同盟
学園を出て坂を下ること十分。駅を中心に開けた街の外れにある小洒落た喫茶店『雪りんご』。
お世辞にも広いとは言えない店内だが、こじんまりとした空間が、どこか優しさを感じさせる。学園生で席がほぼ埋まっているところを見ると、中々に繁盛しているらしい。
森羅は謎の少女に促されるままにテーブルにつき、息を整えていた。
「はあ、はあ」
「今にも死にそうね。大した距離じゃなかったと思うけど」
必死に酸素を求めて喘ぐ森羅に対して、実に涼し気な顔で少女は言った。
「聞いていたのと違うわ。水瀬君は文武両道の完璧人間と学校中で言われてるのに……」
「肉体強化の魔術が完全に効果を失っている。やはり、今の俺は……」
沈黙している魔導書を必死に操作するも、もちろん反応は示さない。
そんな森羅をよそに、少女はメニューを見ずに店員に注文を通す。
するとすぐに店員がテーブルにグラスとティーカップを運んできた。
が、森羅はそれすら気付いていない様子で、ただひたすら魔導書の機能を取り戻そうとやっきになっている。
「いい加減に事実を受け入れなさい。あなたは今、力を奪われたのよ」
「……っ!」
こうして静かな場所に来て、そして改めて言葉にされて、森羅はようやく現実を理解する。
「とにかく、まずは落ち着いて」
そう言って少女は、森羅の方へグラスをやった。魔術を失った森羅は、グラスを満たす液体が何であるか分からないままだが、何のためらいもなくそれを口にした。あるいは捨て鉢になっていたかもしれない。が、口にしたのは毒物でも何らかの魔術的効果をもつ薬でもなく、
「……うまい」
鼻腔を通り過ぎた爽やかな辛さと清涼感。それは森羅の好きなジンジャエールだった。
「さっきの戦いは他の候補者達も見てた筈。つまり、今のあなたはケチャップを全身に塗ってサバンナに全裸で居るくらいに危険ってこと」
「候補者……。ということは、君も……」
彼女の言葉に、森羅はゆっくりと顔を上げた。
「私は『日常者』。相坂メイよ」
言って、少女は笑みを作る。
制服のリボンの色から、メイが同級生であることは分かるが、それ以外は謎だ。外国の血が入っているのか、銀色がかった彼女の長い髪が揺れるさまは神々しくすらある。それに確固たる意志を持った大きな翡翠の瞳、通りを歩けば男女問わず振り返るだろう整った外見は、まるでファンタジーの登場人物のようだ。
森羅は相手のペースに飲まれないように、店員を呼びオーダーを通して一旦空気をリセットした。
油断ならない人物だと、森羅は必要以上に身構える。今は魔術が使えないのだから。
「さっきの試合、本当に凄かったわ。私、あの競技は初めて見たけど、まさか本職を相手にあそこまで渡り合うなんてね」
メイの言葉で、青春者と対峙したプレッシャーがいかに強大だったかを思い出す。それに、今もまだ手に残るラケットの感触。あの瞬間、あの場所で感じた興奮と熱量。
だが今はそんな話をしにここへ来たわけではない。
森羅はあえてメイの話に同調せず、口を開いた。
「それで、俺に何か話があるんだろう?」
森羅が単刀直入に切り出すと、メイは静かにティーカップを置いて、言う。
「……私と、組まない?」
「何だって?」
「だから、私と組まないかって言ってるの」
言いなおすメイ。だが、森羅は言葉の意味が分からなかった訳ではなく、あまりにも突拍子のない提案に驚いたというのが本音だった。
「言いたいことは分かるわ。私と組んで、あなたに何のメリットがあるのかってことでしょう?」
「いや。俺はもう魔術を失ったんだ。だから、俺はもう脱落してしまった」
森羅は乾いた笑みを浮かべて言った。
「いいえ。あなたはまだ主人公候補よ。『証明書』はまだあるでしょ?」
言われてはっとなり、森羅は胸ポケットを探った。そこには確かな感触があった。
