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短編集  作者: 雨咲はな
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姫君とあやかし



 ──中納言・源正忠卿の住まう広大な二条の屋敷には、あやかしが取り憑いているという、もっぱらの噂である。


「……なのですって。ご存じ? 玉緒」

 中納言の一人娘で、巷では 「白菊の君」 と呼ばれる姫君が、可笑しそうに扇で口元を隠しながら、目を細めて言った。

「噂もなにも、事実じゃないか」

 訊ねられた玉緒は、呆れたようにそう答えた。

 年頃になれば、貴族の姫君は、実の父でさえも御簾越しに会話をせねばならない。そんな王朝時代において、玉緒は、彼女と同じ室内にいて、その甘い匂いを嗅ぎとれるほどすぐ間近にまで近づくことを許される唯一の存在である。

 しかし彼は、姫君の夫ではなく、恋人でもなく、家来でも兄弟でもない。

 そして、「ひと」 でもなかった。

「どうして漏れてしまうのかしらねえ。玉緒はわたくし以外の人の目には見えないはずなのに」

 姫君が不思議そうに言って、まじまじと見やる先には、ふさふさとした白い毛に覆われた大型の獣が、寛いだ様子で寝そべっている。小柄な姫君はもちろん、屈強な武士が刀を持って立ち向かっても敵わないほど、その巨大な体躯はしなやかで鋼のように頑丈で、威厳に溢れていた。

「……まあ、多少この手の 『もの』 に鋭敏な嗅覚をもつ奴が、時々人間の中にいるからな。はっきりとは見えなくとも、気配か何かを感じ取るんだろう」

 玉緒という名の、犬のような、狼のような外観をした白い獣はそう言うと、口を開けて欠伸をした。ぐわあと開いた口の中には、ひとつが人間の子供の拳くらいはあろうかという大きな牙がずらりと並んでいる。鋭い牙は、ちょっと掠めただけで簡単に姫君の喉笛を噛み切ってしまいそうなほどだ。

「まあ、お行儀の悪いこと」

 姫君は怖がる素振りもなく、嗜めるように形の良い眉をきゅっと中央に寄せる。

 それから、思わしげに首を捻った。

「でも、玉緒はいつもわたくしの傍にいるではないの。お父様のところを訪れる方々が、西の対にいるお前の気配を感じられるものかしら」

 仕えている女房たちにだって、玉緒の姿は見えないのである。姫君は、誰かが近くにいる時は、澄ました顔をしてちんまりと座っているだけなので、女房の誰も、よもや自分たちが世話をしている姫君が、「あやかし憑き」 であるとは気づいていない。そのすぐ隣で、大型の獣が退屈そうな顔をしていても、だ。

 そんな次第なので、ひと目のある時にうっかり玉緒と会話を交わすと、周囲に怪訝な顔をされてしまう。こうして夜も更けて、すべての女房を退がらせてから、姫君はようやく気兼ねなく玉緒とお喋りすることが出来るのだった。

「中納言の許を訪れる客人の半分は、お前が目当ての若者じゃないか。宴や歌会もそこそこに、目を凝らし耳を澄まして必死になってこちらを窺っているだろう。そういう人間の中に、おや、と思うのがいても、おかしくはないね」

 玉緒の説明に、姫君は、ああ……という顔をした。扇をずらして現れた口元が、わずかに、ふ、と緩む。

 ……いや、美しく装った言い方はやめよう。

 姫君は口の片端を皮肉っぽく上げ、あからさまに 「へっ」 というように鼻で笑った。

「…………」

 玉緒はちょっと無言になってから、渋い顔つきになった。あまり表情の判らない獣の姿とはいえ、長いこと人間と関わって暮らした分、それくらいのことは出来る程度に人間臭さを持ったあやかしなのだ。

「お前、その顔はやめた方がいいと、おれは何度も忠告したぞ。腹の黒さが丸見えだ」

「玉緒、知っていまして?」

 「腹の黒さが丸見えな顔」 のまま、あくまでおっとりと、姫君は言った。

「中納言家の姫君は、ほっそりとした儚げな面差しで、しとやかで慎み深く、教養もあり、なにより珠を磨いたようなその美しさ可憐さは、まるで本当に一輪の白菊のようだ、と言われているそうですのよ」

