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短編集  作者: 雨咲はな
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犬笛くん



 犬笛くんは、犬が苦手である。

 しかしその名前のゆえか、犬からはなぜかよく好かれて懐かれる。

 彼が道を歩くと、散歩中の犬の多くは、ちぎれんばかりに尻尾を振って親愛の情を示し、わん! と愛情をこめて呼び止め、さらに関心を惹こうと、飼い主の制止を振り切ってでも彼の許に駆け寄っていこうとする。

 犬笛くんが、犬と行き会うたびにびくっと身体を固くしていることも、なるべく目を逸らしてそそくさとその脇を通り過ぎようとしていることも、わん! と吠えたてられた声に、ぎゃっ、とちいさな叫びを口の中で漏らしていることも、犬たちは気づかない。

 ただ、青くなって逃げていく彼の後ろ姿を見て、不思議に思うだけだ。

 なんでかなあ。撫でてもらったり、一緒に遊んでもらいたいのになあ。

 なんてね。

 健気なもんじゃないか。犬の方には、これっぽっちも悪意なんてもんはありゃしない。彼らからすると、犬笛くんはひたすら自分たちを引きつける、いわばフェロモンを振りまく存在なのだ。彼のほうが自分たちをどう思うか、ってことは大した問題じゃない。

 そんなわけで、犬笛くんと犬族は、昔からなかなか不幸な関係性を保ちながら、それでも何事もなくやってきていた。犬笛くんがいくら一方的に犬に好かれる体質だとはいっても、犬たちは大体みんな行儀よくリードに繋がれているから、いきなり喜び勇んで飛びかかられて、犬笛くんが恐怖のあまり失神する、なんていう事態も滅多にない (ごくたまにはある)。犬笛くん自身も、なぜか犬に好かれてしまう自分の体質はイヤになるほど自覚していたから、犬が散歩するような時間帯には、出来るだけ外出を控えているくらいだった。

 ──しかし世の中は不可解なもんで。

 そんな犬笛くんが、一年くらい前から毎朝、六時に早起きして、決まってそわそわと長い遊歩道のある近所の公園に行くようになったのである。その時間帯、その場所は、散歩をする犬で溢れかえっているっていうのに。

 一応、Tシャツにジャージを着て、肩にタオルなんかかけているのは、ジョギングしてるんですよ、という言い訳のためらしい。まあ確かに、家を出て公園に到着するまでと、公園から出て家に帰るまでは、本当に走ってはいるみたいなんだけどね。公園に来るまでは浮足立つようにいそいそと、公園を出てからはどこかぽーっとして。

 そうして、公園のそこら中を歩き回る犬の姿にびくびくと怯えながら、犬笛くんはお目当ての姿を探し回る。いかにもさりげない風を装っているのだけど、ちょっと注意力のある者からしたらバレバレの不自然さで。

 犬笛くんは、見た目は今どきの大学生なのだけど、心根はなかなか素直で純粋な男なのだろう。だって、「彼女」 の姿を目に入れた時の彼の喜びようったら、そりゃもう判りやすいから。

 ぱっと頬を染め、口許に笑みを浮かべ、犬笛くんは、さも今まで走ってましたよ、という白々しい小走りで、少なくとも本人としてはさりげなく挨拶をする。

「おはよう、ひとみさん」

 軽く頭を下げると、彼女もにっこり笑って、「おはよう、犬笛くん」 と挨拶を返す。その時の犬笛くんの顔はもう、だらしないほどに緩みまくりだ。

 それから下に向ける笑顔は、ちょっと引き攣っているのだけど。

「おはよう、タビ」

 そう声をかけられ、俺が元気よく、わん! と挨拶すると、毎回のことながら、犬笛くんは少し泣きそうになった。



          ***



 俺は柴犬だ。名前はタビ。全身が黒なのだが、四本の脚の先っぽだけが真っ白で、それが白足袋を履いているみたいだから、という理由でそう名づけられた。

 その名前をつけてくれたのは、俺の飼い主のひとみさんである。俺がひとみさんの家にやって来た時、彼女はまだ小学生の可愛らしい女の子だった。その彼女が今はもう社会人一年生なのだから、月日の流れは早いよなあ、と感じずにはいられない。出会った時は同じく子供だった俺も、今ではもうけっこうな年寄り犬だ。

「ちゃんと毎日ジョギングを続けていて、偉いね」

 と、ひとみさんが俺を繋いだリードを手に持って歩きながら、感心したように言った。

「いや、大学生なんて、運動不足だから」

 と照れくさそうに頭を掻く犬笛くんは、ひとみさんを挟んできっちり俺が歩く側とは反対側をキープしている。俺がもっと若ければ、そんな犬笛くんの背後に回って脅かして楽しんでやるところだが、もうトシなのでそれも面倒くさい。俺は大人しく犬笛くんから離れた位置を真っ直ぐ歩いた。