「そうか。俺は魔術者でなくなった訳じゃないんだな」
深い安堵の息を吐く。そんな森羅を前に、相坂メイは静かに口を開いた。
「……水瀬君、あなたは〝主役狩り〟についてどこまで知ってる?」
それは、改めて言われると確かに考えなければならない事だ。突然巻き込まれたゲーム。勿論先日アイが語った事以外に情報はない。
「最後の一人になるまで闘う悪趣味なゲーム……そんなところか」
森羅の言葉はだが日常者の欲した答えとは一致しなかったようだ。
「あなたも、いえ、現時点で他の候補者も皆そう考えているでしょうね」
「君は違うと?」
問いかけられて日常者は目を閉じ、諦め混じりの溜息を吐いて口を開く。
「そうね。間違いではない。でも正しくもない」
それは確信めいた言葉だった。だから、森羅にある一つの推論が浮かぶ。が、あえて口にはせずに次の日常者の言葉を待った。
「お待たせしました。当店特製のヒマワリオムライスです」
店長らしき男は、森羅が注文した料理を、テーブルに置いた。
「ごゆっくり」
隙のない所作で給仕を終えると、男はカウンターへと戻っていく。随分と年季の入ったカウンターだ。
「何故にここでオムライス……?」
「俺はオムライスこそ至高と考えるが、作るのが苦手だ。だから、外食はこれと決めている」
森羅は真顔で言った。対するメイは、呆れたように溜息を吐き、
「まあいいわ。話を戻すと、確かにこのゲームは狩りと言うだけあって、相手を狩ることが目的。でもあの時、アイは『最後の一人になるまで続けろ』と言っていたかしら?」
「……いや、彼が言ったのは『互いの世界を喰らえ。残った者が、この世界に新たな物語を紡ぐ真の主人公だ』、と言っていた」
「そのとおり。言いかえると、〝狩りが終わらない限り、物語は動き出さない〟。つまり二人以上の候補者が残っている場合の不都合は、〝自分が主人公になれない〟こと。それだけよ」
「……成程。それで異能者(俺)か」
「理解が早いわね。そう。昨日、あの何もない部屋で、そしてそれぞれの候補者の名称から考えて、あなたには〝物語を進めたい〟という明確な意志が見えなかった。その点は私の〝日常をただ平和に過ごしたい〟という目的と相性が良いわ」
そこで日常者は一度森羅の目を伺い逡巡するように目線を動かし、深く息を吐いた。
「君の願いはそれか? ……随分簡単な事に思えるが――」
と、森羅が口にした途端、日常者は一瞬複雑な顔をして、それから強い言葉で遮る。
「平凡な日常というのは……あなたが思う以上に得難い奇跡なのよ。何をしてでも守りたいと願うほどの……ね」
その面差しはどこか達観しているようにすら見える。
「つまり、私は真の主人公になんてなれなくても良い。ただ他の候補者に、私の日常を壊されたくないだけなの」
それは強い意志を感じさせる言葉だった。
「ただ、私にはあなたのような力はない。他の候補者に狙われたら、いとも簡単に私の日常は壊されるでしょうね」
「随分素直だな」
「……これは賭けよ」
ぎゅっと、メイはテーブルの下で強くこぶしを握っていた。
つまりはそれほどまでに、メイの願いは本物だということだ。
「なるほど。確かに、青春者はどうしてもインターハイで優勝したいと言っていた。それに、復讐者というからには、どうしても果たさねばならない復讐があるだろう。恋愛者は成就させたい恋愛が。そして電脳者もどこか切羽詰まった様子だった。だが、それにしても――」
言いかけた言葉をメイが手で制した。
「同盟を結ぶメリットは何か、ね。でも、さっき思い至った筈よ。あなたが持っていない主役狩りに関する情報を、私が持っているって」
その言葉に、森羅は眉を吊り上げた。ほとんど表情に出してはいなかった筈だが、メイは僅かな森羅の仕草や変化からそのことを読み取ってみせたのだ。
