼくの耳の奇形に合わせて形を変え、確実に騒音を防いでくれた。完璧な無音状態を作り出すことはできなかったけど、それでも騒音のボリュームは二割ほどに減っていたと思う。これで眠りに就けると思うと安心して、ぼくは小さくなった騒音に耳を澄ませながら眠りに就いた。



それからぼくは耳栓に対して、以前よりも関心を抱くようになった。周囲の音に悩まされた時はすぐに耳栓を付けるようになったし、もっと別の使い道はないものかと思案したりもした。そうしてあまり役立ちそうもない使い道をいくつか生み出した。例えば全く騒音なんてない部屋の中で耳栓を付けてみた。そうして、「あー」と発声してみた。するとその声は頭の中で籠もり、別の人間の声のように聞こえた。


ある時、耳栓を付けたまま外に出てみようと思い立った。満月の出ている静かな夜だった。

人が出歩く時間ではなかったし、そもそもぼくの住むアパートの周りは昼間だって人気はない。すぐ近くに浅い川が流れているので、そこまで行って戻ってこようと思った。


スポンジの塊を耳の中に入れ外を歩いていると、自分の足音がかろうじて聞こえてきた。実際にはどのぐらいの大きさで足音が響いているのか、普段の生活から思い出そうとしてもわからなかった。息を吸う時と吐く時の音が妙な生々しさを従えて、脳に直接聞こえてきた。暗闇の中に佇む街灯はいつもよりはっきりとその存在を主張しているようだったし、満月もそれを囲む散り散りの星も、闇の中に煌々と光を拡散していた。


川辺に着くと街灯の光が水面に反射して揺らいでいた。上流から川の音が少しだけ聞こえてきた。ぼくは河原に一人座って夜空を見上げた。自転車がぼくの前を通り過ぎて行く。ふと視線を下すと川の真ん中に鹿が二頭、ゆっくりと歩いていた。大きな鹿と小さな鹿だった。親鹿が子鹿を連れ立って移動しているように見えた。川上から川下へ歩を進める彼らは、月の光に照らされてどこか神秘的だった。


川を下るとそこには街の中心街があるのだが、鹿はいったいどこまで行くつもりだろう?そう思ってぼくはそのまま鹿を追ってみることにした。

 


ぼくが鹿を実際に見たのはこれで三度目だった。一度目は田舎の両親の家の近くにある山の中だ。ぼくがまだ小学生だった時に遊び半分で山の中に入って枝を振り回しながら登っていると、突然目の前に一頭の鹿が現れた。耳をピンと立ててこちらをじっと見つめていた。ぼくは彼と目が合うとその場に固まってしまった。そこまで大型の鹿というわけでもなかったのだけど、それでも当時のぼくよりはかなり大きかった。枝を武器に追い払おうか、という考えが一瞬頭をよぎり、そして消えた。ぼくは相手の出方を窺うようにただじっとその目を見つめることしかできなかった。


ぼくがセメントでできた彫刻のように固まっていると、鹿は時々耳をぴくぴくと動かした。目だけが未だぼくを食い入るように見つめていたけど、最初の緊張した様子は和らいでいるように見えた。いや、最初から彼は緊張なんかしていなかったのかもしれない。ただ、状況を冷静に把握しようとしていただけなのかもしれない。そうして目の前の小型生物に敵意のないことがわかると、後ろに振り返りそのまま木々の中へと消えていった。ぼくは緊張から解かれ、そのまま山を下りることにした。山の麓から木々の禿げたところを見上げると、五頭ほどの鹿の群れが歩いていた。その中にぼくと対面していたあの鹿もいたのだろうか。


二度目にぼくが鹿を見たのは奈良公園だった。修学旅行の日程に組み込まれたお決まりのコースだ。そこでは人間と鹿が奇妙な具合に調和していた。人間がエサを買い、鹿に与えると彼らは特に嬉しそうでもなく、無表情でその恩恵を受けていた。ぼくは鹿たちがいつ人間に体当たりをするのか気が気ではなかったけど、少なくともぼくの目の前ではそういうことは起こらなかった。



そうして今、川を下って行く二頭の鹿が目の前にいるのだけれど、彼らは今まで見たどの鹿とも違っていた。彼らはなんというか人間に興味がないのだ。時折川辺を通り過ぎていくどのような人間の存在も認識していないようだったし、もっと言えば彼らは自分たちの周りの事象すべてに無関心なようだった。月の光に照らされて、川の流れの中ゆっくりと歩を進めて行く、そのことに深く陶酔しているように見えた。彼らからはおよそ野生の本能とか、生物的欲望というものが感じられなかった。


操られているのかもしれない。ぼくはふと思った。でも何によって操られているのだろう。そういえば、動物の体内に入りこんで脳を支配する寄生虫がいる、ということを聞いたことがある。月の光にも幻覚作用のようなものがある、と聞いたこともある。そうなるとぼく自身も操られている可能性があるのかもしれなかった。ぼくはまだ耳栓をしていることに気が付いた。ボリュームの絞られた不可思議な世界に入り込んでしまったのかもしれない。すぐに耳栓を外して、辺りに耳を澄ませた。川の流れが急にひどく大きな音をたてていることに気が付いた。それから遠く川下から街の喧騒が聞こえてきた。二頭の鹿はその中で無音の行進を続けていた。



ぼくはその後、鹿を追うのを止めてアパートに戻った。それから夜食を胃の中に流し込みさっさと寝てしまった。次の日、携帯電話でこっそりと撮っておいた二頭の鹿の写真を眺めながら、彼らに思考を巡らせたのだけれど、彼らが一体何をしていたのか全く見当もつかなかった。その後の鹿二頭の消息は今となっては探す手立てもなかった。









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