「わたしはそういうの、ダメなのよね。運動全般が得意じゃないし、走るのだけはどうしても続かないの」

「けど、毎朝こうしてタビの散歩は欠かさないんだから、同じじゃない?」

「走るのと、のろのろ散歩するのは違うよー。昔はタビももっと元気だったから、わたしも早足でお付き合いして、毎日クタクタになっちゃった。今はもうお年寄りになってペースも落ちたから、だいぶん楽になったけど」

「そっか」

 と、犬笛くんが、ひとみさんには優しく笑いかけて、俺に対してはちらっと怯えたような一瞥を寄越す。もちろんその歩調はひとみさんと俺に合わせて、のろいくらいにゆっくりだ。この時点で、彼の 「ジョギング」 という名目を疑ってかかってもいいのではないかと思うのだが、ひとみさんの頭には、てんからそんな考えは浮かばないらしい。

 ひとみさんは、飼い犬の俺が言うのもなんだが、かなりニブいのである。

 だから、なんでろくすっぽ走りもしない犬笛くんが、散歩をしている犬とすれ違うたびに言葉を途切らせてしまう犬笛くんが、毎日毎日欠かさず公園にやってきて、ひとみさんに声をかけてくるのか、その本当の理由が頭を過ぎりもしない。

「……でも、犬笛くんも、もう大学四年生だもんね。来年就職したら、こんな時間もなくなっちゃうかな」

 ひとみさんが、歩きながらぽつりと言った。リードを引かれている俺は、それを握っている彼女の手が、一瞬ぐっと力がこもったことに気がついた。

「あ──うん。あのさ、俺、もしかしたら会社の寮に入るかもしれないんだ。まあ、ちゃんと内定が取れたら、の話なんだけど」

 ぼそぼそと犬笛くんが答えて、ひとみさんは無言になった。そう、と呟くような返事には、まったくと言っていいほど気力がない。犬笛くんは半分俯きながら、あの、とか、それで、とかもごもごと口を動かしているのだけど、ひとみさんは自分の考えに気を取られているみたいで、その声がちっとも耳に入っていないようだった。


 ……まったくもう、じれったい。


 俺は鼻で大きく息をして、ついでに喉の奥でぐるると唸った。それは傍らを歩く人間たちに対する苛立ちから来たものだったのだが、たまたますぐ近くを通り過ぎようとしていたダックスフントの耳に入ってしまったらしい。

 なんだよ! という感じで、けたたましく吠えかかられ、考え事をしていたひとみさんと、そもそも犬に弱い犬笛くんは、二人揃って同時にびくっとした。

 相手のダックスフントだって、別に喧嘩を吹っ掛けようとしてきたわけではないのだし、俺は大抵他の犬の挑発に乗るようなことはしない。だから通常であれば、それは何事もなくおさまる場面だったのだろう。しかし、ひとみさんが驚きのあまり一瞬リードから手を離してしまったのを幸い、俺はぱっとそこから走り出した。

「えっ、タビ?! どこに行くの?!」

 ひとみさんの叫びには、少々後ろ髪引かれる思いだったが、俺は心を鬼にしてずんずん走った。運動の苦手なひとみさんには、間違いなく追いつけっこない速度で。

「ひとみさん、大丈夫、俺が追いかけるから!」 

 犬笛くんが大声で請け負うのが背後から聞こえる。よしよし、いいぞ、と俺は内心で思った。

 俺ももういいトシなんだからさ、あんまり走らせないでくれよ、犬笛くん。



          ***



「な……なんだよ、もう」

 ようやく追いついた犬笛くんは、涼しい顔で座っている俺の前で、脱力したように座り込んだ。ぜいぜいと両肩を大きく上下させ、荒い息をしている。毎日ジョギングをしているわりに体力がない。その肩のタオルがやっと本来の目的で使えてよかったじゃないか、と俺は思った。

「なんでいきなり走り出すんだよ。ひとみさんが心配するだろ。あんなちっさな犬に吠えられて逃げるなんて、お前、意外と肝っ玉小さいな」

 君に言われたかないんだけど。

「しかも、狙い澄ましたように自動販売機の横でしれっと座って待ってるし。……もしかして、俺をおちょくってんの?」

 俺は大真面目だよ、犬笛くん。

 犬笛くんは、はあーっと大きな息を吐くと、おそるおそる俺のリードの端っこを掴み、俺が座っている場所からじりじりと距離を取って腰を落ち着けた。やっぱり怖いものは怖いらしい。