「大した人だ。日常者だと名乗っていなければ、君を探偵者と考えただろうね」
冗談めかしつつ、かまをかけてみる。が、彼女は特に目立った反応は見せなかった。やはり、彼女は実は探偵者、ということはなさそうだ。
「情報は大事よ。さっきの試合だって、あのまま妨害がなければ、きっとあなたは青春者の世界に浸食されて、最終的には負けていたでしょうね」
メイはあくまで冷静に言った。先ほどの戦い、確かに森羅は魔術によって青春者の世界観浸食に対抗していたが、自身の世界観を展開するには、あそこは場所が悪すぎた。
「そうだ……俺はあそこで……魔術を……」
「……み、水瀬君?」
「うわあああああああああああああああ!!」
「ちょっと、落ち着いて!」
突如発作を起こしたように慟哭をあげる森羅を前に、メイは面食らうも、そっと頭に手を添えてなだめる。
その手は不思議とほの温かい。森羅は声を上げるのをやめた。
「落ち着いた?」
「ああ……済まない」
森羅は難しい顔で黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「確認だが……君の持つ情報のソースは何だ」
「……私の家族でね、昔主役狩りに参加した人がいるの。その時の話を聞いていたのよ」
その話しは少なからず森羅を驚かせた。確かにこれと同じゲームが歴史上何度も行われたことをアイはほのめかしていたが、まさかそんな短い周期で行われていたとは思わなかった。
「私だけ情報を持ってて、不公平だ、と非難しないのね」
「……公平なんてものは、この世界には死、だけだ」
「そう、ね。公平なんて概念は、人が生み出した幻想よね」
「……相坂?」
「いえ。じゃあ情報を一つ開示するとね、各候補者は『補正爆発』以外にも、それぞれ他の候補者に対して有効な攻撃手段を持っている筈よ」
「殺し、か」
真顔で答えた森羅に対し、日常者は一瞬きょとんとしたが、すぐにそれは呆れ顔へと変わる。
「殺し、か……じゃないわよ! あなた、常識がないの? 人殺しなんてしたら、直ぐに警察に逮捕されるじゃない。そしたらもう即ゲームオーバーよ、あらゆる意味でね」
「そうか……そうだったな」
異能を持つということは死と向き合うことでもあり、死を身近に置くことでもある。そして魔術者や超能力者の中には、目的のためなら殺しさえ辞さない者もいて、森羅はもう何度もそんな類の連中と戦ってきた。そのせいか、どうやら自分の感覚は、一般人と僅かに乖離があるらしいと森羅は思った。
アイの言葉を思い出すと、成程、各自それぞれ相手の世界観を喰らう手段があると言うことだろう。だが、果たして自分に殺し以外でそんな手段があるだろうか。
「例えば、あなたの魔術。恐らく探偵者の傍で使ってみせるだけで探偵者の世界は崩壊するわ」
「? 何故だ」
「あなた、漫画や小説は読む? 『ノックスの十戒』は知ってる?」
「たしなむ程度には。だが、その十戒というのは知らない。古代魔術か何かか?」
「違う! 私が魔術なんて知ってる訳ないでしょ!」
言って、メイはテーブルをバンと叩く。
「……いい? 探偵者と言うからには世界観は推理小説のそれに違いないわ。そして推理小説には守らなければならない十のルールがあるの。それがノックスの十戒。その中の一つに『小説内に魔術とか怪しげなものを出すな』っていうルールがあるの。殺害方法が魔術でした、じゃミステリーとして成り立たないってことね」
「つまり、探偵世界と魔術は相反するんだな。……確かにそうかもしれないが、それは自殺行為だ。俺達魔術者は一般人の前での魔術行使は禁止されている。さっきの試合の時はあの世界観に溶け込んで問題なかったがな。普通に使えばすぐに機構に伝わり、連中が殺到して俺を拘束する。そうなれば、俺もゲームオーバーだろう」
