夏祭り
──その日、おれは決死の覚悟で家を出た。
待ち合わせをした駅の改札で、そんなおれの顔を見て、桃花は少し戸惑ったような表情を浮かべた。それくらい、この時のおれは、しゃちこばった顔つきをしていたらしい。
「……どうしたの、諒ちゃん。お腹でも痛い?」
流水紋に薄紫の花が浮かんでいるという涼しげな柄の浴衣を着た桃花は、いつもは後ろに下ろしている髪をアップにして、恋人としての贔屓目でなくても可愛いらしい。しかしその可愛い口から出た言葉に、おれは心底ガックリきた。よりにもよってこんな日に、腹をくだしているなんて思われたくはない。
「いや、大丈夫」
「そうお? 無理しなくてもいいんだよ? 仕事だってこのところ忙しかったんでしょ」
手に持っているうちわでパタパタと扇ぎながらおれを慮る言葉はどこまで真情がこもっているのか怪しいが、とりあえず労わってくれていることだけは確かなのだろう。桃花は気が強いところもあるけれど、基本的には優しい子なのだ。
付き合ってから二年が経とうとしているおれ達は、その程度にはもうお互いの外も中も、よく知っている。
「うん、ホントに大丈夫だから」
もう一度言って、おれはまだ彼女の浴衣姿を褒めていないことに気がついた。いかんいかん、最初が肝心だ。今日はなんとしても、桃花を最高に機嫌のいい状態にしておかないと。
「浴衣、可愛いね」
裏にせせこましい計算があることは否定しないが、可愛いと思ったのももちろん嘘じゃない。率直に褒め上げると、桃花は目元を崩してにへっとした笑顔になった。おれより一つ下の彼女は今年二十六になるが、こうして笑うと途端に子供っぽくなる。けれどおれは実を言うと、この顔がかなり気に入っている。
「へへー、新しいのなんだー。今年はちょっと大人っぽい柄にしてみようと思って」
せっかく大人っぽい柄を選んでも、そういう顔で小学生みたいにくるくる廻って見せびらかしたら、台無しなんじゃないかなあ。
「うん、似合う」
「そう?」
「色っぽいし」
「やだー、諒ちゃんたらスケベなんだから!」
「…………」
別に、「脱がせたくなる」 とまでは言ってないんだけど。
うちわでパンパンと背中を叩かれて、おれは首を捻った。そりゃ、そういうことをカケラも思ってないといったら嘘になるが、今は本当に思ったことを素直に言っただけだ。
でも他の男が桃花に向かってこういうことを言ったなら、おれはかなり頭に来るんだろうなとも思う。桃花の会社の上司のオッサンあたりが口にしたら、それはセクハラだろ! と胸倉を掴んで怒鳴ってしまうかもしれない。
女の子を褒めるのって、これはこれでけっこう難しいんだな……と、おれは束の間、その深遠さに思いを馳せた。もともとおれは、こういうのがあまり得意じゃない。
「諒ちゃんが褒めてくれるのなんて、珍しい」
桃花はずけずけと言ったが、気分を害したわけではないらしい。頬を薄っすらと染めて、にこにこしながらおれの手に自分の指を絡めてきた。よしよし、いいぞ、とおれは内心でガッツポーズである。
「え、そうだっけ?」
「そうだよ。去年だって、私の浴衣見ても、何も言わなかったじゃない」
「……そう、かな」
それは、得手不得手を抜きにして、本気で照れていたからだ。なにしろ、桃花の浴衣姿を見たのは去年の夏祭りがはじめてだったんだから。
いつも会社帰りや休日に会う時とは、まるで雰囲気の違う彼女に、かなり気持ち的に上擦ってしまったおれは、結局何ひとつとして、まともな感想を言ってやることが出来なかったんだっけ。
……けど、本当は。
今だって、ちゃんと覚えてる。その時桃花が着ていた浴衣が、ちっちゃな金魚が泳いでいる柄だったことも。髪飾りが、桃花の名にピッタリの、綺麗なピンク色の花だったことも。
それから、花火を見ながら交わした、キスの甘さも。
「最近だって──」
どこか遠くを見ながらポツリと言いかけて、桃花は口を噤んだ。
すぐに、にこっと笑い、繋いだおれの手を引っ張る。
「早く行こ、諒ちゃん。ぐずぐずしてたら、電車、人でいっぱいになっちゃうよ」