 それでも、ちゃんと俺を追いかけてきたんだから、その根性は認めてやるべきだよな。

「…………」

 しばらくその場に座って黙り込んだまま、犬笛くんは身動きもせずに視線を中空に据えつけていた。

「……な、タビ」

 と、俺の名前をぼそっと口にする。ひとみさんのいないところで、こうして男二人で差し向いにして話すのはこれがはじめてだな、と俺は思った。犬笛くんの視線はまるでオバケから目を背けるみたいにヨソに向けられているので、「差し向い」 という言い方は少々語弊があるかもしれないが。

「ひとみさんってさ……彼氏、いるのかなあ」

 いないよ、というつもりで、俺はわん! と返事をした。

 だから君、もうちっと頑張んな。

「…………」

 犬笛くんがちらっとこちらに目をやり、肩を落として、再びはあーっと大きな溜め息をつく。

「だよなあ……あんなキレイな人、周りがほっとかないよなあ」

 …………。

 犬語が理解できないなら、最初から質問なんてするなよ……。

「毎日会社で大人の男に囲まれてたら、やっぱり俺みたいな学生なんて、子供にしか見えないよなあ……しかも朝公園で会って、ちょっとお喋りするくらいの関係なんだし……」

 …………。

 君らねえ、と俺は内心の苛々をなんとか押し殺す。

 君ら、アホなんじゃないの。

 しょっちゅう、「犬笛くんには、きっと大学に可愛い彼女がいるわよね。わたしなんて年上だし」 なんて、ひとみさんにしょんぼり言われている俺の立場にもなってみろ。


 まったく、人間というのは、なんでこう面倒くさいのだろう。

 好きなら好きでいいじゃないか。どうしていちいち理屈を立てて、その気持ちにストップをかけるんだ。

 勝手に想像して、気を廻して、言い訳して、諦めて。

 そんな風に感情を押し込めて、何かいいことがあるとは、俺には思えないんだけどね。


 俺はすっくと四つ足で立ち上がり、犬笛くんに向かって、わん! と吠えた。

「え、な、なに」

 途端に及び腰になって犬笛くんも立ち上がる。しかしそれでも、手に持っているリードは離さなかった。

 俺は構わず、わんわん! と続けざまに吠えた。犬笛くんは今にも逃げたそうに二、三歩後ずさりをしたが、そこで止まって俺の顔を見返した。

 何かを感じ取ったのか、少し驚いたように瞳を瞬く。

「こらっ、タビ!」

 やっと息を切らせてここまで到着したひとみさんが、俺を叱りつけた。犬笛くんの手からリードを受け取り、申し訳なさそうに謝罪する。

「ごめんなさい。タビったら、今日はなんだか変みたい。いつもは人に向かってこんな風に吠えることなんてしないのに」

「いや……」

 犬笛くんは、曖昧に返事をした。ひとみさんを見て、俺を見る。

「……なんか俺、タビに怒られてるみたい」

 呟いて、ぎゅっと口元を結んだ。

 きょとんとしているひとみさんを、くるりと振り向く。

「あの、ひとみさん、何か飲まない? 俺、おごるから」

 自動販売機を指差して言われた言葉に、ひとみさんは慌てて手を振った。

「そんな、迷惑をかけたのはこっちなんだし、わたしがおごるわ」

「ううん、おごらせて。……本当はさ、今日の帰り、どこかの店にでも誘おうと思ってたんだけど、それだとタビが中に入れないもんね」

 そうそう、俺を置いて、ひとみさんは店に入ることはしない。犬笛くんの選択は賢明だ。

 俺が言いたいことも、ちゃんと判ってる。

「──それで、飲みながら、俺の話を聞いてくれる?」

 ちょっと小さい声だけれど、犬笛くんははっきりとそう言った。

「…………」

 彼のその真面目な表情を見て、ひとみさんは、ぱっと顔を赤らめた。ニブいひとみさんにしちゃ上出来だ。

 やれやれ、と俺は四肢を折ってその場に伏せる。

 長くなるかもしれないからね。

 そして大あくびをした。ふわあ、と口を開けながら考えていたのは、これで俺もようやくひとみさんのボディーガードのお役御免だな、ということだった。

 ちょっと、寂しいけれど。

 俺ももう年寄りだし、いつまでもひとみさんを守ってはあげられないから。

 頼りないボディーガードだけどねえ、と俺は苦笑して、犬笛くんの声を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。


「ひとみさん、俺さ──」


 それでもまあ、俺も、他の犬と同様に、犬笛くんのことが嫌いじゃない。

 これからも、仲良くやっていけるといいね。

 ……そして、いつの日か。

 俺の命が尽きる時、最後に目に映るのが、泣きじゃくるひとみさんと、心配そうに彼女を支える犬笛くんの姿であるといい。

 そうしたら、俺はきっと幸せだ。

 本当に、心から。




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