「そっか。簡単にはいかないのか」
「……どのみち今の俺は魔術が使えないが」
ぎり、と歯を鳴らす異能者。
メイは何も言わず、静かにティーカップを傾けた。森羅もつられてジュースを飲む。すっかりぬるくなった炭酸に顔をしかめ、森羅は口を開いた。
「つまり、君の望みは『最後まで攻撃されることなくこのゲームを終わらせる事』か」
「ええ。そのために、あなたは力を。私は情報を提供する。……悪くないと思うけど?」
当初森羅はこの馬鹿げた争いを一人で止める気でいた。誰の助けも借りず、自分だけの力で果たすのが当然と思っていたし、そうしなければならなかった。
だが、今日になって話は変わった。まさか魔術が封印されるなど思ってもいなかったのだ。
それに、候補者の中に、自らが主人公になるために他者の命を奪うことすら辞さない者が現れてもおかしくはないのだ。それは電脳者にも言える。少なくとも奴は狩りに乗ったのだ。
ならば、事は一刻を争う。
「だが、俺はもう魔術が使えない。この先戦いになった場合、俺は余りに無力なんだ」
青ざめた顔でかぶりを振る森羅。そこには青春者と戦っていたときの勇猛果敢な様子とはまるで別人だった。
「こんなところで足を止めるなんて、あなたそれでも主人公?! 魔術がなくっても、あなたはあなたでしょ! それともあなたは、恐ろしいゲームが始るのを、黙って傍観できる人なの?」
メイは全てを言った後、うつむいて黙りこんだ。その表情は迷子の子供のようで、森羅はズキリと胸が痛んだ。メイの言葉は何処かで借りてきたようなものだったが、何故か胸に響く。
「力がなくても……俺は俺、か。誰かに叱咤されたのは、これで二度目だな」
「……………………」
じっと森羅の言葉を待つメイに向き直り、森羅は顔を上げた。
「……分かった。少なくとも、こんな馬鹿げたゲームは止めなければいけない。……手を貸してくれないか」
「ええ」
「君は言葉は辛辣だが、優しいな」
「……な?! なぜにそうなるの?!」
森羅が何気なく言った言葉に、メイは不意を突かれて露骨に慌て始める。
「か、かかかかかか勘違いしないでよね。お互いの目的が一致したから、一時的に手を組むだけなんだからね!」
テンパるメイに、森羅はにっこりとほほ笑み首肯した。
「あう……」
メイは顔を真っ赤にして何やらもごもご言うことしか出来なくなった。
「ところで、目的がない人物というのなら、探偵者もそうかもしれない。確か、三条愛莉といったかな。探偵者にも声を掛けないか? 彼女は今、危険な立場な筈だ」
「……ううん、私も始めは考えたけど。探偵者は私との相性が最悪なの。あなたの魔術も、確かに私の日常を壊す要素だけど、あくまで破壊するかどうか、つまり魔術を使うかどうかはあなたに選択肢が委ねられている。対して、マンガなんかだと探偵がいるところには必ず何かの事件が起こる。言ってみれば事件を引き寄せる体質の死神ね。そんな人が傍に居るのは――」
「ボクの事、そんな風に呼んで欲しくない、です」
「――!?」
いつの間にいたのだろう。同じく桜陽学園の女子生徒がメイの隣に立っていた。
小柄で帽子を目深にかぶり、ポシェットをしている。彼女もメイと同じリボンの色だった。
「失礼ですが、話は聞いてた、です。確かにボクはそういった体質ですが、決して望んでいる訳ではないです」
「その口ぶりからすると、あなたが探偵者の――」
「三条愛莉です。相坂君、水瀬君」
名前を知っている、ということは二人の会話は始めから聞かれていたという事だ。
「確かに店内はそう広くないが、聞き耳を立てるとはあまり良い趣味とはいえないな」
森羅が言った。