「お前は昔から、人をたばかるのが上手かった」

「騙される方が悪いんですわ」

 しゃあしゃあと言ってのけて、姫君は手近にあった数枚の文を手に取った。

「右近の少将に式部大輔に蔵人の少将。熱烈な恋文を何度も送ってくるこの殿方たちだって、わたくしのことなんて何もご存じない。『あそこの姫君は美しいらしい』 なんてあやふやな情報だけを頼りに、好きだの愛してるだのと恋の歌を詠むなんて、おかしいと思わなくて?」

「しょうがないだろう。それが今の世の習わしなんだから」

「どいつもこいつも」

「待て、お前、さらっとなにを言ってる?」

 耳ざとく聞きとがめた玉緒を無視して、姫君は、ふうー、と息を吐いた。長い睫毛を伏せて、悩ましげにため息をつくその姿は、確かに人間の男が見たら、うっとりするほどに美しい。

「わたくしはねえ、玉緒。こんな実のない遣り取りだけで、とても誰かを好きになることは出来そうにないんですの」

「だからって返歌もせずにいつまでも放っておくと、そのうち痺れを切らして夜に忍んでくるぞ。右近の少将なんかは、お前の女房にその仲介をしてもらおうと、今、一生懸命活動しているらしいし」

 なにしろ玉緒は姫君以外の人間には見えないため、女房らのひそひそとした内緒話などを耳に入れるのも容易いのだ。

「そんな不逞の輩は、食べてしまってよろしくてよ、玉緒」

「おれは人は食わんと何度言ったら……」

「大体、右近の少将といったら、名うての遊び人という話ですわ。あちこちの姫君に手をつけて、それが人妻であっても構わないという無節操な男らしいんですのよ」

「まあ、そういうやつだから、手回しもいいんだろう」

「嫌ですわ、そんな男に夜這いに来られたら、わたくし、恐怖のあまり、文机を投げつけてしまうかもしれませんわ」

「普通の姫君は、恐怖のあまり、そんな凶暴なことはしないと思う」

「それともいっそ、火鉢を投げてやろうかしら」

「あんな重いものをぶつけられたら、下手すると死ぬぞ。っていうかお前、おれの話を聞いてるか」

 姫君はぶつぶつと口の中で 「夜這い男の撃退法」 を呟いている。しかしその内容は、明らかに正当防衛ではなく過剰防衛である。今度は、玉緒が深い息を吐いた。

「──いつまでも、縁談話から逃げられるものではあるまいよ。お前は中納言の一人娘なのだし、ことによっては、帝の許に嫁ぐ可能性だってある。その話が来たら、いかに娘可愛さで数ある縁談を突っぱねてくれている中納言とはいえ断れないだろう」

「……もし、わたくしが入内でもしたら、玉緒も内裏についてくる?」

 姫君に訊ねられ、玉緒は一瞬、口を噤んだ。なんだかその声が、いつもの姫君とは違い、やけに頼りない子供のようなものだったからだ。

「そりゃあな。おれは、お前から離れられないから」

「そう」

 姫君が、わずかに口元を綻ばせた。今度のそれは、腹黒さの見えない、彼女の素直な笑みだった。

「玉緒も大変ですわね。もともとは、お母様の先祖が、あやかし封じに失敗したのがはじまりだというのに」

「……まあ、そうだな」

 この話は、玉緒にとってもあまり名誉なものではないので、ついつい仏頂面になってしまう。姫君は、玉緒のそういうところを見るのが好きらしい。くすくすと笑った。

 そもそも、玉緒は古くから都に住まうあやかしものだったのである。人間を食べることはしないが、たまに人を襲い、おどかしたりからかったりして暇を潰すから、人間たちにも怖れられていた。それを高笑いしながら眺めて喜ぶ玉緒は、人間たちにしてみたら、非常に迷惑で厄介な存在だったのだろう。