「うん」
頷いてホームに向かい、おれは内心で、これはなかなかいい調子なんじゃね? と、密かに浮かれていた。
***
夏祭り会場は、すでにたくさんの人でごった返していた。
おれと桃花のように、一方は浴衣で一方は普通のジーンズ姿、というカップルも多い。そういうカップルの男のほうは、どいつもこいつも優越感の滲み出た顔をしている。自分の彼女がいちばん可愛い、なんて誰もが思っているんだろうなあ。もちろん、おれだってそうだ。
ただ、タコ焼きだクレープだと食欲旺盛な桃花に付き合いながら、おれは半分上の空だった。「……諒ちゃん、どうしたの?」 と桃花に顔を覗き込まれて、はっとする。
「ああ、いや、なんでもないよ。それより、桃花、浴衣だと暑いだろ。どこかで休んだ方がいいんじゃないか?」
「え……あ、うん、そうだね。暑いし、正直言うと、下駄で歩くのって慣れないから、足が痛くって」
「じゃ、あの日陰に入ろうぜ。あそこなら座れるし。おれ、何か飲み物買ってきてやるから」
浴衣の背中に手を添えて、その場所に向かおうとしたら、桃花は少し無言になって、それから、おれの顔を見上げた。
「……今日は、ずいぶん優しいんだね、諒ちゃん」
と、小さな声で言われて、おれはかなり気分を良くする。ちゃんと優しくできてるんだな、よしよし、とこっそり自分で自分を褒めてやったくらいだ。
「じゃ、ここでちょっと待ってな」
桃花を座らせ、にっこり笑いかけた。
そして飲み物を買いにいくためにその場を離れるおれの後ろ姿を、桃花がどんな顔で見ていたのかなんてこと、その時のおれはまったく気がついていなかった。
──そうして時間を過ごすうち、次第にあたりが薄暗くなり、いよいよ、待ちに待った花火の時間がやってきた。
屋台が立ち並ぶところからは大分離れて、少し小高い丘に登り、おれ達はそこで花火が打ち上げられるのを待った。もちろん周りは、同じようなカップルばっかりだ。それぞれが自分の相手しか見ていないから、どれほどごった返していても無関心でいられるみたいだけど。
しかしこの時点で、おれの心臓はもう爆発寸前だった。肝心の花火はまだ一発も打ち上がっていないのに、せっかちな心臓である。桃花にそれを悟られまいとして、おれは自然と無口になり、表情が固く強張っていった。
「……ちゃん。諒ちゃん」
そのせいで、桃花がおれを呼ぶ声にも、しばらく気づかなかった。耳に入った途端、自分でも驚くほど狼狽して、弾かれたように隣の彼女を振り向く。
「えっ、なに?」
「…………」
おれの態度を、桃花は訝しく思ったのだろう。淡い色で彩られた唇を引き結び、じっとこちらを見返してきた。
まずいな、とおれは焦った。まさに今この時という段になって、彼女を不機嫌にさせたら意味がない。もう少しで、一発目の花火が上がるのに。
「ごめん、ちょっとぼうっとして。なんだった?」
つい早口になったのは、時間に急かされていたからだ。なんとか、花火が上がる前に桃花の機嫌を直さないとと必死になっていたおれは、その言い方が、聞きようによってはひどくつっけんどんな口調に聞こえるなどということにまで、気が廻らなかった。
「…………」
桃花は、そんなおれに対して何も言わず、ぎゅっと下唇を噛むと、眉を寄せ、俯いてしまった。
なんでだよ、とおれは頭をかきむしりたくなってしまう。なんでこの時になって、いきなり機嫌が急降下するんだよ。
俯いたまま、桃花はぼそりと言った。
「……諒ちゃん、私といても、楽しくないんでしょ」
「はあ?」
いきなりの理不尽な展開に、おれは素っ頓狂な声を出す。今ここに恋の神様なんてのがいたら、間違いなく、一体おれが何をした、と詰め寄っているところだ。
けれどそんなおれにはお構いなしで、桃花の口からは、更に理不尽な言葉が飛び出した。
「他に、好きな人が出来たんでしょ」
「はああ?」