「非礼はお詫びします。……でもボクも必死です。ボクの名前とボクが探偵者であることは、電脳者に大々的に発表されてしまったからです」
探偵者が控えめながらも、悔しそうに歯噛みして言った。
「先ほども気になったが、三条という名字、君はあの条七家の一角、炎の三条に連なる者か?」
「……? えっと、すみません。水瀬君が何を言っているのか全く分からないです」
有名な魔術の大家かと思ったが、どうやら森羅の見立ては見当違いだったようだ。
「それにしても、探偵というからには独特の帽子をかぶってキセルでも嗜む人物かと思えば、俺と同学年の女子とはな」
「『そんな格好で歩き回る人間が、この世にいると思うか?』……です」
「……成程」
それはまさに、森羅があの何もない場所で最初に会った人間に言った言葉だ。そしてその人物を後にアイが探偵者と呼んでいたことも覚えている。
「どうやら君が探偵者で間違いないらしいな」
頷く森羅。一方、未だに納得がいかない様子のメイは、きょとんと首を傾げている。
それにしても、あの場所にいた探偵者とは随分様子が違う。あの時の堂々とした態度はどこえやら。今は何処か遠慮がちで、喋り方も自分に自信がなさそうに控えめだ。
「それでは一つ、挨拶代わりにボクの特技をお見せしましょう」
と、そんな疑問を浮かべた森羅に向かって口を開いた愛莉の雰囲気は、先ほどまでの遠慮がちな態度とはがらりと変わっていた。
「水瀬君、君は家族が……そう、大切な家族がいる。両……いや兄弟だ。それも妹さんだ。そして君の両親は……家にはいない。仕事で留守にしているのか」
三条とは初対面の筈だが、水瀬家の状況をズバリ言い当ててみせた。
「それに、そう…………君は家事が……料理が得意で、台所を取り仕切っている。違うかな?」
そこで愛莉は森羅を見た。そして今まで目をぱちぱちさせていたメイも森羅に目をやった。
「まいった。降参だ」
「もしかしてあなた、水瀬君が……す、すす好きなの?」
「ゑ!? な、ななななな何言って――」
突然の爆弾質問に顔を真っ赤にしてうろたえる愛莉。
「だってあなた、彼についてすっごい詳しいじゃない。ストーキングでもしてるとしか――」
「ち、違う、です! 今のは探偵としての洞察と観察力を披露しただけです!」
「洞察と観察……?」
「コツさえ掴めば誰でもできます。会話の中で相手のちょっとした反応を見て、答えに誘導していきます、です!」
未だにうろたえているのか、愛莉はやや早口でまくし立てる。
「それに水瀬君がスーパーで何度か買い物をしているのを見かけた事があって。水瀬君の食料品の買い方は、まさしく毎日の献立を組み立てている者のそれでした、です」
「やっぱり、よく見てるわね……」
「もう! それはいいです!」
メイの冗談めかした突っ込みを否定して、探偵者は分が悪くなった空気を変えるために、わざとらしく咳払いをしてから口を開いた。
「ボクが探偵者と分かってもらえたところで、お二人に頼みがある、です」
それは意外といえば意外な言葉だった。てっきり抗議のために会話に割って入ったものだとばかり思っていたメイは、やや面食らったような表情をしながら、続く言葉を待った。
「二人の同盟に、ボクも加えて欲しい、です」
「「え」」
驚きから漏れた音は、二人まったく同時だった。
そしておもむろに彼女が取り出したのは一枚の紙だった。
「これは……?」
そこにはパソコンで出力された文章で、ただ一言だけ。〝探偵者をやめろ。さもなければ後悔するぞ〟と書かれている。
「宛名もなくこれが自宅に届いて。……今思うとこれは候補者、それも電脳者からのメッセージである可能性がある、です。どうもボクに特定の感情を抱いている節があるようです」
