幸福の使者(前編)
とある晴れた昼下がり、その吉報は臣下によってサトゥーク王子の許に届けられた。
「お、王子! “渡り人” が現れました!」
「なんと!」
臣下の言葉を聞いて、サトゥークは座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。逸る心をなんとか押しとどめ、すぐに城に連れてくるよう鋭い口調で命じる。
「絶対に傷つけないよう丁重に扱うのだぞ! 怯えさせても駄目だ! 脆いガラス細工を運ぶように、慎重に、かつ、優しく対応せよ! そうだ、お前たちのような厳つい強面の男たちばかりでは怖がるかもしれぬ、女も数人連れて行け! お前たちも笑顔を保つよう、死ぬほど努力しろ!」
「ははっ!」
臣下は深々と叩頭して返事をした後、緊張した面持ちで王子の前から風のように退出した。
その背中を見送り、そわそわと落ち着かないながら、サトゥークは再び椅子に腰かける。ブーツの足裏で焦れるようにとんとんと床を叩きつつ、こみあげてくる喜びに顔全体を緩ませた。
──幸福をもたらす渡り人が。
自分の代で渡り人を手に入れる機会に恵まれるとは、それこそがまさに幸運というものだ。渡り人は百年から二百年に一度の周期でしか現れない。どんなに自らが望んでも、そこは天や神の気紛れや慈悲に縋るしかないのである。サトゥークの父も祖父も渡り人の来訪を待ち望んでいたが、結局は叶えられずに普通の女性を妃に迎えることになった。現王にすでに正妃がいる以上、渡り人を妃にするのは、第一王子であるサトゥークの役目ということになる。
百年から二百年に一度の周期で、唐突に出現する 「渡り人」。
異界からやってくるというその渡り人は、この国にとっての幸福の象徴だ。君主が妃に迎えて大事に遇すれば、必ずその数百倍、あるいは数千倍の大きさの幸福を国と民にもたらしてくれるという。
国は潤い、作物は実り、大きな災害も起こらず、技術は一気に進化する。渡り人がやってくるたびに、国は大いに繁栄するという言い伝えだ。その渡り人を娶った王は、名君と崇められ、後世にまで名を残す……
自分がのちの世まで名君として称えられることを想像して、サトゥークは思わずニヤニヤしてしまった。国を栄えさせるためには、見ず知らずの異界の女を妃として大切にしなければならない、ということであるが、なに、そんなもの、なんとでもなる。愛玩動物のようにチヤホヤして可愛がってやればいいのだろう。妃の地位は渡り人のものでも、他の女を側妃にすればよいことだし。表向きだけ優しくしてやることなど、造作もないことだ。
せめてあまり醜い女でなければいいのだけどなあ、とサトゥークが渡り人個人について思ったのは、それくらいだった。
「…………」
目の前に連れてこられたのは、どこからどう見ても、「普通の娘」 だった。
黒い髪、黒い瞳は確かに珍しい。この国の人間は、ほとんどが金の髪と金の瞳だ。そしてけっこう小柄でもある。並んでみても全長はサトゥークの肩にも届かないくらいだろう。黒い服と黒い靴、念の入ったことに、持っている鞄らしきものまで黒色だ。異界では、皆してこのように黒づくめの恰好をしているのだろうか。
しかしそういった違いはあれど、顔かたちは別段、特筆すべきところはない。こういう容貌の娘だったら、城の外にいくらでもいそうである。大きな目は理知的で落ち着いているが、背中でぱつんと切り揃えた黒髪のためか、ひどく幼くも見える。一体いくつなのだろう。
渡り人についての記述はさほど多く残っていないので、いやだからこそというべきか、サトゥークの頭の中ではいつの間にか、この国の女とはどこもかしこも異なるような存在が描かれてしまっていた。化け物のような外観か、あるいは言葉も出ないほど美しいのか。どちらかといえば美しいほうがいいなと思っていたサトゥークだが、こうまで 「普通」 すぎるのも、まるで肩透かしを喰らったようで拍子抜けしてしまう。
「あー、その、そなたが “渡り人” か」
「…………」
娘は何も言わずにサトゥークの顔をじっと見つめている。見知らぬ世界、見知らぬ場所で、いきなり城まで連れてこられて、怖がるのも無理はないと思ったので、サトゥークは出来るだけ柔らかな声を出すように努力した。
「心配せずとも、我々はそなたを歓迎しよう。使用人はいくらでも付けてやるゆえ、困ったことや不足があれば、なんなりと申しつけるがよい。最初は何が望みだ? 食事か? 風呂か? 美しいドレスか?」
うん? と猫なで声で促すと、娘は何事かを考えているようだったが、すぐにサトゥークを正面から見据え、きっぱりした声を出した。
「では、説明を」
その声には、恐れも、緊張も、それどころか物怖じした様子もない。
「説明?」
「学校から帰る途中で、いきなり白い光に包まれて、気がついたらここにいました。見たこともない景色の中、見たこともない衣服を着た人々によって、見たこともない城に連れてこられました。道中、その人たちに大体の事情説明を受けましたが、今ひとつ納得できません。とにかくここが異世界である、ということくらいは理解しましたが、私がその “渡り人” であるということと、あなたの妻になるということには、なんの根拠もないように思います」
