プロローグ――プロデューサー護堂シンタロウ
―――アイドルは人に非ず。
―――されどアイドルは人の希望なり。
護堂シンタロウは社長である桑島からの呼び出しに社長室へと赴いていた。
足取りは重い。
彼女に呼ばれる時は、たいていがよくない事の前兆だからだ。
アイドルを中心にプロデュースする桑島事務所。
その片隅で事務作業にいそしんでいたシンタロウにとってこの呼び出しは転換期であり、同時に彼にとって辛い過去との対面にも他ならない。
そしてシンタロウはその事を、すぐに実感する事になる。
ノックを二回。
「護堂です」
名乗りを上げても返答はない。
それもいつもの事。
だからシンタロウは構わず社長室のドアを開ける。
ガチャリ。
中には経済新聞に目を落とす桑島社長が、革張りの椅子に深く腰を掛けていた。
長くウェーブのかかった栗色の髪。
モデルと見まごうばかりのスタイル。
年齢を感じさせない顔。
芸能人として生きていてもおかしくない容姿端麗な彼女が、どうしてこんな場末の芸能事務所の社長に落ち着いているのか?
その答えは、彼女の頬を見れば一目瞭然だった。
深く刻まれた傷。
目の下から顎にかけて、斬り割いたように残るその深い傷が、彼女を芸能界から、
否、
アイドル業界から引きずりおろした。
「桑島社長、およびですか?」
「やあシンタロウ君。遅かったじゃないか」
その声色は静かで――だが恐ろしくも響く。
怒りの色はない。
それでもその驚異的な威圧感は、彼女の感情を表すものではない。
その威圧感は、かつて彼女がアイドルであったことの証左。
アイドルだけが持つというアイドル力を、未だ体内に内在させている事の証拠。
(まだ――アイドル力が衰えていないとは)
シンタロウもこれには驚かざるを得ない。
アイドル力はアイドルとファンと知名度の三角関係によって、アイドルの下腹部、丹田に溜めこまれる。
ステージから降りたアイドルが、それを維持し続ける事は難しい。
かつてのアイドル山口百恵は、引退の瞬間、ステージに置いたマイクに、全てのアイドル力を託し世を去った。
故にそのマイクは一部に於て宝具とされ、ソ連とアメリカの冷戦を終結する為に、軍事利用されたという逸話すらある。
事実はわからない。
だがおそらく――事実だろう。
桑島社長は笑みを湛えたまま、シンタロウに言葉を継いだ。
「君、今、何やってるんだけ?」
ごくり。
唾を飲み込んだ。
夏の高校球児が試合終了後に水を欲するように全力で唾をのみ込み、そして膝が震えた。
「じ、自分は……事務を」
「へぇ……」
彼女はそう言いながら経済新聞を机に置く。
それを待っていたかのように、部屋の隅の籠の中で丸まっていたシャム猫のタマが彼女の膝の上に乗った。
桑島社長はタマをやさしく撫でる。
撫でた瞬間にアイドル力に反応したのかタマの毛がそばだった。
「ねえ、シンタロウ君って――」
「はい」
「護堂キヨハルの息子って本当?」
ついに来たか、と歯を食いしばった。
父、護堂キヨハル。
通称アイドル界の魔王。
そう呼ばれ、現在のアイドル戦争の仕掛け人。
アイドル全盛期に於て秋元康と血で血を洗う戦いを繰り広げ、片腕を失ってもなお未だアイドル業界の片翼として君臨し続ける男。
そしてシンタロウの最も憎む男。
「ねえ、どうなの? シンタロウ君」
「そ、それは………ご存知の通りです」
自ら言う必要はない。
だが隠す必要もない。
そう思い、ただ肯定する。
すると桑島社長はころころと愉快そうに笑った。
「へえ、じゃあ、シンタロウ君も、アイドルプロデュース辺縁系が大きいのかな?」
ビクリ――身体が仰け反った。
何故、その脳内部位を知っている!?
いや、あれは……。
そんなシンタロウの胸の裡を読んだかのように、桑島社長は笑みを浮かべた。
「アイドルプロデュース辺縁系を知っているのは、軍部だけじゃないんだよ」
それは本来生物の脳内には存在しない部位の名である。
脳幹が肥大し、右脳と左脳を圧迫する事で生まれ出る奇跡の脳味噌。
後天的疾患とも言われていたが、このアイドルプロデュース辺縁系が肥大した者は超常的にアイドルの資質――つまりアイドル力の内在を見抜き、そしてそれを最大値まで高める事が出来る。
それはプロデューサーとして絶対必要な資質だ。
嘗てアイドル養成機関中野学校の研究でその存在が確認され、科学雑誌ニュートンとネイチャーに掲載が決まった矢先に、突如何者かの手でその記事は取り下げられた。
国家がその情報を封殺した――そう言われている。
真実は闇の中。
だが――事実だろう。
しかし、そこまで明かす必要はない。
だからシンタロウは冷静な顔で首を横に振った。
「何を言っているんでしょう? 彼の子供だからって、そんな力がある訳ないじゃないですか」
すると桑島社長は喉の奥を鳴らせて笑った。
「じゃあ、確かめてみようか?」
「ど、どうやってですか? レントゲンでも取りますか?」
「フフ、気付いてなかった?」
咄嗟に身構えた。
まさかこの室内にレントゲンが運び込まれているのではないのかと推測したからだ。
「そんなキョロキョロしても、シンタロウ君の思っている物はないよ」
では、どこに!?
