5 一年後、夫ルイス
「あれと出会ったのはもうずっと前だ。セイラが今年で十一だから、当たり前と言えば当たり前だがな。
初めて会ったときから、おかしな女だとは思っていた。海の向こうの、俺のいたところにもおかしな女はいたが、あれほどの女は見たことがなかった。
十三年くらい前のことか。俺がこの町に来たのは。そのときすでにカタリナはここにいたよ。ここであれと出会わなけりゃ、俺もこの町に定住することにはならなかっただろうな。
平和な町だったんでな、ここでいくらか金を溜めておこうと仕事を探してたときだ。カタリナが俺に声を掛けてきた。あいつ、『金を払うから面白い話をいくつか教えろ』って初対面の人間に言ってきやがったんだ。いかにもな格好をしていたわけではないが、俺が色々周って歩いてるってのがなんとなく雰囲気でわかったらしい。
話すだけで金がもらえるなら、それ以上いいことなんてそうそうない。何が気に入るのかはわからねえが、話せることは話してやることにした。
俺の故郷は海の向こうの国にある、頭のいかれた人間の集まる街だ。そこには魔女がいたんだが、その魔女の話をしてやった。勝手に他人の話をしたわけじゃねえ。あの魔女は、俺が街を出ると言ったとき、自分から言ったんだよ。自分のことを、遠いどこかの国で話してくれ、ってな。
だから、いい機会だと思って話してやった。カタリナも満足していたよ。そうそう起こる話でもなかったからな。
だが、まあ、一日で話しきれる話でもない。カタリナは結末だけじゃあ満足しなかったもんでな。魔女が産まれてから死ぬまでのすべてを要求された。
冗談じゃねえと断りもしたが……。あの女は人の話を聞かねえ自分勝手な女だ。すべて話し終わるまで金は渡さないと脅してきやがった。
そういうわけで、それからしばらく毎日話に行った。会えば会うほど、この女はおかしな女だと強く思うようになった。さっき言った魔女もなかなかおかしな女だったが、カタリナも同じくらいにおかしな女だ。違いは少なかったな。
だからかも、しれない。俺は魔女を救えなかった。だから、カタリナを放ってはおけなかったんだろうな。
出会った頃のカタリナは、どこか思いつめた顔をしていた。笑ってはいたが、あれは死を本気で望む人間の目だった。
後から本人が言うには、俺が思った通り、死ぬつもりだったらしい。しかも、俺が話すことがつまらないものなら、その帰りにでも死のうと思っていたらしいんだ。あれの気に入る話だったからよかったものの、そんなことされちゃあ後味が悪い。もう少し周りを見てものを考えろって説教したな。
話すことがなくなっても、なんとなく毎日のように会ってたよ。俺と同じく一時的に町にいただけのカタリナは、いつの間にか家を買っていた。その頃にはすでに、カタリナの本は人気だったからな。金だけは持て余していたようだ。
そこに転がり込んで、まあ、そういう仲になった。カタリナはおかしな女な上に、最低な人間でもあったが、俺もなかなかずれた人間だ。おかしな人間もたくさん見てきた。
いかれた街で生まれ育ったからか、まともな世間じゃあ、息苦しく感じる方が多かった。カタリナの生まれはどんなものだか知らねえが、同じように感じていたんだろうよ。おかしい者同士、同じ場所にいれば少しは息がしやすかった。
カタリナは感情が不安定だった。自分で制御できなくなっちまって、セイラにも当たったりしてたな。セイラが腹にいた頃は、一番安定してなかったもんだから、何度も死のうとしてた。
産むのが、怖いんだって怯えていた。親になることが恐ろしくてたまらないとも言っていた。
たぶん、あいつの家庭は何か問題を抱えていたんだろう。親にいい感情を持っているようではなかったな。親という存在自体を嫌っていた。
でもまあ、産んでからは少しは安定した。意味もなく怒ることも、泣くことも減った。近所に知り合いも増えたからだろうな。
外面だけはいいやつだったから、よほどのことがないと嫌われるやつではなかった。むしろ、人によく好かれる性質の女だった。何があっても笑っていたからだろう。とっつきやすい性格でもあり、はっきりとものを言う人間でもあり、何より言葉を売る仕事をしているんだ。どういう言葉を言えば好感を持たれるか、全部計算してたんじゃないか。