「…………」
とてつもなく冷静な顔と態度でそんなことを言われ、サトゥークはたじろいだ。
「いや……まあ、もちろん、そなたにも戸惑いはあろうが」
「戸惑っているわけではなく、はっきりとした理由が知りたいだけです。大体、なぜ──あ、その前に、あなたのお名前は? 私は満島聡子です」
「ミ……? 名はどれだ」
「聡子です」
「サトコだな。うむ、私の名と似ている。これも縁というものだろう。私はこの国の第一王子、サトゥーク・アズマルドである」
「佐藤くんですね」
「待て、なにか発音がおかしい」
「それでは佐藤くん、私の質問ですが、ここは異世界だというのに、なぜ言語が通じるのでしょう? どう見ても日本ではないこの世界で日本語が使われているなんて、非常に不条理極まりないと思うのですが」
「…………」
サトゥークは無言で、自分の傍らへと視線をやった。居並ぶ臣下は全員が揃って当惑した表情で、小さく首を横に振っている。
「あー……ニホン、というものは知らないが、渡り人が言葉に不自由したという言い伝えはない。おそらく、そういうものなのであろう」
「そういうもの、で片づけてしまう安易さは感心できません。渡り人は日本人に限ったことではないということなら、この世界の言語はオールマイティですべての人類に通じるということですか。その理屈がどうなっているのか、調べてみたこともないんですか」
「…………」
サトゥークは再び臣下たちを見たが、返ってきたのはやはり同じように弱々しい否定ばかりだった。
「いや、しかし、それは……」
「とりあえず、この謎を解明できなければ落ち着いてお話も出来ません」
なぜ。
「渡り人についての説明も、言い伝えだから、とそればかりでは受け入れられません。言い伝えにはそれなりの根拠や成り立ちがあるはずです。そのことをきちんと調べもせずに、妃になれと言われても、承服できません。そんなわけで、私はこれで失礼します」
そう言って、くるりと踵を返し、すたすたと立ち去ろうとする。
サトゥークは慌てて椅子から立ち上がり、臣下たちは青い顔で必死になって聡子を止めた。
「お、お待ちください、サトコ様。あなたはこの国の大事な渡り人でありますので」
「そ、そうだ。この城から出て行くことは許さぬぞ。なんとしても、そなたはこの国にいてもらわねば」
渡り人は大事にすれば幸福をもたらしてくれるが、万が一逃がしてしまったり、不幸のうちに死なせてしまったりすると、反動のように国に大きな不幸が訪れる。数百年前、意に沿わぬ渡り人に怒り、牢に監禁して衰弱させた王の治世では、地震に嵐に洪水と、次々に災厄に見舞われ、国を立て直すために多大なる資金と時間を費やしたという。
つまり大事なのは渡り人本人の意思であって、無理やり捕らえて閉じ込めても意味はない。そのことに気づき、サトゥークは大急ぎで低姿勢になった。どうして王子である自分が、とは思うが、仕方ない。
「いや、あの、許さないというか、頼む。ここにいてくれ。そなたの欲しいものはなんでも与えよう、決して不自由な思いはさせぬ。そなたはこの国に必要なのだ」
「…………」
聡子はぴたりと足を止めて振り返り、まじまじとサトゥークを見返した。
唇を結び、虚空を見据えてじっと考え込む。
しばらくの間そうしていたが、ようやく、
「では佐藤くん」
ときっぱりした声を出した。
「これは宿題ということにしましょう。テーマは 『渡り人について』、です。その説明に私が納得出来たら、佐藤くんの奥さんになってもいいです。家来の人を使わず、ちゃんと自分で調べて、自分の口で私に説明すること。質疑応答に答えられなかったらやり直しですよ」
「な、なんでこの私がそのような」
「じゃ出て行きます」
「待った! わかった、わかったから! ちゃんとこの城にいるのだぞ、よいな!」
なんでこんなことに、と大いに疑問だったが、サトゥークはそう約束せざるを得なかった。
その後、渋々ながら宿題に着手したサトゥークだったが、なにしろ渡り人は稀にしか現れないため、それについての文献を探すだけでも一苦労だ。
最初、こっそり臣下に調べさせたレポートを持って、意気揚々と聡子に手渡したら、ビシビシ質問されてこてんぱんにとっちめられ、すげなくやり直しを命じられる羽目になった。
聡子は十六歳ということなのに、二十四になるサトゥークよりも、よっぽど頭の回転が速く、かつ、容赦がなかった。どうして年下の小娘にこうまで、と思うと悔しいが、渡り人を粗略には出来ないためすごすごと引き下がるしかない。
ある日、どっさりと渡り人についての書物を抱えて、宮殿に用意させた聡子の部屋に向かっていたサトゥークは、その当人がせっせと廊下を掃除しているのを見て度肝を抜かれた。
「そなた、何をしている」
「掃除をしています」