言って愛莉は苦笑した。その言葉と、うっすら垣間見えた諦観の表情から、彼女は日常的にこの類の嫌がらせを受けているのだと森羅は勘付いたが、今は何も言わないことにした。
「それで……これが電脳者からのものだという証拠はあるの?」
「はい。手掛かりはこの『探偵者』という言葉、です。職業を言うにしても人は探偵者とは呼ばない。これは主役狩り特有の言葉です。つまり、これを寄越した人物は少なくとも候補者の誰か、もしくはその関係者である確率が非常に高いと言えるです」
「では、何故他の候補者の中で電脳者であると考えたんだ?」
「水瀬君。先ほどの試合で、君は異能の力を奪われた。注目するのはその手法です。君はどうやって力を奪われましたか?」
「ち、から。……そうだ、俺は魔術を……あ、あァ。ああああああああああ!!」
「み、水瀬君……?」
突然叫び出した森羅を前に、愛莉は戸惑いを隠せない。
「ああ。気にしないで良いの。つまりコンピュータウイルスが使われたって点に注目したのね」
「そうです。現時点で断定はできませんが、電脳者というからにはコンピュータ系の攻撃が武器の筈です。そこから推理して、今回のスピーカー越しの人物と手紙を寄越した人物は共通の者で、かつそれは電脳者である、です」
「なるほど。……それで、君の目的は?」
メイのお蔭で平静を取り戻した森羅が問うと、愛莉はゆっくりと二人を見て、それから口を開いた。
「ボクと共に、電脳者を倒して欲しい。電脳者には明確な事件の予感がする、です」
確かな決意と共に紡がれた言葉。
「確かに、それが出来るなら俺の力も取り戻せる。すぐにでもそうしたいが……」
「三条さん。電脳者に心当たりがあるの?」
「はい。電脳者が犯したミス。そこに手掛かりがある、です」
そう言って、愛莉はテーブルに置いた脅迫状を指で叩いた。だが、そこには無味乾燥な文章のみで、特に何かがある訳ではない。森羅とメイは顔を見合わせ、首を傾げた。
「ここに、何かを零した染みがあるのが分かるですか?」
言われて見てみると、確かに飲み物を零したような橙色の染みが広がっている。
「ボクはこれを舐め、主成分を特定した、です。ずばりこれは『柿サイダー』の染みです!」
ズビシッ! と右手の人差指を真っすぐ突きつけ愛莉は宣言した。まずなにより驚くべきは一舐めしただけでそれが何かを特定したことよりも――
「舐めたのか……」「舐めたのね……」
何という規格外さ。流石は主人公候補になるだけはある。
「これが出来なければ探偵は名乗れません。父様は現場に落ちている粉や液体を一舐めしただけで、たちどころに主成分まで特定してみせるです。これは毒物や麻薬の識別に有効です」
「そ……そうなのか」
「電脳者はジュースを零した事を気にしなかったと思われますが、これをそのままボクに出したのは大きなミステイクです。『柿サイダー』は桜陽学園の、それも中等部の自販機にしか売っていません。そこから辿れば、電脳者の正体も自ずと判明しそうです!」
探偵者はやはり自信満々に言った。
確かに、森羅にとって電脳者は倒す必要がある。それにこの主役狩り、単純に相手を魔術で戦闘不能にすれば良いと言うものでもないし、今は戦力不足もいいところ。この同盟は決して悪い話ではないはずだ。
そこまで考えて、森羅が口を開きかけたところ――思わぬところで新たな人物が登場した。
「シンラ! こんな所で、何を油を売っているのです?! しかも一人だけオムライスなど注文して……羨望!」
声の主は、水瀬家の食客、カノンだった。そういえば、彼女も無類のオムライス好きだった。
森羅が恐る恐る皿を差し出すと、カノンは秒速で皿を空にして言う。
「まったく……むぐむぐ。オムライスを、出されては、全てを受け入れざるを得ません。それほどの魔力が、この料理には存在している」
まるでリスのように頬を膨らませながら言葉を紡いだ。