 そこに現れたのが、姫君の先祖の陰陽師だ。

 彼はその迷惑千万なあやかしを退治するため、敢然と玉緒の前に立ちはだかった。立ちはだかったのはいいのだが、残念なことに、腕が足りなかった。彼はあやかしを持参した壺に封じ込めるつもりでいたらしいのだが、壺の代わりに、「自分」 に憑かせてしまった。

 陰陽師は困った。あやかしは彼に襲いかかることはしなかったが、かといって使令として従うわけでもない。ただひたすら彼にくっついて離れないのである。他人からは見えないものの、とても歓迎できた事態ではない。

 しかしそれを言うなら、玉緒だって困っていたのだ。生意気な陰陽師を痛めつけてやろうと思っていたのに、いつの間にやらその男に取り付いてしまっていたのだから。それは、「憑く」 というものではなく、本当に 「付く」 という感じだった。どういう術のかけ方をしたのか、そいつに対しては牙を剥くことも、殺してやることも出来ないのに、離れることも出来ない。自分の意志ではどうにもならず、ひたすら不本意ながら、そのうっかり者の陰陽師の傍らに在ることとなった。

 不本意だと思いつつ、時に喧嘩をし、時にからかい、時に落ち込む男を慰めて。

 玉緒と男は、ずっと長いこと一緒にいた。……ずっと。

 ──そして数十年。

 ようやく、その男の寿命が尽きる時が来た。

 玉緒は寝床に横たわる彼のすぐ間近で、出会った頃よりうんと白髪も皺も増えた男の命の灯りが静かに消えゆくのを眺めていた。玉緒はあやかしだから、姿は変わらないままだ。そして、人間よりもずっと長生きをする。人の生き死にも何度も見てきて、それに対して何かを思ったこともない。

 それなのに、玉緒はその時、確かに、悲しかった。「悲しみ」 というのはこういうものかと、玉緒はその時になってはじめて知った。うっかりで、粗忽で、ドジばかりをやらかす困った男と暮らした年月の間に、彼の心には、確実に何かが芽生えていたのだ。不本意だけれど。認めたくはなかったけれど。

 男もきっと、玉緒と別れるのが悲しかった、のだろう。玉緒は人間の思うことを読み取る力はないから判らないのだけど、男の目から零れる涙は、近くに侍る人間たちではなく、多分、彼にしか見えない玉緒に向けたものだった。

「楽しかったよ」

 と、彼は言った。

 皮肉屋だし、案外口うるさいし、そのわりに何か手助けしてくれるわけでもなくて、ただ近くにいるだけだったけどね、と小さな声で笑って。

 それでも本当に、楽しかった、と呟いた。

「……もっと、一緒にいられたらよかった」

 そう言いながら、男は静かに息を引き取った。

「…………」

 玉緒は目を閉じてしまった彼の顔を黙って見ていたが、「あ」 という誰かの声に目を上げた。

 するとそこでは、彼の息子が目を丸くして、間違いなく一直線に玉緒に対して視線を向けていた。たった今まで、玉緒の存在になんてまったく気づいてもいなかった息子が。


 ──ああ、そうか。


 と、玉緒は理解した。理屈はよく判らなかったけれど、とにかく納得した。そうか、とただ思った。

 そして当たり前のように、玉緒は今度は彼の息子に取り付いた。

 その子供が亡くなれば、次の子供に。そうやって、彼の血筋を代々にわたって取り付き続けた。

 今の姫君の前は、玉緒は彼女の母の傍にいた。何かをするわけではないし、彼らの役に立つようなことをするわけでもない。ただじっと見守り、話相手になり、そうして最期を看取る。その繰り返しだ。

 前の姫君が亡くなったのは、今の姫君がまだ幼い頃だった。玉緒はその時からこの姫君の近くにあって、これから先も近くにあり続ける。姫君の命が尽きるまで。

「……わたくしが死んだら、今度はわたくしの子の傍にいるのでしょう?」

 姫君は少し瞳をしばたきながら、確認するようにそう言った。「そうだな」 と答えながら、玉緒は長い尻尾で、姫君の背中を軽く撫でる。もう、お眠の時間だな、とやんわり口元を緩めた。あちこちの男から恋文を寄せられていても、玉緒からすると、姫君はまだまだいとけない子供だ。