「君が探している物に一番近いのは、これ」
そう言って彼女は置物のように置いてあった机の上の石を指差す。
ただの石ころだ。
「だが!」
文鎮がわりにつかって―――ちがう!
「ウランですか!?」
「正解!」
言った瞬間に、彼女はウラン233を直接手に持つと、こちらに向けた。
「やめてください!」
「あなたが素直じゃないからよ」
言った瞬間に彼女は丹田の底からアイドル力を放った。
それはウラン233から放射線を放出し、僕の顔面をすり抜け、そして社長室の扉にぶち当たる。
やられた。
そう思い、振り返ると社長室の扉にはシンタロウの脳内がレントゲン写真の如く映し出されていた。
「ふふ……やっぱり、脳幹が肥大しているわね」
「………」
「なにか言い訳は?」
「……ありません」
「被爆した感想は?」
「……まだ……実感がありません」
「……そう。でもね。貴方の正体はよくわかったわ。そこでお願いしたいことがあるの」
なにを言わんとしているかくらい承知している。
だからこう言う!。
「プロデュースはしません」
先を呼んだようにシンタロウは言い放った。
その声があまりに強く放たれ、桑島社長は驚いたような顔をした。
「どうして?」
問われてシンタロウは目を逸らす。
「いやです……あんな、アイドルたちをむざむざ殺すような職業」
そこには怒りにも似た感情が渦巻いていた。
――アイドルは人に非ず。
それは父の言葉であり、アイドルという業界の言葉でもある。
なにより国連がアイドルに対する一切の人権を剥奪し、それは世界的な常識にもなっていた。
「僕は、アイドルたちを、人じゃないなんて思えません!」
その言葉に、桑島社長は初めてやわらかな笑みを浮かべた。
「よかった」
「え?」
信じられずシンタロウは桑島社長の顔を覗いた。
彼女は本当にうれしそうに、可憐な少女のような笑みを浮かべる。
「あなたの口からその言葉が聞けて良かった」
「……なぜ?」
そう問わずにはいられなかった。
すると彼女は遠い昔に思いを馳せるような目をする。
「あなたがアイドルを人であると言ってくれる限り、アイドル業界にまだ希望があるわ」
「どういうことですか?」
「あなたも知っての通り、アイドルは人じゃない。全ての人権が存在しない。だからこそ、なればこそ! アイドルとなった彼女たちを開放しなければならない!」
「だったら……」
喉の奥からそれは絞り出すように引き出されてくる。
「だったら、最初から少女たちをアイドルになんかしなければいいじゃないですか!」
すると桑島社長は、悲しそうに笑った。
それはバブル期の終焉を知りながらも踊り続けた悲しきダンサーたちの笑顔。
「私が現役の時にその言葉が聞けたら――そう思ったの」
「現役の時に……」
「そう。今のアイドル業界は血で血を洗う戦国時代。アイドルの種類はあらゆる部門に分かれ混沌を極めている。なにより」
なにより。
「少女たちの命が散って行く事を、こうして見続けるのは辛いの」
つまり、社長は――。
「私はこのアイドル時代を終わらせる」
それは不可能――出かかった言葉を飲み込んだ。
彼女の目には、見えている。
少女たちの安寧が。
信じて疑わない、崇高なる願いが。
それを不可能と切り捨てる行為は、
「愚者の行為だ」
そう思わざるを得ない程の純粋さ。
彼女は決然と声を大にする。
「そのために、貴方の力を貸して欲しいの!」
自分に、自分などに……。
「貴方は出来る! その力を持っている!」
父と同じ脳が、しかし……。
「アイドルを救えるのは、アイドルしかいない!」
「アイドルを救えるのは、アイドルしかいない!?」
「そう、アイドルを救えるのは、アイドルしかいない!!」
「どういう……事でしょう?」
彼女は言った。
いたって真面目な顔で。
この世界の最大勢力に対し、宣戦布告をするように。
「アイドル業界を潰せるのは、最高のアイドルにしか出来ない!」
そう、火力兵器の通じないアイドルは現代兵器の何を使っても倒すことは出来ない。
既にアイドルとは、国家の力を越えている。
だからこそ!
アイドルに人権はない!
「潰すのですか……アイドル業界を!?」
「潰すわっ! そしてこの世界の全てのアイドルたちを、少女に戻すの!」
出来るのだろうか。
それは世界への反逆だ。
人の世を終わらすにも等しい行為。
宇宙を創造するにも等しい行為。
アイドルとはそういうものなのだ。
「やるの! 少女たちを、救って!」
「出来るでしょうか?」
「出来るわ」
そう言った瞬間に桑島社長は――その場に血を吐き、そして倒れた。
その手には未だ強く握りしめられたウラン233があった。傍らにいたタマの毛も抜けてしまっている。
「まずい!」
シンタロウはすぐに救急車を呼んだ。
事務所のウラン233は自衛隊の出動で無事撤去された。
大きな騒ぎにはならなかった。
こんな時代だ。
ウランくらいどこにでも転がっている。
桑島社長は緊急入院をしていた。
まだ意識は戻らない。
「バカな事を……」
そう言わずにはいられなかった。
ウラン233を素手で持つなんて、無茶すぎる。
だがそれと同時に、彼女がそこまでして自分に、シンタロウにアイドルの未来を託していた事を知っている。
自らの掌を眺めた。
何物をも為してこなかったこの掌。
出来るのか?
自分に、少女たちを救う事が?
続く