どうしてそんなことを言われるのか、さっぱり判らないおれは、ただただ間抜けな顔で間抜けな声を出すしかない。でも桃花は、そういうおれを見て、とぼけてる、と感じたようだった。女の第六感は、時々、ものすごく見当違いな方向へと突き進むらしい。
俯いていたのが一転、きっと眦を吊り上げ、桃花はおれを睨むようにして見上げた。
「だって、ガラにもなく浴衣を褒めたりするし、いつもよりもずっと優しいし、かと思うとぼんやりして何か他のこと考えてるし。諒ちゃん、今日ここで、私に別れ話を切り出すつもりなんでしょ!」
「……そ」
そりゃないんじゃないの、桃ちゃん。
おれは泣きたくなった。
浴衣を褒めたのも優しくしたのも、まさかそんな疑いの目で見られていたとは。半分は自業自得なのかもしれないが、ガラにもない、なんて言い切られてしまうおれって、ちょっと可哀想。
「このところずっと、仕事で忙しいって、会う時間が少なかったし」
「…………」
それは、この後もしかしてバタバタするかもしれないことを考えて、まだ余裕のある仕事を先取りしてまで無理矢理こなしていたからだ。
「会ったら会ったで、私から目を逸らしたりするし」
「…………」
決心してからというもの、どうにもこうにも照れくさくなって、お前の顔をまともに見られなかったからだ。
「あんまり笑わなくなったし」
「…………」
言うまでもない、緊張していたからに、決まっているじゃないか!
その時、ひゅるるる、という細い音がしたが、むくむくと怒りが湧いてきたおれは、完全にそれを意識の外に追い出していた。こちらをちらちらと遠巻きに眺めていたカップル連中が、一斉に暗くなった空へと視線を向けたことも気にならなかった。
「やたらと機嫌を取るようなことばっかりして、そうやって穏便に別れようって思ってるんでしょ!」
「プロポーズするその日を、一生忘れられないようないい一日にしたいって思うのが、そんなに悪いかあっ!」
おれの叫び声と同時に、パーン! という盛大な音がして、空に明るい大輪の花が咲いた。
眩い白い光に照らされて、ぽかんと口を開けている桃花の顔が目に入る。あああああ、とおれは心底から脱力した。
……どんな言葉でプロポーズしようと、昨夜一晩眠らずに悩み続けた、おれの苦労はなんだったんだ。
桃花は鈍いから遠回しに言ってもどうせ気づいてくれないだろう、それならもっとストレートに、でも記憶に残るようにカッコよく、と考えて考えて考え抜いて、ようやくこれならと思えた自信作だったんだぞ。
「──あの、プロポーズ?」
少ししてから、桃花がもごもごと言った。「そうだよ」 と完全にヤケになって、おれはぶっきらぼうに言い放つ。
「去年も、二人でここで花火を見たろ? おれ、ずっとその景色が忘れられなくて、プロポーズはここで、って考えてた。本当だったら、一発目の花火が打ちあがったその瞬間に、決めるつもりだったんだ」
そのために、今日は朝から緊張して張り切って気を逸らせて、胃が痛くなるくらい尋常じゃない精神状態でい続けたのだ。その努力は、脆くも無になってしまったが。
現在、花火は次から次へと上がり続け、そのたびに賑やかな歓声が起きている。はあー、とおれは溜め息をつきながら花火を見上げて、それから再び桃花に視線を戻した。
そして、気がついた。
桃花の顔が、夜目にも判るくらいに真っ赤に染まっていることに。
「…………」
その顔を見たら、なんだかおれはもう、笑い出したくなるほどに馬鹿馬鹿しくなってしまった。プロポーズをすることが、ではなく、それが失敗したからといって子供のようにむくれていることがだ。
……結局、言葉なんて、どうでもいいことだったのかも。
だってさ。
なにより大事なのは、一緒にいたいという、その気持ちのほうなんだから。
──おれはただ、来年も再来年も、そのずっと先も、桃花と一緒に、ここで二人並んで花火を見たかったんだ。
結婚してください、と桃花と真正面から向き合って、おれは言った。
桃花が赤い顔のまま、目と口をくしゃりと崩し、えへへと笑った。
それはやっぱり子供みたいな顔だったけれど、空に咲く花火よりも、ずっと綺麗な笑顔だった。