そうは言っても、基本的には自分勝手の自己中心的な女だ。自分の懐に入れることを覚悟した相手には、容赦なく素を見せてたもんだから、好かれるのと同じくらい嫌われもしていた。
あいつが本気になれば、どんなに近付かれても本性を悟られないよう演技することもできたんだ。だが、あえてそれをしなかったのは、そいつらを受け入れて、最後まで付き合っていくと覚悟したからだろうな。
妬まれることも多かった。何せ誰もが知っているような超有名作家だ。くだらない嫉妬を向けられて、家に怒鳴り込みに来たやつもいたし、殴られて帰って来たこともあった。
その度に、あいつは笑ったんだ。心底楽しそうに笑って、妬まれるくらいには認められたんだって、嬉しそうにしてた。
正直、その度に不気味に思ったよ。どっかで見たことある笑顔をするんだ。俺はこいつも救えないんじゃないかと何度思ったことか。
俺はカタリナを救ってやるつもりだったんだ。自惚れもいいところだがな。俺なら、カタリナを救ってやれて、幸せにしてやれると本気で思ってた。
ところが現実はどうだ。救われたのは俺の方だったし、幸せにしてもらったのも俺の方だった。あいつが救われたのかも、幸せだったのかも、今じゃ確かめようがない。情けないと思うか。情けないよなあ、本当に。
カタリナと一緒になって、子供までできたとなりゃ、俺もそろそろちゃんとした仕事をしなけりゃならねえと焦った。故郷じゃ領主に雇ってもらっていたが、ここじゃあそんなことを頼める繋がりもない。いくらカタリナにかなりの稼ぎがあるとはいえ、男として女に頼るわけにはいかないだろ。
だからといって何ができるか。特技と言えば魔法の対処が上手いくらいなもんしかない。海の向こうには魔法があったが、こっちにはないときた。そんなんじゃあ、働き口があるわけもない。
そこでだ。俺は絵を描いた。元々親父が絵描きだった上に、俺も一応の本業は絵描きだ。故郷の領主にしか売らなかったが、腕には自信がある。長らく描かなかったもんだから多少下手にはなってたが、まあ、カタリナが物書きなら俺が絵描きでもいいんじゃないかと思った。最初は売れもしなかったが、結構早く軌道に乗ったのが幸いした。
転機はカタリナの本にあった場面をイメージして絵を描いたことだったな。作家カタリナの名前がいかに売れているかを思い知ったよ。傍で書いてるのを見てたのもあって、カタリナが太鼓判を押したのもよかった。
それこそみっともないと思うか? 嫁の名前を利用するなんてみっともないと? ハッ、そんなもん、使わない方が馬鹿だ。使えるもんは使っていく。そうじゃなきゃあ、それが存在する意味がない。
絵描きに限らず、創作家ってのはどんなに実力があっても滅多に売れるもんじゃない。そりゃあ実力も重要だが、何よりも大切なのは運だ。誰かの目に留まる機会を得る運がなけりゃ、誰の目にも入ねえまま、いずれ創ることを諦めちまう。
何より、どんなことを言われてもいいと思ったから存分に使ったんだ。売れることよりも運を掴むことよりも、何よりもまず、カタリナの本をイメージして描くのが楽しかった。あいつの喜ぶ顔も見れたからな。
俺は心底あいつの文章に惚れてたし、あいつも俺の絵に惚れてた。だから、例えあいつの本がまったく売れてない本だったとしても、俺はきっと絵を描いていた。
俺が絵を描くことによって、あいつにも利益はあったしな。今までカタリナの本を買わなかったやつも、俺の絵を見て興味を持つようになることがあったからだ。利用し、利用される関係だったってわけだ。
できることなら、あいつが死んだあのときのことを、絵にしたいとは思ってるよ。赤い花を咲かせて死んだあいつは、この世のどんなものよりも美しかった。
どこまでもあいつは物書きで、創作家だったんだ。自分の死すらも演出するような、筋金入りの創作家だった。
あの日、俺は家で絵を描いていた。その絵は、カタリナ自身を描いた絵だった。
今までカタリナの本を描いても、カタリナ自体は描かなかったんだ。あいつが拒否してきたからな。だが、あの日の前日、初めて描くことを許可された。あのときは気にしてなかったが、きっと、自分が死ぬとわかっていて許可したんだろうな。