「ですが、帰宅が遅いので、サヤが心配しています」
その言葉で時計を見ると、すっかり遅い時間だった。
「あなた……情報科のカノンさんよね? 悪いけど今大事な――」
「ああ、悪かった。つい話が長引いてしまったんだ」
メイの抗議を、森羅は冷静に遮る。カノンには余計な心配を掛けたくなかったのだ。
「まったく業腹です! 私は別段問題ありませんが、サヤが空腹を空かせてしまいます」
カノンがなおもくどくどと説教を並べている隙に、森羅は二人に耳打ちした。
「済まない。彼女は水瀬家の手伝いのようなものだが……主役狩りのことは黙っていて欲しい」
「そうだったの。情報科のトップ2が一つ屋根の下、なんてビックリね」
「それで……ボクたちはどうすれば良い、です?」
愛莉がおずおずと尋ねる。
「二人とも、俺に話を合わせてくれ」
「聞いていますか、シンラ?!」
「……もう一度、頼む」
「ですから、一体何の話をしていたのか、と尋ねました」
「そっか……あなた、自分だけ置いてけぼりになって寂しかったんだ。……可愛いのね」
クスッと笑い、からかうようにメイが言った。
「………………はい」
消え入るような声で、カノンは頷いた。
そんな仕草を見ると、申し訳ない気持ちが一杯になり、森羅は慌てて口を開いた。
「いや、その……すまない。学科の課題でどうしても分からない所があって、二人に教えてもらっていたんだ」
「……学科なら、私でも教示可能です。それほど私は頼りにならないですか? 確かに私は家事がいささか不得手ではありますが、学科なら……」
地雷を踏んでしまった。
こうなった以上、森羅が何を言ってもカノンはどんどんと落ち込んで埒が明かない。
メイは何も言わずどこか不機嫌そうに目を伏せる。と、見かねた愛莉が恐る恐るといった様子で助け舟を出した。
「えっと……カノン君、日本語があまり得意じゃない、です……? 今日は現代文の課題に取り組んでた、ですが」
愛莉は先ほどからのカノンの言葉遣いから推理して言った。
「確か、普通科特進クラスの三条さん……でしたね。確かに貴殿は普通科の成績最上位と聞いています。ですが、私も及ばずながら、日本語は得手な方と自負します」
胸を張るカノンだが、それはどうだろうと森羅は思う。
「いやいや、ぶっちゃけ変よ」
止めをさしたのはメイだ。森羅は頭が痛くなったのを感じたが、恐る恐るカノンを見やると、
「うう、こ、この……お、おたんこなす!」
「――!?」
これまで一度も見せたことのない表情を浮かべ、カノンは店を飛び出してしまった。
「…………」
「…………」
「…………」
嵐が過ぎ、残された三人は呆然としていた。そこでふと異様な気配を感じ、森羅は探偵者・愛莉の方をちらりと見たが、
「おたんこ、なす……? 『おたんこなす』とは何だ?」
「……三条?」
「『なす』とはなすびのことか。それとも何かを成すという事……? ならば『おたんこ』とは一体何だ? ……皆目見当がつかない!」
まるで獲物を射殺すように目をぎらつかせ、何事かをブツブツ唱え出し、その鬼気迫る様子に森羅とメイは言葉を失った。すると、愛莉はおもむろに立ち上がり、
「推理不可能! おたんこなすとは何だーーー?!」
頭を抱えて、これまた店を出て行ってしまった。残された二人は互いに顔を見合わせる。
「なあ。俺の勘違いでなければ、君は心なしかカノンへの態度がきつい気がするんだが……」
「気のせいよ」
ぴしゃりと断言。それは言外に、これ以上聞くなと言っていた。メイの態度に疑問に思いつつも、
「……明日、改めて話をしようか」
「……そうしましょう」
店内の他の客、そして恐らくは店長すら好奇の目を向けていることに気付き、さっと会計を済ませ、足早に店を立ち去る二人だった。