「そんなことは見れば判る。誰に命じられたのだ。渡り人にこのようなことをさせるとは、言語道断。厳しく処罰してやらねば」
「私がお願いしてやらせてもらってるんですけど。だって働きもせずに衣食住を与えてもらうわけにはいきませんから」
「そなたは渡り人なのだから、そのような気遣いは無用だ」
「ですからその “渡り人” についての根拠がはっきりしないじゃないですか。佐藤くん、調べるの遅いし。そこが曖昧なまま、この待遇だけを受けるわけにはいきません。佐藤くんも少しは働いたらどうでしょう」
聡子に言われた言葉に、サトゥークは仰天して目を剥いた。そんなことを言われたのは、生まれてはじめてだったからだ。
「なにを言っている。私は第一王子だぞ。下々の者のように働いたり出来るわけがなかろう」
「出来ないんですか」
「で、出来ぬというのは、能力がない、という意味ではなく、そのようなことをする立場ではないということだ! 私には王子としての義務というものがあり」
「なるほど。特権を甘受しているのは、それだけ大きな義務を背負っているからだ、ということですね? ろくに働きもせずに豊かな暮らしをしているのは、何か事があった時、一般民衆を守って串刺しにされたり八つ裂きにされたり首を撥ねられたりする覚悟があるから、ということですね?」
「待て、そこまでは言ってない」
「王子としての義務というのなら、当然、国や民についてもよく把握しているものと思いますが、この国の特産物は何で、産業形態はどんなものなのでしょう。一般の人々は普段どういうことをして、生活の基盤を確立しているんですか」
「……えーと、その、それはだな」
「…………」
「わかった! それも調べる! 調べればいいんだろう!」
冷たい視線を向けられて、サトゥークはヤケクソのように叫んだ。
しかしどんなに勉強しても、聡子はなかなかサトゥークの妃になることを承諾してくれない。
聡子のところへ向かうたびあれこれと質問され、答えられなかったら露骨にがっかりされる。その顔を見るのが悔しくて、必死になって知識を詰め込み挑むのだが、出される宿題は増える一方だ。
不真面目だった第一王子が手あたりしだいに学び始めたのを見て喜んだのは、父の国王と母の王妃だった。二人は、働き者で頭のいい聡子のこともすっかり気に入り、娘のように可愛がる始末である。
「そなた、相当苦労しているそうだの」
と父王に面白そうに笑われたと思えば、
「女性の心ひとつ手に入れられぬとは、次期国王として不甲斐ないこと」
とわざとらしく母王妃に嘆かれ、サトゥークは非常に面白くない。
「父上と母上からもサトコに一言仰って下さい。私にだって執務があるのですし、渡り人のお守りばかりをしているわけにもまいりません。それなのにサトコときたら、人の顔を見れば、あれは何だこれはなぜだと質問ばかり」
不満を述べても、二人はまったく聞き入れてくれなかった。
「ほほ、ご安心なさい、そなたはそもそも執務はサボりがちだったゆえ、その分が多少増えたところで痛くも痒くもありませぬ」
「母上、それはあんまりな」
「大体、サトコの質問にすぐ答えられぬのは、そなたがまだまだ不勉強であることの証であろうよ。あの娘が問いかける内容は、あるいはこの国の幼子でも知っているようなことでもある」
「まさか、そんな」
サトゥークはむっとして国王の言葉を否定した。この自分がここまで苦労しているのだ、子供などにおいそれと答えが判ってたまるものか。
国王と王妃は、一瞬目を見交わし、意味ありげな表情をしたが、すぐに真面目な顔つきになって息子王子に言い渡した。
「とにかく渡り人の望みであるならば、そなたは何を差し置いても叶えてやる努力をせねばならぬ。それが国の王子として、最も大事なことでもある。サトコは聡明で、気性の真っ直ぐな娘だぞ」
でも、性格は全然可愛くないのです、とサトゥークは内心で反論した。
厳しいし。融通きかないし。ちっとも従順じゃないし。王子としての自分を尊敬する素振りもないし。
──笑った顔すら、未だに一度も見たことがない。
「たまには、二人でのんびり散歩でもして、和やかに会話を交わすのもよろしいのでは? そうそう、今日のお茶の時間には、サトコをご招待しているの。ですから、あなたが彼女をエスコートしていらっしゃい。その時には、先日わたくしが見立てたドレスを着ておいでなさいとお伝えして頂戴ね。まあ、楽しみだこと。サトコはすんなりした身体つきをしているから、あの淡い色はきっとよく似合うわ」
「うむ。サトコはなんでも要領よく話すので、聞いているだけでも楽しいぞ。いつも時間が経つのを忘れてしまうほどだ」
いつの間に聡子のドレスを見立てたり、時間が経つのを忘れるほどお喋りしていたのだ、とサトゥークは驚いた。まったく初耳だ。知らない間に、両親は勝手に聡子と親交を深めていたのかと思うと、ますます面白くない気分が募っていくばかりである。
「それは私も楽しみですね」
サトゥークはすっかりふてくされた。