カタリナは朝から出かけていて、セイラは午前は学校に行っていた。学校から帰って来たら、遊びに行くって出て行った。
創作意欲を回復させるためだとか言って、カタリナはよく町中を散歩して一日帰ってこないこともあったもんだから、セイラが学校から帰っても戻ってこなかったことは不思議にすら思わなかったよ。俺はまったく何も考えずに、ひたすらカタリナを描いていたんだ。
セイラが遊びに出てってしばらくすると、キースが青ざめた顔で飛び込んできた。カタリナの弟子の男だ。
キースがカタリナを慕ってんのはわかっていたもんだから、正直に言えば嫌いだったな。そんなやつが飛び込んで来たもんだからすぐ追い出そうかとも思ったが、その顔を見てやめた。明らかに何か重大なことが起こったんだとわかった。
カタリナがずっと『死んだらここに埋めてくれ』と言っていた土葬墓地に行けば、百合の花畑の中で、女が死んでいた。カタリナが、死んでたんだ。
思わず息を飲むくらいに、それは美しかったんだ。そして、それを絵にしたいと強く思った。紙も鉛筆も持っていないのが悔しかった。
我に返ると、そこにセイラもいることに気が付いた。キースにセイラを家に連れて行くよう頼んで、葬儀屋も呼ぶように言った。キースもできることならあの風景をずっと見ていたかったんだろうが、人が死んでるんだ、このままにしてはおけないとすんでのところで理性が勝ったんだろう。頷いて、すぐに行動してくれた。
二人がいなくなったのを見て、恐る恐るカタリナに近付いた。柔らかくて温かかった肌は、冷たくなっていた。
一目見て死んでることを悟ってたものの、触れてそれを実感しちまったらもう戻れない。美術品ほど美しいものではあったが、美術品だと思うことは二度とできなくなった。
嫁が死んで、悲しまない夫がいると思うか。そんな夫がいるんなら、そいつは本物の夫じゃあないだろう。
息ができなくなった。俺が結婚を申し込んだときと同じくらい嬉しそうで幸せそうに笑ってんのに、そのとき忙しく跳ねていた心臓が、ぴくりともしてないんだ。それを目の当たりにして、触れて、ああ、死んだんだってわかって、俺は息ができなくなった。信じられなかった。信じるわけには、いかなかった。
俺が絵を描くのは、いつの間にかカタリナのためになっていた。自分で思っていた以上に、俺の中でカタリナの存在が大きくなっていたんだ。俺が生きているのですら、カタリナのためだった。
そのカタリナが死んだら、俺はどうしたらいい。どうやって生きて行けばいい。
大切なものを失くすことには慣れていると思っていた。救えなかったことを後悔すらしても、その死を悲しむことはなかった。しかも、他人にさほど興味もなかったんだ。悲しくなることなんて絶対にないと思い込んでいた。
俺も死ぬべきだと思った。でもな、それを見越して、カタリナはああやって死んだんだろうな。
ぐしゃぐしゃになった紙が、握られていたんだ。胸で組んだ手の中に。固くなった指をほぐしてそれを取り出せば、なんて書いてあったと思う。『後追いは人間のすることじゃない』。たったそれだけ、それだけが書かれていた。
あれがあったからこそ、俺は今、ここにいる。セイラと共に一年生きて来れた。きっと、これからもあの一言を思い出しながら、一年、また一年と生きていくんだろうな。
カタリナが何故死んだかはわからない。家で体調を悪くしている様子はなかった。家に籠りきりの日が一月も続いていたから、痩せちまったことにも、肌が白くなりすぎていたことにも、違和感がなかっただけかもしれないが、それでも血を吐くようなところは見たことがなかった。
病で死んだんだろうと言われているし、誰かに毒でも盛られたんじゃないかとも言われている。
だが、そんなものはもうどうでもいい話だ。
カタリナが死んでも、カタリナが残したセイラは生きている。俺は、セイラと一緒に生きていくだけだ。死んだ原因を知ったところで、何も変わらない。
それに、カタリナのことだ、わざと原因がわからないようにしたんだろうよ。
カタリナの望み通り、あの墓地に埋めてやった。
あいつはどうして、なんの変哲もない、ただ見晴らしがよくて緑に囲まれた、何故か人気のないあの墓地に執着していたんだろうな――」