 玉緒の尻尾の感触に、姫君は心地よさそうに、さらに目をとろんとさせた。誰にも、姫君の父親にさえ、玉緒の姿は見えないし、触れることも出来ないから、これはわたくしだけの特権ですわ、と姫君はいつもひどく嬉しそうな表情で言う。

「もし、わたくしが結婚もせず、子供も産まなかったら、玉緒はどうなりますの? その時は、わたくしの死と同時に、玉緒は解き放たれるのですかしら」

「……さあな」

 玉緒は静かに答えた。

 どうなるんだろうな、とは自分でも思う。

 あの男の血筋が絶えたら、玉緒はこの地から解放されて、いずこかへと飛び立つことになるのだろうか。

 ああ、これでもう何もおれを縛り付けるものはないと。おれは自由だと、喜ぶのだろうか。……それとも。

 それとも──

「そんなことにはならんさ、きっとな。お前は中納言の一人娘なんだから、どうやったって結婚をすることになる」

 玉緒に出来ることといえば、その結婚が、少しでも姫君の意に沿うような、幸せなものであることを祈るくらいだ。

 姫君は、ふわ、と欠伸をした。さっき、玉緒に向かって、「行儀が悪い」 とか言っていたくせに。

「わたくしは家に縛られて、玉緒は昔の契約に縛られているんですわね。可哀そうに」

「…………」

 玉緒が返事をしないでいると、姫君はぽすんと玉緒の腹に身を預けてきた。甘えるように顔をふわふわの毛に押し付けて、気持ちよさそうに目を閉じる。

「あーあ、玉緒が人間の男に化けて、わたくしをお嫁さんにしてくれればいいのに」

「そんなことが出来れば、とっくにそうしている」

「ちっ」

「ちっとか言うな」

 がみがみと説教してやろうとしたが、姫君がとろとろと眠りに誘われようとしていることに気づき、言葉を呑み込んだ。その代わりに、大きな尻尾を丸めて、彼女の身体をふわりと覆ってやった。

 姫君は半分眠りながら、途切れ途切れに何かを話し続けている。玉緒は顔を寄せて、その声に耳をそばだてた。

「……この先のことは判りませんけれど……わたくしは、出来るだけ長生きをいたします……。もしも、わたくしに子供が出来なかったら、玉緒が一人きりになってしまうのですもの……。だから、思いきり、しぶとく図太く、長いことこの世を生き抜いてやろうと、思いますのよ……」

「…………」

 玉緒が返事をしないでいるうちに姫君は穏やかな眠りにいざなわれていった。すう、という寝息が聞こえて、玉緒は姫君の顔に、そっと自分の鼻をくっつける。

「……白菊」

 玉緒は、滅多に人間の名を呼ばない。

 名を呼ぶと、別れる時が寂しいからだ。ああ、また逝ってしまったかと、これまで別れた人々の名を、ひとりひとり思い出さずにはいられないからだ。

 前脚に顎を乗せて、自分も目を閉じた。

 姫君の寝息が近くで聞こえる。自分の身体に、彼女の温もりを感じる。そのことになにより安心して、玉緒は姫君の夢路に付き添うべく、ゆっくりと闇の中に思考を溶かしていった。

 共に生きよう。お前のその命が尽きるまで。

 短い短い、夢のような幸せな時を、一緒に過ごそう。



 ──もっと、一緒にいられたらよかったと、男は言った。

 玉緒はなにも声に出しては言わなかった。でも、その時、思った。心の底から思った。

 そうだな、もっと一緒にいたかったなと。

 傍にいるのは、最初にかけられた術のためではない。何かの契約を交わしたわけでもない。どうしてかと問われても、玉緒自身にだって説明は難しい。

 けれど、それは 「約束」。

 遠い日に交わした、たいせつな約束。

 玉緒はただ、願うのだ。



 どうか、このいとしい時間が、出来るだけ長く続きますように──と。




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